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第3章 猟ある猫は爪を隠す
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逸登君に手首を掴まれてコインパーキングまで歩いた。
一歩先を行く逸登君は終始無言で、手を繋ぎ直せるかと期待したけれど叶わなかった。
「乗って」
ドアを開けて、私が助手席に収まったのを確認してから手を離した。そっと緩められる手は、何故だか恐々としているように思えた。
シートベルトを締めて、全身をシートに預けた。窓の外、精算機を操作する逸登君を眺める。
私と清水さんとのやり取りをどう思っただろう。それ以前に、言葉巧みな清水さんに何を聞かされたのかわかったもんじゃない。
「お待たせ」
運転席に乗り込んだ逸登君が、吐息のように小さく呟いた。
疲れというより、呆れているだけだろう。そうとしか思えない。
今日一日を思い返せば、私という厄に巻き込まれたのは逸登君なのだから──やるせない。
「あの人マジ嫌な奴だね」
ハンドルにしなだらせた両手の甲に額をぶつけて、横目で私を見た。
ちょっとだけ意外だったのは、逸登君に限っては悪口を叩くような人ではないと思いこんでいたから。
悪いのは逸登君の口ではなくて清水さんなのだから仕方ないんだけど。
「ごめんなさい。きっと何か言われたよね」
「誰のために謝ってんの?」
逸登君に咎められてはっとする。
私には清水さんを庇う意図はない。
「えっと、」
「嘘。ごめん。今のなし」
逸登君はポンポンとハンドルに2回頭を打ち付けて深呼吸をした。
「ハァ。マジ来て良かった。というか、今日はいいけど、詩乃さんの状況ってさ」
「清水さんならもうすぐ本社に戻るから、会うことなくなる」
「あの人はそうでも」
あぁ。やっぱり。
秀治のことも聞いたんだ。しかも清水さんのことだから、明け透けに「寝取られた」ぐらいは言っているだろう。
「さっき、ようやくスッキリしたってだけで、実際には半年以上も前に終わってたの」
「けど、友達付き合いはある」
逸登君は、秀治ではなくて理都のことを指摘している。
モヤモヤが悪い方向に晴れた今、さすがに私も今まで通り理都に接する自信がない。
「しばらく会わないと思う」
「そうして。職場が違っても、理都子さん経由で元彼に会うかもしれない」
「え? あ、そっか」
その可能性は考えていなかった。
私はまだ、秀治と理都を別々に捉えていたと気づかされた。
「あ、いや、ごめん。俺が言うなって話かもだけど、そうじゃなくって」
そうじゃなくもないかと呟いて、逸登君は私と同じようにシートに深くもたれこんだ。
「もうバレバレだと思うけど、俺は純粋に詩乃さんが好きで大切に思ってる」
揉み上げをポリポリと掻いてから、身体を捻って私に真っ直ぐ目を向けた。
「詩乃さん、俺とお付き合いしませんか? 出来たら、本気で」
「本気、で?」
「そう。本気で」
「それって」
「うん。そのつもりで」
今度は照れる仕草を見せなかった。
真剣な表情の中、瞬きすらしない目は緊張感が漂っている。その真摯な態度が嬉しくて、逸登君に抱いた想いが溢れてしまう。
「ありがとう、、、その、よろしくお願いします」
そう答えた口の端に塩味を感じた。
「ハァ、良かった。めちゃくちゃ嬉しい」
左頬に添えられた手の親指が、頬を伝った滴の道筋をそっと拭う。
「初っぱなから泣かれちゃったなぁ」
「泣いてない。泣かないんですよ、私。強くなったから。ストレッチ毎日続けてるもの」
「ストレッチにそんな効果あったかな?」
ごつごつした感触に、私は自らすり寄った。
温かさ、大きさ、肌触り、全てを覚えたい。
「俺ん家行くね。今日色々あって疲れてるだろうから、真っ直ぐ送るつもりだったけど」
ちょっと無理と、優しく微笑む逸登君に頷き返した。
***
ハンドルを握る逸登君に、秀治とのこと、理都のこと、それと少しだけ清水さんのことを話した。
今までの出来事も、私の気持ちも、考えだって、自分の言葉で伝えたかった。
過去に縛られた私に「そのつもりで」と、未来をみせてくれたからこそ、月経についてのあれこれも隠さなかった。
「詩乃さん、今のままで十分過ぎなぐらい綺麗だけど、明らかに細身でしょ。そういう意味で、まずは俺が健康にさせるよ。一緒にいれば栄養価の高い食事させることになるはずだし、ストレッチも筋トレも付き合うからね」
詩乃様専属トレーナーという響きは、スペシャル感がある。
仕事柄、病院の情報は手に入りやすいから必要なら信頼のおける婦人科を探すと言ってくれた。
生理の話を真面目に取り合ってくれただけでも嬉しいのに、不安ならば健診に同行するとも。
それでも彼は無理強いはしない。「必要なら」「不安なら」と、私の選択を尊重してくれる心遣いもありがたい。
車を止めると、私がもたついている間に助手席のドアを開けてくれた。
手を差し出されてのお姫様扱いはさすがに過ぎる。
「やりすぎ」
「照れる詩乃さんが可愛くて、つい」
「ん? 私、照れてた?」
「ちょいちょいうつむいて顔隠すもんね」
確かに、ロングヘアをいいことに、髪に隠れて心情を読み取られまいとする癖がある。表情の乏しさを指摘されるのが嫌で身に付いたともいえる。
まさか、そんなところまで気づかれているなんて思ってもみなかった。
驚く私はお構い無しに、逸登君は「行こ」と歩き出す。
今度はちゃんと手を繋いでくれている。
浮わついた心が、絡ませた指をすり合わせるように動かした。
一度来たことのある部屋は、相変わらず整頓されている。
ちゃんと生活感はあるのに、無駄のない部屋。
「詩乃さん、ごめんね」
部屋に入るや否や、謝罪されて、ポカンとしてしまう。
逸登君が眉間に皺を寄せている。初めてみる表情で苦しそうだ。
「なにが?」
冷たい、と自分で思った。感じの悪い自分の声に心が重くなる。
うつむいて目を閉じると、そっと引き寄せられた。
「勢い余って連れてきちゃったけど、多分詩乃さんが必要なもの何もない」
コンビニが近くにあるのに行くとは言わないのは、外出しないという意思表示。
苦しそうにする必要なんて微塵もない理由だ。
「何も要らない」
本心だった。
逸登君は、私に必要な場所を提供してくれている。
そっと囲われているだけなのに、不思議と安心できる。
それだけで十分。
始まったばかりの二人きりの時間を最優先させたいのは私も同じだった。
「超濃い1日だった」
ため息交じりに、私も逸登君の腰に腕を回した。
厚みのある体幹は、上半身を預けてもびくともしない。
私のささやかな甘えを、そのまま受けとめてくれる。
「知ってる。よく頑張ったね」
訓練で救助された時と同じ労いがくすぐったくて、喉が鳴る。
「もう少し、このままでいて?」
「もう少しだけね」
「ケチ」
「ご飯食べようよ。腹減った。詩乃さんのことだから、お昼も食べてないでしょ」
何を作ろうかと相談する間、胸に預けた頭を撫でるように髪を鋤いてくれるのが心地よくてたまらなかった。
一歩先を行く逸登君は終始無言で、手を繋ぎ直せるかと期待したけれど叶わなかった。
「乗って」
ドアを開けて、私が助手席に収まったのを確認してから手を離した。そっと緩められる手は、何故だか恐々としているように思えた。
シートベルトを締めて、全身をシートに預けた。窓の外、精算機を操作する逸登君を眺める。
私と清水さんとのやり取りをどう思っただろう。それ以前に、言葉巧みな清水さんに何を聞かされたのかわかったもんじゃない。
「お待たせ」
運転席に乗り込んだ逸登君が、吐息のように小さく呟いた。
疲れというより、呆れているだけだろう。そうとしか思えない。
今日一日を思い返せば、私という厄に巻き込まれたのは逸登君なのだから──やるせない。
「あの人マジ嫌な奴だね」
ハンドルにしなだらせた両手の甲に額をぶつけて、横目で私を見た。
ちょっとだけ意外だったのは、逸登君に限っては悪口を叩くような人ではないと思いこんでいたから。
悪いのは逸登君の口ではなくて清水さんなのだから仕方ないんだけど。
「ごめんなさい。きっと何か言われたよね」
「誰のために謝ってんの?」
逸登君に咎められてはっとする。
私には清水さんを庇う意図はない。
「えっと、」
「嘘。ごめん。今のなし」
逸登君はポンポンとハンドルに2回頭を打ち付けて深呼吸をした。
「ハァ。マジ来て良かった。というか、今日はいいけど、詩乃さんの状況ってさ」
「清水さんならもうすぐ本社に戻るから、会うことなくなる」
「あの人はそうでも」
あぁ。やっぱり。
秀治のことも聞いたんだ。しかも清水さんのことだから、明け透けに「寝取られた」ぐらいは言っているだろう。
「さっき、ようやくスッキリしたってだけで、実際には半年以上も前に終わってたの」
「けど、友達付き合いはある」
逸登君は、秀治ではなくて理都のことを指摘している。
モヤモヤが悪い方向に晴れた今、さすがに私も今まで通り理都に接する自信がない。
「しばらく会わないと思う」
「そうして。職場が違っても、理都子さん経由で元彼に会うかもしれない」
「え? あ、そっか」
その可能性は考えていなかった。
私はまだ、秀治と理都を別々に捉えていたと気づかされた。
「あ、いや、ごめん。俺が言うなって話かもだけど、そうじゃなくって」
そうじゃなくもないかと呟いて、逸登君は私と同じようにシートに深くもたれこんだ。
「もうバレバレだと思うけど、俺は純粋に詩乃さんが好きで大切に思ってる」
揉み上げをポリポリと掻いてから、身体を捻って私に真っ直ぐ目を向けた。
「詩乃さん、俺とお付き合いしませんか? 出来たら、本気で」
「本気、で?」
「そう。本気で」
「それって」
「うん。そのつもりで」
今度は照れる仕草を見せなかった。
真剣な表情の中、瞬きすらしない目は緊張感が漂っている。その真摯な態度が嬉しくて、逸登君に抱いた想いが溢れてしまう。
「ありがとう、、、その、よろしくお願いします」
そう答えた口の端に塩味を感じた。
「ハァ、良かった。めちゃくちゃ嬉しい」
左頬に添えられた手の親指が、頬を伝った滴の道筋をそっと拭う。
「初っぱなから泣かれちゃったなぁ」
「泣いてない。泣かないんですよ、私。強くなったから。ストレッチ毎日続けてるもの」
「ストレッチにそんな効果あったかな?」
ごつごつした感触に、私は自らすり寄った。
温かさ、大きさ、肌触り、全てを覚えたい。
「俺ん家行くね。今日色々あって疲れてるだろうから、真っ直ぐ送るつもりだったけど」
ちょっと無理と、優しく微笑む逸登君に頷き返した。
***
ハンドルを握る逸登君に、秀治とのこと、理都のこと、それと少しだけ清水さんのことを話した。
今までの出来事も、私の気持ちも、考えだって、自分の言葉で伝えたかった。
過去に縛られた私に「そのつもりで」と、未来をみせてくれたからこそ、月経についてのあれこれも隠さなかった。
「詩乃さん、今のままで十分過ぎなぐらい綺麗だけど、明らかに細身でしょ。そういう意味で、まずは俺が健康にさせるよ。一緒にいれば栄養価の高い食事させることになるはずだし、ストレッチも筋トレも付き合うからね」
詩乃様専属トレーナーという響きは、スペシャル感がある。
仕事柄、病院の情報は手に入りやすいから必要なら信頼のおける婦人科を探すと言ってくれた。
生理の話を真面目に取り合ってくれただけでも嬉しいのに、不安ならば健診に同行するとも。
それでも彼は無理強いはしない。「必要なら」「不安なら」と、私の選択を尊重してくれる心遣いもありがたい。
車を止めると、私がもたついている間に助手席のドアを開けてくれた。
手を差し出されてのお姫様扱いはさすがに過ぎる。
「やりすぎ」
「照れる詩乃さんが可愛くて、つい」
「ん? 私、照れてた?」
「ちょいちょいうつむいて顔隠すもんね」
確かに、ロングヘアをいいことに、髪に隠れて心情を読み取られまいとする癖がある。表情の乏しさを指摘されるのが嫌で身に付いたともいえる。
まさか、そんなところまで気づかれているなんて思ってもみなかった。
驚く私はお構い無しに、逸登君は「行こ」と歩き出す。
今度はちゃんと手を繋いでくれている。
浮わついた心が、絡ませた指をすり合わせるように動かした。
一度来たことのある部屋は、相変わらず整頓されている。
ちゃんと生活感はあるのに、無駄のない部屋。
「詩乃さん、ごめんね」
部屋に入るや否や、謝罪されて、ポカンとしてしまう。
逸登君が眉間に皺を寄せている。初めてみる表情で苦しそうだ。
「なにが?」
冷たい、と自分で思った。感じの悪い自分の声に心が重くなる。
うつむいて目を閉じると、そっと引き寄せられた。
「勢い余って連れてきちゃったけど、多分詩乃さんが必要なもの何もない」
コンビニが近くにあるのに行くとは言わないのは、外出しないという意思表示。
苦しそうにする必要なんて微塵もない理由だ。
「何も要らない」
本心だった。
逸登君は、私に必要な場所を提供してくれている。
そっと囲われているだけなのに、不思議と安心できる。
それだけで十分。
始まったばかりの二人きりの時間を最優先させたいのは私も同じだった。
「超濃い1日だった」
ため息交じりに、私も逸登君の腰に腕を回した。
厚みのある体幹は、上半身を預けてもびくともしない。
私のささやかな甘えを、そのまま受けとめてくれる。
「知ってる。よく頑張ったね」
訓練で救助された時と同じ労いがくすぐったくて、喉が鳴る。
「もう少し、このままでいて?」
「もう少しだけね」
「ケチ」
「ご飯食べようよ。腹減った。詩乃さんのことだから、お昼も食べてないでしょ」
何を作ろうかと相談する間、胸に預けた頭を撫でるように髪を鋤いてくれるのが心地よくてたまらなかった。
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