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【第三章】江戸無血開城
勝と西郷
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慶応四年(一八七二)二月、徳川慶喜は勝海舟の進言にしたがって上野寛永寺に入り謹慎した。慶喜に置き去りにされた幕臣たちも、その多くは船で江戸にもどってきた。薩長の官軍は続々と江戸を目指していた。ここから慶喜により後をたくされた勝の博打がはじまる。
勝は江戸の火消し・ヤクザなどに金を渡す。官軍が進軍して来たら、子分を使って市街を焼き払い焦土とし、その進撃を食い止めるよう命じたのである。同時に大小の船を用意し、市民を房総に避難させる準備もした。ナポレオン侵攻の際、ロシアがおこなった焦土作戦をまねたわけである。
一方、官軍の総大将・西郷吉之助もまた苦悩していた。江戸城からは十四代将軍家茂の正室で、孝明天皇の異母妹にあたる和宮から、総攻撃を中止するよう手紙が届いた。さらに十三代将軍家定の御台所の天璋院・篤姫からも、同様の内容の手紙が送られてきた。なんといっても篤姫は薩摩出身で、薩摩の前国主島津斉彬の養女なのである。
しかしこれらの夫人からの手紙よりさらに西郷を困らせたのは、他ならぬイギリスの動向だった。英国公使パークスが西郷に面会を申しでて、
「すでに大君は降伏を申しでている。これをさらに攻めて滅ぼすことは文明国の行うことではない」
と厳しく江戸城総攻撃に反対した。イギリスにしてみれば、江戸が灰になれば日本とイギリスはじめ諸外国との貿易に支障がでるのではと、これを不安視していた。西郷にとっても英国の反対はまるで想定外のことであり、困惑する西郷の前に江戸から勝海舟の使いの者らしき人物が訪ねてきた。
三月九日、すでに西郷は軍勢とともに駿河まで来ていた。ここで突如陣を訪れた勝海舟の使者、山岡鉄太郎なる人物の来訪を受けることとなる。
西郷は、江戸総攻撃中止の条件として山岡に七箇条を突きつけたという。その中でただ一つ「前将軍は備前藩にお預け」という一文だけは、山岡はかたくなに拒否した。
「もし我らが戦の勝者で、薩摩の殿様を会津あたりに預けるといったら、あんたはここから生きて帰りますか?」
山岡は剣と禅の達人であったといわれる。はるか後年のことになるが山岡鉄太郎は明治二十一年(一八八八)五十三歳で逝去する。死因は胃癌だったといわれる。常人であれば末期の胃癌ともなれば激痛にのたうち回り、大の大人でも泣き出す者もいるという。しかし鉄太郎すなわち鉄舟は皇居を方角を向いて座禅を組み、微動だにすることなくそのまま息を引き取ったというのである。
山岡鉄舟とはそれほどの傑物であり、その気迫、胆力に西郷も折れ、慶喜の備前藩預かりは一時棚上げとなった。
三月十四日、三田の薩摩藩邸にて西郷、勝両者の会談が現実のものとなった。
この時の勝海舟は従者を一人連れただけで、羽織袴といった出で立ち。一室へ通されしばらく待たされたが、やがて古洋服に薩摩風の下駄をはいて、熊次郎という忠僕をを一人従えて西郷が現れた。
両者は実は初対面ではない。元治元年(一八六四)の九月に大坂で一度顔を合わせている。ちょうど第一次長州征伐を目前にした頃で、幕府が長州征討に消極的な様に業を煮やした西郷が、幕臣の勝にその不満を露わにしたという。しかし勝は自らが幕臣でありながら幕政を痛烈に批判し、西郷を驚かせた。
「あんたがいうように今の幕府は腐っちまって、政権を担当する能力なんてないさ。なのに薩長が相争って内乱にでもなってみろ、それこそ外国の思うつぼで、日本は清みたいになっちまうぜ。ここは幕府も諸藩もわだかまりを捨て、一緒に立ち向かうしかないんだよ」
この勝の言葉に西郷は、心を大きく開眼したという。親友の大久保一蔵に書いた手紙が残っている。
「実に驚くべき人物で、頭が下がる。どれだけの知略かわからないが、英雄肌の人だ」
と勝の人物を絶賛している。一方の勝海舟もまた後に曰く。
「俺は今まで天下で恐ろしい者を二人見た。横井小楠と西郷南洲だ」
両者の会見は表向きは穏やかに進んだ。穏やかといっても、障子の向こうには人斬り半次郎と天下から恐れられた中村半次郎をはじめ、村田新八など腕の立つ薩摩武士が万一の事態に備えて待機していた。
しばし雑談が続いた後、話題は西郷の旧主島津斉彬のことに及んだ。
「あの時、俺は長崎海軍伝習所に学んでいた。そして航海実習をかねて長崎から薩摩まで足を運んだ。斉彬公の歓待は今でも覚えている。そして斉彬公と二人きりで語り会った」
と海舟は過ぎ去った昔を懐かしむようにいった。
「それで順聖院様(斉彬のこと)はなんと仰せられた」
と西郷は斉彬のこととなると表情が一変した。
「正直に申し上げると、自分はもうそう長くは生きられないとはっきり言ったよ」
海舟もかすかに真顔になった。
「もし戦となれば、この国が欧米列強の侵略に打ち勝てる可能性は無きに等しい。いかようにしたらこの国を守ることができるのかと……。死を前にしても苦悩しておられた。そして俺に対して、我より後の者に託するより他ないが、そちになら託せるような気がする。これは遺言じゃ、必ず、この国を守れ。とそう仰せになられた」
そこまで聞くと人一倍体格の大きな西郷が、突如として声をあげて泣き出した。そのため海舟もまたしばし困惑した。
「西郷さん、泣いている時でござりませんぞ。今一度お願いいたす。今は日本人同士が争っている時ではありませぬ。どうか、どうか矛をおさめてはくださらぬか?」
と勝は最後の懇願をした。こうして江戸城総攻撃の中止が決定した。世界の歴史上ほどんど他に類がないことである。たいがいの場合は国を二分、三分しての泥沼の内戦となり外国勢力までもが介入し、国土は荒廃し、長期間の内戦で民の多くが飢えることとなるのである。
ある意味日本人同士であったから、最悪の事態を回避できたともいえるだろう。例えば隣の清国で、満州人と漢民族が欧米列強の侵攻に対抗して、一致協力して国防にあたるということはほぼ不可能なのである。
勝は江戸の火消し・ヤクザなどに金を渡す。官軍が進軍して来たら、子分を使って市街を焼き払い焦土とし、その進撃を食い止めるよう命じたのである。同時に大小の船を用意し、市民を房総に避難させる準備もした。ナポレオン侵攻の際、ロシアがおこなった焦土作戦をまねたわけである。
一方、官軍の総大将・西郷吉之助もまた苦悩していた。江戸城からは十四代将軍家茂の正室で、孝明天皇の異母妹にあたる和宮から、総攻撃を中止するよう手紙が届いた。さらに十三代将軍家定の御台所の天璋院・篤姫からも、同様の内容の手紙が送られてきた。なんといっても篤姫は薩摩出身で、薩摩の前国主島津斉彬の養女なのである。
しかしこれらの夫人からの手紙よりさらに西郷を困らせたのは、他ならぬイギリスの動向だった。英国公使パークスが西郷に面会を申しでて、
「すでに大君は降伏を申しでている。これをさらに攻めて滅ぼすことは文明国の行うことではない」
と厳しく江戸城総攻撃に反対した。イギリスにしてみれば、江戸が灰になれば日本とイギリスはじめ諸外国との貿易に支障がでるのではと、これを不安視していた。西郷にとっても英国の反対はまるで想定外のことであり、困惑する西郷の前に江戸から勝海舟の使いの者らしき人物が訪ねてきた。
三月九日、すでに西郷は軍勢とともに駿河まで来ていた。ここで突如陣を訪れた勝海舟の使者、山岡鉄太郎なる人物の来訪を受けることとなる。
西郷は、江戸総攻撃中止の条件として山岡に七箇条を突きつけたという。その中でただ一つ「前将軍は備前藩にお預け」という一文だけは、山岡はかたくなに拒否した。
「もし我らが戦の勝者で、薩摩の殿様を会津あたりに預けるといったら、あんたはここから生きて帰りますか?」
山岡は剣と禅の達人であったといわれる。はるか後年のことになるが山岡鉄太郎は明治二十一年(一八八八)五十三歳で逝去する。死因は胃癌だったといわれる。常人であれば末期の胃癌ともなれば激痛にのたうち回り、大の大人でも泣き出す者もいるという。しかし鉄太郎すなわち鉄舟は皇居を方角を向いて座禅を組み、微動だにすることなくそのまま息を引き取ったというのである。
山岡鉄舟とはそれほどの傑物であり、その気迫、胆力に西郷も折れ、慶喜の備前藩預かりは一時棚上げとなった。
三月十四日、三田の薩摩藩邸にて西郷、勝両者の会談が現実のものとなった。
この時の勝海舟は従者を一人連れただけで、羽織袴といった出で立ち。一室へ通されしばらく待たされたが、やがて古洋服に薩摩風の下駄をはいて、熊次郎という忠僕をを一人従えて西郷が現れた。
両者は実は初対面ではない。元治元年(一八六四)の九月に大坂で一度顔を合わせている。ちょうど第一次長州征伐を目前にした頃で、幕府が長州征討に消極的な様に業を煮やした西郷が、幕臣の勝にその不満を露わにしたという。しかし勝は自らが幕臣でありながら幕政を痛烈に批判し、西郷を驚かせた。
「あんたがいうように今の幕府は腐っちまって、政権を担当する能力なんてないさ。なのに薩長が相争って内乱にでもなってみろ、それこそ外国の思うつぼで、日本は清みたいになっちまうぜ。ここは幕府も諸藩もわだかまりを捨て、一緒に立ち向かうしかないんだよ」
この勝の言葉に西郷は、心を大きく開眼したという。親友の大久保一蔵に書いた手紙が残っている。
「実に驚くべき人物で、頭が下がる。どれだけの知略かわからないが、英雄肌の人だ」
と勝の人物を絶賛している。一方の勝海舟もまた後に曰く。
「俺は今まで天下で恐ろしい者を二人見た。横井小楠と西郷南洲だ」
両者の会見は表向きは穏やかに進んだ。穏やかといっても、障子の向こうには人斬り半次郎と天下から恐れられた中村半次郎をはじめ、村田新八など腕の立つ薩摩武士が万一の事態に備えて待機していた。
しばし雑談が続いた後、話題は西郷の旧主島津斉彬のことに及んだ。
「あの時、俺は長崎海軍伝習所に学んでいた。そして航海実習をかねて長崎から薩摩まで足を運んだ。斉彬公の歓待は今でも覚えている。そして斉彬公と二人きりで語り会った」
と海舟は過ぎ去った昔を懐かしむようにいった。
「それで順聖院様(斉彬のこと)はなんと仰せられた」
と西郷は斉彬のこととなると表情が一変した。
「正直に申し上げると、自分はもうそう長くは生きられないとはっきり言ったよ」
海舟もかすかに真顔になった。
「もし戦となれば、この国が欧米列強の侵略に打ち勝てる可能性は無きに等しい。いかようにしたらこの国を守ることができるのかと……。死を前にしても苦悩しておられた。そして俺に対して、我より後の者に託するより他ないが、そちになら託せるような気がする。これは遺言じゃ、必ず、この国を守れ。とそう仰せになられた」
そこまで聞くと人一倍体格の大きな西郷が、突如として声をあげて泣き出した。そのため海舟もまたしばし困惑した。
「西郷さん、泣いている時でござりませんぞ。今一度お願いいたす。今は日本人同士が争っている時ではありませぬ。どうか、どうか矛をおさめてはくださらぬか?」
と勝は最後の懇願をした。こうして江戸城総攻撃の中止が決定した。世界の歴史上ほどんど他に類がないことである。たいがいの場合は国を二分、三分しての泥沼の内戦となり外国勢力までもが介入し、国土は荒廃し、長期間の内戦で民の多くが飢えることとなるのである。
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