Frail/Little Assassin

新田朝弥

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第4章/千荊万棘 pointing towards us

4-⑪/散花

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 夜の東区画に、静寂が戻りつつあった。

 結界の内側。
 瓦礫と血痕。
 折れた街灯。

 神谷 京香は、地面に膝をついていた。

 呼吸が、浅い。
 視界は、まだ白く滲んでいる。

 身体は、ほとんど動かない。
 終式の反動が、確実に残っていた。

 それでも。

 彼女は、倒れたままのワタリから、
 一瞬たりとも視線を逸らしていなかった。

 ──終わっていない。

 直感が、そう告げていた。

 次の瞬間。

 ぴし、と。
 空気が、割れる音がした。

 京香の背後。

 結界が──解けていた。

「……っ!」

 霊力の境界が消え、
 街の音が、流れ込んでくる。

 遠くのクラクション。
 誰かの話し声。
 無関係な、日常。

 ──まずい。

 その理解と、ほぼ同時だった。

「……あら」

 ワタリが、ゆっくりと起き上がる。

 全身は、血に塗れている。
 片腕は、だらりと垂れ下がり、
 明らかに戦闘続行は不可能な状態。

 だが。

 その瞳だけは、まだ生きていた。

「結界が、解けたわね」

 楽しげですらある声音。

 京香の背筋に、冷たいものが走る。

「……やめなさい……」

 声が、掠れる。

 立とうとして、
 足に力が入らず、崩れ落ちた。

 ワタリは、それを見て、
 小さく笑った。

「無理しなくていいわ」

 峨嵋刺を、残った手で軽く振る。

 霊力が、収束する。

「あなたとは、また今度」

 そして──
 視線を、街の方へ向けた。

 一般人。
 結界の外。
 何も知らない、無防備な存在。

「……っ、待て……!」

 京香が、叫ぶ。

 だが。

「──“棘雨きょくう”」

 無数の針が、放たれた。

 街路樹の影。
 歩道。
 車道。

 人影の方向へ。

 悲鳴が、上がりかける。

 その瞬間。

 京香は、考えなかった。

 ──守れるか、ではない。
 ──守らなければならない。

 その一択だけが、身体を動かした。

 無理やり、立ち上がり、
 地面を蹴る。

 筋肉が、悲鳴を上げる。
 脚が、裂ける感覚。

 それでも。

 京香は、前に出た。

「──っ!!」

 刃を、振る。

 壱式でも、弐式でもない。
 型にすらならない、ただの一振り。

 針の進路に、身体を滑り込ませる。

 次の瞬間。

 衝撃。

 刺さる。
 弾く。
 貫く。

 痛みが、爆発した。

 背中。
 肩。
 脇腹。

 だが。

 悲鳴は、上がらなかった。

 針は、地面に落ち、
 人影は、無傷のまま立ち尽くしている。

「……あら」

 ワタリが、目を細めた。

 感心。
 呆れ。
 そして、わずかな苛立ち。

「そこまでして……」

 京香は、立っていた。

 立っている、だけだった。

 刃を、地面に突き立て、
 それに身体を預けている。

 血が、足元に広がる。

「……人を……」

 声が、震える。

「道具に……するな……」

 ワタリは、一瞬だけ、黙った。

 そして。

 肩を、すくめた。

「……だから、嫌なのよ」

 吐き捨てるように。

「アンタみたいなの」

 次の瞬間。
 ワタリの足元に、棘が伸びる。

 逃走用の、展開。

「今回は……引くわ」

 淡々とした宣告。

「でも、覚えておきなさい」

 視線が、京香を捉える。

「あなたが守ったその“日常”は、
 いつか、必ず足を引っ張る」

 そして、最後に。

「それでも、あなたは守る。
 ……そういう人なんでしょうね」

 棘が、弾ける。

 次の瞬間。
 ワタリの姿は、夜の闇に溶けた。

 残されたのは、
 血の匂いと、静まり返った通りだけ。

 京香は、膝を折った。

 刃が、手から滑り落ちる。

 視界が、暗い。
 もう、限界だった。

 ……それでも。

 人の悲鳴が、上がっていないことを確認して、
 小さく、息を吐いた。

「……よかった……」

 その声は、
 ほとんど、音になっていなかった。

 ◆◆◆

「──京香さん!!」

 その声が聞こえたのは、
 意識が、遠のきかけた時だった。

 駆け寄ってくる足音。
 視界の端に、見慣れた影。

 葉月だ。

 息を切らし、
 必死な顔で、京香の前に膝をつく。

「なに……やってるんですか……!」

 震える声。

「こんな……こんな状態で……!」

 京香は、ぼんやりと、彼女を見た。

「……遅かったわね……」

 かすれた笑み。

「す、すみません……!
 結界が、急に……!」

「いいのよ……」

 京香は、ゆっくりと首を振る。

「間に合った……」

 葉月の喉が、詰まる。

「……勝ったんですか……?」

「ええ……」

 短い返事。

「完全に……ね……」

 その言葉に、
 葉月の肩が、わずかに震えた。

 安堵。
 そして、恐怖。

「……もう、喋らないでください……」

 京香は、空を見上げる。

 夜空。
 いつもと変わらない星。

「ねえ……葉月……」

「……はい」

「あなたは……」

 言葉を、探す。

「……私みたいに、ならなくていい……」

 葉月が、顔を上げる。

「京香さん……?」

「強く……なろうとしなくていい……」

 息が、細くなる。

「正しく……生きなさい……」

 一瞬、間が空く。

「それが……一番、難しいから……」

 葉月の目から、
 ぽろりと、涙が落ちた。

「……そんなの……」

 声が、震える。

「京香さんが……一番、そうじゃないですか……」

 京香は、わずかに笑った。

「……そうかも……ね……」

 視線が、少しだけ、遠くを見る。

 思い浮かぶのは、
 不器用な背中。

 真っ直ぐすぎる瞳。

 ──レイ。

「……あの子に……」

 小さな声。

「……伝えて……」

「……何を……?」

「……"真実と、向き合え"って……」

 葉月は、唇を噛み締め、
 強く、頷いた。

「……必ず……」

「あと、兄貴に……」

 一瞬、言葉が止まる。

「……ちゃんと、生きろって言っておいて」

 葉月の頬に、京香の手が触れる。

「……葉月」

 声を、絞り出す。

「アンタとの訓練……楽し……かったよ……」

 京香は、そう言って、
 ようやく、目を閉じた。
 頬に触れた手が、だらんと下がる。

 笑顔のまま閉じられた目。
 満足そうに佇むその顔は、
 人形のように、綺麗だった。

 夜の東区画。

 戦いは、終わった。

 だが。
 残された火は、
 まだ、消えてはいなかった。

 それは、誰かの胸に、
 確かに灯っていた。

 ◆◆◆

 黒い塔の地下は、いつ来ても音がない。

 正確には、音を“消している”。

 壁も。
 床も。
 空気さえも。

 ここでは、悲鳴も命乞いも、
 外へは一切漏れない。

 ワタリは、拘束椅子に座らされていた。

 治療は最低限。
 止血のみ。
 骨は、繋がれていない。

 逃げる力も、
 戦う力も、
 既に、ない。

「……来たのね」

 足音に気づき、
 ワタリが顔を上げた。

 そこに立っていたのは、
 鞘師 走馬。

 黒装束。
 腰に据えた日本刀。
 表情は、いつも通り読めない。

「用件は分かっているな」

 走馬は、淡々と告げた。

「黒い塔の機密事項を、
 独断で下界へ持ち出した」

 事実確認でも、
 尋問でもない。

 これは、
 宣告だ。

 ワタリは、小さく笑った。

「……その理由は、聞かないの?」

「不要だ」

 走馬は、一歩も近づかない。

「結果だけで、十分だ」

 ワタリは、目を細める。

「相変わらず、冷たいのね」

「感情で判断する場所ではないだろう?」

「そうね……」

 ワタリは、天井を見上げた。

「でも、無駄じゃなかったわ」

 その声には、
 後悔はなかった。

「彼女……神谷 京香」

 その名に、
 走馬の眉が、僅かに動く。

「やっぱり、化け物ね」

 楽しそうに、
 ワタリは続ける。

「理屈も、準備も、
 全部壊してきた」

「……」

「私の負けよ」

 あっさりと。

 潔い、というより、
 価値基準が違うだけの口調。

「でも、満足してる」

 視線が、走馬を捉える。

「彼女は、壊れたでしょう?」

「……」

「それでいいのよ」

 ワタリは、微笑んだ。

「“正しさ”っていうのは、
 必ず、誰かを削る」

 走馬は、初めて口を開いた。

「結論は、同意できない」

 短く。

「だが──」

 一歩、近づく。

「お前が危険因子であることは、
 十分に証明された」

 走馬は、手袋を外す。

 霊力が、
 静かに立ち上がった。

「"駆除命令"だ」

 ワタリは、
 それを聞いても、
 顔色一つ変えなかった。

「……そう」

 小さく、息を吐く。

「最後に、一つだけ」

「許可しない」

 即答。

「……ふふ」

 それでも、ワタリは笑った。

「やっぱり、嫌いだわ。
 あなた」

 次の瞬間。

 走馬の手が、動いた。

 速さも、
 派手さもない。

 ただ、
 正確だった。

 霊力が、
 ワタリの中枢を断つ。

 抵抗も、
 苦悶も、
 声すらない。

 身体が、
 静かに崩れ落ちた。

 数秒。

 走馬は、その場を動かない。

 生命反応、消失。
 霊力残滓、なし。

 処理完了。

「……」

 走馬は、視線を伏せる。

 そこに、
 勝者の感情はない。

 正義も、
 達成感もない。

 ただ一つ。

「……遅かったな」

 誰に向けた言葉でもなく。

 記録にも、
 残らない独白。

 黒い塔は、
 何事もなかったように、
 静寂を保ち続ける。

 黒い塔のNo.2、及び参謀、
 弥 生吹わたり いぶきという存在は、
 その夜、
 正式に“処理済み”となった。
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