荒魂遊戯抄 -本から現れた自称・魔族と、短命の宿命を覆す-

スイケイ

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鬼鎮め

分家とのもめごと

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 杳の身体は亘の調合した漢方と及己の計らいで十分に癒やされたが、魂の奥に沈殿した疲労はそう簡単には抜けきらない。それでも、日々繰り返される務めに一片の揺らぎもなかった。佐伯の当主とはそういうものだ。

「帳簿の数字が、合わない」

 あれから数日後、事の報せは土地の西側にある交易の詰所から届いた。
 外との交易でやり取りされた米や収穫物の量が、一部不自然に少なく記録されているという。それはこの土地の穏やかな営みの中では、決して起こってはならない歪みだった。

「――確かに、おかしい」

 詰所の薄暗い明かりの下、杳は帳簿の一行一行を指で追いながら静かに呟いた。
 筆跡が明らかに違う。既存の数字を墨で塗り潰し、その上からより低い数字が書き加えられている。稚拙だが悪意に満ちた改竄だった。
「一体、誰がこんなことを……」
 詰所の管理人が悔しそうに唇を噛む。及己はその帳簿を一瞥すると、ふっと視線を窓の外――土地の境界へと向けた。
「バアルベリト、か」
 その名を聞いた瞬間、杳の体に緊張が走る。
 言葉で人の心を操り、不和の種を蒔く魔族。彼が流した毒がすでにこの土地の内側まで染み込んでいたらしい。
「他の帳簿と照らし合わせれば、正しい数字はすぐに出る。まずはこれを直そう」
 杳の落ち着いた声に、詰所の空気もわずかに和らぐ。
 収穫物を納める際、農家側と詰所側が互いに分量を記録し照合するのはこの地の鉄則だ。その時に農家たちが手元に記した個人用の控えを借り受け、一つ一つ数字を突き合わせていった。
 地道ではあるが、確実な作業だった。
 だが、その最中、管理人がぽつりと漏らした言葉が杳の胸に重くのしかかった。
「……一部の者たちは、この改竄された帳簿こそが真実だと思い込んでいるようです」
「この浮いた収穫を佐伯家が不正に取り込んでいる、と……」
 それは、バアルベリトが最も得意とする手口だと及己が言っていた。事実の断片に、巧みな嘘を織り交ぜ人々の心に疑念という名の毒を流し込む。

 数刻後、すべての検証は終わった。改竄の事実は明白となり、正しい数字も確定した。ほとんどの者は誰かの悪戯だろうと納得し、安堵の表情を浮かべていた。
 これでひとまずは大丈夫だろう。そう思い詰所を後にしようとした、その時だった。
「――家で、何かあったみたいだ」
 不意に、隣を歩いていた及己が足を止め、母屋のある方角を鋭く見据えた。金の瞳にこれまでに見たことのない冷たい光が宿っている。
 杳は、息を呑んだ。
 及己がこれほどの気配を放つのは尋常なことではない。言葉を放つ事なく差し出された手を取ると、一瞬の浮遊感と暗転、次には母屋の庭の前に立っていた。

 母屋の縁側から見える庭は異様な熱気と殺気に満ちていた。
 十数人の男たちが土足で庭を踏み荒らし、その中心で叔父の亘が腕を捻り上げられ地面に押さえつけられている。その光景を視界に捉えた瞬間、隣に立つ及己の全身から空気が凍るような怒りの気配が立ち上るのがはっきりと分かった。

「やあ、お邪魔させてもらってるぞ」
 男たちの中から、一人の男が悠然と歩み出てくる。
 乙夜イツヤ家の当主。杳より三つ年上の息子を持つ、分家の筆頭だった。
 その背後には、荷前ノサキ賢木サカキといった他の分家の者たちの顔も見える。
 本家の血が絶え鬼鎮めの務めが途切れる万が一に備え、その役目を引き継ぐべく分かたれた三つの家。いわばこの地の安寧を保つための『保険』として存在する者たちだ。
 だが、今、彼らの瞳に宿しているのは本家を支える意思などではなかった。

「訪問の報せなんて受けてないぞ」
 杳はできる限り冷静に言い放った。
「わざわざ報せなど出す必要もない。今日は一つ提案を持ってきたんだ」
「提案?」
 乙夜家の当主は、せせら笑うように言う。
「ここ最近、土地の実りが減っているそうだな。鬼鎮めの儀式は毎日行っているらしいのにおかしいと思わんか?」
「佐伯の現当主が未熟だから、数をこなすだけで成果を出せていない、と噂されてるぞ」
「土地の祠に半日座ってるだけで収穫物をタダで受け取るのは狡い、って声もな」
「手の者を使って帳簿を弄り、受け取る収穫物を上乗せしているという噂もあるな」
 分家の者たちが次々に嘲りの言葉を投げかける。その言葉の端々に、バアルベリトが撒いた毒の匂いが確かにあった。

「そういうわけだ。このままじゃあおまえの立場が悪くなる。だから我ら分家が代わってやろうと思ってな。かつての習わしの通り、な」
「我が家には長男がいる。我が息子こそ鬼鎮めの座に相応しい」
 乙夜家の当主はそう言うと、小脇から取り出したものを杳の眼前に突きつけた。
「これらも、我らに使われる方がより意義もあるだろう」
 それは、家の仏間に供えられていたはずの鬼鎮めの神具――鈴と、『橋』だった。
「……!」
 及己の肩が、微かに震えた。
「……土足で仏間に入ったのか……!」
 杳の声に、初めて抑えきれない怒りの色が混じる。
「これからは我らが使うのだ。構うまいよ」
「勝手なことを……」
「杳」
 及己の静かで低い声が響く。抑え込んだ激情に微かに喉が震え、その怒りの深さが伝わってきた。
「動くな、及己」
 それを制した杳の声もまた鋭く強張っている。感情を必死に押し殺し、当主として辛うじて踏み止まっているようだった。

「そもそも、佐伯の血はおまえ一人。同居の者は余所者と人ならざる番犬。そしておまえ自身、余所者の血が混じった紛い物。いずれ消える運命よ。
 ならば、今、退いても何ら問題はないだろう」
 乙夜家の当主は冷たく鼻で笑った。その声には、杳を既に用無しと見なす非情な断定が響いている。お前の役目は終わったと言わんばかりの視線が、嘗めるように地面に押さえつけられた亘へと移った。
「そもそも俺は、余所者が土地の草木をむしり、薬を作り売っているのが前から気に入らなかったんだ」
 賢木家の男が懐から刀を抜く。
「この機会だ。その医家の指でも落としてやろうか? 二度と薬など作れんようにな」
 男は亘の利き手に、ゆっくりと刃を突き立てようとする。
「……っ!!」
 亘の顔が、襲い来る苦痛に耐えようときつく歪んだ。

 その瞬間。

「……! ぐ……あっ!!」
 賢木家の男が短い悲鳴を上げた。刀を握る右手が突如として石のように硬直し、指先から力が失われる。主を失った鋼の塊が乾いた音を立てて冷たい地面へと転がった。
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