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約束の話
墓参り
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及己が何を想い、何を視ているのか。今の杳にはまだわからない。
ただわかるのは、この人外の友人が、自分の知らないような昏い夜を何度も見送ってきたのだろう、ということだけだった。
「及己」
仏間から居間へ戻ると、亘が改めて淹れてくれた薬草茶の湯気が静かに立ち上っていた。
その中で杳は切り出した。死産の子の件で聞きそびれたこと。及己がこの地に留まり続ける理由。そして、自分が引き継がねばならない祖父のやり残しを。
「おまえが言ってた祖父さんとの約束って――」
その言葉に及己の金の瞳がすっと細められる。それまで薬草茶の湯気をぼんやりと追っていた視線が杳を正面から捉えた。
杳の背筋が自然と伸びる。
真っ直ぐに向けられるその視線は、友人としてのものではなかった。これから語られる言葉が、佐伯の当主として背負うべきものであることを杳は直感した。
だが ――
「今日はもう遅い」
及己は静かに言った。
「長くなる。明日の朝の務めに障る。話すのは明日の務めを終えて杳が一休みした後にしよう」
それは有無を言わせぬ決定だった。
この件に関してだけは、及己が主であり自分は引き継ぐ側なのだと、はっきり示されるような言葉だった。
杳は黙って頷き、まだ温かい湯呑みを両手で包み込んだ。
その夜、杳は夢を見なかった。ただ深い水底へとどこまでも沈んでいくような、静かで重い眠りの中にいた。
陽がまだ低い場所を照らす頃、杳は朝の務めを終えて母屋へと戻った。
二五〇年、一日として欠かされたことのない佐伯の当主だけに課された習わし――『鬼鎮め』。
夜明けと共に土地を巡り、その中心にある祠でタタリと向き合う。人の身で土地神の役割を代行するその務めを果たしながら、杳の思考は自然と昨夜の言葉へと向かっていた。
――祖父さんは、おれに何をさせようとしているんだ?
務めを終えた身体はいつも通り静かな消耗を抱えていたが、心は不思議と落ち着いていた。これから何を聞かされても受け止める覚悟はできていると言わんばかりに。
母屋に戻り、亘の気遣いをありがたく受けながら杳は自室の布団に潜り込み、言われた通りに一度目を閉じた。
どれくらい眠ったのか。目覚めて居間へ向かうと縁側に座る及己と目が合った。
「槐さんの墓参りがしたい」
その言葉に、杳は黙って頷いた。
佐伯家の墓所は母屋から少し離れた小高い丘の上にあった。歴代の当主たちがここから静かにこの土地を見守り続けている。墓は亘が毎朝手入れをしているため、いつ来ても綺麗に整っていた。
及己は墓石に花を供えるとその前に立ち、何も語らずただ長い時間そこに佇んでいた。
その横顔から感情を読み取ることはできない。
ただ、その金の瞳が墓石に刻まれた「佐伯槐」「佐伯薊」「佐伯杲」という名と、その下に眠る魂の記憶を静かに辿っていることだけが杳にはわかった。
それは弔いというより、一時とはいえ共に歩いた者同士が交わす、無言の確認のようにも見えた。
やがて及己はゆっくりと頭を下げ、踵を返す。
二人は、土地を一望できる見晴らしの良い土手へと向かった。吹き抜ける風が草の匂いを運び及己の長い髪を揺らす。
及己は遠くで霞む山々を見やりながら、静かに語り始めた。
懐から取り出したのは黒い革装の本――自らが封印されていた、あの本だった。
「私が封印されていたこの本は、異国ではいくつか呼び名がある。その一つが『封印の書』だ」
杳は黙って次の言葉を待った。
「この国にも『言霊』という概念があるだろ? あれと似たようなものだよ。本の頁にその者を示す言葉を書き、本と対象を結びつける。そして頁に捕らえ本の一部にしてしまう」
「それが封印の書と呼ばれる所以だ」
風が二人の間を通り抜けていく。
「だが厄介なことに、封印者の意志が弱まったり、時間が経つと力も次第に衰える。本の頁が開いた拍子に、封じられていたものが漏れ出てしまうこともある」
「私は弱まる力を補うために、本の内側から封印を守っていた。漏れたら面倒だからね」
及己は一度言葉を切り、杳の反応を確かめるように視線を向けた。
「……本をこの地に持ち込んだのは杳の両親。そして、その封印を開けたのが槐さんだよ」
あまりに突拍子もない話に杳の思考が止まり、心臓の音だけが耳に響く。
一瞬、何を言われたのかわからなかった。そんな危険なことを家族がしたのかと、信じがたい事実に呆然とするしかなかった。
「……なんでそんなことを……」
ようやく絞り出した杳の問いに及己は静かに答えた。
「タタリを本に封じて、佐伯家を鬼鎮めから解放したかったんだ」
息を呑む。両親が、祖父が、自分たち一族をこの短命の務めを終わらせようとしていた。その事実が胸の奥に熱く広がっていった。
しかし――。
「……だが、実際は封印どころか解放してしまった」
及己は、本を閉じたまま、その側面を杳に向けた。
「ここを見て。頁の一部だけ経年具合が違うだろう」
言われるままに視線を落とすと、古びた羊皮紙の束の中に明らかに新しい部分が混じっているのがわかった。
「この新しくなっている部分が、槐さんが本を開いた時に漏れ出して飛び散ってしまった部分だ」
その場所を指でなぞりながら、本が歯抜けになってしまって閉じにくくなったのと、抜けている頁がわかるからだと説明する。
「内側から押さえ込むのに失敗した私と、外側から開けてしまった槐さん。二人で責任を持って散らばった分を回収する。それが槐さんと交わした約束」
及己は本から杳へと目を移し真っ直ぐに見据えた。
「でも――その半ばで、槐さんは寿命を迎えた。だから杳に託されたんだ。回収を完了させることは、いずれ杳の両親が願った鬼鎮めの終わりという目的にも繋がるから、と」
「――これが、約束の概要だ」
ただわかるのは、この人外の友人が、自分の知らないような昏い夜を何度も見送ってきたのだろう、ということだけだった。
「及己」
仏間から居間へ戻ると、亘が改めて淹れてくれた薬草茶の湯気が静かに立ち上っていた。
その中で杳は切り出した。死産の子の件で聞きそびれたこと。及己がこの地に留まり続ける理由。そして、自分が引き継がねばならない祖父のやり残しを。
「おまえが言ってた祖父さんとの約束って――」
その言葉に及己の金の瞳がすっと細められる。それまで薬草茶の湯気をぼんやりと追っていた視線が杳を正面から捉えた。
杳の背筋が自然と伸びる。
真っ直ぐに向けられるその視線は、友人としてのものではなかった。これから語られる言葉が、佐伯の当主として背負うべきものであることを杳は直感した。
だが ――
「今日はもう遅い」
及己は静かに言った。
「長くなる。明日の朝の務めに障る。話すのは明日の務めを終えて杳が一休みした後にしよう」
それは有無を言わせぬ決定だった。
この件に関してだけは、及己が主であり自分は引き継ぐ側なのだと、はっきり示されるような言葉だった。
杳は黙って頷き、まだ温かい湯呑みを両手で包み込んだ。
その夜、杳は夢を見なかった。ただ深い水底へとどこまでも沈んでいくような、静かで重い眠りの中にいた。
陽がまだ低い場所を照らす頃、杳は朝の務めを終えて母屋へと戻った。
二五〇年、一日として欠かされたことのない佐伯の当主だけに課された習わし――『鬼鎮め』。
夜明けと共に土地を巡り、その中心にある祠でタタリと向き合う。人の身で土地神の役割を代行するその務めを果たしながら、杳の思考は自然と昨夜の言葉へと向かっていた。
――祖父さんは、おれに何をさせようとしているんだ?
務めを終えた身体はいつも通り静かな消耗を抱えていたが、心は不思議と落ち着いていた。これから何を聞かされても受け止める覚悟はできていると言わんばかりに。
母屋に戻り、亘の気遣いをありがたく受けながら杳は自室の布団に潜り込み、言われた通りに一度目を閉じた。
どれくらい眠ったのか。目覚めて居間へ向かうと縁側に座る及己と目が合った。
「槐さんの墓参りがしたい」
その言葉に、杳は黙って頷いた。
佐伯家の墓所は母屋から少し離れた小高い丘の上にあった。歴代の当主たちがここから静かにこの土地を見守り続けている。墓は亘が毎朝手入れをしているため、いつ来ても綺麗に整っていた。
及己は墓石に花を供えるとその前に立ち、何も語らずただ長い時間そこに佇んでいた。
その横顔から感情を読み取ることはできない。
ただ、その金の瞳が墓石に刻まれた「佐伯槐」「佐伯薊」「佐伯杲」という名と、その下に眠る魂の記憶を静かに辿っていることだけが杳にはわかった。
それは弔いというより、一時とはいえ共に歩いた者同士が交わす、無言の確認のようにも見えた。
やがて及己はゆっくりと頭を下げ、踵を返す。
二人は、土地を一望できる見晴らしの良い土手へと向かった。吹き抜ける風が草の匂いを運び及己の長い髪を揺らす。
及己は遠くで霞む山々を見やりながら、静かに語り始めた。
懐から取り出したのは黒い革装の本――自らが封印されていた、あの本だった。
「私が封印されていたこの本は、異国ではいくつか呼び名がある。その一つが『封印の書』だ」
杳は黙って次の言葉を待った。
「この国にも『言霊』という概念があるだろ? あれと似たようなものだよ。本の頁にその者を示す言葉を書き、本と対象を結びつける。そして頁に捕らえ本の一部にしてしまう」
「それが封印の書と呼ばれる所以だ」
風が二人の間を通り抜けていく。
「だが厄介なことに、封印者の意志が弱まったり、時間が経つと力も次第に衰える。本の頁が開いた拍子に、封じられていたものが漏れ出てしまうこともある」
「私は弱まる力を補うために、本の内側から封印を守っていた。漏れたら面倒だからね」
及己は一度言葉を切り、杳の反応を確かめるように視線を向けた。
「……本をこの地に持ち込んだのは杳の両親。そして、その封印を開けたのが槐さんだよ」
あまりに突拍子もない話に杳の思考が止まり、心臓の音だけが耳に響く。
一瞬、何を言われたのかわからなかった。そんな危険なことを家族がしたのかと、信じがたい事実に呆然とするしかなかった。
「……なんでそんなことを……」
ようやく絞り出した杳の問いに及己は静かに答えた。
「タタリを本に封じて、佐伯家を鬼鎮めから解放したかったんだ」
息を呑む。両親が、祖父が、自分たち一族をこの短命の務めを終わらせようとしていた。その事実が胸の奥に熱く広がっていった。
しかし――。
「……だが、実際は封印どころか解放してしまった」
及己は、本を閉じたまま、その側面を杳に向けた。
「ここを見て。頁の一部だけ経年具合が違うだろう」
言われるままに視線を落とすと、古びた羊皮紙の束の中に明らかに新しい部分が混じっているのがわかった。
「この新しくなっている部分が、槐さんが本を開いた時に漏れ出して飛び散ってしまった部分だ」
その場所を指でなぞりながら、本が歯抜けになってしまって閉じにくくなったのと、抜けている頁がわかるからだと説明する。
「内側から押さえ込むのに失敗した私と、外側から開けてしまった槐さん。二人で責任を持って散らばった分を回収する。それが槐さんと交わした約束」
及己は本から杳へと目を移し真っ直ぐに見据えた。
「でも――その半ばで、槐さんは寿命を迎えた。だから杳に託されたんだ。回収を完了させることは、いずれ杳の両親が願った鬼鎮めの終わりという目的にも繋がるから、と」
「――これが、約束の概要だ」
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