残影の艦隊~蝦夷共和国の理想と銀の道

谷鋭二

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【第三章】鳥羽・伏見の戦い

薩長総攻撃

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(一)
 
 油小路事件よりさかのぼること三日前、京都河原町蛸薬師下の近江屋で、土佐藩の坂本龍馬と中岡慎太郎が何者かにより殺害された。坂本龍馬は全身三十四カ所、慎太郎は二十八カ所もの傷があったといわれる。
 下手人として真っ先に名前があがったのが新選組の原田左之助、斎藤一などである。他にも今日まで黒幕として幕府、土佐藩、紀州藩などの名前があがっているが真相は闇の中である。
 ただ暗殺の実行犯は才谷梅太郎という龍馬の変名を知っており、この変名を知っている者ということになると龍馬の周辺でも限られてくる。その中には薩摩の西郷吉之助も含まれていた。

 慶応三年(一八六八)も年の瀬を迎え、薩摩藩は動きだした。十二月九日辰の刻(午前八時頃)土佐、越前、広島、尾張の四藩と共に軍勢をもって御所を占拠。これまで御所の警備を担当していた会津藩は、五藩の勢いにおされたかのように退去してしまう。
 ここに御所の小御所において王政復古の大号令が布告されるわけである。最大の主眼は徳川慶喜に、全国に七百万石ある徳川の領地をことごとく朝廷に返上させるというものだった。もちろんその場に徳川慶喜本人はいない。いわば本人のいない場所で慶喜を丸裸にしてしまおうという計画だった。これは薩摩の西郷吉之助、大久保一蔵、それに宮廷の公家社会において、隠然たる力をもつ岩倉具視等が画策した一種の陰謀であった。
 しかしこれに凄まじい勢いで異をとなえる者がいた。土佐の山内容堂である。容堂はこの十二月九日に行われた歴史的会議で泥酔していたという。また他の大名衆が衣冠装束を改めてこの場に列席したにも関わらず、容堂のみは肩衣を着ていたともいう。
 かなり酔いがまわっていたらしく、薩摩と公家衆の陰謀を激しく糾弾し、慶喜をこの日の会議に招くべきであると強く主張した。これに越前の松平春嶽も同調し会議は紛糾する。
 御所の四方は全て薩摩の兵が固めていた。会議の合間をみての休憩に、岩倉は弱気の言葉を漏らすも、西郷は「短刀一本あればことは決する」とあっさりといってのけたという。この一言が容堂の動きを封じたともいい、ここに王政復古そして慶喜に対しては徳川家の領地の返還が決定されたわけである。

「ゆっさ(戦)する気がないなら、ゆっさするよう仕向けるまででごわんど!」
 徳川慶喜は、この宮廷でのクーデター劇に対して、ほとんど動きらしい動きをしめしていない。しかし薩摩の西郷吉之助は浮浪の徒やならず者を金で集め、江戸周辺で強盗、放火、恐喝とあらゆる悪事を為さしめた。十二月二十三には江戸城二の丸までもが炎上する。そして薩摩藩が、前藩主島津斉彬の養女にして、十三代将軍家定の正室であった篤姫を奪還する計画を立てているという噂が流れた。年の瀬を迎えた江戸は騒然とした空気に包まれることとなる。
 この薩摩の挑発的行動に、とうとう庄内藩が業を煮やした。軍勢をもって薩摩藩の三田屋敷を襲撃。屋敷の中には百五十名ほどの薩摩藩士がいたが、そのうち五十人ほどが戦死、もしくは焼死したという。冬の凍えきった空気の中、天空を焦がす不気味な炎はこれから始まる戦乱を予期させるのに十分だった。ここに日本最強といっていい薩摩兵児(へご)は、徳川打倒そして天下の覇権を奪うため動きだしたのである。

 徳川慶喜もまた戦は避けられぬものと覚悟し、討薩の表なるものを朝廷に対して捧げたという。

 臣慶喜、謹んで去月九日以来の御事体を恐察し奉り候得ば、一々朝廷の御真意にこれ無く、全く松平修理大夫奸臣共の陰謀より出で候は(中略)東西饗応し、皇国を乱り候所業別紙の通りにて、天人共に憎む所に御座候間、前文の奸臣共御引渡し御座候様御沙汰を下され、万一御採用相成らず候はゞ、止むを得ず誅戮を加へ申すべく候。

 戦端は年が明けて慶応四年の一月三日の午後五時頃、京・鳥羽街道で開かれることとなる。しかしその二十時間ほど前、実は海において事実上鳥羽・伏見の戦いは始まっていたのである。

(二)
  
 年が明けて慶応四年一月二日、榎本武揚は開陽丸とともに兵庫沖にいた。黒ラシャの生地のフロックコートがよく似合っている。三十三歳の榎本は飽きることなく海を眺めている。カモメの鳴く声が聞こえてきた。天下大動乱の最中にあっても海はいつもと変わることは一つもなかった。だが事態はこの日一変する。開陽丸の乗り組み員の一人が、双眼鏡で兵庫沖を航行する怪しい船を発見したのである。
「江戸から逃げてきた薩摩の船というのは、もしかしたらあれではないのか?」
 榎本のかたわるに控える沢太郎左衛門が、やはり双眼鏡で遠くを見ながらいった。
 まさしくそれは、例の藩邸焼き討ち事件の難を逃れた薩摩武士たちを乗せて、江戸からこの兵庫沖まで逃げてきた薩摩の翔鳳丸だった。見たところ船の破損がひどく、恐らく江戸近海で幕府側の海軍と激しくやりあったことが想像できた。
 兵庫沖は幕府の管轄する港である。開陽丸は、やはり榎本同様長崎海軍伝習所三期生の根津勢吉を艦長とする蟠竜丸とともにこれを追撃する。途中停戦合図の空砲を放つも翔鳳丸は応じなかった。ついに榎本は十二ポンドカノン砲を撃ちこみ、見事に翔鳳丸に命中。翔鳳丸はかろうじて兵庫港に逃げこんだ。
 
 翌日、薩摩側の代表が交渉のため小舟に白旗を掲げて開陽丸へとやってきた。交渉といっても最初から喧嘩腰である。
「おまはん達は何の権限があって、おいたちの船に砲撃すっとか!」
 艦長室にて、薩摩側の代表たる赤塚源六が強く抗議するも、椅子に腰かけた榎本は落ち着いていた。
「我等は万国公法に基づいて空砲をもって停止を命じたはずだ。それに従わない場合は、実弾をぶっ放してもよいこととなっている」
 赤塚源六は齢三十歳あまりである。南国育ちらしく色黒だが、眉がきりりと濃く、切れ長の目をしていた。かなりの美男子である。薩摩では「飯焦がし」などという仇名がついていたという。食事の用意をしている夫人が、赤塚に思わず見とれて飯を焦がしてしまったというのである。薩摩人にしては冷静沈着な男ではあるが、この日の議論はまるで進展しなかった。
「兵庫港は徳川家の管轄にある」
「そん徳川はすでに政権を朝廷に返上した。兵庫港は王政のもとにある!」
 そして榎本は業を煮やした。
「残念だがお帰りいただこう。すでに徳川は島津と戦時下にある。後は戦場にて事を決するより他ないと存ずる」
 最後まで冷静な榎本に、突如として赤塚の背後に控えていた従者が切れた。唸りとも怒号ともとれる異様な叫びとともに、刀をぬいて榎本に斬りかかったのである。有名な示現流の初太刀だった。しかし榎本はこれを間一髪でかわした。両者の間にわって入ったのはやはり沢太郎左衛門だった。沢は新道無念流の剣の心得があった。両者は刀を交えるも、突如としてこの薩摩人はその場に悶絶した。赤塚が拳銃でこの男の額を撃ちぬいたのである。S&Wというピストルだった。
「ほんのこつ失礼をした。我が藩の者は血の気が多すぎる。榎本どん、こうなったら致仕方ごわはん。後は戦場で決着をばつけもうそう」
 こうして赤塚は再び小舟で去っていった。榎本も沢も薩摩隼人というものがいかなるものであるか、かすかに身のすくむ思いがしないではいられなかった。
 



(三)
 
 同じ慶応四年の正月三日、旧幕府軍は鳥羽街道を行く軍勢と伏見方面を進む軍勢で二手にわかれ大坂から京への進軍の途上にあった。その数およそ一万五千。京都の南位置するこの一帯は平野部にあり淀川、宇治川、桂川といくつもの川が複雑に流れていた。いわば陸上、水上交通の中心地といっていい。
 そして伏見街道をゆく軍勢の中に、幕府遊撃隊の二番隊長として伊庭八郎の姿もあった。この時二十五歳である。そして、その八郎の陣を馬で訪れる者があった。あの土方歳三だった。この時三十三歳で八郎とは何年ぶりであろうか?
「薩摩の田舎侍どもが江戸市中の物乞いやら無頼の徒に金をやって略奪、暴行、放火やりてえ放題させてよ、それで庄内藩の連中が我慢も限界になって、三田の薩摩藩邸に放火したってわけよ」
 と土方は、今回の事態に至るまでの経緯について語りはじめた。
「まあ大坂の慶喜公は戦は極力避けようしておられて、報に接して愕然としたらしいな。さすがに戦を望む者をこれ以上おしとどめることは不可能だと悟り、最後は半ばやけくそ君に勝手にしろといったらしい」
 そこまでいうと土方は一つため息をついた。
「それはそうと、おまえさんしばらく見ぬうちにずいぶんと猛々しくなったな」
 この時八郎は馬乗袴をはき紺の脚袢、襦袢の上には紬筒袖の上着を着て実戦用の籠手もつけた。そしてわらじばきといった姿であった。
「土方さんこそ随分と凛々しくなられた。京での活躍聞いております」
 土方はその美男ぶりに加え、以前会った時と比較しても、どこか決して動くことのない信念が表情にうかがえた。
「今回の戦味方は二万五千ほどに対し、向こうはせいぜい五千ほどでしかない。だが俺の感ではただならぬ戦いになる。とにかく八郎死ぬんじゃないぞ」
「土方さんこそ決して死なないで……」
 すると土方はかすかに笑みをうかべた。
「俺は死なねえよ。俺が死ねば悲しむ女がはいて捨てるほどいるからな」
 「土方さん、近藤さんと沖田さんは?」
 すると土方の表情が瞬時にして険しくなった。沈黙したまま馬に鞭を入れるとゆっくりとその場を後にした。
 この時近藤勇は御陵衛士の残党の襲撃により、京の藤森神社の近くで狙撃され療養中であった。そして沖田総司は、結核のため明日をも知れぬ身の上となっていたのである。
 八郎はしばし土方の後ろ姿を見送っていた。ちょうど冬の真っただ中である。冷気が肌を刺す。それにしても……。と八郎は思った。もし平和な世であれば家族が集まって雑煮でも食べながら、わいわいがやがやとやっている頃であろうか? それを思うとなんともやりきれない気分になった。

 戦端はまず鳥羽方面で開かれた。鳥羽方面を行く幕軍が薩摩側に行く手をさえぎられ、通せ! 通さん! の押し問答が延々と続いた。そしてついに薩摩側が発砲ここに戦端が開かれた。
 しかし鳥羽街道は狭く、幕府軍は二列縦隊ほどでしか進軍できない。これでは大軍も威力を発揮することはできず。ミニェー銃をはじめ新式銃を集めた薩摩側の部隊に散々に苦戦することとなる。
 
 鳥羽での砲声を聞き、伏見方面でも戦闘が開始されようとしていた。主に薩摩、長州、土佐からなる新政府軍が陣を置いたのは、御香宮神社の辺りだったといわれ、まずここに新政府側は大砲四門を設置する。さらに旧幕軍が陣取る伏見奉行所を見下ろせる龍運寺にも大砲が置かれた。
 これに対し会津藩兵及び新選組は陣羽織に白足袋という旧式のいでたちで、得意の白兵戦に持ちこもうとした。しかしその意図は戦闘開始からほどなくして、もろくも打ち砕かれることとなる。
 新政府側では最新の先込め式のミニエー銃やスナイドル銃を装備し、軍備の上で旧幕軍を圧倒していた。さしもの会津藩兵、新選組も接近戦に及ぶ前に戦場に屍をさらすこととなる。さらに最新式のアームストロング砲が威力を発揮する。その破壊力もさることながら、着弾の際の鈍い衝撃音がそれだけで兵士を戦慄させた。
 ある兵は刀をにぎったまま倒れ天をあおいでいる。頭部からべっとりと血が流れ動くことすらできない。そして、にじみ出た血は道路上の石や土にしたたっている。吹き飛ばされた兵は折り重なり、血と土にまみれた顔はゆがみ、苦痛のため声にならないうめき声をあげていた。人だけではない。馬もまた恐怖のあまり暴れ狂った。主を捨てて逃げる馬が続出した。

 新選組率いる土方歳三はいらだった。会津藩の佐川官兵衛の許可をえて西方の迂回ルートから新選組のみで御香宮に奇襲をしかけた。
「背後に敵兵!」
 一時動揺するも守る薩摩兵もさるものである。敵が寡兵であることを見て取ると、たちまち体制を立て直す。特に新選組は最近新隊士募集を行ったばかりである。中にはまったく役にたたない者も含まれていた。それらは薩摩兵の猿叫といわれる狂気にも似た奇声を聞くと、たちまち怖気づいた。
「なんだその及び腰は! そんなことで戦がつとまるか! 永倉さんこいつらに戦のしかたを教えてやってくれ」
 新選組最強ともいわれる永倉新八は、抜刀すると殺気を露わにし敵兵を斬りまくる。しかしそれでも新選組の苦戦はまぬがれなかった。

 一方、御香宮西側の路上には長州兵数千がいた。その中に山田市之允の姿もあった。長州では、すでに村塾の四天王といわれた人々は全てこの世を去った。高杉晋作はその死にのぞんで、長州における軍事をつかさどる自らの後継者として、大村益次郎(村田蔵六が改名)と山田市之允を指名したという。この年齢よりはるかに若く見える俗にいう童顔をした男は、この男なりにこれからの長州を背負うのは自分であるという自負心をもっていた。
 やがて幕軍が迫ってくる。京都の市街地は碁盤目状になっていた。長州人が南の方角へ向かって銃を撃ち、そして薩摩人は西の方角へ銃を撃つ。この時の戦いを経験したある長州人の記録が残っている。
「市街戦だ。ところでこっちは馬関の戦などがあって巧者になっている。伏見の町の住民は皆逃げてしまって空き家になっているから、その畳を引き上げてきて、道の傍らに七、八枚ずつ重ねて、横に立てかけて盾にした。その間から撃ったので死人の数が割合に少ない。その内向こうの陣屋が焼けだしたから、向こうは火を向背にしたので、よく動くのが見えるけど、こっちは真っ暗で向こうから少しも見えぬ」
 市之允は幕軍と戦いつつ、その胸中では味方であるはずの薩摩人とも戦っていた。なるほどかっての仇敵であった薩摩人は、味方ともなればこれほど頼もしい存在はいない。しかし一方で市之允には所詮、長州では薩摩には勝てないのではという恐れがあった。
「撃て、撃て! もっと撃て! 薩摩っぽどもに遅れをとるな!」
 馬上、味方の兵を叱咤する市之允。その時、御香宮に翻る「誠」の旗が市之允の視界にはいった。この童顔男には、さらに戦わなければならない敵がいたのである。
 市之允は一隊を率いて、新選組の部隊がよく見える場所に移動する。禁門変の後、市之允は西本願寺に逃げこんだ。新選組の土方歳三がやってきて寺を調べられたが、坊主に化けた市之允たちは、かろうじて正体がばれることなく九死に一生をえた。しかし後でよくよく考えてみたら、土方はどうも自分たちを怪しいと思いつつ、わざと逃がしたような気がしてならなかった。それならそれで、市之允はなんらかの形で土方に借りを返さなければならないと思っていた。
 御香宮まで来ると、はたしてダンダラ羽織を来た部隊が奮戦する様が見てとれた。その中に自ら白刃をふるう土方らしい男を発見する。市之允は最新式のライフルをかまえると、土方めがけてよく狙ったうえで銃を発射した。しかし弾はわずかにはずれ、土方のこめかみをかすめただけに終わった。
「くそ運のいい奴め! だが次に会ったときは必ず借りは返す」
 市之允は思わず歯ぎしりした。
 
  同じ頃、八郎の遊撃隊もまた敵の大砲と銃の前に前進することすらできず、大苦戦を強いられていた。時の経過とともにいたずらに犠牲者だけが増えていく。頃合いを見計らって薩摩兵が斬りこみをかけてくる。
 幕末維新を成立させたのは俗に薩長土肥といっても、薩摩の果たした役割は頭一つ抜きんでている。その原動力となったものは優れた外交や政治力はもちろんのこと、やはり強大すぎる軍事力だった。
 戦国からこの時代にかけて、薩摩武士がいかほど常軌を逸した集団であったかを物語るエピソードは履いて捨てるほどある。もちろん八郎や遊撃隊の隊士たちも噂には聞いていた。古くは関ヶ原で数百で数万の敵の中央を突破した。昨今は海洋まで含めれば世界史上最大版図を築いた大英帝国を相手にして、これを薩摩一国の力で撃退した。その薩摩兵が迫ってくる。猿叫による威嚇は大砲の着弾の際の衝撃音同様、隊士たちを恐れさせるのに十分だった。
 八郎もまたしばし動揺した。しかしその時、八郎の視界が、やはり遠く御香宮に煙の中にはためく「誠」の旗をとらえた。それが八郎の闘争心に火をつけた。
「行くぞ皆! 進め!」
 硝煙のにおいの中八郎は号令を上げた。部隊の先頭で敵兵を斬りまくった。
心形刀流においては心の修養を第一義とし、技の錬磨を第二義とする。すなわち、技は形であり、心によって使うものである。心正しければ技正しく、心の修養足らざれば技乱れる。そして、この技が刀の上に具現されるというのが、心形刀流の理念であった。
 一方、薩摩にも示現流といわれる独特の剣術の流派があった。その理念は「意地」「業」「打ち」の三つに集約される。「蜻蛉の構え」といわれる独特の構えから、とにかく一の太刀で敵を倒すという極めて実戦型の剣術だった。
 しかしいかな示現流の使い手といえど、八郎を倒すことは至難の業だった。一見する華奢な八郎であったがその勇猛なことは配下の遊撃隊をも奮い立たせた。八郎自身もまた、今までの生涯でこれほどの興奮を覚えたことはない。その壮絶な戦いぶりは、薩摩側の名将・野津七左衛門をして「幕軍にさすがに伊庭八郎あり」といわしめたといわれる。
 再び「誠」の旗が八郎の視界に入った時のことだった。不意に八郎は胸部に激痛を覚えた。右手をふれると不気味なほど血がこびりついていた。敵の銃弾が右胸部に貫通したのである。
 瞬時、八郎の脳裏に京で過ごした、楽しかった日々がよみがえった。
「俺はもう死ぬのか? あの頃には……決して戻れない……」
 八郎は最前線で人事不肖となったのであった。

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