受胎告知・第二のマリア

四色美美

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愛と言う名の元に

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 俺はあの家で一人暮らしを始めた。
母に眞樹を愛してもらうためだった。
これが俺の出した答えだった。
それで少しは愛に飢えた心が癒せるかも知れない。
効果のほどは疑問だったが、同じ運命の兄弟を助けてやりたかった。


(本当に母さんが必要なのは俺の方なのに)
俺に待っているのは更に孤独の生活のはずだった。


(仕方ないよ、眞樹を助けることが先決だ)
教団のトップになる眞樹を待つ試練。
母の愛を借りて其処から救ってやりたかったのだ。
本当はオカルト教団なんて、すぐにでも辞めてほしかった。
俺の親友だから、俺の兄弟だから。同じ代理母の、同じ血を共有した双子だから。勿論認めた訳ではないのだけど。




 宇都宮まこととの交際は順調だった。
彼女は一生懸命に俺の孤独を癒そうとしてくれた。
その笑顔、その優しさ、全てが俺の宝物だった。
あの日。協会の祭壇のの前に跪き、誓ってくれた俺との結婚。
俺達は本気で、高校卒業と同時に結婚することを考えていた。
男も女も今は親の許可がなくても十八歳から結婚出来るんだ。
だから後少しで俺達は一緒に暮らせるんだ。




 でもオカルト教団の生活が耐えられない宇都宮まことは、いつの間にか俺の家で生活を共にするようになった。
本当は逃げて来たのだ。
俺はそれを知りながら、彼女を招き入れた。
佐伯真実と母の許可は貰って来たと言う。
俺はそれを信じた。
今まで母の使用していた部屋が、宇都宮まことの部屋になった。
彼女は母から鍵を受け取っていたのだった。
俺がまだ一度も足を踏み入れたことの無い部屋。
そんな部屋だからこそ、一線を越えられないでいる。
俺はまだ童貞のままだった。




 俺のために一生懸命に料理を作る。
きっと初めてなのだろう。
包丁を持つ手がぎこちない。
朝の目玉焼きの玉子を割ることにも苦戦する。
そんな彼女が愛しい。
何気に振り向いた時の、エプロン姿に思わずドキッとする。
どうしようもなく、抱き締めたくなる。
でも、結婚するまでは守ろうと決めていた。




 「痛っ」
その声に驚いて見ると、宇都宮まことの指先から血が出ていた。
俺は躊躇わずにその指先を口に運んだ。
赤い血を舐めると懐かしい味がした。
でも、それが何なのか思い出せない。
そして冷蔵庫からトマトジュースを出して飲む。


「あれっ違う」
それは何時も母が準備してくれた物ではなかった。


(あれっ、でもこの味何処っかで?)
それが何処なのか解らない。
でも、つい最近のような気がした。





 俺の孤独を埋めることが自分に与えれたら運命だと宇都宮まことは言う。
勿論俺は泣いた。
愛した彼女と一緒なら、どんな苦労も厭わない。
でも俺にそんな資格があるはずはない。
俺はまだ、未だにあの夢に苛まれている。
俺はまだマザコンのままだったのだ。




 何気に見た腕に、無数の注射痕を見つけた。


「あっ、これ。教団に病室があって処置されたの」
俺の視線を気にしたのかまことが話してくれた。
有事対策頭脳集団には医師もいて、診察だけではなく手術室も完備されている。
まことはまだ手術は受けたことはないが、眞樹は何度か其処で処置さるているらしかった。


「眞樹が、何で?」


「良く解らないけど、奈津美が自殺未遂じゃないかと言っていたわ。だから物凄く心配していたの」
まことの言葉を聞きながら俺は思った。
日本一になる苦しみが原因ではなかったかと。


「眞樹さんは教団の宝だから、必死に隠し通すんだって。そんなこと奈津美も言っていたから、案外的を得ているのかも知れないと思ったの」
まことの発言に、俺は母との会話を思い出していた。


『だけど教団が放すはずがないわ。だってあの子は教団の宝だから』
母は確かにそう言った。
でも眞樹のことではない。
まことのことだったはずだ。
俺はきっとまことも辛い体験をしてきたのだと思った。
有事対策頭脳集団は、やはりオカルト教団だと俺は確信した。




 でもある日、宇都宮まことは居なくなっていた。


「嘘だろう!?」
第一声はそれだった。


「ねー。隠れてないで出て来てよ!!」
一人に慣れてた俺が、孤独を恐れていた。
宇都宮まこととの触れ合いのなかで、それは今までに感じたことのない恐怖となっていたのだった。
俺は泣きながら、あちこち探し回った。
でも、何処にもいなかった。




 宇都宮まことが目の前から居なくなる。
母を既に眞樹側に渡した俺には、これは屈辱的な行為だった。
俺は眞樹を恨んだ。
そうすることで、やっと自分保てたのだった。
いや、出来るはずなとあるわけがない。
俺の中にぽっかり空いた穴は、広がる一方だった。




 あの部屋は施錠されたままだった。
でもきっと其処から、オカルト教団が彼女を連れ戻しにきたのだ。
母の使用していた部屋。
その鍵位、簡単に開けられてしまったのだ。
教団の重要な資金獲得のために、彼女が必要不可欠だったのだ。
宇都宮まことには更に辛い試練が待ち構えていたのだった。




 でも俺は立ち上がろうとしていた。
オカルト教団から宇都宮まことを救い出すために。


「愛と言う名のもとに!!  まことのためだったら俺はこの命さえ賭けられる」
まことの愛が治してくれた指先を拳に変えて、俺は自分の胸の叩いた。




 眞樹の言っていたあることが気になっていた。
俺は退院後初めてあの部屋に行ってみた。
眞樹が三階だと言った、二階にあるあの真っ白い部屋へ。
一番奥にある一度も開けたことのなかったドア。
俺が屋上のドアだと思い込んで開けてしまったドア。
この目で確かめてみたかった。
宇都宮まことが其処にいるような気になっていた。




 集中治療室で眞樹は、催眠術を掛けた宇都宮まことをこの部屋に連れて来たと言っていた。


(と言う事は、俺達が一緒に落ちるところを見ていたのか?)
きっと恋に狂った俺の姿は滑稽に映った違いない。


(俺は此処から何処へ逃げようとしたのだろうか?)
俺は何も知らずに、ただ母を求めて幽体離脱した子供のままでいたかっただけなのかも知れない。




 白い部屋を隅々まで捜す。
宇都宮まことの手掛かりが欲しかった。
俺は此処でずっと絵を描いていた。
母の居ない寂しさを紛らわすために。


(そんな)
実際には見たくもないカンバス。
俺はその中に、宇都宮まことを見つけ出した。
あの日。
俺が学校の美術室で描いた絵が、其処にあった。


(やはり、やはり此処だったのか)
俺は、五感で書き上げた宇都宮まことの裸婦像を抱き締めていた。




 俺はあの時。
宇都宮まことの裸体を描いた時に感じた疑問が解けたように思った。
幽体離脱した俺の本体が、宇都宮まことと墜ちた俺なんだと。
俺は意識を飛ばすのではなくて、意識を家に置いたまま瞬間移動したのだ。
きっと俺の体は携帯の画面の中に入って、宇都宮まことを探し続けていたのだろう。
だからこの部屋にいた宇都宮まことを探し出すことが出来たのだ。
きっと眞樹はそれを知ってて、此処に連れて来た。
俺の力を見極めるために、俺に携帯電話を与えた。
そう考えると、少しずつ謎が解けていく。




 俺は今、このドアの先をどうしても確かめなくてはいけないと感じた。
思い切って覗いた先は隣家の庭だった。
驚いたことにそれは眞樹の家のようだった。
携帯ショップの看板に見覚えあった。
あの日眞樹の言った三階建ての意味を初めて理解した。




 オカルト教団は代理母だと知らず、家政婦として自宅から行ける部屋をを提供したのだった。
それはきっと、父と佐伯真実の発案ではなかっただろうか。
母性本能に目覚めた代理母に、俺の母と眞樹の乳母役を与えたいがために。
この家を造らせた。
鬱蒼とした小高い丘には回り道が用意された。
それはきっと俺に実験を見抜かれないための工夫。
俺はまんまとそのトラップに堕ちた。
父の策略とも知らずに。




 『彼処から本当に堕ちて来るとは、俺の想定した通りお前は馬鹿だよ』
眞樹は不気味な笑い声を上げていた。
あの日。
宇都宮まことと墜ちたあの日。
眞樹は俺達がそうなることを予想していたんだ。
だからあんなことが言えたんだ。
でも運良く、眞樹にとっては運悪く、幌付きのトラックが店の前に止まっていた。
だから俺と宇都宮まことは奇跡的に助かったのだった。
自分の携帯電話の、自分の腕試しに作ったアンビエンス・エフェクト。
まさかそのゲームで俺が遊んでしまうなんて考えも及ばなかったはずだ。
本当に、偶然だったはすだから。




 眞樹は、高校の説明会の時に俺と母を見つけ興味を持ったようだった。
松本君の言っていた通り、自分に瓜二つの子供。
しかも同じ年。同じ誕生日。
眞樹は乳母兼家政婦の女性が俺の母だと知った時、ある懸念が生まれたという。
そして父と母との関係を悟ったらしい。




 でも眞樹はきっと気付いてたはずだ。
だから俺と同じ高校を選んだのだ。
落ちこぼれと言われて久しい俺でも入れる高校だ。
成績優秀な眞樹が通うようなレベルではなかったのだった。




 俺は初めて自分の意志で下の階の様子を見てみた。
床に這いつくばったままで目を瞑り意識を飛ばす。
高所恐怖症の俺にはそれが関の山だった。
もう一度此処から墜ちたくはなかった。
なぜなら此処は、俺が子供の頃良く見た空を飛ぶ夢の場所だったから。
鬱蒼とした囲いの向こうに広がる風景。
それは正に此処だったのだ。
俺を呼んでいたのは此処だった。


(だから俺は此処から墜ちたのか? 俺は自分の夢の正体を知るために、宇都宮まことと出逢ったのか?)
俺は宇都宮まことに負わせてしまった運命を、これからの俺の生き様を見せることで償おうと考えていた。
そう、まずは宇都宮まことを探し出して助け出すことが先決だった。




 小高い丘に建つ一戸建て住宅。
其処は望月一馬がカモフラージュのために建てたものだった。
父の提案に乗った振りをして、挑んだタブー。
第二のキリストに眞樹を近付ける。
そのための英才教育システム導入。
この家に塾とフリースクールをつくり、天才児童達を徹底した管理下で育てるためだった。
眞樹に競わせ、より上を目指せるために。
でも父の本当の目的は、俺を母である小松成美に近付けるためだった。
それに気付いた眞樹。
俺の存在を封鎖をしたいと思っていたのだろう。




 意識を飛ばして垣間見た白い部屋の下の空間。
其処に並べられていたのは、二段ベッドだった。
一段目に洋服収納の付いたベッド。
それは俺の部屋にあるベッドそのものだった。
俺のベッドは思っていた通り、二段ベッドの片割れだったのだ。




 眞樹はきっと自分の立場に気付いていたのではないだろうか。
幾ら全国一の成績を取ったからと言っても、それだけで満足してもらえない苦しみ。
それを紛らすための俺の殺人計画。
俺に携帯電話を紹介してくれたのは、きっと俺を殺すチャンスを見つけるためだったのではないだろうか?
眞樹はそれを期に、真っ白い部屋の下のスペースに隠し部屋を作った。
それこそがあのケーゲーサイトの本拠地だったのだ。




 養父に気付かれる前に俺を抹殺するために。
其処は元々眞樹の遊び場だった。
眞樹は愛犬のチワワと此処で暮らしていたのだ。


(だから俺は子犬の鳴き声を聴いていたのか?)
どんなに探しても見えなかった真実を、ツーショット写真が証明していた。
兄弟は何も知らず、上下の部屋で生活していたのだった。
全て父の実験台として俺に与えられた試練だった。
家に居るはずの母が急に見当たらなくなる。
俺はその度恐怖にかられる。
俺の、俺だけの母が、やっと戻って来てくれた母が又居なくなる。
俺が成す術もないままに、幽体離脱を生み出した元凶が其処にはあった。
その部屋は悲しいことに母の寝所へ繋がっていた。
母は眞樹に問題が起こると直ぐに抜け出していたのだった。
俺には何も言わないで。
俺が夢の中で見た自分はきっと眞樹だったのだろう。
俺達は俺の幽体離脱のお陰で、本当は子供の頃に出会っていたのではないのか?
母の部屋に置いてあったのは、二段ベッドの片割れだった。




 俺の部屋同様、殺風景で何も置いてない。
母恋しさの余り俺がたどり着いた境地。
さまよい、もがき苦しんだ果てに見つけ出した安らぎ。施錠された母の部屋。




 広い、果てしなく白いあの夢の中で、俺はこの部屋にたどり着いたんだ。
でも俺は、俺の部屋とは違う物を見つけた。
それは、ベッドの跡だった。
きっと二段ベッドの片割れが置いてあったんだ。
きっと其処に宇都宮まことが眠っていたんだ。
そう思って部屋を見回す。




 そして、遂に俺はその部屋の隅に宇都宮まことを発見した。
宇都宮まことはベッドの後ろの片隅でうずくまっていた。
俺は後ろから抱き締めた。
でも反応はなかった。
胸を強打したはずの彼女だったが、痛がりもしなかったのだ。
俺が心配になり顔を覗き込むと、虚ろな目だけを俺に向けていた。
でも次第にその表情に変化が現れた。
宇都宮まことの目が少し輝き始めだのた。
それは、其処に居るのが俺だと理解出来たからだと思った。
宇都宮まことは今俺の腕の中で、僅かな希望を見出したかのように表情豊かになりつつあった。




 佐伯真実は若林結子に宇都宮まこの母親になることを懇願した。
そのために用意されたのが、施錠された部屋だった。
母はきっと其処で眞樹に乳房を与えた。
血管が浮き出すほど硬く腫れ上がる苦痛から解放される度、母は愛を育んだ。
それはその部屋でなくてはダメだった。
乳母のことはきっと誰にも気付かれてはいけないことだったはずなのだから。
眞樹とまこと、二人の偽姉弟は其処で育てられたのだった。
授乳を誰にも見つからないように大切にされながら。
その時、きっと俺は孤独の中にいたのだ。
だからさ迷い続けたのだ。




 施錠された部屋。俺は其処で宇都宮まことに逢った。
まことはひどくやつれていた。
彼女は薬物中毒にさせられていたのだった。
彼女に付けられたら様々な病名。
うつでは、抗うつ薬。
頭痛ではアスピリン。
様々な薬が治療と言う名目で投与された。
ショック症状。
アナフィラキシー症候群。
貧血。
アスピリン喘息。
幾多の副作用が宇都宮まことを襲う。
きっとそれらをデータベース化して、業者に提供していた若き科学者。
有事対策頭脳集団は、本物のオカルト教団になっていたのだった。
市売の薬品の中には、組み合わせによっては死を招く薬も存在する。
それらの事故も多発している。
科学者等は小遣い欲しさに、人体実験を繰り返していたのだった。
それは、新薬の実験を受け入れてくれる場所が無いからだった。
医師も患者も、人材不足だったのだった。
そこで、目をつけたのがオカルト教団だったのだ。
母の言葉を思い出す。
あのまことは教団の宝と言う意味は、これだったんだと思った。
まことは教団の実験材料として多額な報酬を得られる、まさにドル箱だったのだ。




 何故宇都宮まことが此処に居るのか?
意味が解らなかった。


(逃げて来たのか? 母が助けたのか? それとも自ら?)
俺は最後の考えを信じようと思った。
宇都宮まことは俺との暮らしが忘れられなくて、此処に逃げ込んだのだ。
自己満足だ。
それにすぎないと思う。




 その時。
ドアの向こう側で走り回っている人々がいた。
俺は急いで、母が使っていたベッドを移動させてそのドアを塞いだ。
他に対処出来る物がなかったのだ。


(俺があの日辿り着いたのはやっぱり此処なのかも知れない)
ベッド以外は何もない部屋。


(何で何で俺の部屋と同じなんだよ。こんなにわか仕込みのバリケードじゃ)
そう思いつつも、俺は彼女を抱き締めた。
是が非でも守ってやりたかったのだ。
もう何処にも行かないように俺の両腕でしっかり抱き抱えるようにして。
時々折れた箇所が痛む。
それでも俺は決して彼女を離すまいと思った。




 ドアを叩く音がする。
ガチャガチャとノブを回す音がする。
でもベッドが邪魔をしてくれた。


(此処は大丈夫だ)
でも呑気にしている場合ではなかったのだ。
宇都宮まことはブルブルと震えていた。
その歯は小刻みに異様な音を立てていた。
くぼんだ目で、恨めしそうに俺を見つめる宇都宮まこと。
彼女はありとあらゆる薬によって縛り付けられていた。
まるで麻薬中毒患者のように。
母のベッドのバリケードが何時まで保つか解らない。
俺は次の対策を講じなければならなかった。
でも、此処は、施錠された母の部屋。
鍵を持たない俺には、宇都宮まことを助け出す手段がなかったのだった。




 (此処からだけじゃない。きっと上からも来る!! そうだ!! 眞樹はあの日、宇都宮まことに催眠術を掛けて白い部屋に連れて行ったと言っていた。きっとあの白い部屋のことだ。上から来られたらお仕舞いだ!!)
何気そう思った時。
自分の部屋のドアを思い出した。
内側に開くドア。


(もし此処もそうだったら、俺がバリケードになろう)
俺はそう思った。




 眞樹のいる有事対策頭脳集団に抵抗することなど出来ないかも知れない。
でもオカルト教団には屈したくなかった。
俺はその時、眞樹が命令したのに間違いないと思っていたのだった。




 思った通りドアは内開きだった。
でもそれはトイレのドアと同じで、真ん中の出っ張りを押して施錠する仕組みだった。


――ガチャ。
そっと開けたいのに、意外と大きな音だったので俺は慌てた。


(こんな単純な鍵だったなんて)
俺は頭を掻き掻き母の部屋を後にした。
施錠された母の部屋は一階だと思っていたリビングダイニングに繋がっていた。
俺は其処に、意外な物を見つけた。
それは携帯電話の充電器だった。
でもその先は携帯電話は繋がっていなかった。
暫く探してはみたものの、見つからない。
俺は諦めて母が買い置きしておいた冷凍のパンと、冷蔵庫の中にあったありったけのドリンクをを抱えて宇都宮まことの待つ部屋に戻った。




 薬が切れる。
次の瞬間、宇都宮まことは豹変した。
淀んだ目の奥で、激しい感情が燃えていた。


「薬ーー!!」
彼女は泣き叫んだ。
俺はなすすべもなく、ただ抱き締めた。
少し大人しくなる。
その度水を渡した。
その水が薬の成分を排出させてくれると信じて。
持ち込んだペットボトルの中身を飲み干した後、キレイに洗い水を入れておいた物だ。
ついでにやかんも水を汲んでおいた。
それがどんな効果をもたらせてくれるかなんて判らない。
でも一番良い方法だと思った。




 俺から離れたくて、解放されたくて彼女は俺の腕に噛み付いた。
腕が食いちぎられそうになった。
それでも俺は抱き締めた続けた。
ただ愛と言う名のもとに。
やっとおとなしくなった彼女。
俺は安心して、少し彼女から離れてトイレに行った。
戻って来た時、後悔した。
彼女は自分の髪の毛をかきむしっていた。




 俺は、母が昔使っていたバリカンを見つけ出し、泣きながら宇都宮まことの頭を刈った。
抜毛症だった。
髪は女の命とも言う。
その女の子にとって大切な髪を自ら抜いてしまうほど宇都宮まことは追い詰められていたのだった。




 白い部屋の、宇都宮まことの絵の前にいた。
少しずつでも、俺を理解して欲しかったから。
俺は真っ白いカンバスに、再び宇都宮まことの絵を描こうとした。
でも、まだ絵筆は持てなかった。
あの教会の祭壇の前で、やっと動いた指先を使って彼女にキスをした。
でもまだ完全には治りきってはいなかったのだった。
俺の後遺症はまだ続いていたのだった。
それでも俺は自分の掌を見つめた。
何時かの、宇都宮まことの感覚が残っていた。




 俺の五感が反応する。
宇都宮まことを描きたいと反抗する。
指先の感覚の無い俺には無理な事なのに。
それでも指は絵の具に触れたがる。
俺は覚悟を決めて、指を近付けた。
その途端、掌に冷たさが伝わった。
俺はその時覚醒した。
五感をも超越した第六感とも言えない何かが、俺を奮い立たせていた。
俺は絵筆に頼らず、俺自身の手で宇都宮まことの胸を描いていた。
そう、俺は又恋しい胸を描いていた。
宇都宮まことの形を借りた母の胸を描いていた。




 それでも宇都宮まことはその絵を見て、其処に居るのが俺だと理解したようだった。
やっと、宇都宮まことに笑顔が戻った。
俺は気まずさを噛み締めながら、宇都宮まことの体を抱き締めた。
もう何処にも行かせなくなかった。
でも俺にそんな資格があるかどうかも解らない。
でも、それは前進だった。
俺達は一歩一歩距離を縮めていた。




 俺はその部屋で忘れていた物を発見した。
それは、チワワシールの付いた眞樹の携帯だった。
でも電池の残量は既に無くなっていた。


(一カ月以上放っておいたからな)
俺はつい懐かしくなって、チワワのシールを指で触っていた。
俺はその時、やはり此処から堕ちたことを実感した。

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