愛は優しく、果てしなく

端本 やこ

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夫、成悟の愛しき憂い

3-2

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 仕事中、百華の存在を感じて過ごすのは悲惨だ。
 気になって仕方ない。
 かといって、百華が視界に入らないのも心配が募る。
 俺も、周りも、百華に慣れるのを待つしかない。多分、百華もそれを待っている。いや、百華のことだから1週間も経てば落ち着くはずだと読んでいるに違いない。

 百華は警戒心が強い。反面、敵意がないと分かると一気に緊張を解いてしまう。そして、その瞬間こそが一番危険なのだ。是すなわち超絶美人に隙が生まれるということである
 百華にどう言い聞かせるかというのは、俺が抱える最大かつ永遠の問題である。
 あいつ、あれで頑固だから。
 気が強いんじゃないけれど、意固地なまでに芯が強いところがある。その不器用さが魅力でもあるのだけど。

「佐藤さんの奥様見てみたいな」

 部下の奥村真弓おくむらまゆみが俺の席にきたことにすら気づかなかった。それぐらい、俺は百華でいっぱいだ。
 いささか驚いて見上げると、少し戸惑ったように書類を差し出された。
 百華を見慣れている俺にとって、若手の奥村さんはかなり幼く見える。ガーリーな小物を好んでいるからか、色気を感じさせず若い子特有の元気さを全面的に押し出しているタイプだ。これはこれで男性社員に人気がある。
 庇護欲をくすぐられるというのはわからんでもないが、俺は興味ナシ。

「そっか。真弓ちゃんが入社したのって佐藤くんが結婚した後だもんね」

 アラフィフの女性社員が割って入った。
 正確な時期は分からないが、奥村さんの年齢を考えればそうだろう。

「佐藤くんったら結婚写真すら見せてくれないからねぇ」

 課員全員のジト目が刺さる。
 結婚式は親族だけで行った。諸々の面倒や手間を考慮した故だった。
 俺の実家と懇意にある神社で式を挙げた。こじんまりとしたからこそ厳格な雰囲気があって良い選択をしたと今でも思っている。
 凛とした百華の白無垢姿は、気品が漂い神々しささえ覚えた。
 文化遺産を見たいという百華の希望と、なかなか訪れる機会のないところへ行きたい俺の意向で、ハネムーンにはクロアチア共和国を選んだ。
 アドリア海の浜辺で洋装の写真撮影をした。和装ほどの衝撃はなかったものの、ウェディングドレスはたいそう似合っていた。記念のフォトアルバムは、下手なウェディング雑誌やドレス広告写真より見事な出来栄えに仕上がっている。
 それに何といっても、「ふたりきりだけど2回目の結婚式みたいでドキドキするね」と夕日に顔を赤く染めた百華の愛おしさといったら!
 思い出して顔がニヤついてしまう。

「うっわ。佐藤さん、、、」
「人生で一番綺麗な奥さんの写真を見せびらかす趣味はない」

 プロの手が入るだけあって、結婚式というのは女性の人生で一番綺麗な瞬間らしい。百華に限ってそんなことはないが、百華本人ですら力説するのだから、世間的にはそういうものなのだろう。

「それはそうだろうけどさぁ」
「だからこそ自慢したくならない?」

 既婚者の同僚は賛成しつつも納得がいかないらしい。
 彼らの結婚式には参列した。しかし、それぞれのパートナーの顔は覚えていない。

「自慢の妻だけど見せ物じゃない」

 よーわからんという顔をする同僚を無視して、チラリと百華の背中を視界に入れる。背中は好きなパーツの一つで、脱がせてからの悩殺力には敵わない。今夜はじっくり吸い付いてから眠ろうと心に誓った。

***

 百華を溺愛している。それはもう自覚ありありのあり。だけど病的に囲っているわけではないつもりだ。
 互いを尊重し合う関係は築けている。
 家での自由時間は、同じ空間でそれぞれがやりたいことをしている。俺はゲーム、百華は読書を楽しむのが定番の過ごし方だ。
 胡坐を基本姿勢とする俺の腿を百華が枕にするのもいつものこと。
 ローディングやセーブ中のロスタイムは、百華を見ていられるし、撫でることもできる。
 本の世界に入り込んでいる百華は表情豊かで見ていて飽きない。ゲームの手を止めて見入ってしまうこともしばしば。
 幸せな時間だ。

「まーた泣いてんの?」
「泣いてない」

 俺を見上げる瞳が薄っすら充血している。強がる意味は不明だけど、百華が感情移入するほど集中するのは珍しくない。
 いい子いい子をするように頭を撫でると、感動の名シーンを聞かせてくれる。

「昔の女の人って強い。私だったら、せー君を戦に送り出すなんて絶対できない」

 俺だって百華を置いて武勲を上げに行くなんてしない、、、つーかコレなんの話?
 百華の胸に伏せられている文庫本をチラ見する。
 今日は時代小説か。

「俺ただの会社員で良かったわ」

 戦国時代の武将になるだなんてゲームの中だけでいい。百華を泣かせなくて済んだのだから、現世に生まれてラッキーだ。
 百華とのんびり過ごす時間はかけがえがない。時代、相手、生活、少しでも噛み合わなければ手に入れられなかったかもしれない。考えるだけで恐ろしい。

「百、起きて」

 柔らかい頬を撫でると、百華はしおりを挟んで体を起こした。細長い脚を俺の胡坐の上に乗せて正対した。背中を支える俺の肩に両手をおいて、軽やかなキスをくれる。ふっくら潤いのある百華の唇が名残惜し気にくっついて、少し引っ張られるようにして離れた。

「あ、そうだ。奏汰かなたが、今週末おじいちゃん家行かないかって」

 忘れるところだったと言われて、俺も忘れていた話を思い出した。

「ごめん。実は手伝い頼まれた」

 空手の大きな大会があると、親父たちは審判員に声がかかる。実家の道場もあるので、親父と兄貴の両方が空けるわけるわけにいかず、俺にヘルプ要請がかかる。

「そっか。じゃ、また今度にする」
「ん? 百だけ行っておいで。奏汰君の送迎つきなら俺も安心だし」
「でも」
「最近ご無沙汰しちゃってるから、おじいちゃんたちも待ってるでしょ」
「むー。せっかくのお休みに離れるのやだ」
「今や24時間一緒にいるのに?」
「フロア一緒ダメだった。前よりフラストレーション溜まる」

 うん。それは分かる。
 同じ空間にいるのにも関わらず、接触無しで過ごす侘しさは予想外だった。

「週末までにしっかり充電しよ」

 百華の胴体に腕を巻き付けて接着面接を広くとる。細い。俺の腕が二重に回るのではないかと思うぐらいだ。けど、女性らしい凹凸は十分にある。腕を交差させたまま、さわさわとラインを確かめる。
 思う存分吸おうと、昼間の決意を思い出した。

「待って。先に奏汰に連絡しとく」

 頬骨の上でちゅっと軽快な音がして、お預けにされてしまった。
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