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第3章/死の境界 cross-border
3-④/歪み
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次の"異変"は、翌日の昼前に起きた。
神谷堂の裏手。
倉庫へ続く細い路地で、葉月は足を止めた。
「……?」
空気が、重い。
昨日の川沿いとは違う。
霊圧が強いわけでも、殺気があるわけでもない。
ただ──町の音が、少しだけ“ズレている”。
遠くの話し声。
車の走行音。
すべてが、微妙に遅れて届く。
まるで、ここだけ膜を一枚挟まれているみたいだった。
「……また、か」
嫌な予感が、背中を撫でる。
葉月は、凩に手をかけた。
抜かない。
だが、離さない。
路地の奥。
倉庫のシャッター前に、人が倒れていた。
「……っ!」
駆け寄る。
中年の男。
顔色が悪い。
呼吸は──ある。
「大丈夫ですか!」
声をかけても、反応がない。
だが。
男の影が、妙だった。
地面に落ちているはずの影が、
男の身体と、わずかに“ずれている”。
影だけが、呼吸している。
「……やっぱり」
昨日の怪異と、似ている。
だが、決定的に違う。
弱くない。
逃げない。
そして──人に、取り憑いている。
影が、ゆっくりと持ち上がる。
男の背後から、ぬるりと這い出すように。
人の形。
だが、顔がない。
こちらを、見ている。
「……離れろ」
低く告げる。
影は、答えない。
代わりに、男の身体が、びくりと跳ねた。
「……!」
男の喉から、意味のない音が漏れる。
苦しそうに、身体をよじる。
このまま放置すれば、確実に死ぬ。
凩を構える。
だが──
昨日の感覚が、蘇る。
あの、軽さ。
あの、踏み込み。
同じ出力で斬れば、
影だけでなく、男も巻き込む。
「……くそ」
歯を噛みしめる。
出力を落とす。
だが、影は剥がれない。
力を込めないと、斬れない。
斬れば──壊れる。
選択肢は、二つしかない。
葉月は、息を吸った。
深く。
意識的に。
昨日とは、違う。
衝動じゃない。
反射でもない。
──分かっていて、踏み込む。
身体の奥で、何かが開く感覚。
境界が、近づく。
「……一瞬だけだ」
自分に言い聞かせる。
凩を、振る。
昨日ほどの速度はない。
だが、確実に“届く”一撃。
影が、裂けた。
同時に、男の身体が崩れ落ちる。
「……っ」
慌てて支える。
呼吸はある。
脈も、戻っている。
影は、消えた。
だが──
葉月の膝が、がくりと落ちた。
「……っ、は……」
視界が、揺れる。
頭が、重い。
昨日より、はっきりしている。
境界に触れた代償。
力を使った、という実感。
「……また、使った」
息が、荒い。
その時。
路地の外から、足音がした。
「葉月!」
京二の声。
駆け寄ってくる気配。
葉月は、凩を強く握る。
逃げなかった。
斬った。
守った。
だが。
昨日よりも、確実に深く──
境界に、足を入れてしまった。
遠く。
見えない場所で。
“観測値”が、再び更新される。
京二は、男の容体を一目見て、すぐに状況を理解した。
「……憑かれてたな」
低く呟き、男の首元に触れる。
符を一枚取り出し、静かに貼る。
男の呼吸が、徐々に安定していく。
その一連の動きを見ながら、葉月は思った。
──見ていないはずだ。
自分が力を使った瞬間を。
境界を越えた、その一歩を。
京二は、この場にいなかった。
路地の奥にも、気配はなかった。
それなのに。
「……二度目、だな」
その一言で、
全てを言い当てられた気がした。
葉月の喉が、ひくりと鳴る。
否定する言葉は、浮かばなかった。
誤魔化す余地も、最初からなかった。
──この人には、隠せない。
技を見られたわけじゃない。
霊力の痕跡を追われたわけでもない。
もっと、根本的なところ。
自分の「立ち位置」そのものを、
最初から把握されている。
そういう確信だけが、あった。
「……はい」
短く答える。
声が、少しだけ掠れた。
京二は、葉月の手元を見る。
凩を、強く握り締めた指。
「手、離せ」
一瞬、ためらってから、従う。
指が、ゆっくりと木刀から離れる。
その瞬間。
膝の震えが、はっきりと伝わってきた。
──ああ。
やっぱり、この人は。
最初から、全部分かっていた。
京二は、符を剥がし終えると、ゆっくりと立ち上がった。
「無理は、してないな」
問いではなかった。
確認でもなかった。
ただの、事実確認。
「……はい」
葉月は、そう答えるしかなかった。
京二は、少しだけ葉月を見る。
視線は鋭くも、探るようでもない。
まるで、昔からそこにあるものを見ているようだった。
「踏み込みすぎてはいない」
淡々とした声。
「だが、引き返せる場所には、もう立っていない」
胸の奥が、ひくりと鳴る。
──やっぱり。
やっぱり、この人は知っている。
“越えた側”と、“踏みとどまった側”の違いを。
京二は、何かを思い出すように、視線を外した。
庭の隅。
古い石灯籠の影。
「昔な」
ぽつりと、独り言のように言う。
「力を使うたびに、
正しい理由が増えていく時期があった」
葉月は、息を呑む。
京二の口から、こんな言葉が出るとは思わなかった。
「守るためだ。
仕方なかった。
あれしかなかった──」
一つずつ、噛みしめるように。
「そうやって、
踏み出した理由だけは、
いくらでも作れる」
京二は、葉月を見る。
「だがな。
戻る理由は、作れない」
その言葉は、静かだった。
感情も、怒りもない。
それが、かえって重い。
──この人は。
葉月は、はっきりと理解した。
この人は、見てきたのだ。
力に呑まれていった人間を。
理由を積み上げて、戻れなくなった人間を。
そして、きっと。
自分自身も。
「……俺は」
言葉を探す。
だが、うまく出てこない。
京二は、首を横に振った。
「言わなくていい」
一歩、距離を取る。
「選ぶのは、お前だ」
その距離が、絶妙だった。
近すぎず、遠すぎない。
手を伸ばせば届く。
だが、掴まれはしない。
──この人が、止めるとしたら。
葉月の中で、唐突に、そんな考えが浮かぶ。
この人が。
本気で、止めに来たら。
自分は、きっと抗えない。
力の話じゃない。
技量でもない。
「戻る側」に立ち続けてきた人間の重さ。
それを、真正面から突きつけられたら──
自分は、きっと折れる。
そして。
もし、それでも止まれなくなったら。
──終わりだ。
自分は、その時点で、
“帰る場所”を失う。
京二は、それ以上、何も言わなかった。
だが、その沈黙が、何よりも雄弁だった。
「……気をつけます」
葉月は、そう言った。
誓いでも、約束でもない。
ただの、確認だった。
京二は、わずかに頷く。
「それでいい」
それだけ言って、踵を返す。
その背中を見送りながら、
葉月は、凩を握り直した。
──越えてはいけない線は、まだある。
そして。
その線を、最後に示してくれる人間が、
まだ、ここにいる。
それだけが、
今の自分にとっての、救いだった。
京二は、数歩進んだところで、ふと立ち止まった。
「……一つだけ」
背中を向けたまま、言う。
葉月は、無意識に背筋を伸ばしていた。
「お前の力は、本来“守る側”に寄っている」
振り返らない。
だが、言葉は正確だった。
「踏ん張る。
受け止める。
耐える」
それは、葉月自身がはっきり自覚していた部分でもある。
「だがな」
京二は、ゆっくりと振り返る。
「そのまま力を積み上げれば、
いずれ身体が先に壊れる」
言い切りだった。
可能性の話ではない。
「……じゃあ、どうすれば」
葉月の声は、低くなっていた。
京二は、少しだけ目を細める。
迷っているというより、覚悟を測っているような視線。
「方法は、ある」
葉月の喉が、鳴った。
「霊力の流れを、身体から切り離す」
「切り離す……?」
「正確には、逃がす」
京二は、床に置かれていた凩を見る。
「身体に巡らせるな。
武器に集めろ」
一瞬、理解が追いつかなかった。
「凩に……?」
「そうだ」
京二は、淡々と続ける。
「身体を“器”にするな。
通り道にするだけだ」
葉月は、はっとした。
今までの自分は、違った。
力を、身体で受け止め。
身体で耐え。
身体で振るっていた。
「武器に霊力を集中させれば、
身体への負担は、段違いに減る」
京二は、視線を逸らさない。
「消耗も抑えられる。
短時間なら、出力も上げられる」
葉月の胸が、ざわつく。
「……でも」
直感的に、分かってしまった。
「代わりに」
京二は、先に答えた。
「その間、身体は“空”になる」
葉月は、息を呑む。
「防御は、ゼロだ。
一撃でも貰えば、終わる」
静かな声だった。
だが、逃げ場はなかった。
「使いどころを間違えれば、
ただの自殺だ」
しばし、沈黙。
葉月は、凩を見つめる。
自分の手に馴染んだ、木刀。
「……それでも」
声が、自然と出た。
「それができれば、
守れる範囲が、変わる」
京二は、ゆっくりと頷いた。
「そうだ」
そして、続ける。
「だがな、葉月」
一歩、距離を詰める。
「それを“覚える”ということは」
低く、重い声。
「完全に、境界を越えるということだ」
空気が、張り詰めた。
「黒い塔は、必ず嗅ぎつける。
逃げ場は、なくなる」
葉月の脳裏に、走馬の顔。
黒い塔の存在。
“観測”という言葉。
「境界を超えるということは」
京二は、静かに言った。
「常に、“死”が付き纏うということだ」
否定も、慰めもない。
ただの事実。
京二は、懐から小さな紙を取り出す。
折り畳まれた、古い地図。
それを、葉月に差し出した。
「それでも」
一瞬だけ、視線が鋭くなる。
「覚悟があるなら」
地図を、指で軽く叩く。
「ここに来い」
葉月は、迷わず受け取った。
紙の感触が、やけに重い。
「……ありがとうございます」
京二は、何も答えない。
ただ、背を向ける。
「戻れなくなっても、文句は言うな」
その言葉だけが、残った。
葉月は、地図を握り締める。
──防御を捨てて、攻撃に回す。
それは、力の使い方の話じゃない。
生き方を、一段、前に出すということだ。
境界は、もう目の前にある。
そして。
それを越える扉は──
今、自分の手の中にあった。
神谷堂の裏手。
倉庫へ続く細い路地で、葉月は足を止めた。
「……?」
空気が、重い。
昨日の川沿いとは違う。
霊圧が強いわけでも、殺気があるわけでもない。
ただ──町の音が、少しだけ“ズレている”。
遠くの話し声。
車の走行音。
すべてが、微妙に遅れて届く。
まるで、ここだけ膜を一枚挟まれているみたいだった。
「……また、か」
嫌な予感が、背中を撫でる。
葉月は、凩に手をかけた。
抜かない。
だが、離さない。
路地の奥。
倉庫のシャッター前に、人が倒れていた。
「……っ!」
駆け寄る。
中年の男。
顔色が悪い。
呼吸は──ある。
「大丈夫ですか!」
声をかけても、反応がない。
だが。
男の影が、妙だった。
地面に落ちているはずの影が、
男の身体と、わずかに“ずれている”。
影だけが、呼吸している。
「……やっぱり」
昨日の怪異と、似ている。
だが、決定的に違う。
弱くない。
逃げない。
そして──人に、取り憑いている。
影が、ゆっくりと持ち上がる。
男の背後から、ぬるりと這い出すように。
人の形。
だが、顔がない。
こちらを、見ている。
「……離れろ」
低く告げる。
影は、答えない。
代わりに、男の身体が、びくりと跳ねた。
「……!」
男の喉から、意味のない音が漏れる。
苦しそうに、身体をよじる。
このまま放置すれば、確実に死ぬ。
凩を構える。
だが──
昨日の感覚が、蘇る。
あの、軽さ。
あの、踏み込み。
同じ出力で斬れば、
影だけでなく、男も巻き込む。
「……くそ」
歯を噛みしめる。
出力を落とす。
だが、影は剥がれない。
力を込めないと、斬れない。
斬れば──壊れる。
選択肢は、二つしかない。
葉月は、息を吸った。
深く。
意識的に。
昨日とは、違う。
衝動じゃない。
反射でもない。
──分かっていて、踏み込む。
身体の奥で、何かが開く感覚。
境界が、近づく。
「……一瞬だけだ」
自分に言い聞かせる。
凩を、振る。
昨日ほどの速度はない。
だが、確実に“届く”一撃。
影が、裂けた。
同時に、男の身体が崩れ落ちる。
「……っ」
慌てて支える。
呼吸はある。
脈も、戻っている。
影は、消えた。
だが──
葉月の膝が、がくりと落ちた。
「……っ、は……」
視界が、揺れる。
頭が、重い。
昨日より、はっきりしている。
境界に触れた代償。
力を使った、という実感。
「……また、使った」
息が、荒い。
その時。
路地の外から、足音がした。
「葉月!」
京二の声。
駆け寄ってくる気配。
葉月は、凩を強く握る。
逃げなかった。
斬った。
守った。
だが。
昨日よりも、確実に深く──
境界に、足を入れてしまった。
遠く。
見えない場所で。
“観測値”が、再び更新される。
京二は、男の容体を一目見て、すぐに状況を理解した。
「……憑かれてたな」
低く呟き、男の首元に触れる。
符を一枚取り出し、静かに貼る。
男の呼吸が、徐々に安定していく。
その一連の動きを見ながら、葉月は思った。
──見ていないはずだ。
自分が力を使った瞬間を。
境界を越えた、その一歩を。
京二は、この場にいなかった。
路地の奥にも、気配はなかった。
それなのに。
「……二度目、だな」
その一言で、
全てを言い当てられた気がした。
葉月の喉が、ひくりと鳴る。
否定する言葉は、浮かばなかった。
誤魔化す余地も、最初からなかった。
──この人には、隠せない。
技を見られたわけじゃない。
霊力の痕跡を追われたわけでもない。
もっと、根本的なところ。
自分の「立ち位置」そのものを、
最初から把握されている。
そういう確信だけが、あった。
「……はい」
短く答える。
声が、少しだけ掠れた。
京二は、葉月の手元を見る。
凩を、強く握り締めた指。
「手、離せ」
一瞬、ためらってから、従う。
指が、ゆっくりと木刀から離れる。
その瞬間。
膝の震えが、はっきりと伝わってきた。
──ああ。
やっぱり、この人は。
最初から、全部分かっていた。
京二は、符を剥がし終えると、ゆっくりと立ち上がった。
「無理は、してないな」
問いではなかった。
確認でもなかった。
ただの、事実確認。
「……はい」
葉月は、そう答えるしかなかった。
京二は、少しだけ葉月を見る。
視線は鋭くも、探るようでもない。
まるで、昔からそこにあるものを見ているようだった。
「踏み込みすぎてはいない」
淡々とした声。
「だが、引き返せる場所には、もう立っていない」
胸の奥が、ひくりと鳴る。
──やっぱり。
やっぱり、この人は知っている。
“越えた側”と、“踏みとどまった側”の違いを。
京二は、何かを思い出すように、視線を外した。
庭の隅。
古い石灯籠の影。
「昔な」
ぽつりと、独り言のように言う。
「力を使うたびに、
正しい理由が増えていく時期があった」
葉月は、息を呑む。
京二の口から、こんな言葉が出るとは思わなかった。
「守るためだ。
仕方なかった。
あれしかなかった──」
一つずつ、噛みしめるように。
「そうやって、
踏み出した理由だけは、
いくらでも作れる」
京二は、葉月を見る。
「だがな。
戻る理由は、作れない」
その言葉は、静かだった。
感情も、怒りもない。
それが、かえって重い。
──この人は。
葉月は、はっきりと理解した。
この人は、見てきたのだ。
力に呑まれていった人間を。
理由を積み上げて、戻れなくなった人間を。
そして、きっと。
自分自身も。
「……俺は」
言葉を探す。
だが、うまく出てこない。
京二は、首を横に振った。
「言わなくていい」
一歩、距離を取る。
「選ぶのは、お前だ」
その距離が、絶妙だった。
近すぎず、遠すぎない。
手を伸ばせば届く。
だが、掴まれはしない。
──この人が、止めるとしたら。
葉月の中で、唐突に、そんな考えが浮かぶ。
この人が。
本気で、止めに来たら。
自分は、きっと抗えない。
力の話じゃない。
技量でもない。
「戻る側」に立ち続けてきた人間の重さ。
それを、真正面から突きつけられたら──
自分は、きっと折れる。
そして。
もし、それでも止まれなくなったら。
──終わりだ。
自分は、その時点で、
“帰る場所”を失う。
京二は、それ以上、何も言わなかった。
だが、その沈黙が、何よりも雄弁だった。
「……気をつけます」
葉月は、そう言った。
誓いでも、約束でもない。
ただの、確認だった。
京二は、わずかに頷く。
「それでいい」
それだけ言って、踵を返す。
その背中を見送りながら、
葉月は、凩を握り直した。
──越えてはいけない線は、まだある。
そして。
その線を、最後に示してくれる人間が、
まだ、ここにいる。
それだけが、
今の自分にとっての、救いだった。
京二は、数歩進んだところで、ふと立ち止まった。
「……一つだけ」
背中を向けたまま、言う。
葉月は、無意識に背筋を伸ばしていた。
「お前の力は、本来“守る側”に寄っている」
振り返らない。
だが、言葉は正確だった。
「踏ん張る。
受け止める。
耐える」
それは、葉月自身がはっきり自覚していた部分でもある。
「だがな」
京二は、ゆっくりと振り返る。
「そのまま力を積み上げれば、
いずれ身体が先に壊れる」
言い切りだった。
可能性の話ではない。
「……じゃあ、どうすれば」
葉月の声は、低くなっていた。
京二は、少しだけ目を細める。
迷っているというより、覚悟を測っているような視線。
「方法は、ある」
葉月の喉が、鳴った。
「霊力の流れを、身体から切り離す」
「切り離す……?」
「正確には、逃がす」
京二は、床に置かれていた凩を見る。
「身体に巡らせるな。
武器に集めろ」
一瞬、理解が追いつかなかった。
「凩に……?」
「そうだ」
京二は、淡々と続ける。
「身体を“器”にするな。
通り道にするだけだ」
葉月は、はっとした。
今までの自分は、違った。
力を、身体で受け止め。
身体で耐え。
身体で振るっていた。
「武器に霊力を集中させれば、
身体への負担は、段違いに減る」
京二は、視線を逸らさない。
「消耗も抑えられる。
短時間なら、出力も上げられる」
葉月の胸が、ざわつく。
「……でも」
直感的に、分かってしまった。
「代わりに」
京二は、先に答えた。
「その間、身体は“空”になる」
葉月は、息を呑む。
「防御は、ゼロだ。
一撃でも貰えば、終わる」
静かな声だった。
だが、逃げ場はなかった。
「使いどころを間違えれば、
ただの自殺だ」
しばし、沈黙。
葉月は、凩を見つめる。
自分の手に馴染んだ、木刀。
「……それでも」
声が、自然と出た。
「それができれば、
守れる範囲が、変わる」
京二は、ゆっくりと頷いた。
「そうだ」
そして、続ける。
「だがな、葉月」
一歩、距離を詰める。
「それを“覚える”ということは」
低く、重い声。
「完全に、境界を越えるということだ」
空気が、張り詰めた。
「黒い塔は、必ず嗅ぎつける。
逃げ場は、なくなる」
葉月の脳裏に、走馬の顔。
黒い塔の存在。
“観測”という言葉。
「境界を超えるということは」
京二は、静かに言った。
「常に、“死”が付き纏うということだ」
否定も、慰めもない。
ただの事実。
京二は、懐から小さな紙を取り出す。
折り畳まれた、古い地図。
それを、葉月に差し出した。
「それでも」
一瞬だけ、視線が鋭くなる。
「覚悟があるなら」
地図を、指で軽く叩く。
「ここに来い」
葉月は、迷わず受け取った。
紙の感触が、やけに重い。
「……ありがとうございます」
京二は、何も答えない。
ただ、背を向ける。
「戻れなくなっても、文句は言うな」
その言葉だけが、残った。
葉月は、地図を握り締める。
──防御を捨てて、攻撃に回す。
それは、力の使い方の話じゃない。
生き方を、一段、前に出すということだ。
境界は、もう目の前にある。
そして。
それを越える扉は──
今、自分の手の中にあった。
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