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第二章 馬跳亭
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その素敵な夜に、格別の酒と安い料理を。
馬跳亭はお世辞にも料理が美味しいとは言いがたい酒保であったが、調理場にセンが加入して以来、そんな事実は冗談として笑い飛ばせるようになっていた。彼の身内に一流の料理人がいたかは定かではないが(センは自分の過去をいつも笑ってごまかすのだ)、ほとんど味見もせずに作り上げてしまう料理の品々に、フリッツ・フォン・ミュセットとその仲間たちはいつも上機嫌だった。
だがこの店がもっとも忙しい時期は夕方から朝方にかけてだ。
運が悪いことにセンはまだ20歳未満の未成年だった。
コンスールの法律により、未成年の夜間勤務はいかなる理由があっても禁止されている。
よって午後にできるだけたくさんの料理を作り置きしてもらう、とフリッツは妥協案を練ることに。
芋洗いから始まったセンの仕事は、いつしかそちらがメインとなっていた。
日中も決して暇ではない厨房は、男たちの掛け声が止むことはない。
肉や野菜を切る音、鍋のなかでグツグツと煮込む音。
それに負けない声を張らなければ、誰がなにをしているのか把握できないのだ。
「野菜と豚肉のトマト煮、完成しましたー! リブ(骨つき豚肉)のつけダレも作っといたので、後はレシピ通りに対応して。アップルシチューもそのうち出来上がるので、それまで他に作ったほうがいいですかー?」
「おっし。次は俺たちのまかないだ、頼んだぞおチビシェフ!」
フリッツは豪快な笑い声を上げながらリトルシェフの肩を叩いている。
センは笑顔のままフリッツにじゃが芋を指差してこう言った。
「そっすか。じゃあ洗った芋で十分っすね!」
「シェフ! 頼むから美味しいのを頼みます!」「フリッツさん余計なこと言うなよ!」「フリッツさんは隅っこで芋でも洗ってろ!」「フリッツさんは口だけなんだから!」
「ちょっと君たち、私の扱いひどくないかね、君たち……まぁいいか、がははは!」
「いや。良くないでしょ……ったくパパは店主の威厳がないっていうか」
カウンタ席でその様子を覗いていたエリカは、ソーダ瓶を飲みながら小言を呟く。
ジュウジュウと肉の焼ける音や、厨房の足音で掻き消されていたが、そのほとんどがフリッツとセンに対する悪口である。『同年代の男の子との時間を返せ』とか『仕事よりも他に目を向けることがあるだろーが』とかそんな内容だ。
だがそれも長くは続かない。カランコロンと出入り口の鈴の音が鳴って、同年代の女の子が入って来るや否や、彼女の興味はそっちに移ってしまったからだ。
「アリシア! アリシア・バーンズ! あぁよく来てくれたわ、ここの男どもは年頃の女の子にあんまり無関心で、いやーもう心が折れるところだった!」
「そう。相変わらずね」
「知ってた? 変わらないことこそ、あたしの美徳なわけよ」
「それは知らなかったわ。忘れないようその顔に書いておいて」
「そっちも相変わらずみたいね! 逆にあたしのテンションで対応されたらドン引きするから安心するわ!」
「うん。絶対にないから、安心して……」
アリシア・バーンズは特別な客だった。
燃えるような赤髪を一つまとめした長身の少女はバーンズ農場の一人娘。つまり馬跳亭に卸されている牛、あるいは小麦、そういったものの多くはこのアリシア・バーンズと同じ出身だった。親同士が親友ということもあり、格安で提供してもらえるからこそ、馬跳ね亭の経営は人知れず上向きなのである。
「ところでエリカ、私の言葉を聞いて心が折れて欲しいのだけれど、今日は勉強しにここへやって来たの。こんにちはフリッツさん、 馬跳亭のディナータイムは6時からでしたよね。それまで使わせていただいても?」
「おう。まーた逃げ出してきたのかい? アリシアちゃんの頼みなら貸切にしてもいーぞ。ついでにうちの娘に教えてくれ」
「そんな冗談を。エリカに勉強を教えるだなんて、私には無理ですよ」
「ちょっとアリシア、冗談じゃないって! 今度の補習で成績悪かったら、あたしってば奉仕活動しなきゃいけないのよ! 奉仕活動! あー、なんて嫌な響きかしら!」
「嫌なら、我慢して勉強しなさいよ」
「だ、だって! 勉強は、勉強は嫌いなの~!」
駄々をこねるエリカの横に荷物を下ろし、カウンタに座るアリシア。
フリッツはやれやれと、娘の様子に嘆きながら、センに注文を任せる。
「いらっしゃい。ご注文は?」
「いつものね」
「ソーダ瓶炭酸抜き入りましたどーぞ!」
「……もう突っ込まないわよ」
センは注文を正確に伝えると、アリシアに言った。
「なぁアリシア、どーかそこのエリカに勉強を教えてやってくれない? 俺じゃ大して教えられることねーからさ、頼むよー」
じろり、と不快な視線がセンに向く。
「あんた、魔術薬学の成績は学年トップだったんでしょ」
「へへっ。そんかわり基本教科は、下から数えた方が早いのよ。地理歴史とか語学なんかは、もしかしたらエリカより悪いかも。そんなわけで、俺じゃ力にはなれない」
「極端ね……っていうか、それならあんたも勉強しなさい」
「うぇへへ。だって勉強とか嫌いだし~」
「はぁ。考えてみればあんたにレクチャーする能力はないか。説明が下手そうだし」
「自覚してる。それにほら、俺はこっちのほうが性に合ってるから」
「料理の? そりゃたしかに向いていると思うけど。じゃあなんで軍属の学院なんかに入ったのよ?」
「あー。まぁいろいろあってね」
「……こらぁセン、さっきからあたしを置いてきぼりにして。アリシアの彼氏を気取るのかぁ? あんたにゃもったいない高嶺たかねの花ってやつよぉ?」
エリカの言葉にセンの表情が固まった。
突然の発言に顔を赤らめた……どころか弱々しい笑い声とともに、後ずさるセン。
かつてアリシアに強引なアプローチをかけ、ボッコボコに叩きのめされた男を思い出したのだ。
軍神と謳うたわれる祖父を持つアリシアの、あの圧倒的な強さに恐怖しなかった者はいないだろう。
ちらりとアリシアに目を向けると、彼女はにやにやと笑っていた。
どんな反応で受け応えるか、試しているようだ。
センはぎこちない口笛を吹いて、さっさと厨房の奥へ逃げてしまった。
残された二人は、そんな彼に一言。
チキンめ。
店内に多くの若者たちがやって来るのがちょうど夕暮れ時。
仕事終わりの職人らが酒とつまみを目当てに集まってくるのが、夜の19時を回ってから。
以前、そんな連中に絡まれたことをきっかけに(絡まれた喧嘩はかってボコボコにしたが)、アリシア・バーンズはディナータイム前にはここを離れるようにしていた。だがこの日はエリカが強引に出し物をすると言い張ったので、それだけは見ていくことになった。
「さァ、これよりミュセット楽団の不定期演奏会を開始するぞッ! さぁ募れ崇めよ奉れ、この場にいる志願者どもよッ! 酒なんて前座ッ、料理なんて前座ッ! この店の看板娘の、歌と踊りと演奏を心行くまで堪能せぇい!」
ぞろぞろと集まるは、それぞれの楽器を持った様々な人たち。
元職人や休暇中のワケあり軍人だったりと年齢や職業も異なる彼ら彼女らは、エリカの演奏に引き付けられて集い、いつしか楽団となっていた。厨房から出てきたセンも急いで着替えて首に下げたハーモニカを手にする。
「行くとするかの……」「今日もキュートだね」「エリカ殿、ビューティフルでござる!」
エリカはそんな連中に「久しぶりッ!」だとか「当然だろッ!」とか笑って返した。
「……セン、あんたもしっかり活躍しなさいよね」
「そりゃ言われなくても。エリカのソロコンサートは、客が悶絶するってもっぱらの噂だからな」
「へー、そりゃあたしの可愛さゆえに?」
「うーん。きっと演奏の歯痒さゆえに、だろうな」
「あー、生意気!」
「男の子は、生意気でできてんだよ」
「はぁー。センはきっと大人になれないタイプだわね」
「いつまでも子どもの心を忘れない、男にはそういう美学があんのよ」
「そんな美学、女の子にはわかりえないわね。ダメダメだね」
「へっ。そもそも男と女がわかち合うなんて、無理だろ」
「そんなものかしら?」
「そんなもん、そんなもん」
いつものくだらない会話を交えながら、テーブルを積み上げて作った簡易ステージに立つ。
エリカはヴィオラ片手に見物客に手を振っている。
チェロ、フルート、ヴィオラ……様々な楽器を持ち合わせた、性別も年齢も、肌の色さえバラバラな即興音楽団。
「お集まりの紳士淑女諸君。今宵は馬跳亭へご来店いただき感謝感謝の大アラレ。ささやかではありますが、このあたしエンリカ・フォン・ミュセットと、その他一同が奏でる一時をどうか楽しんでくださいませ――さぁ、いっちょ派手にやるわよ」
ヴィオラとチェロの旋律が、その場にいた者たちを音の世界へ引き込んだ。
フルートの音色が、さらに繊細な背景を生み出すように響き渡る。
激しく、ときに優しく。
壮大で、だが聴く者たちを決して突き放すわけではない。
言葉にできない感覚にに、観客たちは二度目の酔いと興奮を覚えた。
「なんだァ今のは、時代の最先端ってかガキども!」「酔っぱらってねェのに酔っぱらっちまったじゃねェか!」「ブラボォー! おぅブラボォー!」「ここは俺の奢りだ、おめぇらも飲んでけ!」
拍手と歓声。
雪崩のように押し寄せる観客を止めるのは、店主フリッツの仕事だった。
「ゴラァ、うちの娘に酒飲ませんな! おいセン、帰るならいつものトコからな!」「おチビ、お前も一緒に飲みな!」「お前ら飲ませるなよ! エリカに飲ませたら出禁にするからなッ!」「エリカ嬢、ここで飲まなきゃ女が廃るぞ!」「飲んだ飲んだ!」「きゃー素敵!」「結婚してくれ!」「だぁかぁらぁ! 飲ませたら出禁だからなッ!」
センは客の合間を縫うように歩いて、厨房へと入った。
店の経営係から本日の賃金を貰う間、まだ仕事をしていた気の良い連中は決まってこんなセリフで歓迎するのだ。
「よぉ相変わらず面白い音だったぜ、これ持ってけ」「チーズもだ」「代金とか気にするな、どーせ胃袋に入っちまうんだ。誰のどこだろうとかまいやしねぇよ」
仕事仲間から店の備蓄を勝手に袋に詰められ、センは若干ながら困ったような表情を浮かべながらも結局はその好意に甘えてしまうのだ。
「あんがと皆、また明日な!」
裏口から出てみると、入り口前にアリシアの姿が見えたもので、思わずセンは目を丸くした。
誰かを待っているのか、きょろきょろと辺りを見回すも、他には誰の姿もない。
アリシア本人に指をさされ、自分を待っていたことに、再び目を丸くした。
「どうした? なんか用事? 便所なら奥行って右だけど?」
「はいはい……ねぇどうせだから送ってよ。夜遅くに女の子一人で帰るのは危険でしょ」
「まぁ、そりゃ構わないけどさ。でも、俺が襲っちゃう可能性とか考えなかったわけー?」
「あんたなら軽く捻り潰せるわ、つまり問題なし」
そういってアリシアは腰に下げた銃のホルダーを軽く叩いてみせた。銃の腕前は祖父譲りらしく、学院でも【赤髪】の異名と異例な成績を受け継いでいるらしい。そんな彼女を崇拝や恐れの目で見る人は多いと聞くが、センにしたところでその気持ちがないわけではない。
そんな強いならむしろ襲う連中が心配になる、と思いたくもなる。
「なにか言った?」
「なにも! なにもないです、ないない!」
「そう……」
「ところでアリシアん家って、どっちだっけ?」
「ん? 北東部よ。ここからなら列車で8時間半くらいかしら」
「えっ、そこまで送るの?」
「馬鹿言わないでよ、私たち寮生活でしょ」
「あっ、そういえばそうだった」
「大丈夫? あんた疲れてるんじゃない」
「あはは。じゃ、じゃあさ。ホームシックになったりしないの?」
「ホームシックか……ちょっと違うけど、家族を恋しいと思うことはあるかな。戦地に行ってから、ずっと帰って来ない兄がいるの。私なんかよりずっと優秀な人で、将来はヴァイオリニストとして、名を轟かせるだろうって言われていたわ。そんな人が軍人になるなんて、人生ってわからないものよね」
「お兄ちゃん……軍人だったんだね」
「馬鹿みたいな理由だけど、軍人になれば兄の情報を知るきっかけが掴めるかもしれないって考えたの。学院に入ったのもそのため。軍の意向ってやつで一般人には公開することができないらしいんだ……兄が向かった戦場地、禁忌領域に関する事象については」
「……うん」
禁忌領域。四つの国の中心に存在する未知の領域。常に波風が立ち、消えない大きな台風の目にたしかに存在する場所。2年ほど前、そこから度々現れる人知をはるかに凌駕した生命体を駆逐すべく、四つの国はそれぞれ軍を進軍させたことがある。
生存者はいない。
事実、あの領域に足を踏み入れて戻ってきた人間はいないのだ。
気づけば大通りにある噴水広場を通り過ぎて、裏路地に足を踏み入れていた。
密集した建物のせいか窮屈に感じる夜空を見上げて、センは言った。
「お兄ちゃん、無事で見つかるといいね」
「正直そこまで期待してないけどね。骨とか残ってたらやっぱり生まれた土地に埋めてやりたいとか……」
「それでもさ、無事で見つかってほしいよ。大事なお兄ちゃんなんだろ?」
「うん、そうね。やっぱり無事で見つかってほしいかな。ありがとう」
「……あ、あのさ、俺アリシアに言わなきゃいけないことがあるんだ……」
「なによ、改まって?」
「俺、ほんとは……」
精一杯の勇気を振り絞って、口にするべきだった言葉をセンは飲み込んだ。
人の気配のない暗闇に、人ならざる何かの気配を感じ取ったからだ。
なぜ、こんな街のど真ん中で?
そんな疑問はすぐに払いのけて、センは腰に下げていた警棒を両手に構える。
大通りの道行に顔を向けると、不自然に一か所だけ街灯が消えている場所があった。
いや。よく見れば、それは消えているのではない。
黒い霧に覆われて、光が見えなくなっていたのだ。
そしてセンはその霧について見識があった。
人知をはるかに凌駕した生命体、幻想種。
奴らは黒い霧の向こうからやって来るということを。
「アリシア! 銃を構えるんだ! 今すぐに――!」
馬跳亭はお世辞にも料理が美味しいとは言いがたい酒保であったが、調理場にセンが加入して以来、そんな事実は冗談として笑い飛ばせるようになっていた。彼の身内に一流の料理人がいたかは定かではないが(センは自分の過去をいつも笑ってごまかすのだ)、ほとんど味見もせずに作り上げてしまう料理の品々に、フリッツ・フォン・ミュセットとその仲間たちはいつも上機嫌だった。
だがこの店がもっとも忙しい時期は夕方から朝方にかけてだ。
運が悪いことにセンはまだ20歳未満の未成年だった。
コンスールの法律により、未成年の夜間勤務はいかなる理由があっても禁止されている。
よって午後にできるだけたくさんの料理を作り置きしてもらう、とフリッツは妥協案を練ることに。
芋洗いから始まったセンの仕事は、いつしかそちらがメインとなっていた。
日中も決して暇ではない厨房は、男たちの掛け声が止むことはない。
肉や野菜を切る音、鍋のなかでグツグツと煮込む音。
それに負けない声を張らなければ、誰がなにをしているのか把握できないのだ。
「野菜と豚肉のトマト煮、完成しましたー! リブ(骨つき豚肉)のつけダレも作っといたので、後はレシピ通りに対応して。アップルシチューもそのうち出来上がるので、それまで他に作ったほうがいいですかー?」
「おっし。次は俺たちのまかないだ、頼んだぞおチビシェフ!」
フリッツは豪快な笑い声を上げながらリトルシェフの肩を叩いている。
センは笑顔のままフリッツにじゃが芋を指差してこう言った。
「そっすか。じゃあ洗った芋で十分っすね!」
「シェフ! 頼むから美味しいのを頼みます!」「フリッツさん余計なこと言うなよ!」「フリッツさんは隅っこで芋でも洗ってろ!」「フリッツさんは口だけなんだから!」
「ちょっと君たち、私の扱いひどくないかね、君たち……まぁいいか、がははは!」
「いや。良くないでしょ……ったくパパは店主の威厳がないっていうか」
カウンタ席でその様子を覗いていたエリカは、ソーダ瓶を飲みながら小言を呟く。
ジュウジュウと肉の焼ける音や、厨房の足音で掻き消されていたが、そのほとんどがフリッツとセンに対する悪口である。『同年代の男の子との時間を返せ』とか『仕事よりも他に目を向けることがあるだろーが』とかそんな内容だ。
だがそれも長くは続かない。カランコロンと出入り口の鈴の音が鳴って、同年代の女の子が入って来るや否や、彼女の興味はそっちに移ってしまったからだ。
「アリシア! アリシア・バーンズ! あぁよく来てくれたわ、ここの男どもは年頃の女の子にあんまり無関心で、いやーもう心が折れるところだった!」
「そう。相変わらずね」
「知ってた? 変わらないことこそ、あたしの美徳なわけよ」
「それは知らなかったわ。忘れないようその顔に書いておいて」
「そっちも相変わらずみたいね! 逆にあたしのテンションで対応されたらドン引きするから安心するわ!」
「うん。絶対にないから、安心して……」
アリシア・バーンズは特別な客だった。
燃えるような赤髪を一つまとめした長身の少女はバーンズ農場の一人娘。つまり馬跳亭に卸されている牛、あるいは小麦、そういったものの多くはこのアリシア・バーンズと同じ出身だった。親同士が親友ということもあり、格安で提供してもらえるからこそ、馬跳ね亭の経営は人知れず上向きなのである。
「ところでエリカ、私の言葉を聞いて心が折れて欲しいのだけれど、今日は勉強しにここへやって来たの。こんにちはフリッツさん、 馬跳亭のディナータイムは6時からでしたよね。それまで使わせていただいても?」
「おう。まーた逃げ出してきたのかい? アリシアちゃんの頼みなら貸切にしてもいーぞ。ついでにうちの娘に教えてくれ」
「そんな冗談を。エリカに勉強を教えるだなんて、私には無理ですよ」
「ちょっとアリシア、冗談じゃないって! 今度の補習で成績悪かったら、あたしってば奉仕活動しなきゃいけないのよ! 奉仕活動! あー、なんて嫌な響きかしら!」
「嫌なら、我慢して勉強しなさいよ」
「だ、だって! 勉強は、勉強は嫌いなの~!」
駄々をこねるエリカの横に荷物を下ろし、カウンタに座るアリシア。
フリッツはやれやれと、娘の様子に嘆きながら、センに注文を任せる。
「いらっしゃい。ご注文は?」
「いつものね」
「ソーダ瓶炭酸抜き入りましたどーぞ!」
「……もう突っ込まないわよ」
センは注文を正確に伝えると、アリシアに言った。
「なぁアリシア、どーかそこのエリカに勉強を教えてやってくれない? 俺じゃ大して教えられることねーからさ、頼むよー」
じろり、と不快な視線がセンに向く。
「あんた、魔術薬学の成績は学年トップだったんでしょ」
「へへっ。そんかわり基本教科は、下から数えた方が早いのよ。地理歴史とか語学なんかは、もしかしたらエリカより悪いかも。そんなわけで、俺じゃ力にはなれない」
「極端ね……っていうか、それならあんたも勉強しなさい」
「うぇへへ。だって勉強とか嫌いだし~」
「はぁ。考えてみればあんたにレクチャーする能力はないか。説明が下手そうだし」
「自覚してる。それにほら、俺はこっちのほうが性に合ってるから」
「料理の? そりゃたしかに向いていると思うけど。じゃあなんで軍属の学院なんかに入ったのよ?」
「あー。まぁいろいろあってね」
「……こらぁセン、さっきからあたしを置いてきぼりにして。アリシアの彼氏を気取るのかぁ? あんたにゃもったいない高嶺たかねの花ってやつよぉ?」
エリカの言葉にセンの表情が固まった。
突然の発言に顔を赤らめた……どころか弱々しい笑い声とともに、後ずさるセン。
かつてアリシアに強引なアプローチをかけ、ボッコボコに叩きのめされた男を思い出したのだ。
軍神と謳うたわれる祖父を持つアリシアの、あの圧倒的な強さに恐怖しなかった者はいないだろう。
ちらりとアリシアに目を向けると、彼女はにやにやと笑っていた。
どんな反応で受け応えるか、試しているようだ。
センはぎこちない口笛を吹いて、さっさと厨房の奥へ逃げてしまった。
残された二人は、そんな彼に一言。
チキンめ。
店内に多くの若者たちがやって来るのがちょうど夕暮れ時。
仕事終わりの職人らが酒とつまみを目当てに集まってくるのが、夜の19時を回ってから。
以前、そんな連中に絡まれたことをきっかけに(絡まれた喧嘩はかってボコボコにしたが)、アリシア・バーンズはディナータイム前にはここを離れるようにしていた。だがこの日はエリカが強引に出し物をすると言い張ったので、それだけは見ていくことになった。
「さァ、これよりミュセット楽団の不定期演奏会を開始するぞッ! さぁ募れ崇めよ奉れ、この場にいる志願者どもよッ! 酒なんて前座ッ、料理なんて前座ッ! この店の看板娘の、歌と踊りと演奏を心行くまで堪能せぇい!」
ぞろぞろと集まるは、それぞれの楽器を持った様々な人たち。
元職人や休暇中のワケあり軍人だったりと年齢や職業も異なる彼ら彼女らは、エリカの演奏に引き付けられて集い、いつしか楽団となっていた。厨房から出てきたセンも急いで着替えて首に下げたハーモニカを手にする。
「行くとするかの……」「今日もキュートだね」「エリカ殿、ビューティフルでござる!」
エリカはそんな連中に「久しぶりッ!」だとか「当然だろッ!」とか笑って返した。
「……セン、あんたもしっかり活躍しなさいよね」
「そりゃ言われなくても。エリカのソロコンサートは、客が悶絶するってもっぱらの噂だからな」
「へー、そりゃあたしの可愛さゆえに?」
「うーん。きっと演奏の歯痒さゆえに、だろうな」
「あー、生意気!」
「男の子は、生意気でできてんだよ」
「はぁー。センはきっと大人になれないタイプだわね」
「いつまでも子どもの心を忘れない、男にはそういう美学があんのよ」
「そんな美学、女の子にはわかりえないわね。ダメダメだね」
「へっ。そもそも男と女がわかち合うなんて、無理だろ」
「そんなものかしら?」
「そんなもん、そんなもん」
いつものくだらない会話を交えながら、テーブルを積み上げて作った簡易ステージに立つ。
エリカはヴィオラ片手に見物客に手を振っている。
チェロ、フルート、ヴィオラ……様々な楽器を持ち合わせた、性別も年齢も、肌の色さえバラバラな即興音楽団。
「お集まりの紳士淑女諸君。今宵は馬跳亭へご来店いただき感謝感謝の大アラレ。ささやかではありますが、このあたしエンリカ・フォン・ミュセットと、その他一同が奏でる一時をどうか楽しんでくださいませ――さぁ、いっちょ派手にやるわよ」
ヴィオラとチェロの旋律が、その場にいた者たちを音の世界へ引き込んだ。
フルートの音色が、さらに繊細な背景を生み出すように響き渡る。
激しく、ときに優しく。
壮大で、だが聴く者たちを決して突き放すわけではない。
言葉にできない感覚にに、観客たちは二度目の酔いと興奮を覚えた。
「なんだァ今のは、時代の最先端ってかガキども!」「酔っぱらってねェのに酔っぱらっちまったじゃねェか!」「ブラボォー! おぅブラボォー!」「ここは俺の奢りだ、おめぇらも飲んでけ!」
拍手と歓声。
雪崩のように押し寄せる観客を止めるのは、店主フリッツの仕事だった。
「ゴラァ、うちの娘に酒飲ませんな! おいセン、帰るならいつものトコからな!」「おチビ、お前も一緒に飲みな!」「お前ら飲ませるなよ! エリカに飲ませたら出禁にするからなッ!」「エリカ嬢、ここで飲まなきゃ女が廃るぞ!」「飲んだ飲んだ!」「きゃー素敵!」「結婚してくれ!」「だぁかぁらぁ! 飲ませたら出禁だからなッ!」
センは客の合間を縫うように歩いて、厨房へと入った。
店の経営係から本日の賃金を貰う間、まだ仕事をしていた気の良い連中は決まってこんなセリフで歓迎するのだ。
「よぉ相変わらず面白い音だったぜ、これ持ってけ」「チーズもだ」「代金とか気にするな、どーせ胃袋に入っちまうんだ。誰のどこだろうとかまいやしねぇよ」
仕事仲間から店の備蓄を勝手に袋に詰められ、センは若干ながら困ったような表情を浮かべながらも結局はその好意に甘えてしまうのだ。
「あんがと皆、また明日な!」
裏口から出てみると、入り口前にアリシアの姿が見えたもので、思わずセンは目を丸くした。
誰かを待っているのか、きょろきょろと辺りを見回すも、他には誰の姿もない。
アリシア本人に指をさされ、自分を待っていたことに、再び目を丸くした。
「どうした? なんか用事? 便所なら奥行って右だけど?」
「はいはい……ねぇどうせだから送ってよ。夜遅くに女の子一人で帰るのは危険でしょ」
「まぁ、そりゃ構わないけどさ。でも、俺が襲っちゃう可能性とか考えなかったわけー?」
「あんたなら軽く捻り潰せるわ、つまり問題なし」
そういってアリシアは腰に下げた銃のホルダーを軽く叩いてみせた。銃の腕前は祖父譲りらしく、学院でも【赤髪】の異名と異例な成績を受け継いでいるらしい。そんな彼女を崇拝や恐れの目で見る人は多いと聞くが、センにしたところでその気持ちがないわけではない。
そんな強いならむしろ襲う連中が心配になる、と思いたくもなる。
「なにか言った?」
「なにも! なにもないです、ないない!」
「そう……」
「ところでアリシアん家って、どっちだっけ?」
「ん? 北東部よ。ここからなら列車で8時間半くらいかしら」
「えっ、そこまで送るの?」
「馬鹿言わないでよ、私たち寮生活でしょ」
「あっ、そういえばそうだった」
「大丈夫? あんた疲れてるんじゃない」
「あはは。じゃ、じゃあさ。ホームシックになったりしないの?」
「ホームシックか……ちょっと違うけど、家族を恋しいと思うことはあるかな。戦地に行ってから、ずっと帰って来ない兄がいるの。私なんかよりずっと優秀な人で、将来はヴァイオリニストとして、名を轟かせるだろうって言われていたわ。そんな人が軍人になるなんて、人生ってわからないものよね」
「お兄ちゃん……軍人だったんだね」
「馬鹿みたいな理由だけど、軍人になれば兄の情報を知るきっかけが掴めるかもしれないって考えたの。学院に入ったのもそのため。軍の意向ってやつで一般人には公開することができないらしいんだ……兄が向かった戦場地、禁忌領域に関する事象については」
「……うん」
禁忌領域。四つの国の中心に存在する未知の領域。常に波風が立ち、消えない大きな台風の目にたしかに存在する場所。2年ほど前、そこから度々現れる人知をはるかに凌駕した生命体を駆逐すべく、四つの国はそれぞれ軍を進軍させたことがある。
生存者はいない。
事実、あの領域に足を踏み入れて戻ってきた人間はいないのだ。
気づけば大通りにある噴水広場を通り過ぎて、裏路地に足を踏み入れていた。
密集した建物のせいか窮屈に感じる夜空を見上げて、センは言った。
「お兄ちゃん、無事で見つかるといいね」
「正直そこまで期待してないけどね。骨とか残ってたらやっぱり生まれた土地に埋めてやりたいとか……」
「それでもさ、無事で見つかってほしいよ。大事なお兄ちゃんなんだろ?」
「うん、そうね。やっぱり無事で見つかってほしいかな。ありがとう」
「……あ、あのさ、俺アリシアに言わなきゃいけないことがあるんだ……」
「なによ、改まって?」
「俺、ほんとは……」
精一杯の勇気を振り絞って、口にするべきだった言葉をセンは飲み込んだ。
人の気配のない暗闇に、人ならざる何かの気配を感じ取ったからだ。
なぜ、こんな街のど真ん中で?
そんな疑問はすぐに払いのけて、センは腰に下げていた警棒を両手に構える。
大通りの道行に顔を向けると、不自然に一か所だけ街灯が消えている場所があった。
いや。よく見れば、それは消えているのではない。
黒い霧に覆われて、光が見えなくなっていたのだ。
そしてセンはその霧について見識があった。
人知をはるかに凌駕した生命体、幻想種。
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「アリシア! 銃を構えるんだ! 今すぐに――!」
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辺境伯の娘さんと婚約という話だから辺境伯の主人公へのあたりも結構なものだけど、娘さんは美人だから万事OK。
【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く
ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。
5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。
夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…
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