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―第壱章―
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しおりを挟む夕陽の橙と、夜の闇を引き寄せる寸前の濃紺が混ざり合った空の下――
真昼のような明るい世界で、淡雪のような桜の花びらがはらはらと舞っていた。
それが吉原という街に初めて足を踏み入れた、八重の一番最初の記憶。
生涯に渡って強烈な印象を脳裏に刻み、彼女の人生が本当の意味で始まったのは確かにその一瞬からだった。
(桜の色は、おんなし……)
八重が目にした始まりの桜の色は、これまでに知っている桜と花の色は同じに見えた。
けれど、その桜の姿もその他の様々な色の奔流がやけに鮮烈で驚きの吐息ひとつ漏らせない。
(だって、あの門の向こうはもう――)
つい今しがたくぐった、異様に存在感のある大きな黒い門。
少なくとも、あの門――吉原の唯一の出入り口である大門――を八重がくぐった瞬間までは、緊張はしていたが声は出た。
だが今の八重は、目の前の全てに何の言葉も発せなくなっていた。
(さっぎまでは、ちゃんと……)
見上げた先の舞い散る桜は儚くも艶やかで、ひと時の夢のような光景は春という季節ならではの風物詩とも言えるだろうか。
風が吹けば、桜の花びらが舞う。
咲いた桜は、いつか必ず散る。
そんな当然の桜の在り様くらいは、幼い彼女にだって理解できている。
問題は、それを肉眼で見ている今が陽が沈みそうな時刻でなければ、の話だ。
(ちゃんと……いつもとおんなし夜、の始まりだった……)
門をくぐる直前、確かにそこまで夜が迫ってきていたのだ。
事実、いま八重が反射的に見上げた空は、橙と濃紺の色が混ざり合っている。
これは、夜が来る前の空の色。
絶対に忘れてはいけないこの色を、八重が見間違えるはずがない。
この色が空に浮かんだら、兄弟を連れて急いで家に帰らなければいけない。
生まれ育った山では、この色の後にはあっという間に辺りを包んでしまう闇が来て、本当に怖いのだ。
先の見えない闇の中には飢えた獣が潜んでいるかもしれないし、何かもっと得体の知れないものが襲ってくる可能性だってある。
だから、いいかい? まんまるの大きな月のない晩でもない限り、夜には外に出てはいけないよ。
夜は暗く恐ろしいもので、ふいに闇に飲み込まれてしまったらもう二度と家に帰れなくなってしまうからね。
周りの大人たちに、八重を含めた村の子供たちはずっとそう言い聞かされ育ってきた。
実際に、前日まで一緒に遊んでくれていたはずの誰かが忽然と消えてしまったこともある。
それも一度や二度のことではなく、何度となく起きたことを八重はその目で見てきた。
唐突に姿を消した誰かを想い動揺する子供たちを前に、村の大人はいつだって酷く苦しそうな顔をした。
そんな大人たちの表情を見るのも何だか怖くて、八重は七つになった今も夜は暗くて得体の知れないものだと思えてならなかった。
けれど今は、どうだろう。
いったいどうなっているのだろう。
あれほど警戒する夜がやってくる直前のはずなのに、くぐった門の向こうは真昼のような明るさに包まれていた。
眩しいくらいの提灯の明かりの下、昼にしか見られないはずの桜が舞う春の光景が広がっている。
もう『夜』なのに、ここはまだ『真昼』のようだ。
否、もしかしたら本当の『真昼』よりももっとずっと明るいかもしれない。
(ここが、吉原……)
ここは、彼女を連れてきた男が口にしていた吉原という場所は、暗いはずの『夜』も『真昼』のように明るくて、桜まで見られる所らしい。
つまり、ここの『夜』は、八重の知っている『夜』とはまったくの別物……ということ。
目の当たりにした、あまりにも衝撃的で容易には受け入れがたい現状に絶句したまま、八重はただぼうっと桜を見上げることしか出来ない。
(それに、だって、こんな綺麗な桜、今まで見たごとねかった……)
雪のように降りしきる花びら、眩いばかりの提灯の光と淡い薄桃色の桜。
門をくぐってすぐの通りの桜は等間隔に植えられており、それだけでも目を奪う美しさだ。
そのうえ目の前の桜は、これまで八重が目にしてきたものとは色の外はまるで違う姿をしている。
彼女が知っている桜といえば、陽の光を求め生い茂る木々の中で歪に枝を伸ばした不格好な桜で。
けれど目の前の桜はどれも、左右均等に大きな枝を伸ばし見事なまでの花を満開に咲かせている。
もちろん極め付きは、そんな桜が明るい『夜』の中で咲き誇っていることだったが。
「これじゃ、ろくに急げやしねえな」
ふいに隣から聞こえてきた言葉に、八重はハッと我に返った。
門をくぐった瞬間から、幻想的な夜の光景に自分は囚われてしまっていたらしい。
つらつらと自由に行きかう思考に落ちていたのはひどく長い時間に感じたけれど、それほどではなかったのかもしれない。
現在進行形で自身の手を掴んだままの男の様子を見るに、八重が立ち尽くしたことを迷惑がる素振りはない。
だが八重に対してこそ怒ってないが、男は辺りを見回しながら深い嘆息をもらした。
「そろそろかと思っちゃいたが、こうも人が多いとはなぁ……」
苦々しげなその声音に、八重は男の視線を追うようにし周辺に視線を遣った。
その途端、飛び込んできた人の群れに、自然と口が開く。
「……ま、祭りの夜みてぇだ……」
夢か幻かという光景に彼女自身も見惚れていたが、同様に数えきれないほどの人々が満開の花に夢中になっている。
大勢の人間が示し合わせたかのように桜に魅せられ、明るい『夜』の街で笑顔を浮かべている。
これだけの人たちが上機嫌に振る舞う風景を、八重は山の秋祭りでしか見たことがない。
その日だけは、普段は赤子から年寄りまで顔見知りしかいない村に知らない顔が多く集うのである。
朝から晩まで楽しい雰囲気に包まれた村で、初めて見る人たちと笑いあい過ごす特別な日。
その日だけは『夜』も怯えずに済んだし、他の時のように村にやってきたお客さん相手に大人たちが表情を曇らすこともない。
だから八重の目には、今この瞬間の光景がそんな祭りの夜に重なって映ったのだ。
「祭り、ねぇ……」
八重の言葉を受け、彼女の手を掴んでいる男は嫌悪感も露わに吐き捨てる。
「……俺ぁ好かねえな。確かに、この浮かれ様は祭りみたいなもんだがね」
しかし言葉とは裏腹に、男の表情にはどこか諦めのようなものが浮かんでいた。
何しろ、このような光景は例年のことで、吉原を知りつくした彼にとってはある意味で見慣れてしまったものであった。
大門をくぐってすぐのこの場所、吉原遊郭の中央を走る大通り――仲之町は、季節ごとに大々的な植え替えを行うことでも有名だ。
そして『春』の今は桜が植えられ本来、夜には見られないはずの桜がこの吉原では見物できるとあって、常の比ではない大勢の人々が詰めかけていた。
この吉原は闇夜さえ真昼のような華やかな街、江戸に住まう洒落者には粋な夜の花見をするにはもってこいの場所なのかもしれない。
「けど結局、どこで見たって桜は桜だろうに、どうもこの時ばっかりは冷やかし客が増えてかなわねえよ」
この街に頻繁に足を向ける生業の男は、桜が咲こうが咲くまいが江戸者が大事にする粋よりも、己の仕事に支障を来たすか否かの方が大切であった。
もちろん、そんな男の心境まで八重が図れるはずもなく、余計な口を挟まぬ代わりに静かに桜を見つめる。
(どこで見たって、おんなし桜……)
反すうしながら見てみても、やはり八重の知る山の桜とは違うものは違う。
見事な枝ぶりも、風が吹く度に舞い降る桜吹雪も、別世界の景色のようで何だか目が離せない。
「ま、この桜のお蔭で明日の飯にありつける女郎らもいるんだろうがねぇ……」
未だ八重の知らない、吉原の街で生きる女たちの生活を左右する現実を男がぼそりと口にする。
と、その瞬間。
「今しがた、華乃楼の花魁道中が始まったってぇ話だよ!」
「華乃楼だって? そりゃあ、大変じゃねぇか!」
「本物の桜も悪かぁないが、一度は華乃楼きっての桜も見とかねえとだな!」
誰かの声をきっかけに、桜見物をしていた大勢の人々が一斉に移動を始めた。
我先にと、江戸町から揚屋街方面に流れる人の群れを見送り、八重は目を瞬かせる。
「……江戸は、おっかねぇな。偽物の桜があるなんて聞いたことねかった」
「いいや、あの桜は軽々しく偽物なんてぇ呼べるもんじゃねえさ……」
八重の言葉にくくくっと喉の奥で笑い、男は意味ありげな笑みを浮かべ続ける。
「そうさなぁ、さしずめ……天女か、女神の化身と言ったところだろうなぁ」
男がそう話す間にも、次から次へと桜見物をしていた人々がどこかに慌ただしく移動していく。
「しかし、さすがは華乃楼の太夫だよ。名前ぇが上がっただけで、これだ……すごいもんだろう?」
「……?」
同意を求められても、八重には答えられない。
今の状況をそもそも理解できていない彼女が、その問いの答えを持ち合わせているはずがない。
(かのろう……の、たゆう……?)
男が口にした単語を心中で呟いてはみるが、初めて聞いた言葉でさっぱり意味が分からない。
ただでさえ偽物の桜の謎が解けないでいる今の八重に分かる、確かなことはひとつ。
今この時に何かが行われているらしいこと、そしてそれを見物するために桜の前から大勢の人間が動いた。
この幻想的なまでの桜景色よりも、きっともっと魅力がある何かがあるのだ。
もっとも端から八重の答えなど求めてはいなかったのだろう、男はやれやれといった様子で肩をすくめた。
「お前ぇさんも、花魁道中を機会がありゃ一度は見てみるといい。今のうちになら、いつかは太夫に……なんてぇ片時の夢くらいは見られるってもんよ」
と、言葉を中途半端に止めた男はすっと表情を改める。
「そんな夢でも持ってなきゃ、これから先のお前ぇさんは……」
彼女の手を引く男――女衒という名の、八重のような幼い少女を売り買いすることを生業とする彼は中途に言い止めた。
これまでの仕事で、数多くの少女をこの吉原に売ってきた男は嫌という程に知っている。
この街に売られた娘に待ち受ける未来を、夢などいう甘い言葉ひとつ気軽には口に出来ない過酷な現実を。
けれど、男は八重を見ることなく視線を遠くに向けた。
まだあまりにも幼い八重に、そんな酷な現実を突き付ける気にならなかったのだろう。
まして彼は、その根本となる彼女たちを売り買いする生業の人間であるのだから。
「……?」
やはり、男の心根など知るはずもない八重がきょとんと首を傾げると、彼は静かに首を左右に振るにとどめた。
「……いや、今のはすっかり忘れてくれや。今回は久々に長い旅になったからなぁ、変な里心がつきそうになっちまったね」
決して、こちらをじっと見上げる八重の目を見ようとはせず、男はこれまでとは打って変わった声音で続ける。
「あれだな、ここはせめてもの情けに、お前さんが村の家族にちっとでも孝行できるように良い見世を回ってやろうねぇ」
いい加減、男が口走る言葉の意味が分からないことにも八重は慣れてきた。
この街までの道中も、今現在をもってしても大概の話が理解できなかったので、胸に沸くのはもはや諦めの感情のみだ。
けれど、何かを押し殺したようなその声に、わずかな何かを感じ取る。
(正直なんも……よぐはわかんねけど、でも……)
彼は自分の仕事は人でなしの仕事だと旅の道中に語っていたが、八重にとっては少しだけ違う。
男は八重の願いを受けて、ここまで連れてきてくれた人だった。
八重には叶えたい願いがあって、そのためにはこの街に行く他に道がないのだと、幼くてもちゃんと理解している。
彼が口にする言葉も話も、本当に分からないことだらけだけど、別にそれはどうでもいい。
この街に連れていくのが彼の仕事なのだとしても、そうしてくれただけで八重にとっては十分感謝に値する。
その人が、自分のためを思って何かを言ってくれたことだけは伝わってきたから。
(……そうだ。江戸では確か、こゆ時に言うんだって聞いた気がする)
「……ありがとう」
思い浮かんだ感謝の言葉を声に乗せ、八重は笑った。
心からの想いのまま自然とこぼれた微笑みに、男は一瞬、呼吸するのを忘れた。
これから、己を売ろうという女衒相手に礼を述べることに驚いたのもある。
が、それ以上に眼前の咲き誇る艶やかな桜、その美しさをも軽く凌駕するほどの何かを感じさせる、八重の微笑みに目を奪われたのだ。
「……約束、した。だから、おらはここ来たんだ」
「……っあ、ああ」
強い意志を称えた八重の瞳にハッと我に返り、男は慌てたように言う。
「ほ、ほれ……華乃楼の太夫が花魁道中やってるお陰で、ちっとは人も減った。随分と遅くはなっちまったがね、早いとこ見世を回らねえと夜になっちまわぁな!」
男は、そろりと隣の八重を見下ろし首を傾げる。
今の彼女はどこにでもいる野山を駆け回る年頃の幼い小娘に過ぎず、先ほどの自身の反応にひどく戸惑いを覚えてしまう。
あの微笑みは、いったい何だ。
今の彼女からは欠片も想像できないが、簡単に人心を惑わしかねない微笑みに見えた気がする。
「さっきの、ありゃあまるであの……いいや、まさかな……」
何かを口走りかけた男は苦笑し、頭の中の考えを吹き飛ばすかのように真正面を向く。
「さて、そろそろ行くか。早いとこ、お前さんの行く見世を決めねえとだ!」
気を取り直した女衒の男はそう短くまとめ、これから売るための商品である八重の手をしっかりと掴み直すと足早に歩き出したのだった。
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