残影の艦隊~蝦夷共和国の理想と銀の道

谷鋭二

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【第四章】箱館戦争

蝦夷共和国

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 明治二年(一八六九)の正月をむかえた。五稜郭内の奉行所本庁舎では祝賀行事が催される。軍艦、砲台からは百発の祝砲が放たれ、新たな蝦夷共和国とでもいうべきものの体制を固めるため、日本初の総選挙がおこなわれた。そして総裁は榎本武揚が選ばれ、副総裁は松平太郎が選ばれた。他、主要な人事はだいたい次のようなものである。
 
 海軍奉行 荒井郁之助
 陸軍奉行 大鳥圭介
 陸軍奉行並 土方歳三
 開拓奉行 沢太郎左衛門
 松前奉行 人見勝太郎
 箱館奉行並 中島三郎助
 
 やがて総裁に選出された榎本が壇上に上がり、演説をはじめた。
「諸君は初めてこの蝦夷地に降りたった時、あまりの寒さにおおいに驚いたことと思う。私は新たに発足した新政府に蝦夷地借用の嘆願書を提出した。恐らく新政府は受け入れることはないだろう。
 薩長をはじめとする官軍と称する連中は、すでに政権を返上した慶喜公に戦をしかけ、我ら幕臣から土地を奪い、生活の糧をも奪った。われら鳥羽・伏見で負け、関東で負け、奥州でも負けた。今ここに集いし者は皆それぞれ様々な事情があり、また身分もそれぞれ違う。しかし一致していることもある。それはいかなることがあろうと官軍を偽る輩には、決して屈しないということである。
 私は、オランダに四年ほど留学していた。オランダはかってイスパニアに支配されていたことがある。様々な屈従を強いられ、ついには乞食とまであざけりを受けた。しかし彼らは立ち上がった。八十年にも及ぶ長く苦しい戦いの末、彼らはイスパニアに勝利し完全な独立を手にした。
 我らは今、そのオランダに学ばなければならない。我らは官軍に屈し子々孫々に至るまで泥をかけられ、罵声を浴びせられ、それに耐えて生きる道は選ばない。今や我等は、この蝦夷地以外に他に逃げてゆく土地はない。従って我らはからずも戦する道を選ぶのだ。
 しかし我らの敵は必ずしも薩長ばかりとは限らない。ロシアがこの蝦夷地を虎視眈々と狙っている。この蝦夷地は広大な土地なれど、ロシアに比べれば豆粒ほどでしかない。ゆくゆく我ら、そのロシアとも戦わなければならぬかもしれない。それは想像を絶するほど厳しいものとなろう。
 私には夢がある。この地に、幕臣のための新たな理想の国家を想像するという夢である。さりながら諸君のうち多くは、それまでに戦で倒れ、あれいは多くの不幸な事件に遭遇したどりつけないかもしれない。あれいはこの榎本自身が、もしかしたらたどりつけないかもしれない。
 なれど私は信じている。この蝦夷にもやがて春が訪れる。いかほど厳しい一寸先の視界もままならぬ冬も、やがて終わりを告げる日のことを……」
 と榎本は興奮気味にいった。しばしの静寂の後、満場からわれるほどの拍手がおこった。

 ちなみにこの時、選挙管理委員長とでもいうべきものをつとめたのは、あの医師高松凌雲だった。その高松凌雲は、兄の古谷佐久左衛門と久しぶりに酒をくみかわして正月を祝った。
「どうだその後、病院のほうは順調か?」
 と佐久左衛門がたずねた。
「幾度か問題もおこりましたが、今のところ患者の数もそれほどでもないし順調といったところですな」
 と凌雲は本当はあまり酒が好きではないが、ともかく一口飲んでみた。
 ……凌雲の箱館での医師としての最初の仕事は、七飯村での戦闘で負傷した遊撃隊士の治療であった。彼らは戸板に乗せられ箱館にある医学所、すなわち箱館病院に運ばれてきた。いずれも傷は重く、特に遊撃隊副長杉田金太郎は痛みにたえかねて、凌雲たちが目をはなした隙に自害して果てた。
 この箱館医学所なるものは、幕府の奥詰医師だった栗本鋤雲が貧民の救済と娼婦の梅毒治療のため、安政五年に建設したものである。北海道最古の病院として箱館の町に今もある。しかし上棟式のその日に火事で病院は全焼。その後、遊女屋の積立金二千両で再建され、文久元年六月に今度こそ完成をみた。ただこの医学所は思ったより狭く、とりあえず近くに高龍寺という寺があるので、そこを借りて分院とした。
 やがて凌雲は榎本のもとに呼ばれて、箱館病院の頭取を引き受けるよう依頼された。しかし最初凌雲は難色をしめす。
「現在、箱館病院の患者を見るに諸方から来た人々が、それぞれ勝手なことをいって病院の職務をさまたげております。これを整理することは至難の業です。もし病院のことは全て私に、全権を委任されるのであれば頭取を引き受けましょう」
 と凌雲は条件をつけて、これを榎本に承認させた。
「今一つ条件があります」
 と凌雲はさらに注文をつけた。
「医師にとり、負傷者は例え敵兵であっても患者は患者です。今後戦が激しくなったおり敵兵であっても、負傷者は患者として、差別することなく治療いたしますがよろしいか?」
「敵である者も治療すると申されるか?」
 さしもの榎本も最初驚き、となりにいる松平太郎と顔を見合わせた。
「榎本殿、貴殿がせいぜい一年か二年の統治で、この蝦夷地を薩長の人間にでも明けわたすと申されるなら敵兵を放置されるのもよろしいでしょう。なれどこの先五十年先でも百年先でも、この地に盤石の支配体制を築くつもりなら、そこは考えるべきです。
 敵兵といえども、治療すら受けることもできず野ざらしにされた遺体を見て、この地の民は貴殿をどう思うか? 恐らく鬼のような支配者を想像するに違いありません。されば人心の離反につながるは必定。いつの世でも民は強い指導者より慈悲深い指導者を望むものですぞ」
 そういわれて榎本もようやく納得した。しかし実際に敵であったものが箱館病院に運ばれてくると、たちまち院内の空気は険悪なものとなった。
 十一月六日病院に運びこまれてきた者たちは、やはり七飯村の戦闘で、人見隊と戦って負傷した長州藩や福山藩の者たちだった。彼らは近隣の農夫にかくまわれ治療を受けていたという。しかし彼らの予期せぬ出現に、やはり人見隊に属していた者たちなどは騒然となった。
「まことに敵か! なぜここにいる?」
「連中は俺たちにとって仇だ! 殺す!」
「何故収容するんだ? 頭がどうかしているのか!」
 などという激しい言葉が、凌雲にあびせられた。ついには実際に片足を引きながら、刀を手にして立ち上がる者までいた。
「私はこの病院の全権を委任されている。この件は榎本殿も承諾済みだ! 医者に敵味方はない。どうしても彼らを歓迎しないというなら、その者は私の前に申しでるがよい! すぐにでもここから出ていってもらう!」
 と凌雲が強くいうと、座はしばし静まりかえった。

「それからというものかっての敵同士であっても親しく接する者、互いの傷をかばい合う者などもおり、いやあ人間というものはわかりあえるものですな兄上」
 と凌雲は酒が入り、多少上機嫌になっていった。
「なるほどのう。しかしこれからは、そなたも今以上に覚悟が必要だぞ」
 と佐久左衛門は厳しい表情でいった。
「これから先、必ず薩長の連中はせめてくる。かなりの血の代償をともなう戦いになるだろう。なれば医師であるそなたの負担も、もしかしたら実際に戦う兵士以上のものになるやもしれぬ」
 凌雲の表情から笑みが消えた。
「それからのう、もし戦の最中わしが負傷しても、おまえはわしを助ける必要はないぞ」
「どういうことですか兄上?」
「兄だからとて特別扱いはするなということだ。もしそなたが他の患者をなおざりにしてわしを助けるというなら……」
 そこで佐久左衛門は腹を切る仕草をまねてみせた。
「何そげなことがないよう、しっかりきばるたい、安心いたせ」
 佐久左衛門は筑前地方の訛りでいった。
「承知いたしました兄上」
 と凌雲は、それが現実にならないことを祈りながら、渋々承諾するのだった。

 
   やがて本土における新政権の動向が、逐一榎本のもとにもたらされ、もはや雪解けと同時の開戦はまぬがれぬことは明らかになる。そして一月十五日、衝撃的な報が榎本の耳にはいることとなる。
 すでに開陽の座礁は明治新政権はおろか、諸外国も知るところとなり、アメリカが局外中立を撤廃。いつか甲賀源吾が軍議の席で語っていた甲鉄艦、すなわちストンウォールジャクソン号が、明治新政権の手にわたったというのである。甲賀源吾の危惧は現実のものとなった。これにより明治政権と蝦夷共和国の海軍力は完全に逆転した。さしもの榎本も死を覚悟し、母と妻それに姉宛てに別れの手紙を書いている。
「昨冬、十二月十六日までの間、当島一帯を手に入れ、当節のところ、三千人の軍卒とも一同決死の覚悟なり。もとより君家の冤罪をはらし、また同藩士の凍餓を援けんとして一身をなげうってまいりましたが、もはやこの世にてはお目通りもおぼつかなく候……」
 一方、榎本には私生活において、決戦を前に片付けなければならない問題が一つあった。
 
 その夜、榎本は久方ぶりに自らの執務室兼休憩室で、あのアラミスと夜を共にした。
「良いにおいだった。おめえさてはフランスの連中から香水をもらったな」
「ヴィ」
 とアラミスはあえてフランス語で返事をした。 
 ちなみに香水というものは、ルネッサンス期にフランスで発展したといわれる。これはどうやら、フランス人自身が体臭が強いというコンプレックスをもっていたことと無縁ではないようである。
「久々に楽しませてもらったぜ。だが残念だが、お前とはこれでお別れだ」
「どういうことですか?」
 瞬時にしてアラミスの表情がくもった。
「おめえだから本当のことをいう。開陽を失い、甲鉄艦が敵に渡った今、蝦夷共和国建国の夢は幻と消えるかもしれねえ」
 と榎本は、アラミスに背を向けて厳しい表情でいった。
「アラミス、江戸へ帰れ」
 ついに榎本ははっきりといった。
「そんな私は、例えこの先何があろうと御前の側を離れません!」
「何心配することはねえよ。おめえとおめえの母親が食っていけるくらいの金は用意する。この先どうなるか俺にもわからねえが、女のおまえまで巻きこむわけにはいかねえ」
「いやです!」
 ついにアラミスは声を荒げた。
「聞きわけのねえこというな!」
 榎本もまた、声を荒げて振り返ったその時だった。瞬時にして、その表情から血の気が引いた。アラミスがピストルを手にして、榎本に銃口を向けていたのである。アラミスは、榎本がピストルを隠している棚を知っていたのである。
「どうしてもというなら私は御前の命を奪い、私もまたここで死にます!」
 鋭い眼光が榎本に向けられた。
「おい冗談だよな。よせやい!」
「本気です。御前お覚悟を!」
 アラミスは銃の引き金に手をかけた。榎本は観念した。この女からは逃れられないと思った。
「わかった悪かった。俺はおまえをはなさない。この先なにがあろうと生きるも死ぬも一緒だ」
「御前!」
 アラミスはピストルを捨てて榎本に抱きついた。そしてまた再び夜がはじまった。榎本はアラミスの体の香水の香りにとけていくのだった。

 甲鉄艦が敵の手に渡ったという情報は、電撃的に榎本陣営を走りぬけた。元浦賀奉行所与力・中島三郎助もまた、半ば死を覚悟して妻の寿々あてに手紙を書いていた。
「父上、食事の支度ができました」
 姿を現したのは長男の恒太郎だった。その時、恒太郎は父の表情にいささか暗い影がさしているのをいぶかしんだ。
「父上、お体でも悪いのですか?」
「いや昨今は持病もおさまり、至って体の調子はよい。ただ少々気の病だな。今実は寿々に別れの手紙を書いていたところだ」
 恒太郎の表情が険しくなった。
「英次郎を呼んできてくれ、話したいことがある」
 やがて次男の英次郎が姿を現した。この時、三郎助は籤を用意しており二人の息子にそれぞれひかせた。何もわからないまま籤をひいた両者であったが、当たったのは英次郎の方だった。
「実はな英次郎おまえは今から母上の元に戻れ」
「何故でございます?」
 英次郎は驚き顔をあげた。
「実はな二人ともよく聞け、残念だがこの戦いはもはや先が見えた。蝦夷共和国だなんだと騒いでみたところで、開陽丸なき今、我等が滅びの道歩むは天命という他ない」
 と三郎助は、いつになく厳しい顔でいう。
「わしはあの黒船に乗りこんだ時、とんだ貧乏くじをひかされたものだと天と己を呪ったものだ。しかし今になって思えば、わしは果報者だったのかもしれん。この日の本の民で誰よりも早くに黒船という、西欧の科学技術の結晶を目にする機会にめぐりあえたのだからな。
 あれから日の本は大きく変わった。これからはさらに急激に変わっていくだろう。戦で死ぬは武士の道なれど、ここで三人が三人して死ぬのもいかがなものかと思ってな。一人くらいは生きて、日の本の後々まで見とどけてもよいのではと思ったのじゃ。なんなら二人とも去ってもかまわんぞ。わしはそなた達を恨まん。そなた達が交代してもよい。それはそなた達で決めよ」
 二人は三郎助のもとから姿を消し、何事かを相談した後戻ってきた。
「今、英次郎と二人で相談してまいりました。やはり我等二人は最後まで、父上と同じ道を歩みとうござる」
 と恒太郎はきっぱりといった。
「恐れながら、今戻れば必ずや、父を捨てて逃げた卑怯者と世のそしりをうけましょう! 我等二人は今まで父上から学問を学び、剣を学び、侍の道を学び、そして国を学びました。この先日の本がどうなるかは正直存じませんが、我等二人は父上と共に歩んだ十数年の歳月に悔いはありません!」
「父上お願いです! あの世までも御供させください!」
 と必死に頼んだのは英次郎だった。
「しかしな、我等三人ことごとく死ねば、母上の悲しみいかほどのものとなるか、お前たち考えたことがあるか?」
 三郎助は困惑しきった顔でいった。
「いえ我等が死んでも、我が家にはまだ与曾八がおります。あれは利口者です。必ずや大成いたしましょう。我等の分まで、必ずや新しき日の本の役にたつはず」
 こうまでいわれて、さしもの三郎助も兜をぬいだ。
「父上、我等三人最後の一瞬が来る時まで共にありましょうぞ!」
 と英次郎はつとめて明るくいうのだった。
 三郎助が妻の寿々にあてた手紙が現存している。
「我等こと多年の病身にして、若死にいたすところ、はからずも四十九年の星霜を経しは、天幸というべきか。こたびいよいよ決戦、いさぎよく討死と覚悟いたし候。与曾八成長の後は、我が微意をつぎて、徳川家至大の御恩沢を忘却いたさず、往年忠勤をとぐべきこと頼み入り候」
 一方で三郎助は、半ば冗談のつもりなのか自らの墓の絵を描いて送りつけたりもしたという。
 やがて榎本陣営は、戦局を打開すべく起死回生の策にうってでるのである。
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