残影の艦隊~蝦夷共和国の理想と銀の道

谷鋭二

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【第二章】桜田門外の変

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(一)


 安政五年(一八五八)五月、榎本達海軍伝習所の二期生は、ようやく十六カ月の教育期間を終えようとしていた。

 ちょうどオランダから三四〇トンの小型帆船が長崎に入港し、その船は鵬翔丸と名付けられた。この鵬翔丸で榎本達二期生は、実習生だけの力で江戸まで航海することとなった。

 主な乗組員は榎本の他に、後に榎本と共に箱館戦争を戦うことになる松岡磐吉、その兄の柴弘吉、そして中島三郎助。艦長には二期生で成績最優秀だった伊沢謹吾が選ばれた。



 航海は順調で数日の後、船は伊勢湾にさしかかった。ちょうど夜明け前のことである。榎本が寝ぼけまなこで甲板にでてみると、中島三郎助が陸地の方角に向かい祈りをささげていた。

「何をしているんだ中島さん?」

 と榎本が声をかける。両者はこの実習期間に共に有名な長崎の丸山遊郭へ出向くなどして、気脈通じる仲になっていた。

「いや、伊勢神宮の方角に向かって祈りをささげていた。なんといっても俺達は、天照大神の末裔だからな」

 すると榎本は何事かを考えはじめた。

「どうしたんだい?」

「いや、神々がこの天地を創造したのはいかほど昔のことかと考えていた」

「どういうことだいそれは?」

「キリスト教の話しはうかつにはできんが、オランダ人教官がいうには、西欧にも天地創造の話があるらしい。それによると天地は神が七日間で創造したことになっている。しかし人間があまり堕落したので、一度洪水をおこして全人類を破滅させて、新たにつくりなおしたとか」

 中島は、しばし不思議なものでも見るように榎本の顔をみた。

「俺が昔蝦夷に行った時アイヌに聞いた話だと、もともと天地は存在しなかったが、突如火柱が何本も立ちそれが天地になったらしい」

「へえ面白いねえ。一体どれが本当なんだろうね?」

「いや、それが昨今は西欧人自体が神話に対し否定的らしい。天地は神が創造したものではなく、その歴史はおよそ数百万年。万物は常に流転し、遠い大昔には人間は存在しなかったかもしれない。あの鳥も日本列島さえも、かっては存在しなかったか別の形をしていたかもしれないらしい」

 地球の歴史は今日では四十五億年ほどというのが定説になっているが、当時の地質学では、数百万年ほどとされていた。

「気の遠くなるような話だな。どうしてそんなことがわかるんだい?」

「地面を掘ればわかるらしい。地面を掘ることによって、かってこの地上に、城のように巨大な生物が多数いたことまで確認されているらしい。いかほど昔のことかわからないが」

 榎本は真顔でいった。

「地面を掘るだけでそこまでわかるってのかい? やっぱ西欧人ってのはすげえもんだな」

 ちなみに西欧でチャールズ・ダーウィンが「種の起源」を発表したのは翌年のことだった。

「とにかく、西欧と俺達の国の差は何も大砲や鉄砲の優越だけではない。学問の世界でも、比較にならないほど遅れているとしかいいようがない」

 すると今度は中島が真顔になった。

「それじゃあいずれ俺達は、そんな国と戦争するかもしれないってことかい? まあ戦争にならなくても、これからの世の中いろいろありそうだが俺は生きたいな。この前黒船を見た時も、今までの価値観が根底から覆るような衝撃をうけた。長生きすれば、もっと多くのことを知ることができるかもしれねえ。お互い長く生きようや」

 榎本もかすかに頷いた。遠くでカモメの鳴く声がした。

 榎本は後に、地質学者としてもそこそこの功績を残す。しかし中島は、結局この時から十年しか生きれなかったのである。中島の想像をはるかにこえるほど、時の流れは早かったのである。

 すでに榎本達を待ちかまえる江戸の政治情勢は混とんとしはじめていた。彦根藩主の井伊直弼が大老に就任し、ついに朝廷の許しを得ないまま、日米修好通商条約に調印したのである。



(二)



 江戸城本丸表御殿、黒書院から白書院へと通じるのが竹の廊下である。 

 安政五年の六月二十四日、この竹の廊下を通常井伊大老が執務を行う溜間を目指して歩む一団の人影があった。

 水戸の徳川斉昭及び慶篤父子、尾張藩主の徳川慶恕、それに福井藩主松平慶永等であった。

「ついに来たか」

 朝廷の勅許を待たず通商条約に調印したことに対する、抗議の押しかけ登城であることは明白だった。

「いかがなされますか?」

「しばし待たせておけ」

 大老・井伊直弼は、四十五歳の男盛りである。自らの政治上のプレーンとでもいうべき存在で、国学者でもある長野主膳に冷たくいった。

 それから延々三刻(六時間)もの間斉昭等は待たされ続け、弁当すら出されなかった。我慢も限界に達し、ついに斉昭が溜間の襖を開くと、直弼はそこで茶を点てていた。



「これはこれは一同揃いも揃って、いかがいたしましたかな? そのように恐ろしい顔をなさらずとも、まずは茶でも一献」

「国家の大事である。茶など楽しんでいる時ではない!」

 斉昭は、声の奥に怒りをにじませながらいった。

「掃部頭(直弼のこと)その方、帝をないがしろにし、異国と勝手に条約を結ぶとは不届き至極。その罪重大にして潔くその場にて腹を斬るか? この斉昭つつしんで介錯いたす」

「これはまた突然腹を斬れとは無体な。それでは切腹の前に末期の茶をすすりとうござる。水戸殿も一ついかがでござるかな」

 さしだされた茶碗を、斉昭はさっとはねのけた。茶碗は砕け散り鈍い音がした。同時に大老の腰の刀が、斉昭の眼前で一閃する。

 井伊大老はかって部屋住みだった時代、茶や華道、禅の道に精通したといわれる。しかも居合いの達人でもあった。これにはさしもの斉昭も肝をひやした。

「掃部頭汝ぬいたな! いかに大老といえど、この江戸城内で刀をぬくことが何を意味するか承知しておろうな!」

「案じるには及びませぬ竹の刀でござるよ。少々戯れがすぎましたかな」

 だがその両眼は強い殺気を浮かべ、すでに斉昭をも圧倒していた。

「この井伊掃部頭直弼、腹を斬れと申すならいつ何時でも腹を切り申す。なれど国家危急の時なれば、しばしこの命預けていただきたい。
 それから今日は各々方の登城日ではござらん。後日処分が下るのでそのつもりでおられよ」

 結局、斉昭達はなすすべなく城を去るより他なかった。



(三)



「なんとも美しい月じゃのう。今日こそあの月を美しいと思ったことはない。のう主膳」

 その日の夜のことである。直弼は、自ら政治秘書兼プレーンといってよい長野主膳に語りはじめた。

「部屋住み時代を思い出すのう。わしは彦根井伊家の十四男として生まれ、本来であればわずかな扶持だけをもらって、日の目を見ることもなく生涯終わる予定であったわい。月の光でさえ幾度うらめしく思えたことか……」

「はあ左様でございましたなあ。よもや大老として幕政を左右することになろうとは」
 主膳もまた月を見上げながらいった。

「なれどわしは兄直亮の養子となった後も、兄に嫌われ散々にいじめぬかれた。藩主となったらなったで、今度はやれ沿岸警備だ皇居の造営だと幕閣の連中に、いやというほど無理難題をつきつけられる始末。そして大老にまでなったというに、それでもわしを憎む者が多すぎる」

 主膳には、直弼が一時ではあるが年よりはるかに老けて見えた。

「まことに、人の世とは何故あの月のように美しゅうはないのか」

 直弼はかすかにこぶしを強く握った。

「先生はいつか申されましたな。この日の本こそ美しい国は他にないと」

 直弼は常に同じ四十六歳の主膳を先生と呼んだ。長野主膳は筋金入りの国学者である。その前半生や生い立ちなどはほとんど不明である。この一見すると女性のように撫肩で色白の人物は、相当胡散臭い人物といっていいだろう。

 部屋住み時代の直弼が、主膳に面会を求める手紙が今でも残っているが、ほとんどラブレターといったほうがいい。初対面以来、直弼は主膳を半ば師とあおぎ、その影響力はあまりにも大きすぎた。ほぼ直弼を操り、日本の国政をも、右にも左にも操っている黒幕といっても過言ではないだろう。



「わしはもとよりまつりごとより、花が好きじゃ。春は梅、夏はつゆ草、秋は萩。先生の申すとおり、この日の本の四季がおりなす草花や風景は、かけがいのないものと思っておる。

 されど、大老となった以上わしはやらねばならぬ。この国を危険に晒す者らと戦わねばならぬ。例え人から鬼とそしられようともな!百年後も二百年後もこの日の本の民が、あの美しい月を拝観できるようするためにだ」

「ならば殿、殿が鬼のそしりを受けるなら、拙者も甘んじて鬼であろうと蛇であろうと、いかなそしりも感受しましょう……」
 と、この怪しげな男は主に同調するのだった。



 ここから直弼の独走が始まる。まず不時登城の罪により水戸の徳川斉昭らは次から次へと隠居・謹慎に追いこまれる。

 また紀州の徳川慶福と、斉昭の息子で英明とされる一橋慶喜の両派閥に分かれての将軍後継レースも、直弼のほとんど独断によって、後継は徳川慶福と決定する。

 そしてそれからほどなく七月六日、将軍家定は急死するのである。何者かによる毒殺ともいわれるが、今となっては真相はわからない。

 直弼のやり方に憤った薩摩の島津斉彬は、藩兵五千と共に上洛を果たそうとするも、その直後病のため、これまた急逝することとなる。



 京都には、尊王攘夷派の過激な書生達の一団があった。梁川星厳、梅田雲浜、頼三樹三郎等である。これらの一団は朝廷と結びつき、水戸藩とも結びついていた。

 そして彼等の政治活動により、朝廷より水戸藩へ「戊午の密勅」といわれるものがくだった。何が書いてあったか詳しいことはわからないが、大老の知るところとなり、大老は怒りに震えたといわれる。

 まず梅田雲浜、頼三樹三郎等が次から次へと捕縛される。しかし梁川星厳のみは、幕府の役人の手にかかるより早く、当時江戸で大流行していたコレラにより、すでに世を去っていた。これが安政の大獄の幕開けである。

 西郷吉之助すなわち後の西郷隆盛もまた、梅田雲浜等と交流があったため幕府の追求を受けることとなる。すでに斉彬が死に政治的立場を失っていたこともあり、吉之助はついには僧月照と共に入水自殺をはかる。一命はとりとめたものの後に奄美へ流罪となった。

 それ以降、直弼は自らの意に反する者を次から次へと捕らえ厳罰をくだしていく。主な者をあげれば、


梅田雲浜………小浜藩士、獄死

頼三樹三郎……京都町儒者、斬罪

安島帯刀………水戸藩家老、切腹

鵜飼吉左衛門…水戸藩京都留守居役、斬罪

鵜飼幸吉………水戸藩京都留守居役助役、獄門

茅根伊予之介…水戸藩奥右筆、斬罪

飯泉喜内………元土浦藩士・三条家家来、斬罪

橋本左内………越前福井藩松平春嶽家臣、斬罪



そしてついに、あの長州の吉田松陰にも厳罰が下る時がきたのであった。



(四) 


 吉田松陰・寅次郎は、確かに愚かであった。黒船密航計画なども、もちろん常人からしてみれば正気の沙汰ではない。幕府の評定方での取り調べでは、聞かれもしないのに間部詮勝要撃計画などを暴露し、その常軌を逸していることは、周囲の手におえるものではなかった。

 やがて、さしも楽天家の寅次郎も、己が死を逃れがたいことを知ることとなる。そこから残された時間との戦いになる。松下村塾の弟子たちにあたえた遺書ともいうべき「留魂録」には、死を前にした松陰の心境が、あますところなく書き綴られている。



「私の生は三十で終わろうとしている。未だ一つも事を成し遂げることなく、このままで死ぬというのは、これまでの働きによって育てた穀物が花を咲かせず、実をつけなかったことに似ているから、惜しむべきことなのかもしれない。しかしながら



 十歳にして死する者は十歳の中に四季がある

 二十はおのずから二十の四季がある

 三十はおのずから三十の四季がある

 五十百はおのずから五十百の四季あり



 私は三十歳、四季はすでに備わっており、花を咲かせ、実をつけているはずである。それが単なる籾殻なのか、成熟した栗の実なのかは私の知るところではない。
 もし同志の諸君の中に、私のささやかな真心を憐れみ、それを受け継いでやろうという人がいるなら、それはまかれた種子が絶えずに、穀物が年々実っていくのと同じで、収穫のあった年に恥じないことになるであろう。同志諸君よ、このことをよく考えて欲しい」



 安政六年十月二十七日、江戸小伝馬町の牢獄で松陰はついに死罪を言い渡され、即日執行された。

「申し残すことがあれば聞いてやろう」

 首切り役の山田浅右衛門が聞いた。

「いや、今はただ私が育んでくれたもの、私を愛してくれたもの、私の師、そして弟子達に一言伝えたい。今まで本当にありがとうと……」

 と、このおよそ常人とは思えないほど純粋無比な人物はいうのである。吉田松陰享年三十歳。辞世の句が残されている。



 身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂



 重罪人の遺体は、通常であれば小塚原に埋め捨てられ、埋葬すら許されない。そこで松陰門下の尾寺新之丞、飯田正伯が役人に賄賂を使うなどして様々に奔走した。

 結局二十九日になって、小塚原回向院にて遺体が受け渡されることとなった。屍は四斗樽に入れられ、首はまだ生きているかのごとく、そして衣服ははがされ丸裸の有様だった。

 遺体の受け渡しに立ち会ったのは尾寺新之丞、飯田正伯の他に同じく門下生の伊藤俊輔、門下生ではないが親友であった桂小五郎の四人だったといわれる。そのいずれもが、松陰の死に決意を新たにせずにはいられなかった。 

「生きて大業の見こみあれば、いつまででも生きるべし、死して不朽の見こみあらば、いつにても死すべし」とは、松陰が門下生の中で最も期待をかけた、高杉晋作に送った言葉である。

 やがて松陰の死は、歴史を大きく動かしていくこととなるのである。

 
(五)

 
 さて井伊大老は、多忙の合間に江戸彦根藩上屋敷にて、自らの四男重麻呂と久方ぶりの対面を果たした。江戸彦根藩上屋敷は、ちょうど現在の国会議事堂のあたりにあったといわれる。重麻呂はこの時まだ九歳だった。

「その方が学問を怠けていると聞き、説教しにまいったぞ」

 と直弼は表向きはにこやかな笑顔を浮かべながら、少し厳しめなことをいう。

「そのような! 怠けてなどおりません!」

 すかさず重麻呂が反論する。

「論語は学んでおるか? まずはその方為政編の十四章を諳んじてみよ」

「子曰く……君子は……」

「まるで覚えておらぬようじゃのう、そのようなことでどうする!」

 直弼が厳しく諭すも、重麻呂はなにやらふてくされた顔をしている。

「なんじゃその顔は? 父に不満でもあるのか?」

「恐れながら父上! 父上に聞きたいことがござりまする。何故、父上は次から次へと人を殺すのですか? 人の上に立つ者は滅多なことで人を処罰してはならぬと、父上もいつか申したではありませぬか?」

 直弼はしばし沈黙した後、かすかに表情が恐ろしくなった。



「その前にそなたにたずねよう。そなたは何故学問が大事だとおもう?」

「それは……正直、今はわかりませぬ!」

 重麻呂は困ったような顔でいった。

「うむ、そなたにもいつか話したことがあったな。わしはこの彦根井伊家の十四男として誕生した。本来なら家督をつぐような身分ではなかったのだ。随分と長い間部屋住みの生活を強いられ、昼夜を問わず茶道、華道、それに鼓に熱中しておったわい。それでついたあだ名が茶、華道、それに鼓を打つときのポンという音を合わせてちゃかぽんじゃ」

 と直弼は苦笑した。

「それが何の因果か家を継ぐこととなり今や大老じゃ。なれどわしは茶や華道に熱中するだけで、学問らしきものはほとんど学ばなかった。この国をどうすべきか? いかにして民を導くべきか? 正直なところわしにはわからん。いや多少の学問はしたが、それとて取るに足らぬものにすぎぬ。
 ただ欧米の国々と戦になれば我が国は滅ぶ。それだけは薄々わかる。今は耐え忍ぶしかない。それがわしの信念じゃ。そして己が信じたまつりごとを行うため、敵である者と戦う。所詮わしはそれだけの男に過ぎぬわい」

 そこで直弼は一つため息をついた。

「なれど、そなたにはわしには見えぬ広大な世界を、その目で見てほしいのだ。よいかもっと学べ、もっと知れ、もっと多くのことを身につけよ。

 わしは十四男で井伊家を背負って立つことになった。もし兄達に何かあれは、そなたが今度は井伊家を背負わなければならぬのだぞ。いやもしかしたら大老として、この国のかじ取りをせねばならぬかもしれぬ。その時に父がいなくても、立派に一人で立てるようしっかり学べよいな」

「はい父上!」

 重麻呂はしばしの沈黙の後、はっきりと返事した。

「うん良い子だ」

 直弼の目がかすかにうるんでいた。



 ほどなく直弼のもとに、水戸藩より同藩の者が二十人近く脱藩したとの知らせが入った。己の身に危機が迫っている。そのことを大老も薄々承知していた。しかし登城の際の警護の数を増やそうともしなかった。何故か、今となってはわからない。


(六)


 旧暦の三月三日は上巴の節句であり、大名の総登城日でもある。この日、水戸脱藩浪士十八名は早朝愛宕神社に参詣し、これから行おうとしていることの成功を祈った。すなわち大老井伊直弼の暗殺である。

 そして辰の刻には、桜田門近くに待機していた。おりしもこの日、春も間近だというのにしんしんと雪が降り積もっていた。

「よいか我等がこれから行うことは義挙である。この日の本を異人が踏みにじらんとするを、止めるでもなく黙認する大老を、我等が手で成敗するのだ。今一度念を押す。今この場を立ち去りたい者は、立ち去ってもよいぞ。決して咎めはせぬ」
 と浪士達の中でもリーダー格の日下部伊三治が静かにいった。

 一同の間に重い沈黙があった。なにしろ今でいうなら総理大臣かもしくは官房長官クラスの暗殺である。もちろん失敗すればそれまでである。例え成功したところで天下に居場所を失い、やがては悲惨な末路が待っていることは疑いようもなかった。

「それにしても、よく降る雪でごわんと。おいは南国薩摩の生まれでん、雪なんぞというもんは幼か頃一度見たきりでごわす。ほんのこつよか死出のみやげとなりもんす」

 とどもりながらいったのは、ただ一人薩摩藩士としてこの襲撃に参加した有村次左衛門だった。

「まっこて、おいたちも後十年いや五年生きることができもうしたらのう」

 と有村の薩摩なまりをまねて言ったのは、水戸藩士の広岡子之次郎だった。座はしばしの間であったが、和やかな空気につつまれた。



 やがて登城を告げる鐘が鳴り響き、各大名の行列が桜田門をくぐっていく。彦根藩の大名行列が桜田門にさしかかったのは、午前九時頃のことだったといわれる。

「お願いにござりまする!」

 と訴状を持って行列の行く手をはばんだのは、水戸浪士・森五六郎だった。

「何奴!」

 彦根藩士日下部三郎が身構えたが、次の瞬間には五六郎の刀が一閃、三郎は即死だった。

「狼藉者だ!」

 彦根藩士が叫ぶとほぼ同時に、一発の銃声が静寂をやぶった。この時の銃はコルトM1851だったといわれる。それが合図だった。水戸浪士達が一斉に大老の駕籠めざして殺到した。

 この日、大老にとり不幸だったのは、やはり無常にも降り続く牡丹雪だった。彦根藩士は六十名ほど、一方の水戸浪士側は十八人だったといわれる。ところが警護の彦根藩士のことごとくが、刀が錆びるのを防ぐため厳重に袋で梱包していた。

 しかも視界が悪い。とっさの事態に対応することができず、次から次へと斬られていく。とっさに水戸浪士達の刀を素手で受け止め、指を失う者までいたといわれる。

 この非常事態最中、彦根藩の護衛の侍の中には、いち早く修羅場から遁走した者もいた。後日それらの侍には重い処分がくだったが、すでにそこに関ヶ原以来「井伊の赤備え」と恐れられた、徳川の最精鋭部隊の面影はなかった。

 この彦根藩兵の弱体ぶりは後に禁門の変、幕府の第二次長州征伐でも露呈するのである。



 しかし全ての彦根藩士が腰抜けであったわけではない。彦根藩一の剣豪といわれた忠左河西衛門は冷静に事に対処し、水戸浪士稲田重蔵を斬りすてた。また永田太郎兵衛正備も二刀流をもって、水戸浪士相手に大奮戦する。

 もっとも腰が引けているといえば、水戸浪士の側もお粗末なものだった。浪士達にとっての不覚は、刀が実戦の武器として想像以上に役に立たなかったことだった。

 刀という武器は衝撃にもろく、簡単なことでもへし折れてしまう。また一度人を斬ると、血脂で切れ味がたちまち鈍った。

 そのようなこと戦国時代の武士なら常識なのだが、なにしろ当時の太平の世に慣れた侍のことである。仕方ないといえば仕方ないことだった。

 乱戦最中に水戸側、彦根側双方の刀が同時に折れ、雪上で素手でとっくみ合うという異様な光景さえみられた。



 当の大老はどうしていたか? 大老は剣の達人である。自ら刺客と戦うこともできたはずである。一説には最初の一発の銃が大老に命中し、すでに大老は重傷を負っていたともいわれる。あれいは襲撃があることをすでに知っていながら、覚悟の死であったともいわれる。もちろん今となっては本当のことはわからない。



 すでに水戸浪士側では稲田重蔵が死亡した他、山口辰之介、鯉渕要人等も重傷を負った。一方彦根藩側にあって力戦奮闘した忠左河西衛門もついに討ち死。永田太郎兵衛もまた銃創により戦闘不能となった。

 しかし、やがて時間の経過とともに彦根藩側の数的優位がものを言いはじめた。水戸浪士達は再三再四にわたって大老の駕籠めがけて殺到するも、その度ごとに彦根藩兵の厚い壁に阻まれる。

 浪士達の表情に疲労とともに焦りの色が徐々にうかんでいく。なにしろ桜田門から彦根藩上屋敷まで、せいぜい四百メートルほどでしかない。急を知り援兵がかけつけてくれば全てが終わる。次第に劣勢になっていく水戸浪士側。ところがそこに彦根藩側には、わずかに油断甘えが生じつつあった。



 薩摩藩士有村次左衛門は、すでに重傷を負っていた。口から血を吐き、激痛のため雪の上に身を横たえた。

「こいまでか……」

 次第に意識が遠のいていく。その時、朦朧としていく有村の視界が、乱戦の中ぽつんと取り残された大老の駕籠をとらえた。突如目を見開くと、そのまま大老の駕籠めがけて真一文字に突撃を開始した。生き返ったといってもいいだろう。

「チェスト赤鬼! チェスト赤備え! 覚悟」

 わずか針の穴ほどの隙だったといっていい。彦根藩士が有村に気付き大老を守ろうとしたが、時すでに遅かった。有村の刀は見事大老の駕籠を貫通した。

「春は梅……、秋は蛍」

 大老は低く唸るようにいった。それが最後の言葉となった。そのまま駕籠の外に引きずりだされ、有村に薩摩独特の猿叫といわれる奇声と同時に首を落とされた。井伊直弼は四十六歳だった。

「取りもしたぞー!」

 大老の首が高々とかかげられた。

「己! よくも!」

「許せん!」

 今度は彦根藩兵が有村めがけて殺到するも、有村は大老の首をかかえたまま、千五百メートルも逃走を続けたといわれる。大老の首は、まるでラグビーのボールのような扱いをうけた。そして重傷の有村は、ついに力尽きて自刃して果てる。まだ二十一歳だった。


「父上が、父上が殺されたと申すか!」
 凶報はただちに彦根藩上屋敷へともたらされた。重麻呂はその日一晩泣き続けた。
 後年のことになるが重麻呂は、元服し井伊直安となり越後与板藩の十代藩主に就任する。版籍奉還の後、知藩事となり閉鎖されていた藩校正徳館を再興する。広く領民に就学を呼びかけ、極貧者や衣食のままならぬ者も藩校で寄宿させたといわれる。

 後、廃藩置県で免官された後は慶応義塾に学び、欧米にも留学する。そして昭和十年八月、八十五年の天寿を全うするのである。晩年に至るまで父直弼に対する敬慕の念が非常に強く、遺体はその遺言により、直弼と同じ豪徳寺に埋葬された。

 幕末維新史は、直弼の死により新たな局面をむかえようとしていた。





 
























 







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39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?

王命って何ですか? 虐げられ才女は理不尽な我慢をやめることにした

まるまる⭐️
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【第18回恋愛小説大賞において優秀賞を頂戴致しました。応援頂いた読者の皆様に心よりの感謝を申し上げます。本当にありがとうございました】 その日、貴族裁判所前には多くの貴族達が傍聴券を求め、所狭しと行列を作っていた。 貴族達にとって注目すべき裁判が開かれるからだ。 現国王の妹王女の嫁ぎ先である建国以来の名門侯爵家が、新興貴族である伯爵家から訴えを起こされたこの裁判。 人々の関心を集めないはずがない。 裁判の冒頭、証言台に立った伯爵家長女は涙ながらに訴えた。 「私には婚約者がいました…。 彼を愛していました。でも、私とその方の婚約は破棄され、私は意に沿わぬ男性の元へと嫁ぎ、侯爵夫人となったのです。 そう…。誰も覆す事の出来ない王命と言う理不尽な制度によって…。 ですが、理不尽な制度には理不尽な扱いが待っていました…」 裁判開始早々、王命を理不尽だと公衆の面前で公言した彼女。裁判での証言でなければ不敬罪に問われても可笑しくはない発言だ。 だが、彼女はそんな事は全て承知の上であえてこの言葉を発した。   彼女はこれより少し前、嫁ぎ先の侯爵家から彼女の有責で離縁されている。原因は彼女の不貞行為だ。彼女はそれを否定し、この裁判に於いて自身の無実を証明しようとしているのだ。 次々に積み重ねられていく証言に次第に追い込まれていく侯爵家。明らかになっていく真実を傍聴席の貴族達は息を飲んで見守る。 裁判の最後、彼女は傍聴席に向かって訴えかけた。 「王命って何ですか?」と。 ✳︎不定期更新、設定ゆるゆるです。

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勝利のために走るのではない。 生きるために走る者は、 傷を負いながらも、歩みを止めない。 戦国という時代の只中で、 彼らは何を失い、 走り続けたのか。 滝川一益と、その郎党。 これは、勝者の物語ではない。 生き延びた者たちの記録である。

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歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。 1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。 わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。 だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。 これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。 希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。 ※アルファポリス限定投稿

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