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【第三章】江戸無血開城
出会い
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正直、この徳川慶喜なる人物に人間的に評価できる部分は、ほぼ皆無といっていい。しかしこの人物の意志薄弱と重大な局面における極めて消極的決断が、日本を内戦の後の欧米による植民地支配から救ったというのも、一面の事実なのかもしれない。それも結果論といってしまえばそれまでで、慶喜に置き去りにされた幕臣たちはたまったものではなかった。
朝になり将軍が逃げたという噂は疾風迅雷ように城内をかけめぐり、大坂城はパニックに陥った。絶望のあまり泣く者、酒を大量に飲みその場に倒れこむ者、ついには腹を斬ってしまう者までいた。
榎本武揚もまた慶喜の逃亡を知り鬼の形相と化した。この普段から冷静沈着な人物が、ここまで怒りをあらわにしたのは、恐らく生涯で初めてのことだっただろう。
しかし榎本には、それでも為さねばならないことがあった。大坂城の御金蔵に残された十八万両もの金を、薩長に奪われる前に城から運びだすのである。順動丸と翔鶴丸に分けてこれを積みこんだ。
その作業も一段落すると榎本は天保山に登り、そこから眼下に広がる大海原をのぞんだ。しかしそこに、あるはずの開陽丸はすで存在しなかった。榎本は思わずその場にがっくりと膝を突き、そして嗚咽とも唸りともとれる叫びをあげた。
この時、榎本武揚三十二歳。開陽丸を乗り逃げされたという屈辱感はもちろんのこと、己が今まで信じてきたものが足元から崩壊していくのが、恐怖をともなって体中に伝わった。事実、今まで多少の海難事故などはあったものの、常に順風満帆だった榎本の人生はここから一気に暗転する。そして常に眼下に迫ってくる絶望との戦いにかわるのだった……。
開陽丸なき幕府艦隊は、一月十二日昼頃から順次幕臣を乗せて江戸へと出航する。蟠竜丸を先頭とし順動丸、翔鶴丸と続き、榎本は最後の富士山丸に乗船した。
天候もよく比較的順調な航海だった。富士山丸は一月十三日の夜半、ようやく駿河湾の近くを通過しようとしていた。もう江戸は目と鼻の先である。
榎本武揚は甲板から、黒く不気味でさえある海を眺めていた。時折鼻歌のようなものも口にした。榎本は将軍に開陽を乗り逃げされて以来、軽いうつ病気味であった。鳥の声でさえ不快に思えた。
「うるさい! 静かにしろ!」
突如榎本は腰からピストルをぬくと、天空に向かって一発空砲を放った。その時異変はおきた。銃声を聞きつけて、数名の見慣れぬ姿をした男たちが集まってきたのである。榎本はその異様な風体にまず驚いた。浅葱色のだんだら羽織に、はちまきといった姿で、一見して腕はかなりたちそうである。
「失礼、それがしは新選組副長で土方歳三と申す者でござる。銃声がしたので何事かと思い……」
榎本はかすかに新選組の噂は聞いていた。自分たちがオランダに行っている間に、江戸で浪士やならず者を集めて京での治安維持にあたっていたとか?
「君たちが新選組か? 何心配することはない。新しく手に入れた拳銃の試し撃ちをしたまでだ。案ずるには及ばぬ」
榎本は冷静にいうと、すぐに土方に背を向けて海を方角を見た。土方は土方で、榎本の西洋式のフロックコートを注意深く観察した。
「軍艦頭の榎本さんですな? お噂はかねがね聞いております。このような夜更けに寝室でお休みになられないのですか?」
土方は不思議そうに聞く。
「何、世をはかなんでおったのよ。一橋がとんだ腰抜けで、俺の開陽に勝手に乗って江戸へ逃げ帰りやがった。おかげで俺たちは、天子様に逆らうただの逆臣になってしまった。俺はもう徳川の家臣なんて嫌になっちまった」
すると土方は、かすかに怒りをあらわにした。
「聞き捨てなりませんな。卑しくも、徳川の禄を食んできた者が申すこととは思えませぬ。確かに慶喜公のとった行動は武士として許されないことはあるが、臣下には臣下の道がある。例えいかな主君でも最後まで忠義を尽くすが武士の勤め。慶喜公が俗臣の汚名を着せられたなら、これを晴らすが我等の勤めはありませんか? ここで海を眺めて愚痴をいっていても始まりませんぞ」
土方は少し厳しい言葉でいった。
「確かに君のいうとおりかもしれん。愚痴をいっていても始まらぬ。俺は今まで世界中多くの国々を見てきた。この世は限りなく広い。俺は今密かに考えていたんだ。もし幕府がどうしてもだめな時は、この広大無辺な地のいずこかに幕臣だけの理想郷を見つけ出すことはできないかと」
「ほう? それは例えばいずこの地に?」
土方は興味深げにたずねると。榎本は少し意地悪な目をした。
「例えば海の底などどうだ?」
「海の底?」
土方は榎本のいわんとしていることがわからず、しばし困惑した。
「西欧の暦でいうと一六二〇年にオランダ人のコルネリウス・ドレベルなる人物が、イギリス海軍向けに初めて海の底を行く船、すなわち潜水艦なるものを発明したそうだ。そしてアメリカ独立戦争時にデヴィッド・ブッシュネルなるアメリカ人が、人力駆動の螺旋型推進装置による潜水艦を作成したが、実際の戦闘では役に立たなかったらしい。
さらに一八六四年にフランス海軍のプロンジュールという人物が、最初の非人力・潜水艦の潜水試験に成功したそうだ。十二バールに加圧された圧縮空気をタンクに貯蔵し、これを利用してレシプロ式の空気エンジンで推進し。エンジンは八十馬力。四ノットの速度で約九キロ海の底を移動。最大潜行深度は十メートルほどだったらしい」
土方も土方の背後に控えている数名の新選組隊士も、榎本のいっていることがほとんど理解できず、しばし呆然とした。
「戯れがすぎたかな。まああくまで戯れだ諸君、聞き流してくれたまえ」
榎本は不敵を笑みをたたえたまま、その場を後にした。これが土方歳三と榎本武揚、後に蝦夷の地で生死を共にする両者の運命的な出会いだった。
朝になり将軍が逃げたという噂は疾風迅雷ように城内をかけめぐり、大坂城はパニックに陥った。絶望のあまり泣く者、酒を大量に飲みその場に倒れこむ者、ついには腹を斬ってしまう者までいた。
榎本武揚もまた慶喜の逃亡を知り鬼の形相と化した。この普段から冷静沈着な人物が、ここまで怒りをあらわにしたのは、恐らく生涯で初めてのことだっただろう。
しかし榎本には、それでも為さねばならないことがあった。大坂城の御金蔵に残された十八万両もの金を、薩長に奪われる前に城から運びだすのである。順動丸と翔鶴丸に分けてこれを積みこんだ。
その作業も一段落すると榎本は天保山に登り、そこから眼下に広がる大海原をのぞんだ。しかしそこに、あるはずの開陽丸はすで存在しなかった。榎本は思わずその場にがっくりと膝を突き、そして嗚咽とも唸りともとれる叫びをあげた。
この時、榎本武揚三十二歳。開陽丸を乗り逃げされたという屈辱感はもちろんのこと、己が今まで信じてきたものが足元から崩壊していくのが、恐怖をともなって体中に伝わった。事実、今まで多少の海難事故などはあったものの、常に順風満帆だった榎本の人生はここから一気に暗転する。そして常に眼下に迫ってくる絶望との戦いにかわるのだった……。
開陽丸なき幕府艦隊は、一月十二日昼頃から順次幕臣を乗せて江戸へと出航する。蟠竜丸を先頭とし順動丸、翔鶴丸と続き、榎本は最後の富士山丸に乗船した。
天候もよく比較的順調な航海だった。富士山丸は一月十三日の夜半、ようやく駿河湾の近くを通過しようとしていた。もう江戸は目と鼻の先である。
榎本武揚は甲板から、黒く不気味でさえある海を眺めていた。時折鼻歌のようなものも口にした。榎本は将軍に開陽を乗り逃げされて以来、軽いうつ病気味であった。鳥の声でさえ不快に思えた。
「うるさい! 静かにしろ!」
突如榎本は腰からピストルをぬくと、天空に向かって一発空砲を放った。その時異変はおきた。銃声を聞きつけて、数名の見慣れぬ姿をした男たちが集まってきたのである。榎本はその異様な風体にまず驚いた。浅葱色のだんだら羽織に、はちまきといった姿で、一見して腕はかなりたちそうである。
「失礼、それがしは新選組副長で土方歳三と申す者でござる。銃声がしたので何事かと思い……」
榎本はかすかに新選組の噂は聞いていた。自分たちがオランダに行っている間に、江戸で浪士やならず者を集めて京での治安維持にあたっていたとか?
「君たちが新選組か? 何心配することはない。新しく手に入れた拳銃の試し撃ちをしたまでだ。案ずるには及ばぬ」
榎本は冷静にいうと、すぐに土方に背を向けて海を方角を見た。土方は土方で、榎本の西洋式のフロックコートを注意深く観察した。
「軍艦頭の榎本さんですな? お噂はかねがね聞いております。このような夜更けに寝室でお休みになられないのですか?」
土方は不思議そうに聞く。
「何、世をはかなんでおったのよ。一橋がとんだ腰抜けで、俺の開陽に勝手に乗って江戸へ逃げ帰りやがった。おかげで俺たちは、天子様に逆らうただの逆臣になってしまった。俺はもう徳川の家臣なんて嫌になっちまった」
すると土方は、かすかに怒りをあらわにした。
「聞き捨てなりませんな。卑しくも、徳川の禄を食んできた者が申すこととは思えませぬ。確かに慶喜公のとった行動は武士として許されないことはあるが、臣下には臣下の道がある。例えいかな主君でも最後まで忠義を尽くすが武士の勤め。慶喜公が俗臣の汚名を着せられたなら、これを晴らすが我等の勤めはありませんか? ここで海を眺めて愚痴をいっていても始まりませんぞ」
土方は少し厳しい言葉でいった。
「確かに君のいうとおりかもしれん。愚痴をいっていても始まらぬ。俺は今まで世界中多くの国々を見てきた。この世は限りなく広い。俺は今密かに考えていたんだ。もし幕府がどうしてもだめな時は、この広大無辺な地のいずこかに幕臣だけの理想郷を見つけ出すことはできないかと」
「ほう? それは例えばいずこの地に?」
土方は興味深げにたずねると。榎本は少し意地悪な目をした。
「例えば海の底などどうだ?」
「海の底?」
土方は榎本のいわんとしていることがわからず、しばし困惑した。
「西欧の暦でいうと一六二〇年にオランダ人のコルネリウス・ドレベルなる人物が、イギリス海軍向けに初めて海の底を行く船、すなわち潜水艦なるものを発明したそうだ。そしてアメリカ独立戦争時にデヴィッド・ブッシュネルなるアメリカ人が、人力駆動の螺旋型推進装置による潜水艦を作成したが、実際の戦闘では役に立たなかったらしい。
さらに一八六四年にフランス海軍のプロンジュールという人物が、最初の非人力・潜水艦の潜水試験に成功したそうだ。十二バールに加圧された圧縮空気をタンクに貯蔵し、これを利用してレシプロ式の空気エンジンで推進し。エンジンは八十馬力。四ノットの速度で約九キロ海の底を移動。最大潜行深度は十メートルほどだったらしい」
土方も土方の背後に控えている数名の新選組隊士も、榎本のいっていることがほとんど理解できず、しばし呆然とした。
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