スカーレット・レムナント

新田朝弥

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④/痕跡

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 葛城は、メニューで隠すようにして紙を一枚置いた。

「暇つぶしだ」

 そう言いながら、カップの縁を指先でなぞる。何でもない顔をしているが、こういう時のこの男は、だいたい何かを仕込んでいる。

 すぐには触れず、少しだけ様子をうかがってから紙を引き寄せる。折り目がついていた。何度か開かれた跡だ。

 並んでいるのは日付と処置記録、患者コード。どこにでもありそうな医療データにしか見えない。

 だが三行目で、視線が止まった。

 移植日から死亡日まで、ちょうど三年。
 次も、三年と数日。
 その次も、ほとんど同じ。
 どの記録も、誤差がほとんどない。

「気づいたか」

 葛城の声は穏やかだった。

 答えずにページをめくる。似たような数字が、幾つも続く。紙の端を押さえる指先に、思ったより力が入っていた。

「綺麗だろ」

 綺麗、という言い方が引っかかる。

 延びた年数が揃っている──そう言いたいのだろうが、延びたわけじゃない。どこかで減っただけだ。

「どこの病院だ」

 できるだけ平坦に問い返す。

「表の顔はまともだ。側から見れば健全な病院。大学病院も混じってる」

 そこで、わずかに間を置く。

「お前のとこもな」

 頭の中に、姉の白衣が浮かぶ。救急外来を走る背中、カルテに向かう横顔。そのすぐそばを、こんな数字が通っているのかと思うと、紙を折る手元がわずかに狂った。

「姉は知ってるのか」

「知らないだろうな。だから残る」

 淡々とした返答が、妙に現実味を帯びている。

 ◆◆◆

 その夜、大学の端末を開いた。

 実習用のデータのはずなのに、さっき見た数字が頭から離れない。移植日と死亡日を何気なく照らし合わせると、似たような年数がいくつか目に入る。
 偶然にしては、揃い方が気持ち悪い。

「──やっぱり、触ってる」

 不意に、後ろから声がした。
 振り向くと、透花が腕を組んで立っている。

「顔に出てた」

 隣に腰を下ろし、画面を覗き込む。軽口を叩く様子はない。指先で机を軽く叩きながら、しばらく何も言わずに数字を追っている。

「……本当に残ってるんだ」

 怒りというより、確認するような声だった。

「確証はない」

「でも、偶然にしては、揃いすぎね」

 透花は視線を外さないまま続ける。

「叔父ね、三年増えたって聞いた日、すごく喜んでた。“もらった時間だから、ちゃんと使う”って」

 机の上に置かれた彼女の指が、わずかに動く。

「でも、増えたわけじゃないよね」

 画面に映る数字を見つめながら、言葉が落ちる。
 三年。
 単に増えたのではなく、その分、どこかが減った。

「知りたいの?」

 問い詰める調子ではない。ただ確かめるように言う。
 すぐには答えられなかった。けれど、目を逸らさずに口を開く。

「俺は……知らないまま使い続けるのは、嫌だ」

 透花は小さく頷いた。

「なら、ちゃんと見なよ。全部」

 ◆◆◆

 翌日。
 実習のあと、透花は珍しく黙っていた。

 いつもなら余計な一言を挟むのに、今日はノートを閉じる動きまで静かだ。

「何だよ」

 こちらから声をかけると、透花は一瞬だけ迷ってから言った。

「昨日のデータ」

「まだ言うか」

「うん」

 歩きながら続ける。

「叔父ね、延びた三年で会社を整理したって言ったでしょ」

「ああ」

「でもね、本当は整理なんてどうでもよかったんだと思うんだ」

 透花は前を向いたまま話す。

「家族と話す時間が欲しかっただけ」

 その言い方は、責めるものではなかった。

「最後の一年は、ほとんど家にいた。前は仕事ばっかりだったのに」

 少し笑う。

「だからね、あの三年がなかったらって考えると、単純に否定できない」

 そこで足を止める。

「でも、それが誰かの三年なら?」

 視線がまっすぐ向けられる。

「私は、感謝だけじゃ終われない」

 言い切ったあと、透花はほんのわずかに唇を噛んだ。
 何かを足そうとしたように口を開きかけて、結局、閉じる。

 叔父の話だけで、そこまでの硬さになるだろうか、と一瞬思う。

「……まあ、いいや。
 あなたは、どう思うの?」

 俺はすぐには答えない。
 市場は狂っている、と言い切ることは簡単だ。
 でも、透花の叔父は、その三年で救われた。

 じゃあ、自分はどうだ。
 三年で命をつないだのは姉だ。
 あの三年がなければ、自分はここにいない。

「俺は……」

 言葉を探す。

「市場があったから、生きてる」

 透花の表情がわずかに揺れる。

「だから、全部否定するのは……違う気もする」

「うん」

 意外にも、透花はすぐ頷いた。

「私も、全部が悪だとは思ってない」

 そう言いながら、視線は一度も俺に戻らなかった。

「だからややこしいの」

 小さく息を吐く。

「正しい顔してるのが、一番嫌い」

 怒鳴らない。
 でも芯が硬い。

「救われた人がいる。助かった家族がいる。それは事実」

「じゃあ──」

「でも」

 透花は言葉を重ねる。

「それが続いていい理由には、ならないでしょ?」

 その声は、感情より理屈に近い。

「延ばす仕組みがある限り、削る仕組みも残る」

 言葉が、出ない。
 市場が消えれば、救われない命も出るかもしれない。
 でも、残れば、誰かが減る。
 正解がない。

「あなたは、どうしたいの?」

 透花が尋ねてくる。

「壊す? 放っておく?」

 単純な二択に見える。
 でも、その間に、姉の顔が浮かぶ。
 あいつの名前が浮かぶ。

「……分からない」

 また同じ答えだ。
 透花は苦笑する。

「またそれ?」

 小馬鹿にされるかと思ったが、意外と声色は真剣なものだった。

「でも、逃げる気はないんでしょ?」

 その言い方に、少しだけ熱が混じる。

「逃げるなら、もうデータなんて見る必要ないし」

 図星だった。
 透花は視線を外し、歩き出す。

「私ね」

 背中越しに続ける。

「あなたが壊すって言うなら、止めないから」

「は?」

「でも、半端なら、止める」

 振り向く。

「どっちも中途半端が、一番嫌い」

 その目は本気だった。
 その視線を、真正面から受ける。

 市場を終わらせる。
 言葉にすれば簡単だ。

 ただ、終わらせると言った瞬間、叔父の三年も、自分の三年も、切り捨てることになる。
 それでも。
 どこかで線を引かなければ、また誰かが減る。

 透花は待たない。

「答え、出るまで付き合うからね」

 そう言って、先に歩いていった。

 一人残された空間で、手のひらを握りしめる。

 今は、まだ答えを口にする段階じゃない。
 今はただ──
 透花の温度に、ズレを感じた。
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