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鬼鎮め
鬼鎮め
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『楸の地』において、佐伯家の当主に課された務めは『鬼鎮め』と呼ばれる。
鬼とは、タタリのことだ。
それは時に人に取り憑き、土地に禍を為し、得体の知れない恐怖をもたらす。人は自らが理解できないもの、抗えないものに『鬼』の名を与え、それを宥め鎮めることでかろうじて心の平穏を保ってきた。
だがその本質は――理不尽への嘆き、その凝縮に他ならない。
夜明け前の空気はいつも刃のように冷たく、肌を刺す。
二五〇年、一日として欠かされることのなかった佐伯の当主だけに課された務め。それはまた、この重い土地に朝を呼び戻すための無言の合図でもあった。
杳は、供養と鎮魂を願う鈴の音を極力抑えながら響かせる。まだ昏い土地を巡り、一つ、また一つと土地の底に沈む声なき声に呼びかけるように。
一巡の最後に辿り着くのは土地の臍の祠。かつて土地神がその核を置いたとされる土地の中心だ。そこで杳は、一見木刀にも見える赤い布の巻かれた三尺半の細板――『橋』と呼ばれる神具を、湿り気を帯びた土の奥へとためらいなく差し込んだ。
『橋』に巻かれた古い赤布の端を手に坐禅を組む。
土と自身の呼吸を合わせていくうちに、その境界が次第に曖昧になっていく感覚。
意識を『橋』に預け、その先へ、その先へと、ゆっくり沈めていった。
潜った意識が見る光景はいつも同じだ。
二五〇年前の戦禍。
襲い、襲われ、殺し、殺される。人の血で土も川も色を変え、天さえ赤黒く染まったという地獄の記憶。
杳はその泥沼の中で、今朝、最も強く自分を呼ぶ『念』に意識を傾けた。
触れた瞬間、記憶が濁流となって流れ込む。
――落武者が家に押し入り、病弱の父に刀を突き立てようとしていた。
止めなければ。守らなければ。
咄嗟に手近にあった鍬を振り上げ、その背へ振り下ろした。
――鈍い音。
――甲高い悲鳴。
――手に伝わる、肉を割り骨を砕く感触。
――恐怖に見開かれた、父の顔。
すべてが今も離れない。
人を、殺した。
鍬は、人を殺すための道具ではなかったはずだ。
その自覚が形を結び始めた刹那、自らの胸と腹から見慣れぬ刀の切っ先が突き出ていた。
違う。背から刃を突き立てられ、貫かれたのだ。
――手に残る感触と、胸の内からせり上がる灼熱。
――喉を焼く、錆びた鉄の味。
――それらが静かに己の最期を告げていた。
人を殺したから、殺されたのだろうか。
あれは罰だったのか。
どうすればよかったのか。
父はどうなった。
なぜ。なぜ。なぜ。
どうすれば。どうすれば。どうすれば。
抱えきれない理不尽に囚われ、答えを求めて彷徨い、似た気配を持つ生者へとただ藁を掴むように縋り付く。それがタタリと呼ばれるものの正体だった。
これを『鬼』と呼ぶには、あまりにも酷だ。
杳はその魂に静かに語りかける。何も間違ってはいない。そうするしかなかったのだと。
誰も悪くはない。ただ、戦禍という巨大な狂気が人を人でなくしただけなのだと。
ここにはもう父はいない。とうに天へと昇り、おまえを待っている。
思い出せないのなら、望むなら自分の記憶を分け与えるから――だからもう、答えの出ない問いを終えて父のもとへ行こう、と。
無念に触れていると、時間という概念が溶けていく。
魂の叫びがほんのわずかずつ薄らいでいくのを感じながら、杳は自分の肩から力が抜けていくのを知る。
――これ以上は、呑まれる。
本能が鳴らす警鐘。それが務めを終える合図だった。意識をゆっくりと浮上させながら、杳はふと、及己のことを思う。
及己もまた、この嘆きの渦の中にいたのだろうか。
その時、あの力を振るったのだろうか。
――きっと、振るったのだ。
バアルベリトから聞いた過去の真偽を確かめた時の、あの表情。
『概ね、事実だよ』
感情を削ぎ落とした、あの声。
――だから、あんな顔をしたのだ。
ここにいる『タタリ』と呼ばれる『嘆き』と、及己はどこかで重なっているのかもしれない。
地から『橋』を引き抜き、意識を完全に肉体へ戻す。
直後、強烈な罪悪感と骨の髄まで凍るような疲弊、そして何かを根こそぎ削り取られたかのような喪失感が全身を襲った。
務めの直後はいつもこうだ。乱れる呼吸を整えながら杳は自らを叱咤する。
二五〇年、先祖たちはこれを続けてきた。土地の復興のためだけではない。あの嘆きがあまりにも居たたまれないからだ。あの嘆きの中に佐伯の縁者もいるからだ。
救われたいと願う魂があるなら、それを手助けしたい――ただ、その一念。いずれ土地の循環が蘇れば彼らにもよりよい救いの手が届くはずだと信じて。
佐伯家がこの任を担い続けている理由はそれだけだ。
自分も、同じ。
もう少し心を落ち着けてから帰ろうと、祠の中で楽な姿勢に崩して呼吸を整えていた、その時だった。
ふわり、と体が浮いた。
「……いつもより、ずっと遅いから気になった」
感情が読めない淡々とした声が聞こえたかと思えば、自分は及己の背に負ぶわれていた。
及己は一言も発さぬまま、杳を母屋へ連れ帰る。自室の布団に降ろされ、その柔らかさに意識が溶けそうになるのを、傍らで響く薬草を挽く音がかろうじて引き留めた。
薄目を開けると、及己が慣れた手つきで薬研を扱い薬を調合している。葉のちぎり方、実の割り方、種の砕き方。そのすべてが驚くほど丁寧で正確だった。
「……ずいぶん、手慣れてるな」
掠れた声で呟くと、及己は手を止めずに答える。
「まあね」
「叔父さんに教わったのか」
「道具の使い方をね。亘のものはどれも合理的で効率がいい」
出来上がった薬液を吸飲みに移しながら、及己は続けた。
「安眠効果のあるものも入れておいた。これ飲んで休め」
吸い飲みを受け取り、温かな液体を喉に流し込むと甘さのある苦味が口の中に広がった。
削られた隙間をそっと埋めていくような感じがする。
及己が足元の湯たんぽの温度を無言で確かめている。その、あまりにも自然で甲斐甲斐しい仕草を眺めながら、杳の意識は再び時の流れの中へ沈んでいった。
――母は、おれを産んで三ヶ月後に死んだ。
――父は、おれが生まれる七ヶ月前に死んだ。
――祖父は、おれが生まれて一年半後に死んだ。
――叔父は、父が死んだ一ヶ月後にこの地へ来た。
弟の供養と、その死を追及するためだったと聞いている。
そして、そのまま留まりおれを育ててくれた。
――及己は、いつからそこにいたのだろう。
鬼とは、タタリのことだ。
それは時に人に取り憑き、土地に禍を為し、得体の知れない恐怖をもたらす。人は自らが理解できないもの、抗えないものに『鬼』の名を与え、それを宥め鎮めることでかろうじて心の平穏を保ってきた。
だがその本質は――理不尽への嘆き、その凝縮に他ならない。
夜明け前の空気はいつも刃のように冷たく、肌を刺す。
二五〇年、一日として欠かされることのなかった佐伯の当主だけに課された務め。それはまた、この重い土地に朝を呼び戻すための無言の合図でもあった。
杳は、供養と鎮魂を願う鈴の音を極力抑えながら響かせる。まだ昏い土地を巡り、一つ、また一つと土地の底に沈む声なき声に呼びかけるように。
一巡の最後に辿り着くのは土地の臍の祠。かつて土地神がその核を置いたとされる土地の中心だ。そこで杳は、一見木刀にも見える赤い布の巻かれた三尺半の細板――『橋』と呼ばれる神具を、湿り気を帯びた土の奥へとためらいなく差し込んだ。
『橋』に巻かれた古い赤布の端を手に坐禅を組む。
土と自身の呼吸を合わせていくうちに、その境界が次第に曖昧になっていく感覚。
意識を『橋』に預け、その先へ、その先へと、ゆっくり沈めていった。
潜った意識が見る光景はいつも同じだ。
二五〇年前の戦禍。
襲い、襲われ、殺し、殺される。人の血で土も川も色を変え、天さえ赤黒く染まったという地獄の記憶。
杳はその泥沼の中で、今朝、最も強く自分を呼ぶ『念』に意識を傾けた。
触れた瞬間、記憶が濁流となって流れ込む。
――落武者が家に押し入り、病弱の父に刀を突き立てようとしていた。
止めなければ。守らなければ。
咄嗟に手近にあった鍬を振り上げ、その背へ振り下ろした。
――鈍い音。
――甲高い悲鳴。
――手に伝わる、肉を割り骨を砕く感触。
――恐怖に見開かれた、父の顔。
すべてが今も離れない。
人を、殺した。
鍬は、人を殺すための道具ではなかったはずだ。
その自覚が形を結び始めた刹那、自らの胸と腹から見慣れぬ刀の切っ先が突き出ていた。
違う。背から刃を突き立てられ、貫かれたのだ。
――手に残る感触と、胸の内からせり上がる灼熱。
――喉を焼く、錆びた鉄の味。
――それらが静かに己の最期を告げていた。
人を殺したから、殺されたのだろうか。
あれは罰だったのか。
どうすればよかったのか。
父はどうなった。
なぜ。なぜ。なぜ。
どうすれば。どうすれば。どうすれば。
抱えきれない理不尽に囚われ、答えを求めて彷徨い、似た気配を持つ生者へとただ藁を掴むように縋り付く。それがタタリと呼ばれるものの正体だった。
これを『鬼』と呼ぶには、あまりにも酷だ。
杳はその魂に静かに語りかける。何も間違ってはいない。そうするしかなかったのだと。
誰も悪くはない。ただ、戦禍という巨大な狂気が人を人でなくしただけなのだと。
ここにはもう父はいない。とうに天へと昇り、おまえを待っている。
思い出せないのなら、望むなら自分の記憶を分け与えるから――だからもう、答えの出ない問いを終えて父のもとへ行こう、と。
無念に触れていると、時間という概念が溶けていく。
魂の叫びがほんのわずかずつ薄らいでいくのを感じながら、杳は自分の肩から力が抜けていくのを知る。
――これ以上は、呑まれる。
本能が鳴らす警鐘。それが務めを終える合図だった。意識をゆっくりと浮上させながら、杳はふと、及己のことを思う。
及己もまた、この嘆きの渦の中にいたのだろうか。
その時、あの力を振るったのだろうか。
――きっと、振るったのだ。
バアルベリトから聞いた過去の真偽を確かめた時の、あの表情。
『概ね、事実だよ』
感情を削ぎ落とした、あの声。
――だから、あんな顔をしたのだ。
ここにいる『タタリ』と呼ばれる『嘆き』と、及己はどこかで重なっているのかもしれない。
地から『橋』を引き抜き、意識を完全に肉体へ戻す。
直後、強烈な罪悪感と骨の髄まで凍るような疲弊、そして何かを根こそぎ削り取られたかのような喪失感が全身を襲った。
務めの直後はいつもこうだ。乱れる呼吸を整えながら杳は自らを叱咤する。
二五〇年、先祖たちはこれを続けてきた。土地の復興のためだけではない。あの嘆きがあまりにも居たたまれないからだ。あの嘆きの中に佐伯の縁者もいるからだ。
救われたいと願う魂があるなら、それを手助けしたい――ただ、その一念。いずれ土地の循環が蘇れば彼らにもよりよい救いの手が届くはずだと信じて。
佐伯家がこの任を担い続けている理由はそれだけだ。
自分も、同じ。
もう少し心を落ち着けてから帰ろうと、祠の中で楽な姿勢に崩して呼吸を整えていた、その時だった。
ふわり、と体が浮いた。
「……いつもより、ずっと遅いから気になった」
感情が読めない淡々とした声が聞こえたかと思えば、自分は及己の背に負ぶわれていた。
及己は一言も発さぬまま、杳を母屋へ連れ帰る。自室の布団に降ろされ、その柔らかさに意識が溶けそうになるのを、傍らで響く薬草を挽く音がかろうじて引き留めた。
薄目を開けると、及己が慣れた手つきで薬研を扱い薬を調合している。葉のちぎり方、実の割り方、種の砕き方。そのすべてが驚くほど丁寧で正確だった。
「……ずいぶん、手慣れてるな」
掠れた声で呟くと、及己は手を止めずに答える。
「まあね」
「叔父さんに教わったのか」
「道具の使い方をね。亘のものはどれも合理的で効率がいい」
出来上がった薬液を吸飲みに移しながら、及己は続けた。
「安眠効果のあるものも入れておいた。これ飲んで休め」
吸い飲みを受け取り、温かな液体を喉に流し込むと甘さのある苦味が口の中に広がった。
削られた隙間をそっと埋めていくような感じがする。
及己が足元の湯たんぽの温度を無言で確かめている。その、あまりにも自然で甲斐甲斐しい仕草を眺めながら、杳の意識は再び時の流れの中へ沈んでいった。
――母は、おれを産んで三ヶ月後に死んだ。
――父は、おれが生まれる七ヶ月前に死んだ。
――祖父は、おれが生まれて一年半後に死んだ。
――叔父は、父が死んだ一ヶ月後にこの地へ来た。
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