愛は優しく、果てしなく

端本 やこ

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夫、成悟の愛しき憂い

1-1

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 最愛の妻からのデートの誘いは久しぶりだ。
 彼女の料理も大好きだけれど、たまには外食もいい。

 ただいまの俺と百華ももかの物理的な距離は電車で5駅。
 俺が断らないと分っているのだろう。予約済みだと送られてきた店は、1駅だけ百華寄りにある鮮魚をウリにした居酒屋だ。全国の地酒を取り揃えると謳う文句は、俺好みに寄せてくれている。
 店に直接来いということだろうが、一刻も早く彼女に会いたい。

<駅で待ち合わせよう>

 すぐに了承の返事がきた。
 時計を見て、午後の予定をざっくり反芻し気合を入れなおす。百華を待たせるだなんて愚かな真似はしない。と言うか、恐ろしくてできない。
 昼休みを早めに切り上げてデスクに向かった。

 俺が待ち合わせ場所に到着したのは、約束の15分前だった。人通りをざっと見渡す。
 営業職の百華は時間に正確だ。5分前行動はデフォで、下手すりゃ10分は余裕を持つ。
 俺は周囲を警戒し、女の子に声を掛けるためだけに存在する輩が居ないかを確認した。

 百華はモテる。

 それはもう半端なくモテる。モテると言うのもちょっと違うレベルで。
 惚れた贔屓目でも大袈裟でもない。
 百華はとにかく人目をひく容姿をしている。見た目に負けないオーラを身に纏っていて、老若男女問わず惹きつける。
 「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」とはよくいったものだが、百華の前では芍薬と牡丹に百合も頭を垂れる。
 長く科やかな黒髪は艶があり、大きく鮮やかな茶色の瞳が印象的だ。
 造形だけでなく、立ち居振る舞いが洗練されている。その上、学業も仕事も成績優秀ときている。
 男の庇護欲を掻き乱す外見とは裏腹に、内面は芯が通っている。好き嫌いがはっきりしているところがあり、強かな一面も併せ持つ。それでいて情に厚いところが人間性を失っていない。
 百華に出会った人間は「何から何まで完璧」と彼女を形容する。しかし、その最高級の誉め言葉を、百華自身は喜ばしく思っていない。
 クレオパトラの笑みで受け取りながら、心では真珠の涙を溢す。

「完璧な人間なんて存在すると思う?」

 不快な思いを押し殺す百華に「人間である時点で不完全」だとしか俺は言えない。短所や弱点のあるなしじゃなくて、相手の立場や状況によって裏が表であったり、表が裏だったりするもんだと思っているから。
 夫婦なんて補い合って初めて一人前になるんじゃないのかっていう俺の持論を説くと、「それじゃ私ったらやっぱり完璧な人間になっちゃうな」って、真珠を拾い集めたんだ。
 あの照れたような笑顔は強烈にかわいかった。
 昔の出来事を思い出していると、俺意外のだれしもが息を飲んだ。

成悟せいごさん!」

 来たなと思った瞬間、鈴めいた声が俺の名前を呼んだ。目が合った薔薇の花は、その芳香を撒き散らせんばかりに一層華やぐ。

「ごめんね。遅くなっちゃった」

 速度を速めて駆け寄って「お待たせ」と一呼吸おいた。

「ちゃんと5分前じゃん。今日もお疲れ」
「成悟さんもお疲れさま」

 外回りをする百華は踵の低い靴を好む。
 肘の下辺りを掴まれ少しかがむと、百華は少しだけ背伸びをしてふっくら瑞々しい唇を俺のそれに合わせた。

「まぁた人前で」
「だって成悟さんったら見られてるんだもの。私の旦那様なのに」

 本気なのか冗談なのか判らない理由をつけてくっついてくる。少しだけ口を尖らせて拗ねる姿がまたかわいらしい。
 言うまでもなく、注目を集めるのは百華であって俺ではない。百華の横に立つのがアイツなのかと無粋な視線を投げつけられるのはいつものことだ。
 いい加減、慣れた。

「行こ。腹減った」

 百華のすらりとした細い指を絡めて促すと、百華は尖らせた口元をにんまりさせた。

***

親会社うちに出向!?」

 まさかの報告に頓狂な声が出てしまった。
 春は人の動く季節である。が、グループ会社から親会社への人事異動とは大抜擢もいいところだ。さすがは百華としか言いようがない。

「栄転だろうけど、異動は願ってなかっただろ?」
「うん。今の仕事好きだからね。でもいいの。成悟さんと一緒に通勤できるの嬉しい」

 俺は大手旅行会社で、ツアー商品に合わせて各種交通機関や宿を確保する仕入れの部門に在籍している。
 一方、百華はバス会社でツアープランナーとして手腕を振るっている。一時は業績不振から売却もしくは合併を噂されていた会社が、数年であっさり赤を黒で塗り替え立て直した。
 百華こそが功労者だ。世代や性別等、敢えて客層を絞った企画を打ち立てたのが当ったのだ。バスツアーでないと食べられないメニューの考案に、取引先と折り合いをつけたりと体当たりの営業もこなしてきた。
 そういう意味では本社の目に留まってもおかしくはない。
 ただ、バス会社が手放すとは考えもしなかった。

「うちの企画かぁ。海外出張もあるだろうな」
「業務課だって」
「えっ。業務?」
「うん」

 国内外問わず旅行と名が付けば、まず商品がある。しかし企画ではなく業務となると、発券や各種申請書類はもちろん顧客名簿なども取り扱ういささか地味な事務職だ。
 百華の能力が買われての異動だとしたら──配属先には疑問が残る。

「そう言えば、ひとり産休に入るって聞いたけど……」
「そうなんだ。じゃ、期間限定なのかな」

 百華に疑問はないらしい。
 ほんの少し不安そうなのは、グループとは言え全く別会社であるし、そもそも規模が違うからだろう。

「業務課なら同じフロア」
「ホント!? 一緒にランチできるといいね」

 微笑む百華に見惚れるのは、他の客も店員も同じだ。
 俺は外食ではなるべく個室を選ぶんだけど、人の動きや料理を見たい百華はあまり良しとしない。ちょっとしたことがきっかけで、プランナーの仕事にアイディアを与えることがあるとかなんとか。
 ついさっきも隣の席に運ばれた料理を「おいしそう」と眺めていた。仕事帰りのおじさん達は酔いも手伝ってか、気前よくその料理をそのまま寄越してくれた。俺が断りを入れたところで、百華しか眼中にないのだから聞きやしない。百華はありがとうの一言で押し問答をあっさり解決した。
 美人は得だ。
 女性諸君は化粧もダイエットもとことん追及すべきだ。身に危険が及ぶ副作用は無きにしも非ずだが、絶対にいいおもいができる。この超絶美人な嫁を持ち、そんな場面を幾度となく見てきた俺が言うのだから間違いない。

 とはいえ、職場でのこれからを思うと気がかりだ。
 百華にバレない様に小さく溜息を吐いた。
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