魔王の残影 ~信長の孫 織田秀信物語~

古道 庵

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雛鳥の章

第一話 清洲会議

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『さん』

『ぽう』

『し』

――母上が僕を呼ぶ時の、口の形が好きだった。



「皆の衆、よぉ聞けぇ!」

やや上ずった男の声が広間に響き渡る。その瞬間、甲冑や袴姿の男どもがひしめく場の空気が張りつめた。
最前列に座する大柄な髭面の男は眉をひそめ、その隣の神経質そうな顔つきの細身の男は、無言で視線を落とした。
だが、誰も異を唱えなかった。

声を上げた、猿に似た顔の小柄な男は満面の笑みを浮かべたまま、両手に抱えたわらべを高々と掲げる。

「この御方こそ我らが主、信忠さまのご嫡子にして信長公の正統なる血筋──すなわち、織田の御家を継がれる正しき御方じゃ!」
畳の上にどよめきが広がる。

「わしらはこの御方の御下に集い、信忠さま・信長公の遺志を継がねばならぁぬ! この羽柴秀吉はしばひでよし、全身と全霊を以てこの御方に忠義を尽くさせていただく!」

拍手も歓声もなかった。……ただ、沈黙だけがその宣言に応えていた。

三法師さんぽうしは秀吉の腕の中で、小さく震えていた。
大きな声。熱のこもった瞳。笑顔。けれど、そのすべての裏に別の何かがありそうな、不気味なものを秀吉と名乗る男から感じていた。

この人は、なぜこんなに笑っているのだろう。
僕を抱き上げながら、どうしてこんなに怖い顔をしているのだろう。
痛いほどに秀吉の指が食い込む。言葉が出ない。何もできない。
……母上、怖いよ。
どうして母上はここに居ないの。



『三法師……いえ、織田三法師様。あなたはこれから、織田家を継ぐ方になります』
数日前に母上と交わした言葉を思い出す。
何故か、他のおじさん達と話すような嫌な口調だった。

『母は、共には行けません。……羽柴殿がそのように計らったのです。故に、三法師様はこれから独りです。大丈夫、皆良くしてくれるでしょう』
母の言っている言葉の半分も分からない。ただ、はっきりと感じている部分がある。

『貴方は父上の子、そしてお祖父様の孫。信長様の血を継ぐ正統なる御方。故に、強く生きなさい。そして藤吉郎風情に……いえ、これはいい』
母の声は震えていた。寒いの? 怖いの? 僕もそうだよ。

母はゆっくりと僕に寄り、そして僕の手をとって朱い袋を手渡した。
『これは御守りです。あなたの傍に居られぬ私の代わり。これを見て、私を思い出し……』
そこまで言うと母の言葉は止まり、代わりに嗚咽と共に大粒の涙が溢れ出てきた。
僕には何も分からない。でも、分かることも一つあった。
それは、これから母と僕にとって、怖い事が起きる……そういう予感だ。

気づけば母に抱かれて僕も泣いていた。二人で、大きな声を上げて。
泣くなと叱られ続けていた僕にとって、初めての事だった。



「さあ皆の衆、新たなる織田の時代の幕開けじゃ! 何故牛のように黙っておるのだうつけ者! ときじゃ! 鬨の声を上げえい!!」
背中で秀吉の大きな声が響く。
その煽りに釣られ、目の前に座る大勢の男どもが気がついたかのように手を打ち鳴らしたり、声を上げ始める。

それは種火のように小さなものだったがすぐに広がり、熱を帯びていく。
寒さが緩む少し前に、大人たちが枯草を集めて火を放って焼いていたのを思い出す。最初はぶすぶすと小さな炎と煙を出していただけだったのに、瞬く間に燃え広がり巨大な炎になって焼き尽くしてしまった。
……僕はあれを見て、怖いと思ったんだ。

水を打ったかのように静まり返っていた広間は、今や熱狂に包まれていた。
皆が口々に僕の名前を叫んでいる。
中には涙を流している者もいた。
そんな様子を、どこか冷めた感覚で見ていた。

高く掲げられていた腕が下がり、そして再び秀吉に抱きかかえられる形になった。
秀吉は相変わらず満面の笑みで広間を眺めている。
目の前に座る二人だけは、狂乱に身を委ねていなかった。
髭面の大男は腕組みを解かずにこちらを睨み、細身の男は黙って目を閉じたまま。

束の間、秀吉がその二人を見ていたような気がしたが、「えい、えい、おう!」の掛け声が始まるとそれに応じて片手を掲げて声を張り上げる。
その場に居るほとんどの者が、同じように腕を振り上げ掛け声を合わせ始める。
野太い男どもの雄叫びは、腹の底に響く不快な振動として感じられた。

……怖い。怖いよ、母上。

目が熱くなり、次第に顔全体にそれが広がっていくのが分かる。


『強く生きなさい、三法師。涙はこの母の腕の中に置いていきなさい』

別れ際の、最後の母の言葉を思い出す。
何故泣いてはいけないのか、それは分からない。でも。

母から手渡された朱色の御守りを懐から取り出した。
不思議と、心地の良い温かさを手のひらに感じられる。

「おう、三法師様。皆が貴方様を待っておりますぞ」
不快な男の合わせ声の渦の中、あやすような言葉が上から降ってきた。
見上げれば秀吉がこちらを見ており、笑顔で語りかけていた。

……怖い。
一番怖いのは、この人だ。

笑顔だ。確かに、笑顔だ。でも細められた目が笑っていない。作り物の顔。まるでお面のようだ。

猿面の演者。
それが、僕がこの秀吉だとか藤吉郎だとか呼ばれている人に対して抱いた印象だった。

「さあさ、惚けておらんで皆の衆にお応えなされ。この場の者は、全て貴方様の意のままじゃ」
張り付いた笑顔で唇だけが動いている。言い知れぬ圧力のようなものが、秀吉から感じられた。

僕はもう、嫌じゃと駄々を捏ねられない。そう悟った。
ならばせめて、母上との約束だけは守ろう。
僕はもう泣かない。泣くのは母上と抱き合う時だけ。

秀吉の顔から眼を逸らさずにゆっくりと頷き、御守りを懐に仕舞う。
それを見た秀吉も口元をほころばせて頷き、再び僕を抱え上げた。
目線が高くなり、広間の端から端まで見えた。
皆が座ったまま片手を振り上げ声を上げている。

昨日までの僕はもう終わった。今日からの僕はきっと違う僕になる。
母上、会いたいよ。でも、僕は父上の子、お祖父様の孫、そして母上の子。だから……頑張るよ。

顔に広がっていた熱を抑え込むように一度俯き、再び正面を見据える。
そして、右手を精一杯、高く挙げて見せた。

すると広間の男どもの掛け声は、言葉にならぬ雄叫びに代わり地鳴りのように広間を揺るがした。
背後で、甲高い笑い声が聞こえる。
この場に似つかわしくない、嫌な心地のする笑い声……そう、秀吉のものだった。

僕にはこの場が何なのか、よく分からない。分かりたくもない。
でも、今何か怖いことが起きている。それは間違いないと分かっていた。



織田三法師……僅か齢三歳の出来事である。
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