カナリアを食べた猫

端本 やこ

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第3章 猟ある猫は爪を隠す

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「詩乃さんシーフードは平気?」

 逸登君は、がさごそと冷蔵庫を探って明太子を見せた。

「好きだよ。漁師の娘ですから」

 私が生まれ育ったのは、はおしゃれなカフェ一つない小さな港町だ。
 絵にかいたような職人気質な父親と兄は船に乗っている。母親と兄嫁も漁業を手伝っていて、私も地元に残っていたら漁業組合にでも就職していただろう。
 進学で地元を出たのも、アトウッドに就職したのも、田舎の生活を嫌厭した部分は少なからずある。

「海しか遊ぶところがないの」
「見方によっては贅沢だよね」
「今ならそれも解るんだけどねー」

 明太子の皮から中身を取り出す逸登君の背中に、ぴとりとくっついた。
 目を閉じて集中すると、微かに感じる生臭さが磯の匂いを思い出させる。

「小さい頃ね、お兄ちゃんが友達と遊ぶのに一生懸命くっついていったんだ」

 磯遊びしかすることがないのだから、子どもたちの遊び場は決まっていた。
 小さな子は水際でカニを捕まえたり、小魚を掬った。地元民だからこそ、幼くても危険な生き物については博識で大怪我をするようなことはなかった。

「小学生ぐらいになるとさ、ちょっと高い崖からダイブするの」

 満足に泳げるようになると、海に飛び込んで遊ぶ。それが出来て「一人前」と認識される風潮がある。大人たちも通った道であり、危険視して止めるようなことはない。
 近所の子たちが次々クリアしていくのを眺めて、私も当たり前に出来るものだと思っていた。一度飛べば怖くないと経験者は語り、難しくないと思い込んでいた。
 けど、私は駄目だった。
 お兄ちゃんたちの背中を追いかけ、崖の上まで行って打ち震えた。

「初めてみる景色は、それまで私が知ってた海と違った」

 水面の煌めき、波のうねり、風の音。全てが違った。
 見下ろす海は信じられないぐらい美しくて、怖かった。
 初めて身近な存在に畏怖の念を抱き、脚が竦んだ。

 順番待ちに業を煮やした何人かが私を追い越した。
 その度に、ドクン、ドクン、と心臓が跳ねる。
 お兄ちゃんまでもが「お先」と、私に笑顔を見せて背中から落ちて行った。待って! と叫んだような気がするけれど、多分声は出ていなかったと思う。
 引けた腰で膝を震わせながら崖下を覗き込んでみると、お兄ちゃんが水面に顔を出して大きく手を振っていた。広い海に浮かぶお兄ちゃんが小さくて、いつもは大きいお兄ちゃんが小さくて、私は泣きそうになった。
 そのうちにお兄ちゃんの友人がもう一度上って来ていた。

「ほら行けよ、って」

 背中を押されてしまった。

 灰色の崖
 白く眩しすぎる陽の光
 顔面の前で踊る黒い髪
 近づく海の濃い藍色
 
 スローモーションで流れる景色を、脳のシャッターが鮮明に記憶する。
 足元が崩れた浮遊感があるのに、天から押しつぶされるようにして垂直落下する。体という容れ物は落ちていくのに、内臓だけは宙に残っているような感覚だった。

「詩乃さん」

 とにかく気持ちが悪かった。
 一瞬、全ての音が消え失せた。直後、驚く私の頭蓋骨に風の轟音が響いた。
 崖に打ちつける波の音、水面に打ち付けられた衝撃と水中のくぐもった音、次々と襲いかかる感覚が私を弄ぶ。
 体と思考の自由を奪われ、水面に浮かび上がった時には五感を失ったようだった──

「詩乃さん、こっち見て。はい、深呼吸」

 たらこまみれの両手を挙げた逸登君は、医療ドラマでよくみる手術直前の執刀医さながらの恰好だ。くるりと私に正対して、片肘で私を抱き寄せた。たらこが付かないように注意しながら、もう片方の腕で器用に背中をさすってくれる。

「大丈夫だから。ね?」

 背中を這う逸登君の腕の動きに合わせて、私はスーハースーハーと呼吸を調える。

「昔の記憶で、もう怖いはずないって分かってるんだけど……」

 高くて開けた場所であったり、足下が不安定な場所に立つと否応なしに思い出す。

「トラウマを聞かせてほしいなんて軽率だった」
「違う! 私、逸登君に知って欲しい。私のこと全部」

 トラウマから抜け出せないのは、私の歴史そのものだからだと思ってる。
 高所恐怖症以外にも、ダメなところが沢山ある。コンプレックスだってある。どれもこれも、私を形成する一部なんだ。
 それに、誰にだって短所や欠点はある。
 逸登君にもあって然るべき。ただ私が知らないだけ。他の誰かが知っているかもしれない彼の一部を、私は独占したい。

「もう平気。ありがとう」

 独占欲まで吐き出すには至らなかった。
 状況もムードも「今じゃない感」がある。
 その代わり、少しだけ背伸びをして首を伸ばした。

「っ! 詩乃さん!?」

 大きな喉仏に唇を寄せてマーキングをした。
 見事な反射で顎を引いた逸登君のピュアな反応が面白い。
 通常より三割増しで見開かれた逸登君の瞳に、悪い顔をした私が映っている。
 映っているのは私だけ。
 今はそれだけで十分満足だ。

「大人しくあっちに座ってて」

 すぐにできるからと、逸登君は早口で告げて背を向けてしまった。
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