スカーレット・マーケット

新田朝弥

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⑧/端数の春

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 四十年という数字は、思ったよりも静かだった。

 市場の端末から白鷺 緋菜の名前が消えることはなかった。
 葛城は何も言わない。
 ただ、以前より煙草の本数が増えただけだ。

 俺の身体は、ゆっくりと変わっていった。

 階段を上るだけで息が上がる。
 指先が痺れることがある。
 朝、起きるのに時間がかかる。

 それでも、寝込むほどではない。

 端数。
 思ったより、持っている。

 俺は、自分の残りを確認しない。
 見たところで、変わらない。

 どうせ減るなら、今日を使い切るだけだ。

 ◆◆◆

 緋菜は退院した。

 弟の数値は安定している。
 まだ通院は続くが、命の危機は去った。

 病院の前を並んで歩く。

 春だった。

「ゆっくりでいいですよ、蓮さん」

 一瞬、足が止まりかける。

「年寄り扱いするな」

「してませーん」

 笑いながら、歩幅を合わせてくる。

 以前より、少しだけ俺の方が遅い。

 その呼び方を、訂正しなかった。

 ◆◆◆

 市場には戻らなかった。

 葛城に辞表を出したとき、あいつは肩をすくめた。

「結局、降りるのか」

「元から向いてなかったからな」

「嘘つけ」

 否定はしなかった。

「……あの子は、幸せになれそうか」

 背中越しの問い。

「なる。いや──」

 長くない。
 それでも。

「する」

 言い切る。
 格好つけでも、臭いでも、なんとでも言え。

 でも。
 葛城は、それ以上何も言わなかった。

 ◆◆◆

 時間は、きちんと流れた。

 緋菜の髪が伸び、
 弟の背が少し高くなり、
 季節が巡る。

 俺の端数は、目に見えて減っている。

 医師は曖昧な言い方しかしない。
 だが、自分の身体が一番正直だ。

 夜が、少し長くなった。

 ◆◆◆

 ある日、テーブルの上に分厚い本が積まれていた。
 医学書だった。
 解剖図と専門用語が並んでいる。

「……何だこれ」

 ページをめくると、付箋だらけだ。

 緋菜が慌てて取り返す。

「見ないでください」

「医者にでもなるつもりか」

 半分冗談で言うと、

「はい」

 即答だった。
 思わず、顔を上げる。

「弟みたいに苦しんでる人を助けたい──」

 そこで、少し間が空く。

「……っていうのは、建前です」

 こちらを見る。

「蓮さんを延命できるだけの医術を身につけます」

 一瞬、言葉が出なかった。

 前に自分が言った台詞が、頭をよぎる。

 ──"罪滅ぼしっていうのは建前だな"。

 苦笑が漏れる。

「間に合わないだろ」

 現実的な数字が、頭にある。

 緋菜は首を振った。

「だから」

 一歩近づく。

「私が医者になるまで、蓮さんは精一杯生きてください」

 真剣な顔だ。
 冗談じゃない。

 無理だと分かっている。
 それでも言っている。

 俺は息を吐く。

「無茶言うな」

「無茶じゃないです」

 目が揺れない。

「今まで、私の方が無茶してきたんですから」

 返す言葉がない。

 医学書を閉じる音が、やけに重かった。

 未来の話をしている。
 俺の未来を。
 そんな話を、俺にする。

「……考えとく」

 そう答えると、

「絶対ですよ」

 と、念を押された。

 困ったものだ。
 俺は、生きる理由を増やされている。

 ◆◆◆

 ある晩、窓の外の灯りを眺めながら、緋菜が言った。

「怖くないですか、蓮さん」

「何が」

「終わること」

 少し考える。

「前は怖くなかった。いつ死んでもいいように、って思ってた」

「今は?」

「今は、惜しい。生きる理由が、日に日に増える」

 正直に言う。

 緋菜は黙って、俺の手を握った。
 温かい。
 ちゃんと、生きている温度だ。

「どうして、あのとき」

 緋菜がゆっくりと続ける。

「どうして、そこまで……」

 言葉は続かなかったが、言いたいことは分かった。
 答えは、決まっている。

「俺はずっと、数字を通す側にいた」

 数字を見て、削って、承認して。
 それだけを見てきた。

「今回は、それをしなかっただけだ」

 彼女を見る。

「君に決めさせたくなかった」

 沈黙。

 緋菜の目に、涙が浮かぶ。

「ずるいです」

「何が」

「一人で、決めるから」

 少し笑う。

「強く生きろって、言っただろ」

「……はい」

「なら、強くいろ」

 泣きながら、頷く。

 ◆◆◆

 最後の冬が来る頃には、外に出る回数が減った。
 ベッドの上で過ごす時間が増える。

 緋菜は、よく話をした。

 弟の学校のこと。
 好きな本のこと。
 将来、何をしたいか。

 俺は聞くだけだった。
 それで十分だった。

 ◆◆◆

 ある朝、目を開けると、やけに静かだった。

 体が軽い。

 緋菜が椅子で眠っている。
 頬に、乾いた涙の跡。

 テーブルの端には、難関大学の医学部のパンフレットが置かれている。

 俺はゆっくりと呼ぶ。

「緋菜」

 彼女が目を覚ます。

「……蓮さん」

 かすれた声。
 その呼び方が、やけに鮮明に響く。

「強く、生きろ」

 もう一度だけ。
 命令でも、遺言でもない。
 ただ、願いとして。

 緋菜は泣きながら笑った。

「はい」

 それで、十分だった。

 赤いランプは、もうない。
 数字もない。

 残ったのは、削らなかった時間と、
 繋いだ未来だけ。

 春は、また来る。
 その春を、俺は見ないかもしれない。
 妹にも、見せることができなかった。

 でも、緋菜は見る。
 苦難があるかもしれない。
 挫折もあるかもしれない。
 それでも、胸を張って、強く。

 今日を見る。
 明日を見る。
 俺の分まで、春を見る──。
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