Frail/Little Assassin

新田朝弥

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第3章/死の境界 cross-border

3-②/超える

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 異変に気づいたのは、夕方だった。

 神谷堂から少し離れた、川沿いの細道。
 普段なら、子どもが走り回り、犬の散歩をする人が通る場所だ。

 今日は──人がいなかった。

「……おかしいな」

 葉月は、足を止める。
 時間帯を考えれば、誰か一人くらいはいてもいい。

 川の流れは、いつも通り。
 風もある。
 夕暮れの光も、自然だ。

 なのに。
 足元の影が、やけに濃い。
 街灯は、まだ点いていない。
 雲が、日差しを遮っているわけでもない。

 それでも、影だけが、地面に張り付くように伸びている。

「……出てこい」

 小さく声を落とす。

 返事はない。
 だが、影が──揺れた。
 地面に落ちた自分の影とは、動きが違う。

 一拍、遅れる。
 あるいは、逆に先に動く。

「……怪異、か」

 思ったよりも、落ち着いていた。
 昨日までなら、心臓が跳ねていたはずだ。
 葉月は、背中の凩に手を伸ばす。

 抜かない。
 まだ、抜くほどじゃない。
 気配は、弱い。
 強い霊圧も、殺気も感じない。

 ──いける。
 そう判断した。

 影が、じわりと膨らむ。
 人の形に、近づいていく。
 輪郭は曖昧。
 顔も、手足も、はっきりしない。
 ただ、こちらを“見ている”のだけは分かる。

「……戻れ」

 凩を構え、地面を踏みしめる。

 その瞬間。
 影が、地面から剥がれた。

「──っ!」

 一気に距離を詰めてくる。
 速い。
 だが、致命的ではない。

 葉月は、一歩引き、凩を振る。
 木刀が、影を打つ。
 感触は──ある。
 軽いが、確かに“当たった”。
 影が、弾かれるように後退する。

「……やっぱり、弱い」

 口に出した瞬間、胸の奥が、ちくりとした。
 弱い。
 その言葉が、
 どこか他人事みたいに聞こえた。

 だが。
 影は、消えなかった。
 地面に落ち、また形を作り直す。

 数が、増えている。

「……一体じゃ、ない?」

 二つ。三つ。
 同じ影が、周囲に広がる。

 葉月は、息を整える。
 焦りはない。
 勝てない相手じゃない。

 それなのに。
 背中に、冷たいものが這った。

 ──昨日の出来事。

 走馬の立っていた場所。
 踏み込まれた一歩。
 “境界を超えた”と、言われた瞬間。

 あの時と、似ている。
 力の差じゃない。
 “こちらの立ち位置”が、ずれている感覚。

「……」

 影が、一斉に動く。
 葉月は、凩を強く握り直した。

 まだ、出力は上げていない。
 いつもの範囲だ。
 だが。
 このままでは、足りない気がした。
 それが、勘なのか。
 昨日の夜を知ってしまったせいなのか。
 分からない。

 ただ一つ。
 葉月は、無意識に思っていた。
 ──次は、いつも通りじゃ、済まない。

 影が、四方から迫る。

 数は多くない。
 一体一体は、確実に自分より弱い。

 ──だから、焦る必要はない。

 葉月は、そう判断した。
 だが、身体は正直だった。

 足の裏が、地面を強く捉える。
 呼吸が、自然と深くなる。

 いつもより、ほんの少しだけ。
 ほんの少しだけ、力を回す。

「……」

 凩を握る手に、熱が集まる。

 それは、意識してやったことじゃない。
 昨日の夜を思い出したわけでもない。

 ただ。

 足りないと、感じただけだ。

 影が、同時に跳んだ。

 葉月は、一歩踏み込む。

 ──速い。

 自分でも、そう思った。

 身体が、軽い。
 視界が、妙に澄んでいる。

 凩が、横薙ぎに振るわれる。

 次の瞬間。

 影が、音もなく裂けた。

 紙を破るような感触。
 いや、それよりも脆い。

 影は、悲鳴も上げずに霧散した。

「……え?」

 一瞬、思考が追いつかない。

 今の一撃。
 力を込めたつもりは、なかった。

 なのに。

 残った影が、明らかに怯んだ。

 距離を取る。
 逃げるように、地面へ溶け込もうとする。

「待て」

 声が、低く出た。

 自分の声じゃないみたいだった。

 踏み込む。
 次の一撃。

 影は、完全に消えた。

 あとには、何も残らない。
 黒ずんだ跡すらない。

「……終わり、か」

 凩を下ろす。

 心臓が、早鐘を打っている。
 だが、恐怖じゃない。

 違和感だ。

 さっきまで感じていた重さが、ない。
 代わりに、身体の内側がざわついている。

 ──やりすぎた?

 そう思った瞬間。

 視界が、わずかに歪んだ。

 空気が、薄くなる。
 音が、遠のく。
 まるで、自分の輪郭だけが、
 この場所かは浮き上がったような感覚。

「……っ」

 膝をつきそうになるのを、必死でこらえる。

 今のは、疲労じゃない。
 怪異の攻撃でもない。

 自分の中で、何かがはみ出た感覚。

 走馬の顔が、脳裏に浮かぶ。

 冷たい目。
 興味なさそうな声。

 ──境界を、超えた。

 あの言葉。

「……これ、か」

 呟きが、震える。

 力が増えた、という実感はない。
 劇的な変化もない。

 ただ。

 やってはいけない一線に、
 “触れてしまった側”に立った。

 そんな感覚だけが、はっきりと残っている。

 葉月は、深く息を吐いた。

 戻す。
 意識的に、力を落とす。

 すると、空気が戻ってくる。
 音も、夕方の町に戻る。

 遠くで、車の音。
 人の話し声。

 ──日常だ。

 だが。

 葉月は、はっきりと理解していた。

 もう、自分は。

 いつもの範囲を、知ってしまった。
 そして──
 越えられる場所が、どこにあるのかも。

 凩を、強く握り直す。

「……使いどころ、間違えたら」

 誰に言うでもなく、呟く。

 守れるかもしれない。
 壊してしまうかもしれない。

 その両方が、現実味を帯びてしまった。

 夕暮れの影が、足元に伸びる。
 今度は、普通の影だ。

 それでも。

 葉月は、そこから目を離せなかった。

 ──境界は、もう。

 自分の内側に、できてしまったのだから。
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