Brain/緑の章

新田朝弥

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第1章/世にも奇妙な贈り物 Chain of Misfortune

1-③/Brake Before Fate

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 外に出た瞬間、空気の温度が違った。

 屋敷の中の、あの重たい静けさが嘘みたいに消える。
 陽の光は白くて、やけに現実的だった。

 ——ガレージ。

 敷地の端を見渡す。
 それらしい建物はない。

 裏手かと思って足を向けかけたところで、背後から豊春の声が飛んできた。

「車は外だ。歩いて行ける距離の専用区画に置いてある」

 思わず振り返る。

「……専用?」

 屋敷の敷地内に収まらない“自分の駐車場”が別にある、ってことか。

 頭の中に浮かんだのは、
 実家近くの月極の砂利の駐車場だった。
 白線も消えかけてて、どこに停めてもだいたい同じなやつ。

 ——規模が違いすぎる。

 さすが資産家。
 心の中だけで呟いて、すぐに歩き出す。

 ——徒歩で三分。

 さっき豊春が言っていた距離を、頭の中でなぞる。

 講演用の車は外の専用区画。
 長距離の移動は必ずあれを使う。

 つまり、狙うならそこだ。

 角を曲がると、低いフェンスに囲まれた駐車場が見えた。
 屋外だが、区画はきっちり線引きされている。
 防犯カメラが二基。出入口側と、奥の電柱。

 並んでいる車はどれも高級車だ。
 生活の匂いがしない。
 “置かれている”というより、“管理されている”空間。

 その一角に、豊春の車があった。

 黒のセダン。
 見慣れた車体。

 だが——

 足が、止まる。

 近づく前から、妙な感覚があった。

 剣道でいうなら、
 間合いの外にいるのに、打突の気配だけが先に来るような。

 静かすぎる。

 朝の住宅街の音はある。
 遠くの車。
 鳥の声。

 なのに、この一台だけ、空気から浮いている。

 ゆっくり近づく。
 周囲を一周する。

 ボディに傷はない。
 ガラスも正常。
 タイヤも一見問題ない。

 しゃがむ。

 アスファルトを見る。

 ……跡。

 うっすらと残る、擦れた線。

 タイヤのものじゃない。
 もっと細い。
 金属を引きずったような。

 車体の下を覗き込む。

 心臓が一度、大きく跳ねた。

「……マジかよ」

 呟きが漏れる。

 手を伸ばしかけて、止める。

 ──素手で触るな。

 頭の中で、豊春の声がした気がした。

 立ち上がり、ポケットからスマホを出す。
 まず写真。角度を変えて数枚。
 それから、もう一度しゃがむ。

 今度は距離を詰めずに、目だけで確認する。

 車体の奥。
 配線。

 明らかに、元からそこにある形じゃない。

 ——細工されてる。

 喉の奥が熱くなる。

 呪いなんかじゃない。
 人だ。
 完全に、人がやってる。

 背後で足音がした。

「……もう来てたのか」

 振り向くと、豊春が立っていた。

 スーツ姿。
 ネクタイも締めている。
 講演に行く、そのままの格好。

 俺は車の下を指さす。

「これ」

 豊春の目が細くなる。

 何も言わずに屈み込み、覗き込む。

 数秒。

 その背中が、わずかに硬くなる。

「……なるほど」

 声は低いままだったが、
 書斎にいた時とは違う。

 仕事の声だ。

「事故で済めばいい方だな」

「済ませる気、あったんすかね」

「さあな」

 豊春は立ち上がる。

 表情は変わらない。
 だが、視線の温度が下がっている。

 完全に、スイッチが入った顔。

「外す」

 短く言って、車に手をかける。

「待ってください」

 俺は思わず口を挟んだ。

「時間、間に合うんすか」

「間に合わせる」

 即答だった。

 その言い方が、
 この人の生き方そのものみたいで、
 少しだけ笑いそうになる。

 ——やっぱり、一人で全部やる気か。

 ポケットの中で、スマホが震えた。
 薊からの着信。

 画面を見て、
 それから車体の下の配線を見る。

 残り時間は、確実に減っている。
 だが今は、
 嫌な予感が、はっきり形になった。

 通話ボタンを押す前に、背後から荒い足音が近づいてきた。

「——ちょっと待ちな!」

 振り返る。

 薊だった。
 息が少し上がっている。走ってきたらしい。

 視線が、俺の顔から車へ移る。
 そしてすぐに豊春の手元に落ちる。

「……何やってんの」

 責める声じゃない。
 状況を飲み込もうとしている声だった。

 俺は一歩横にずれる。

「見てみ」

 薊がしゃがみ込む。

 数秒。

「なにこれ……」

 低い声だった。
 店にいる時の、あの強気な調子がない。

「だから…触るなって言ったのよ」

 視線は車の下のまま。
 けれどその言葉は、俺じゃなく豊春に向いている。

 豊春は工具を取り出しながら答える。

「触ってはいない。開封しただけだ」

「同じでしょ」

「違う」

 短い。
 それ以上、言い合わない。
 夫婦の間にある“やり方の違い”が、その一往復だけで分かる。

 薊が立ち上がる。

「講演、どうすんの」

「勿論、行く」

 間髪入れず返る。

「この状態で?」

「だから外す」

「業者呼べばいいでしょ」

「時間がない」

 また即答。

 その言い方に、薊の眉間が深く寄る。

「……そうやって全部一人でやろうとするの、いい加減やめなよ」

 豊春の手が、ほんの一瞬だけ止まった。
 けれど次の瞬間には、もう動いている。

「これは私の案件だ」

「夫婦でしょ……」

「関係ない」

 空気が、張り詰める。

 俺は思わず口を挟んだ。

「関係あるだろ」

 二人の視線が同時にこっちに来る。

「死ぬかもしれなかったんすよ、この人」

 言ってから、
 “この人”って呼び方が妙にしっくり来てることに気づく。

 薊の表情が一瞬だけ緩んで、
 すぐに戻る。

「……で?」

 腕を組む。

「どうすんの、あんた」

 俺を見る。

 試す目だ。

「見張る」

「は?」

「これ外してる間、周り見る」

 フェンスの向こう。
 電柱のカメラ。
 出入口。

「やった奴、ここ使う前提で仕掛けてる」

 自分で言って、
 腹の奥が熱くなる。

「まだ近くにいてもおかしくないだろ」

 薊の目の色が変わる。

 店で見た、あの戦う時の顔。

「……いいね」

 口角が上がる。

「やっと“案件”っぽくなってきた」

 その言い方に、
 少しだけ肩の力が抜ける。

 豊春が配線を外しながら言った。

「十分ほどで終わる」

「じゃあその間、周囲一周してくる」

 踵を返す。
 その背中に、薊の声が飛んだ。

「翠人」

 振り向く。

「——死なせんなよ」

 誰を、とは言わない。

 言う必要がなかった。

 俺は手を上げて応える。

「当然」

 歩き出す。
 朝の光は、さっきより少しだけ強くなっていた。

 “嫌な予感”はもうない。

 あるのは、
 やることがはっきりした時の、
 あの感覚だけだった。














 1-③/Brake Before Fate~運命にブレーキを~
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