3秒の楽園

松竹梅猫

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「ふ、うっ、ぐす……」

 泣くまいと思っていたがやっぱり泣いてしまった。

 世良さんが読ませてくれたびーえる漫画というやつは、最初こそ抵抗があったが読み進めるうちにだんだん慣れてきて、終いには登場人物に感情移入してしまうほどだった。

「……会長」

「うう、ごめんなさい泣いちゃって。そんな冷めた顔で見ないでください」

「いえ。会長の穢れなき眼と涙の破壊力に言葉が出ないだけですので」

 世良さんはハンカチを渡してくれるがさすがに受け取るわけにいかず丁重に辞退した。

 袖で拭ったが目元がひりひりする、赤くなってしまったかもしれない。

「すごい良いお話でした。仲良くなれてよかったなって、これから二人で歩んでいくんだなって思ったら……ぐす」

 世良さんが選んでくれた二作品はどちらも社会人の男性同士の恋愛ものだった。

 すれ違ったり話し合ったりして距離を縮め、困難を二人で乗り越えて行く点が共通している。

「気に入っていただけて良かったです。それで、参考にはなりましたか?」

「え? 参考?」

「……」

 なんだっけ? と呆けたら世良さんの無表情再び。

 冷水を浴びたように前の会話を思い出しあわてて返答する。

「あ、そうでしたね! えっと、その」

「なにか恋愛のテクニックが見つかればと思ったのですが。話に夢中で目的を忘れていたようですね」

「すみません……」

「壁ドンとか、押し倒すタイミングとかいろいろ学ぶ要素はあるかと思います」

「がんばります」

 とりあえず意気込みを伝えても彼女は信じていない眼差しを向けてきた。

 不甲斐なくてうなだれていると、

「ちょっとストーリーと心理描写に傾きすぎたか。入門編としてはいい選択だったと思うんだけどな。次はエロがどぎついの読ませてやろ」

となにやらぶつぶつ言っている。

「世良さん?」

「はい。いえ、会長、今日はこれくらいにしましょう、またおすすめの作品を選んでおきます」

「はあ……よろしくお願いします?」

 ということでその日はそこで別れ、私は帰宅することにした。

 なんだか疲れていた脳が少しだけ活性化したような気がする。帰りの電車の中も妙に視界がクリアだ。

 早く帰って公平たちに会って、今日あったことを聞いてもらおうとうきうきしていた。

「ただいまー」

 帰宅するとリビングには誰もいない。修十さんは仕事でまだ帰ってきていないだろう。兄上と公平は二階の寝室のはずだ。

 手洗いうがいを済ませるため脱衣所に入る。

 頭の中では読んだ物語を反芻していた。

 物語の内容から活かせる点があるかはわからないが、いくつか共感できるところはあった。

 片想いをしている登場人物が、想いを寄せている相手から「好き」という言葉が欲しいなあと思っているシーンだ。

 それを読んでいる時「わかる」と思ったことで、私自身もそう思っていることに気づいた。

 恋愛とは思い思われること。

 その思いができるだけ同じ重さであればあるほど二人の仲は、落ち着き穏やかになるということ。

 どちらかが重くて天秤が傾くと二人の仲は揺らいで疑心暗鬼になったりするということ。

 私はどうだろう。

 公平から好きだと言われたら嬉しいにきまっている。

 でも公平にその言葉を求めていいものだろうか。

 公平は私たちの想いを否定することはない。

 それで満足していたけど、それだけではやはりずっと一緒にはいられないのかもしれない。

 考えに没頭しながら手を洗おうと蛇口に触れた時、突然風呂場の扉が開いた。

「あ」

 浴室からは当然だが全身濡れそぼった、公平が出てきた。

 んぎゃーーーー!!

 飛び上がって叫ぶところだった! あぶない!

 一気に自分の顔が赤くなったのがわかる。ばれないようさっと顔を洗面台に向ける。

「おかえり。タオルとって」

 あばばばば! 普通に話しかけてくるなー!

 と困惑しきりだが私の手はバスタオルを一つ取って公平の手に置いた。ありがと、と律儀に礼を言われるが私は目を逸らしたままだ。

 とにかく怪しまれないよう会話だ。

 見てない見てない、私はなんにも見てないです。

「た、体調どうですか」

「ああ、良くなった。朔のおかげかな」

「そうですか」

 それはほっとしていいものだろうか。兄上のおかげで良くなった? 兄上は公平の看病をしていた。ただの看病なのだけどうがった気持ちで受け取ってしまう。
 兄上のおかげってなんですか、なんて聞くわけにもいかない。

 どこか胸にしこりができたような気持ちだ。

「お風呂、早いですね」

「汗かいたからな」

 公平は鏡に向いている私の後ろで服を着ている。鏡には背中が映っていた。盗み見ちゃいけない、いけないとわかっているのに、見てしまう。

 漫画にもこんなシーンがあった。

 片想いをしている相手がシャワーから出てきて、無防備な姿に少しだけ我を忘れそうになるシーンだ。

 私はそんなふうにはならないが、これが兄上や修十さんだったら間違いなく、我を忘れはしない自覚したうえでこれ幸いと手を出すはずだ。それはもう公平が嫌がるくらいに。

「いつまで手洗ってんだ」

「あ、すみません」

 はっとして洗面台の前から手洗いを終えてどくと、服を着た公平はドライヤーを手に取って髪を乾かしはじめた。

「無防備ですよね」

「なに?」

 私の呟きはドライヤーの音に勝てなかったようだ。

「なんでもないです」

 私はこんな公平には何もできない。
 
 公平もそれがわかっているから私の前では平然としているのかもしれない。

 それってつまり、全く相手にされていないのでは……!?

 衝撃的な思考に陥って、私はふらふらと脱衣所を出る。

 世良さんの言葉が頭の中で響く。
 
 普通は三人告白したら一人選ばれるのでは?

 会長は奥手だから。

 私は兄上と修十さんにおいていかれることばかり懸念していたが、気にするところはそこじゃなかったかもしれない。

 もしも公平が三人の内誰か一人を好きになるとしたら、あとの二人は好かれないというわけで。

 恋愛なんて始まるわけもなく。

 奥手な私は公平に対しなにも出来ていない。公平も私に対しての意識度は告白前となにも変わっていない状態だ。

 なにが四人で仲良くできていたらいい、だ。

 公平がそう思っているかはわからないのに。

 公平が兄上か修十さんを選ぶという可能性をすっかり失念していた。

「これって、相当まずいのでは……?」

 愕然として私はリビングに立ち尽くしていた。

 
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