スカーレット・マーケット

新田朝弥

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①/スカーレット

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 地下へ降りる階段は、いつもわずかに湿っている。

 消毒液と鉄の匂いが混じった空気が、肺の奥にまとわりつく。
 嫌な感じだ。
 病院に似ている。
 だが、救う場所ではない。

 赤いランプが灯っている部屋が、今日の商談室だ。
 ここでは、"誰かの明日"が売られている。

 年単位。
 ミリリットル単位。
 そして、血液単位。
 ……つまり、命だ。
 明日を生きるはずだった命が、秘密裏に売買されていく。

 ──"スカーレット・マーケット"。

 俺の仕事場だ。

白鷺しらさぎ 緋菜ひなさん。二十二歳。前回の取引から三か月」

 タブレットに表示された数字を確認する。
 残存寿命、四年と三か月。
 売却希望、一年。

「今回も、一年でいいんですね?」

 事務的に尋ねる。
 対面に座る彼女は、いつものように小さく笑った。

「はい。端数は残しておきたいので」

 端数。
 まるで、ポイントか何かの話をしているようだった。

 白鷺 緋菜は、これで四度目の売却だ。
 普通なら三度目で限界が来る。
 だが、彼女はまだ座っている。
 背筋を伸ばした、凛とした佇まい。

 こうして向かい合うと、どこにでもいる、ただの若い女にしか見えない。
 指先が、わずかに白いのを除けば。

「ここまで回数を重ねると、売却後は急激な体力低下が予想されます。それでも取り消しはできません」

「はい」

 即答だった。
 迷いのないその目が、気に入らない。
 怖くないのか、と聞きたくなる。
 だが、それは俺の仕事ではない。

 俺は頷き、契約書を差し出した。

「血液移転を開始します」

 彼女は袖を捲る。
 細い腕と、青い血管。
 針が刺さる瞬間、わずかに眉が動く。
 赤い液体がチューブを通り、奥の処理装置へ流れていく。

 それはただの血で、ただの数字のはずだった。
 何百回も見てきた。
 ……なのに今日は、チューブの赤がやけに遅く見えた。
 視線が、離れなかった。

 彼女の呼吸が少し浅い。唇の色が、いつもより薄い気がする。
 そう思った瞬間、彼女は一度だけ唾を飲み込んで、喉を押さえた。
 その仕草が、妙に子どもっぽかった。

「大丈夫ですよ」

 俺の視線に気づいたのか、彼女が言う。

「慣れてますから」

 そう言って、笑う。
 まるで、こちらを気遣うみたいに。

 慣れている。
 その言葉が、胸のどこかに引っかかった。
 慣れるものじゃないだろう。
 ……命の削り方なんて。

 移転が終わると、彼女はすぐに立ち上がるが、そこで少しだけふらついた。
 無意識に、体が動く。
 彼女の腕を、掴んで支える。

 細い。
 手の中で骨の形が分かるくらいに。

 一瞬、彼女の体温が伝わった。
 いや、体温、というほどの温度ではない。
 ……冷たい。人の温度じゃない。

「……すみません」

「座ってろ」

 声が低くなる。
 彼女は、少し驚いたように目を瞬いた。

「鷹宮さんって、優しいんですね」

 優しい?
 違う。
 俺はただ、商品価値が落ちるのを防いだだけだ。
 それ以上でも、以下でもない。
 そう言いかけて、やめた。

 代わりに数字を確認する。
 残存寿命、三年と三か月。
 きれいに減っている。
 誤差もなく、正確だ。

「次は、三か月後です」

「はい」

 彼女は立ち上がる。
 一瞬、足元が揺れるが、それでも笑う。

「じゃあ、また」

 また。
 その言葉が、妙に重い。

 三か月後。
 数字の上では、彼女はまだ生きている。
 だが、四年後は──。

 ドアが閉まる。
 部屋には、赤いランプだけが残る。
 血液パックが揺れている。

 "スカーレット"。
 命の色。

 なぜか今日は、それが少しだけ、
 彼女の名前と重なった。

 ──緋菜。

 俺は視線を逸らし、タブレットを閉じる。

 これは仕事だ。
 明日には、別の客が来る。
 同じように売り、同じように減る。
 それだけだ。
 それだけのはずなのに。
 なぜか、白い指先の感触が、
 いつまでも消えない。

 ──白鷺 緋菜。
 残存寿命、三年三か月。

 俺はその数字を、
 必要以上に長く、見つめていた。

 ◆◆◆

 その夜、俺は珍しく市場の帳簿を閉じるのが遅れた。
 客が多かったからではない。
 理由は明白。

 白鷺 緋菜。

 四年三ヶ月の寿命を、書き換える。
 ──三年三か月。
 数字が更新される。

 帳簿を閉じる。閉じた、はず。
 指が紙を滑って、うまく掴めない。
 くだらない。疲れてるだけだ。

 いつも通りの、ただの数字だ。
 だが、今日は違った。

 三年。
 少し、考える。
 三年後、俺は三十を越える。
 彼女は、二十五だ。
 そこに、俺はいない──。

 そこまで考えて、やめる。
 俺の仕事は未来を想像することじゃない。

 ……いや、違う。
 想像したら、続かない。
 だから考えないだけだ。
 未来を削る。それだけの話だ。

 ──スマートフォンが震える。

 市場の管理者からの通知。

『大口購入希望。若年女性、残存三年以上』

 画面を、そっと閉じる。

 嫌な予感がした。
 いや、違う。
 これは"予感"じゃない。
 知っている"感覚"だ。
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