残影の艦隊特別編・伊庭八郎伝~岩を裂く剣

谷鋭二

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龍馬の野望

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  慶応元年(一八六五)になり、八郎はようやく奥詰衆としての将軍警護の役目を終え、江戸に戻っていた。春が来る頃のことである。八郎は神田・お玉が池にある玄武館・千葉道場に出稽古に赴いた。玄武館と八郎の伊庭道場は同じ江戸の四大道場と称され、しかも互いに歩いて行き来できるほどの距離しかないため交流もそれなりにあった。
 千葉道場は北辰一刀流剣術を学ぶ道場である。この北辰一刀流を学ぶ道場は他に鍜治橋にもあった。こちらは千葉定吉が道場主をつとめており、定吉には娘がいた。名を佐那という。この佐那なる女性がまた、女の身でありながら剣の道はもちろん、武芸百般にすぐれた女丈夫であったといわれる。
 たまたまこの日、その佐那もまた玄武館を訪れており、妙な成り行きから八郎と佐那は剣の腕を競うこととなった。

 やはり両者、互いに定石通り正眼に竹刀をかまえた。それから佐那は先に仕掛けてきて、まず胴を狙うも八郎はこれを軽く防いだ。
 八郎は思った。なるほどスピードはある。しかし一つ一つの攻撃に威力はない。やはり女だ。八郎は余裕で勝てる相手と思い、ここで京で沖田総司からならった三段突きを試してみることにした。
 まず左の肩を引いて、右を前に半身を開き、かん高い声とともに突く。しかも構えると同時に突く、引いてまた突く、さらに突く。これを総司がやると、突かれる相手にはついていけないほどの攻撃だった。しかしにわか仕込みの八郎には、総司ほどの技の切れはなかった。
 それでも佐那くらいなら倒せると思って試してみたものの、最初の突きは軽くかわされ、二度目もかわされた。しかし三度目は確実に佐那の顔面をとらえた。少なくとも八郎は勝ったと思った。ところがである。佐那は片膝をつき、体を逆海老状に反らして、三度目の突きをもかわしてしまう。これは八郎のまったく想定外の事態で、バランスを崩し、竹刀を持ったまま佐那の体をすりぬけ、羽板に衝突してしまった。
 なんとか立ち上がってみたが、左足に違和感がある。踏ん張ることも俊敏に動くこともできない。勝機ありと見た佐那は、北辰一刀流でいう「竹刀の間」で猛攻をしかけてきた。これは相手に密着し、息つく間も与えないほどの攻撃で、さしもの八郎も防戦一方となった。呼吸が激しくなり、ついには苦しまぎれに相手の肩から首筋めがけて刀を水平にぶん回す。これを佐那がやはり竹刀の先端で防御する。その瞬間、佐那の竹刀が宙を舞った。
 勝負あったと思った八郎は、刀を上段に高々と構え、佐那の頭めがけて振り降ろそうとした。ところがである。突如として、佐那の姿が八郎の視界から消えた。ふわっと体が軽くなったと思ったのも束の間、次の瞬間には八郎の体は宙に舞い、激しい痛みとともに床に叩きつけられていた。
 八郎には一体なにがおきたのかわからなかった。柔道でいう背負い投げである。受け身をし損なった八郎は、しばし人事不省となったが大事には至らなかった。
「すまんな。久方ぶりの稽古でつい気合が入りすぎてしまった」
 立ち合いの後、佐那はとりあえず八郎に事をわびた。
「ところでそなた、京にいたそうだな。京にいたのなら存ぜぬか? 坂本竜馬という土佐出身の者がいたはずじゃ。今何をしているか?」
 八郎はしばし沈黙する。この佐那なる女性が、問題の坂本龍馬の許嫁であったことも知っていた。龍馬とは、この玄武館で互いに稽古をしたこともあり、その縁で京都のとある料亭でたまたま顔を合わせた際、しばし親しく語りあった。しかしその内容は到底、佐那に語って聞かせられるようなものではなかったのである。
 
 だいたい若者というものは、いつの世でも集まれば俗にいう猥談をよくするものである。
「いやあ土佐の女は気性の荒い女が多くて、とても他国の者にはおすすめできんぜよ。わしの姉がまさにそれじゃ。山のような大女で、剣術も長刀も乗馬もできる。そこへいくと阿波の女はええぞ、一説には平家の官女の血が流れているとかで、美人なうえに頭も切れる。讃岐はいかんな色白ではあるが能面みたいで笑いもしないし、怒りもしない。それでいてえらい計算高くて、土佐の男はああいうのは苦手じゃ。土佐の男は、どこまでも続く広大な大海原を見て育つんで、常に夢や理想を追う。じゃけんど讃岐の連中は狭い瀬戸内の海を見て育つんで、夢より現実を追い、えらい計算高い」
 と竜馬は鯨の肉を食らいながら、常人よりはるかに大きな声でしゃべった。
「私は京の女性はどちらかというと苦手です。島原にも行きましたが、どうも江戸の人間は東えびすなどと思い冷たいところがありました。愛想がないし、だいたい京の女というのは、ふにゃふにゃしていてまるで張りというものがありませんね」
 と、八郎も酒が入り通常よりは少々能弁になっていた。
「おう、わしもそう思う。その点、江戸の女は体もあそこもしなっていて、抱いてみても中々心地がよいものがあったのう」
「竜馬さん、江戸では何人の女性と関係をもったんです?」
「わしか? わしはこう見えても奥手じゃきに、実は一人しかおらん」
 竜馬は酒で上気した顔でいう。
「それにしても、この店の鯨肉はあまりうまくないのう。やはり鯨は土佐に限る。何しろ鯨というのは体中いずれの部分でも食えるからな。腹の部分や舌までも食える。
 思いだすのう土佐の海での鯨漁は実に豪快じゃった。二十隻が一団となり、鯨を網で追い込んだ後、銛を使って仕留めるんじゃ。一隻ずつに役割があってのう、網を張って鯨を絡ませる「網舟」や、鯨を網に追い込み、銛を投げて仕留める「勢子舟」、捕らえた鯨を運搬する「持双舟」。えらい体格のいい大男が銛で鯨をしとめる。海が真っ赤に染まってゆくんじゃ」
 と竜馬は土佐を懐かしむようにいった。
 間もなく、卓の上には料理が大量に並べれらた。そのいずれもが鯨料理だった。
 刺身用の赤身を串にさした鯨の天ぷら、赤身の刺身、そしてカツオの叩きならぬ鯨の叩き。そして中心には鍋が置かれた。土佐でよく知られる鯨のはりはり鍋だった。
「さあ、今日は全部わしのおごりじゃ! おまん知っておるがが? メリケン(アメリカ)のペリーは実は捕鯨のために日本を開国させようとしたんじゃ。なにしろ鯨の油は、文明国が文明国であるためどうしても必要なものじゃきな」
「はあ……なにやら聞きましたそんな話し」
 すると龍馬は、懐から何やら地図らしいものを取り出して卓の上に広げた。
「ええか、ペリーが来る以前のメリケンの捕鯨活動の中心はここだったんじゃ」
 龍馬が指さしたのは、ハワイのホノルル近辺だった。
「それが今回の我が国の開国、開港により、はるか遠くこの箱館となった。その結果、日本海、北太平洋、サハリン、千島、オホーツク海、さらにはベーリング海、北極海が捕鯨により、世界市場に編入されたというわけじゃ」
 龍馬は、箱館とそれぞれの海を指で示しながらいう。
「なるほど、これは一大事ですねえ。メリケンが箱館を下田とともに開港させようとしたのも必然というわけですね」
 八郎は驚嘆の声をあげた。
「それともう一つ、メリケンには気がかりなことがある。ロシアの動きだ。ロシアはこのウラジオストックを南下の拠点にしようとしている。地図をロシアの側から見るとわかりやすいだろう。ウラジオストックから南下しようとすると、どうしても目の前に立ちはだかるのが、この蝦夷地そして津軽海峡ということになる」
「いやあ、これは大変勉強になりました。それにしても世の中は広い」
 八郎は驚嘆の声をあげた。
「そうじゃ、これからは蝦夷、蝦夷じゃ!」
 ほどよく酔った龍馬はかすれた声でいった。
「わしはのう、以前一度開拓のため蝦夷へ行こうとしたことがある」
 坂本龍馬の蝦夷地(北海道)開拓への最初の取組みは、元治元年(一八六四)六月初旬のことでだった。京都・摂津の浪人を幕艦「黒龍丸」に乗せて蝦夷地を目指す計画を立てていた。しかし龍馬に蝦夷地開拓の話をしていたといわれる同じ土佐人の北添佶磨(きたぞえ・きつま)や望月亀弥太(もちづき・かめやた)が池田屋事件で死亡したことこら計画は頓挫してしまう。
「じゃけんど、わしは一度失敗したくらいではあきらめん。必ず蝦夷へゆく! いや蝦夷だけではない。ゆくゆく蒸気船で世界の海をいく。そして世界中の女を抱いてやる!」
 と、いよいよ酔いが回りはじめた龍馬は豪語してみせた。
 
 龍馬はその後、亀山社中創設後に薩摩藩・小松帯刀の尽力で洋帆船「ワイルウェフ号」を購入し、この船での蝦夷地行きを計画したが、慶応二年(一八六六)五月二日、同船が暴風雨によって五島塩屋崎で沈没。その上、社中のメンバー十二人も遭難死してしまう。   
 三度目は海援隊創設後、大洲藩から借りた「いろは丸」で蝦夷を目指した。しかしこの船は慶応三年(一八六七)四月二十三日、紀州藩船「明光丸」に衝突されて沈没してしまい蝦夷行きはならなかった。   
 最後は薩摩藩の保証で購入した洋型帆船「大極丸」での試みであった。だが、この船は支払いの問題から運航不能となってしまう。その後間もなく、龍馬は北海道開拓の宿願を果たせぬまま、中岡慎太郎と共に京都・近江屋で暗殺されてしまった。
 
 一方、千葉佐那は、彼女自身の回想によると龍馬との婚約は安政五年(一八五八)年頃のことだったという。その際、龍馬からは桔梗紋服、千葉家からは短刀一振りを取り交わしたという。しかし、龍馬が京都を中心に国事に奔走するようになり疎遠となった。しかも龍馬は、おりょうという別の娘と結婚してしまう。そして例の慶応三年十一月の暗殺劇により、龍馬は佐那の元に二度と戻らない人となる。
 維新後、佐那は華族女学校(学習院女子部)に舎監として寄宿舎の管理監督の仕事についた。同校の女学生にときおり龍馬のことを聞かれた。その都度「私は坂本龍馬の許嫁でした」と形見の紋服を見せて、こころなしどこか寂し気であるが、はにかんだ笑顔をみせたという。




 


 







 


 




  
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