朝陽に眠る街

アサヒオウギ

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― 序章 ―

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微かに吹く風に、ゆらりゆらりと柳が揺れている。


江戸の吉原といえば、その柳もまた『見返り柳』として有名である。


一夜の夢から世知辛くも忙しない現実へと帰る中、くぐり抜けたばかりの大門おおもんを後ろ髪引かれる思いで振り返る。


けれどいくら見返ろうとも、もはや柳のある衣紋坂えもんざかの入り口からは吉原の姿など少しも見えやしない。


この『見返り柳』から、吉原の唯一の入り口とされる大門までは三曲がりの道となっており、どれほど望んだとて直接あの街を見ることは叶わないのだ。


お上のためにそう配慮したとも言うが、何にせよ駕籠かごで乗り付け大尽だいじん遊びをする客も、ただ冷やかすだけの庶民も、この衣紋坂を登ってしまえば同様に現実に帰る他ないのだった。


そんな人々の心をわずかにも癒すべくなのか、大門まで続く衣紋坂には軒を連ねるようにし茶屋が並んでいた。


吉原見物ついでの客も多いのだろう、どの茶屋もそこそこ繁盛している。


もっとも大門の向こう、見世みせで散財した者などは茶屋に立ち寄る金子きんすもなく、自由に汲むことを許された井戸の水で喉を潤す始末であるのだが。




「どうしたもんか、これでも急いだつもりだってのに……」



さて、そんな茶屋通りの道半ば、吉原の大門の姿がようやく見え始めたところで、ひとりの男が足を止めた。


男の服装は一目で旅をしてきたと見えるくたびれたもので、彼の右手は幼い少女の左手を掴んでいる。


少女も同じくそこここが擦り切れた着物に身を包んでいるが、その顔は旅の泥と埃にまみれながらも、なかなかの器量良しであった。



「もう陽が沈んじまいそうになってらぁ、じきに暮六つになっちまう」



男が見上げた陽の状況から判断した夕七つ頃の今、吉原では昼見世が終了し、すぐにも夜見世の準備が始められようとしている頃である。


大見世おおみせなどではそろそろ、早めにやってきた客の出迎えに花魁道中おいらんどうちゅうが始まろうかという時間だ。


それを思ってか眉根を寄せ何かを思案する男の後ろで、同行の少女は大人しく待っていた。


ただ表情だけは雄弁で不思議そうな顔をし、ぼんやりと遠くにある大門を見つめている。


少女の視線の先で黒塗りの大門は、まるで昼日中の明るさを再現しようとでも言うように、早くも煌々と灯された提灯ちょうちんの数々によって明るく照らしだされていた。


微かな風にも揺らぐ提灯の灯りの下、少女の何倍もの背丈があるだろう大きな門は異様な程の存在感だった。


あの門の向こうは明らかに何かが違う、そんな異様さを醸しだされていては目を奪われない方がおかしいのかもしれないが。



「あぁ、どうにか暮れ六つ前に親父さんにさえ話がつけれりゃいいんだがなぁ……」



がりがりと頬を掻き、少しも大門に興味を惹かれた様子もないまま男は片手で衣紋を正す。


それから未だ大門をぼんやりと見つめ続けている少女を一瞥し、言った。



「いいかい? あっしらはね、花魁道中が始まっちまう前に見世に着かなきゃなんねえ。つまりお前さんは、これまでよりも早く歩かなきゃならん。わかったかい?」



「……」



こくり、と声は発さずに少女が静かに頷く。



「そういやお前さん、あの村を出てからというもの、すっかり喋らなくなっちまったが……」



不安に駆られた表情で、男が少女の腕を引き歩き出しながら問いかける。



「まさか、声が出なくなったなんてことはないだろうね?」



まるで、そんな事態もよくあるのだとでも言いたげな眼差しで男が小さく息を吐く。



「声が出ねえとなると、また色々と話は違ってきちまうからな……」



速足の男に必死についていきながら、少女はどうにか小さく発する。



「声、は出る……」



実際、しばらく声を出していなかったのだろう、ようやく発せられたその声はひどく掠れてしまっている。


けれど、その声は器量良しの見た目を裏切らぬ鈴のような可憐なものであった。



「……かわいそうにな。まだ、あんな小さいってのに」



「しぃっ、余計なことをお言いでないよ」



男と少女のやり取りが聞こえてしまったらしい茶屋の客の言葉に、店の者が慌てたように止めに入る。


しかし、そもそも抑えられた声音であったためか、目の前を通り過ぎ行く男と少女の耳に届いた様子はない。


それを見て取り、茶屋の客はなおも続ける。



「知ってるか? ここんとこの女衒ぜげんの連中ときたら、人買いはご法度ってことで『年季奉公ねんきぼうこう』ってぇ名目で娘らを集めるらしいじゃないか」



「どうもやりきれないねぇ、あの門をくぐっちまったら帰れないって話だよ」



「かといって、あたしらにゃどうこう言えやしないがね……」



客たちの言葉にわずかばかりの同意しつつも、茶屋の女将は複雑そうな眼差しで肩をすくめる。



「ただ、どうしても十ぉにも満たない娘っ子が売られてく姿ってのは嫌なもんだよ」



「まぁ……何度見ても、どうしても見慣れるってことが出来たもんじゃねえよな!」



ひそひそと言葉を交わし、茶屋の客と店の者たちは旅装束の男と娘を見送る。


彼らの視線の先で遠くなっていく、迷いのない足取りで大門に向かう男とまだ幼い少女。


一見すればこの二人連れ、ちょっとばかし年の離れた親子に見えなくもない。


しかし、ここが江戸吉原は大門のそばとあっては年の離れた親子であるはずがなかった。


何しろ特別な許可なくば、吉原は関係のない女子供が大門をくぐることはできない場所。


その事実が、急ぎ足で大門に向かう二人連れの関係を容易に茶屋から覗き見た者たちにも理解ができるのだ。


男は女衒ぜげん、幼い少女はこれから吉原のどこかの見世に売られる娘に違いない。


女衒の男たちは別名、女郎買じょろうがいとも呼ばれている。


その名が示す通り、彼らは田舎の貧村などを回り幼い子供から年頃までの少女たちを買い付けては、吉原の見世に売ることを生業としている。


が、現実がどうであれ原則的には今のご時世、いかに幼かろうと老いていようと人買いは許されていない。


それ故に茶屋の男が口にした通り、『年季奉公』という名目でもって貧村の、日々の暮らしの苦しさに喘ぐ親の前に金を並べ、若い娘たちを吉原に連れて行くのである。



今にも大門をくぐろうとしている女衒が連れた、あの娘も今はまだ若い。


どこの見世に売られたとて、しばらくは遊女の世話でもしながら一人前になる日のために厳しく躾けられることになるのだろう。


もちろん一人前になってからのことなど、あえて言うまでもない。



「しっかし……咲いた桜も見頃のこの時期に、ちぃっとばかし嫌なもんを見ちまったねぇ」



「それならよぉ、花見酒でもして忘れるとするかい?」



「いいねぇ、今はほれ、大門の向こう吉原の仲之町の桜がちょうど満開だって話さ」



「あーあ、これだから男は嫌だ嫌だ。いまのいま、何の話をしてたかも忘れたってのかい!?」



あの少女の行く末を気にしてみても、誰であれ目の前にある自身の日々の暮らしの方が結局は大事なのだ。


たとえ余裕ある暮らしなどができずとも、少しでもいいから江戸者らしく粋に日々を楽しみたい。


何せ、この朝陽に眠る夜の街では少女を連れた女衒の姿など常のこと。


彼らがひと時、気に病んだところで何ができるでもない。


あの大門の向こうが、そういう特別な場所なのだと誰もが当たり前に知っているのだから。




そうしてこの日、繰り返される当然の光景に溶け込むようにし、幼い少女がまたひとり吉原の大門をくぐった。



江戸は吉原、朝陽に眠る街。



何も知らずやってきた、あの少女の目に映る世界は果たして苦界であるのか、それとも――。



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