チキンさんの事始め

端本 やこ

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 眼鏡と髪型を変えて、気持ちが上向きになった。
 月曜の出勤は恥ずかしさからの緊張感があった。意外にも同僚たちからは好感的な賛辞をもらえた。
 プロの、特に若い子の感覚って素晴らしい。だって、眼鏡も髪型も店員のアドバイスに従ってのことだから。
 自分の価値感を基準に選んだら、変化も進歩もないと思ったから、私なりの冒険だった。

 不確かなことをあえてやってみただなんて、安心安全第一な人生において大快挙だ。同時に、私の生き方がいかにつまらないか感覚的に理解してしまった。臆病な警戒心を自尊心と擦り違えていたのが痛い。
 眼鏡のデザインひとつや髪型なんてものに、危険が伴うわけじゃないんだもの。躊躇するに足らず、なんてね。

 歯科健診も問題なしだった。
 歯医者の帰り、ふと気づいてしまった。仕事帰りでも時間を有効活用できるものだと。
 別の日、思い切って人気のセレクトショップに立ち寄った。リストに上げていた「ワンピースの購入」のためだ。フェミニンなプリント柄と、綺麗めのシャツ型、カジュアルなフーディと、ワンピースだけで3着も買った。ワンピなら上下の組み合わせを考えずに済む。いくら情報収集をしたって、いきなりお洒落上級者とはいかないものだからね。ついでに下着も買い足した。理都子から下げられたスケスケのイケイケは無理でも、レースや刺繍の施された普段使い可能な範囲で冒険を続ける。

 例のノートのリストにチェックマークが増えていく。
 気負わず潰せる項目はほぼ埋まった。

 この先の冒険はほんの少し勇気がいる。けれど、今の私なら大丈夫だ。やらない言い訳をせずに動ける。
 情報精査はリスト作成時に終えている。その点、怖がりで石橋を叩いて渡る性質が功を奏す。プランはじゅうぶんに練って実行するのだから失敗が少ない。

 健康のためを兼ねて体を動かすことにした。運動は得意ではないが苦手でもない。
 負荷の高いジムは遠慮して、ホットヨガを選んだ。続けることを前提に、スタジオの立地条件や設備、費用はもちろん、手ぶらで汗をかけるなどの契約特典諸々を総合的に判断した。
 結論から言うと、ホットヨガは私に合っていた。
 室温と湿度も高い部屋で体を動かすと滝のように発汗するのは爽快だ。体験レッスンで首と肩のコリが解消されて価値があると確信した。デスクワークによるむくみまで改善された。運動で腸が動くのか便秘にも効果があって感動ものだ。
 運動後のすっきり感にはやみつきになっている。
 月額で通い放題をいいことに、都合が許す限り週に2回、3回と通いつめる。

「若鶏さん最近お肌の調子いいですね。お化粧品変えたんですかぁ?」

 いつか良太との付き合いの長さに驚いた後輩たちに囲まれた。
 長年、オーガニックで有名なアトウッドの商品を愛用している。高品質は確かで、なにより親友の詩乃が勤めているから使い続けている。
 後輩の一言で、私は他社製品に手を出す決意を固めた。ちなみに、ホットヨガの効果であることは黙っておくことにした。なんとなく。

 デパート勤務の紗也加を頼ってデパコスデビューもありか。でも紗也加や詩乃の耳に入れるのは、なんだか、ちょっと。
 私が愛用品を変えたところで詩乃は気にするような子じゃないし、紗也加にいたっては張りきってあれこれ薦めてくれるに違いない。
 こればっかりは私の気持ちの問題だ。
 アラサーデビューはひっそりこっそりするものだと思うんだ。妙な心配をされても困るし。
 うん。
 スキンケアはアトウッド製品のままで、いわゆるメイクアップ用の化粧品を変えよう。


 以前、雑貨店で面食らったことを思い出しつつドラッグストアへ、いざ。
 狙うはデパコスの高級品と雑貨店のプチプラ商品の間にランク付けされるブランド商品だ。
 ドラッグストアは薬剤師に美容部員も配置されている。率直にありがたい。
 対応してくれた美容部員が同年代であるからか、肌関係の悩みもズバリだったし、男ウケも女ウケもいいラインで見繕ってもらえた。完全自己流だったメイクに効果的に見せる方法も伝授してもらった。

「3ページめ、数字の訂正入れました。ご確認願います」
「ぁ。すんません。ありがとうございます」

 新しい化粧にして数日。男性社員と目が合う回数が増えたような気がする。
 今もこうして、同僚が顔を上げた。もしかしなくても、変化を直接口にする女性より露骨だ。
 ちょっと前までは挨拶もお礼も適当だった。口煩いババアだと認識されていると分かっていたから気にしないようにしていた。私も用件が伝わればよかったしね。
 ともあれ業務連絡が円滑になって、腹立たしいような感情は自然に消化されていく。
 私が思っていたより見た目というやつは重要だったってことだ。

 今なら親友たちの輪に入っても、心の奥底に劣等感を封印せずともいられそうだ。憧れ対象の彼女たちに混ざって、私は私だと余裕を持って構えていられる気がして──これが自信というやつなのかな。

 ほんの少し小綺麗にしただけで高揚感が得られて、嬉しくて、楽しい。

 良太とのことを考える時間が減った。
 単純にホットヨガやスキンケアに時間を配分しているってのはある。いずれにしても、ネガティブな思考に陥らず過ごせているのは大きい。
 月末月始を挟んで私の残業が続くことを知っている良太は私の部屋には来なかった。気遣い3割、他の大部分は良太も忙しいってだけのはず。
 この間、一度だけ電話で話した。
 ホットヨガを始めたことは耳に入れておいた。レッスン中にメッセージを貰っていても返事ができないし、帰宅時間が遅くなるからだ。

「ヨガなんて、なんでまた?」
「運動不足解消にね。結構気に入ったから続けるんだ」
「へぇ」

 良太は少し揶揄う口調で「いいんじゃない」と言った。まるで「続くわけがない」とでも言いたげに。
 すでに通い詰めていると噛み付くのは止めた。
 自分のためにやっていることだから、良太にどう思われようと構わない。
 ふんっと鼻で笑い飛ばす。
 良太の反応が原動力になって、私はリストの中で一番気後れしていた案件にとりかかった。
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