残影の艦隊~蝦夷共和国の理想と銀の道

谷鋭二

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【第三章】鳥羽・伏見の戦い

消えた将軍

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「八郎大丈夫か? 八郎!」
  伊庭八郎は、何者かの声でようやく我に帰った。男は髷の下に短い眉と勝気そうな二重瞼、鼻梁がたくましく唇も厚い。名を人見勝太郎といった。八郎のいわば同僚で遊撃隊の第一隊の隊長だった。この時二十五歳である。
  二条城詰め鉄砲奉行組同心・人見勝之丞の長男として京都で生まれたが、京都人らしい冷酷さはおよそ持ち合わせず、たまに嫌味くらいはいうが、むしろ清清しいほどの快男児だった。
  十歳の時には、早くも一刀流剣術と江川流砲術の稽古を始めたという。また牧百峰塾に入門し儒学を学んだ。十九の時には十四代将軍家茂の前で孟子の御前講義を行い、白銀三枚を下賜されたといわれる。いわば文部両道に秀でた若者であったといえるだろう。
  八郎が倒れた後、遊撃隊は京都平野と大阪平野の分岐点橋本で官軍と戦った。その際、負傷した多くの味方の兵を敵の銃弾が飛びかう中救い出し、旧幕軍の碇泊地天保山沖まで運んだのも勝太郎だった。一方で紀州まで赴いた際、味方の負傷兵を捨てて逃げた遊撃隊士に対しては怒号をあびせたと伝えられる。
 八郎は銃弾を受けた場所に晒しが巻かれ、とりあえずの応急措置がなされていた。
「自分は……まだ生きているのか? ここはどこだ? 戦は……戦はどうなった」
 八郎が周囲を見渡すと、比較的広い部屋に、八郎の他にも重軽傷者が多数横になっており手当を受けていた。中には苦しげにうめき声をあげる者もいたし、部屋全体に悪臭がただよっていた。八郎の問いに勝太郎はしばし表情を曇らせた。
「ここは大坂城内の定番与力組屋敷だ。君は重傷を負って倒れていたところを、ここに担ぎこまれたんだよ」
「戦は?」
 八郎が重ねて聞くと、勝太郎はさらに苦しげな表情を浮かべた。
「戦は……残念ながら大負けだ!」
「どういうことだ?」
「敵陣に錦の御旗がひるがえり、味方の士気がたちどろに萎えた。しかも大将であられる一橋殿からして、戦う意志をなくされてしまった!」
 そこまでいうと勝太郎は、いかにもいまいましげな表情をうかべた。
「逃げたのさ将軍は!」
「逃げた?」
 あまりのことに八郎は、しばしキョトンとした顔をした。

 一月五日、新政府軍側に錦の御旗が翻ったという第一報は、旧幕府軍の陣営を電撃的に走りぬけた。この報に旧幕府軍の各隊だけでなく、幕府側についていた譜代の淀藩もまた動揺した。
 伏見から淀への陸路は、淀堤とよばれる宇治川沿いの狭くて長い堤防道である。淀小橋から一キロほど東に千両松よばれる土地があった。新選組は相次ぐ敗戦の末、この千両松にしばし集結していた。この頃には隊士の多くが負傷しており、士気は萎える一方だった。
「残念だが、刀の時代は終わりらしい」
 副長の土方は、六番組組長だった井上源三郎にため息をつきながらいった。源三郎はこの時四十歳。新選組の試衛館出身者の中でも最年長で、ともすれば血気にはやりがちな他の隊士たちを、常に冷静な判断で導いてきた。
「確かに、我等刀で勝負しようにも敵の銃撃が激しく、近寄ることさえできぬ」
 と焚き木を囲みながら源三郎もまた、ため息をついた。
「思い出すのう。我が家の土間の柱は、毎日木刀で撃ちこんだせいで細くなってしまっていた。多摩の百姓は皆剣術をやるが我が家は、本当に剣術好きで、いつも農作業が遅れていた。あの頃に戻りたい」
 源三郎は天を仰いだ。
 その時だった。いずこかの部隊が新選組の方角へ向かってきた。およそ三十人ほどはあろうか。
「あの旗は、淀藩の旗じゃないか」
 と叫んだのは斎藤一だった。新選組隊士たちはしばし何事かを相談した。淀藩は譜代の家柄でもちろん徳川方である。新選組は満身創痍で負傷者も多く、このままここにいても薩長に滅ぼされるかもしれない。なんとか淀藩に頼んで城に入れてもらえないだろうか? 交渉のため井上源三郎が赴くこととなった。
「何奴!」
 淀藩の兵士は銃を構えた。
「怪しい者ではありません。我等は新選組でござる」
「新選組?」
 兵士たちはしばし不思議な顔をした。
「実は我等、力の限り戦いましたがすでに負傷兵が多く、食糧も底をつき……」
「構わん撃て!」
 源三郎が全ていい終わらないうちに、銃口が一斉に火を噴いた。源三郎は何が何やらわからぬうちに、無情にも銃撃で蜂の巣と化した。
「何ということだ! 己、許せん」
 新選組が淀藩の兵に襲いかかりかろうじて撃退するも、その時にはすでに井上源三郎は虫の息だった。
「多摩の……連中に伝えてくれ。井上源三郎は……徳川のために戦い散ったと……」
 井上源三郎享年四十歳。淀藩は形勢を見て、譜代大名でありながらすでに新政府側に寝返っていたのである。
 
 さらに幕府側にとっての不幸は続いた。翌六日、今度は幕府側であったはずの藤堂家が新政府側に寝返り、山崎関門から幕府側めがけて大砲を浴びせたのである。
 この裏切り行為に、旧幕府側は激高した。
「裏切り者を討て!」
「藤堂藩を許すな!」
 鬼の形相で向かってくる幕府軍に、大砲そしてスナイドル銃が情け容赦なく浴びせられた。特に激しかったのは佐々木只三郎に率いられた見廻り組だった。味方が倒れも倒れても、何者かに憑かれたように銃剣突撃をくりかえした。しかしそれも限界にきて、ついには大将である佐々木只三郎自身が腹部に被弾して戦闘不能となった。
 
 その日の夕刻、幕府側は大勢の負傷者を出し大坂城へと退いた。徳川慶喜の絶望は深かった。そして決断を迫られていた。慶喜は恐ろしく先を読むことにたけ、カメレオンのように白にでも黒にでも変化する男である。淀藩が裏切ったと聞いた時から、さらに寝返り者が続出することを読んでいた。現に藤堂藩が裏切り、間もなくあの幕府譜代筆頭といっていい彦根・井伊家や、紀州徳川、尾張徳川までもが寝返ってしまうのである。
 この日本の政治家というより政治屋の典型例を見るような男は、可能なら自分もまた寝返りをうちたかった。しかしなんといっても己が大将なのである。それではどうしたらいいのか? 部下に見限られる前に、大将である自分が部下を見限るのである。もちろんそれは徳川の大将として、そして人としても許されざるべきことではあった。
 慶喜は大坂城の大広間に将兵を集めた。そして参集した者すべてに、明日は自らも陣頭に立って戦うので、もし及ばなかった時は共に死のうと呼びかけた。こういう時の慶喜は驚くほどの千両役者ぶりで、その名演説に将兵の中には涙ぐむ者までいた。そしてその夜遅く、慶喜は豹変するのである。

 午後十時頃、会津の松平容保とその弟で桑名藩主の松平定敬が慶喜の寝所に呼ばれた。そこにはすでに老中の板倉勝静や永井尚志の姿もあった。
「なんと、城をお出になられると? それは誠に申しているのありますか?」
「錦の御旗が敵陣にひるがえった以上、余は賊臣にはなりとうない」
 慶喜は冷たくいった。
「恐れながら、それでは殿を信じてここまで従ってきた将兵達を、お見捨てになられるのですね?」
 松平定敬の問いにも慶喜は、
「まつりごととは所詮非常なものだ。味方を欺くこともある」
 と表情を曇らせながらいう。
「恐れながら、戦する気がござらぬなら腹を召されませ!」
 容保が意を決したようにいった。
「大勢の将兵の命と引き換えに、上様がここで腹を召されれば、歴史に徳川の尊厳は保たれまする。どうか、どうか神君家康公以来徳川十五代の最後を、後々の人々に恥じることなきよう」
 さしもの慶喜もしばし沈黙した。この生まれながらにして政治的存在であることを宿命とされたような男は、今まで政治によって翻弄され続けてきた。そして歴史的役割を終え、もはや滅びるだけという自らの運命をも直視していた。慶喜はこの期に及んで、どうしても己の運命に納得がゆかなかった。
「余は、徳川のため生きねばならぬのだ。したがって腹は斬らん」
 さしもの容保も、相手が相手であるだけにそれ以上なにも言えなかった。ただやりきれなさと、悔しさだけが胸の奥からこみあげてきた。

 慶喜とその一行は、搦め手門から城の外へ脱出した。護衛の側用人たちを小姓の交代であると偽り、川船で天保山沖へと漕ぎ出した。そして停泊中の開陽丸へと姿を現した。すでに榎本は陸に上がった後で、副艦長として沢太郎左衛門がいた。太郎左衛門は、不意の来訪者の正体を知り驚愕した。
「何と申されようと、船は艦長がいてはじめて動くものです。軍艦が艦長なくして出航するなど考えられませぬ」
 榎本から後を託されていた澤太郎左衛門は困惑しながらいった。
「いいからてめえはさっさと船を出せばそれでいいんだよ! ここにおわす御方を誰と心得ておる! 先の征夷大将軍にあらせられるぞ!」
 側近はいらだち、声を荒げた。
「恐れながら、逆におうかがいしたい。誠にそれが、本来夷狄からこの国を守るはずの征夷大将軍のお言葉にござるか?」
 太郎左衛門は、側近の背後に控える慶喜の目を見ていった。側近はついに切れた。
「やかましい! てめえの知ったことか。いいからさっさと船を出せっていってんだ! 榎本だ、そんな野郎なんざ知るか馬鹿野郎!」
 こうして開陽丸は榎本武揚を置き去りにして、そして大坂城に残された大勢の将兵を置き去りにして、江戸目指して出航してしまった。ここに幕府の命運は決定的になったといっていい。

 慶喜の逃亡を知り薩摩の西郷吉之助は唖然とした。
「島津家八百年の歴史の中で、あげな情けなか敵将は恐らくはじめてでごわんと」
 と勝利の喜びより先に、敵の大将に対して半ば呆れてしまった。

 
 
 
 

 
 

 


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