Frail/Little Assassin

新田朝弥

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第3章/死の境界 cross-border

3-③/観測者

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 神谷堂に戻った時、日はすでに傾いていた。

 店先には、いつものように提灯が下がり、
 通りには、夕飯の匂いが漂っている。
 町は、相変わらずだ。

 ──相変わらず、過ぎる。

「……」

 葉月は、戸口の前で一度、立ち止まった。

 身体に違和感が残っている。
 疲労とは、少し違う。
 もっと、内側の感覚だ。

 さっきまで、確かに“届いていた”。
 今はもう、手を伸ばしても触れられない。

 境界。
 あの一瞬、越えた場所。

 思い出そうとすると、
 胸の奥が、ひりつく。

「……ただいま」

 声を出して、ようやく中に入る。

「おかえり」

 返事は、奥からだった。

 レイが、帳簿を閉じるところだった。
 いつもと変わらない。
 顔色も、動きも。

 ──いや。

 視線が、違う。

 葉月が一歩踏み込んだ瞬間、
 レイの視線が、ぴたりと止まった。

「……何か、あった?」

 問いは、穏やかだ。
 だが、逃げ道のない聞き方だった。

「え?」

「怪我じゃない。
 でも……」

 レイは、葉月の周囲を見る。
 空気を、確かめるように。

「“使った”?」

 一瞬、言葉に詰まる。

 誤魔化そうと思えば、できた。
 だが。

「……ちょっとだけ」

 正直に、答えてしまった。

 レイは、目を伏せる。
 それから、静かに息を吐いた。

「どこまで」

「……分からない」

 沈黙。

 店の外で、子どもの笑い声がする。
 鍋の蓋が鳴る音。
 日常の音。

 その中で、レイだけが、違う時間に立っていた。

「葉月」

 名を呼ばれる。

「次は、勝手に踏み込んではダメ」

 叱責ではない。
 命令でもない。

 ──警告だ。

「境界は、一度越えると、
 次から“越えやすく”なる」

 葉月は、息を呑む。

「身体が、覚える。
 心が、“正当化”を覚える」

 走馬の顔が、脳裏をよぎる。
 “拒まれた”感触。

「そうやって、
 戻れなくなった人間を……」

 レイは、言葉を切った。

「私は、何人も見てきた」

 葉月は、拳を握る。

「……でも」

 声が、震える。

「使わなきゃ、守れない時もある」

 レイは、葉月を見る。
 まっすぐに。

「うん」

 否定しなかった。

「──だからこそ、選んで」

 その言葉は、
 昨日、京香が言ったものと、
 不思議なほど、重なっていた。

 ◆◆◆

 その頃。

 町から遠く離れた場所で、
 一つの“観測”が完了していた。

 黒い部屋。
 光のない空間。

 そこには、風も、音もない。
 あるのは、淡い光と、整然と並ぶ“記録”だけ。

 円形の部屋の中央。
 一つの席に、女が腰を下ろしていた。

 白に近い銀髪。
 感情を削ぎ落としたような眼差し。
 年齢は、分からない。

 だが。
 そこに座ることを許されているという事実だけで、
 彼女の立場は明白だった。

「……未達成、ね」

 低い声。
 問いというより、確認。

「はい」

 端末の前に立つ男が答える。

「対象、真霜 玲奈。
 睦月 理久による一次駆除、未達成」

「理久が?」

 女は、ほんのわずかに眉を動かした。

「珍しいわね。
 あの子、獲物を逃がすのは嫌いでしょう」

「それが……“遊び過ぎた”との報告です」

 女は、小さく息を吐いた。

「……だから嫌なのよ、あの子」

 興味を失ったように、視線を逸らす。

「それと──邪魔が、入ったと」

 淡々と、報告が続く。

「"暗殺者"が対象以外の人間に見つかってる時点で……ね」

 女が肩をすくめる。
 そして、呆れ気味に溜め息をつきながら、振り返る。

「次は?」

「再派遣、及び条件更新です」

 男が、画面を切り替える。

 そこに映し出されたのは、三つの名前。

「神谷 京二」
「神谷 京香」
「未登録個体──雪村 葉月」

 一つずつ、淡々と。

「……増えたわね」

「境界反応を確認しています」

 女の指が、机を叩く。
 軽い音。

「葉月。
 この名前……」

 何かを思い出すように、少し間が空く。

「いいえ。記録はありません」

 男が即答する。

「ですが、霊力波形は、
 一時的とはいえ“境界値”を超過」

 女は、目を細めた。

「一時的、ね」

 立ち上がる。
 銀髪が、光を受けて揺れる。

「境界を超えた人間は、
 二種類しかいない」

 歩きながら、言う。

 No1である走馬が、任務そっちのけで、観察したほどの──存在。

「壊れるか。
 ──踏みとどまるか」

 足を止める。

「彼の運命は──
 どっちかしらね」

 振り返り、男を見る。

「町は?」

「日常を維持しています」

「なら、壊しましょう」

 声は、淡々としていた。

「全部じゃない。
 “一箇所”でいい」

 男が、僅かに息を呑む。

「……了解しました」

「駆除対象レイは?」

「現状、保留です」

 女は、微笑った。

「ええ。そのままでいいわ」

「彼女は……」

 一瞬、言葉を選ぶ。

「“呼び水”になる」

 銀髪の女──
 黒い塔の現No.2『ワタリ』は、そう断じた。
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