残影の艦隊~蝦夷共和国の理想と銀の道

谷鋭二

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【第四章】箱館戦争

別れと再会

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 結局、松前城は一日の攻防で陥落してしまった。この藩には、拠りどころとなる城がまだ一つあった。江差よりさらに北方、現在の厚沢部町に館城といわれる城らしきものが存在した。松前藩側は江差周辺に防衛線を敷き、また箱館方面からの攻撃に備え、中山峠付近にも兵力を配置する。あまりにあっけなく城が落ちてしまったため、旧幕府軍の将兵たちは歌を歌いながら進軍したと伝えられる。

 松前落とすにゃ
 槍も鉄砲もいらぬ
 大声あげれば皆逃げる

 しかし十一月十日に館城めざして進撃を開始した土方歳三は、江差で松前藩側の想定外の抵抗にあい戦線は膠着する。味方の苦戦を聞き開陽をはじめ海軍が動き、海と陸から松前藩兵を挟撃する。
 松前藩は敗走し館城へ籠城するが、この館城なるものは城というには規模が小さすぎた。なにしろこの年の九月に築城が開始され、十月に一応の完成を見たというほどだから長期の籠城戦は不可能だった。
 戦いが開始されると同時に藩主徳広、世子の兼広、護衛の兵士に城の女たちは熊石方面へむかって逃走する。城はあえなく落城し敵兵が迫ってくる。この時、松前藩にとっての最大の悲劇は、藩主徳広が肺結核を患っていたことだった。
 海岸沿いまで落ちのびてきた藩主一行は、なんとか船を探し沖へ漕ぎ出そうとするが、ここであってはならない事態が勃発する。藩主徳広の容態が急変したのである。到底、船に乗せられる状態ではない。ところがである。数名の家臣が、隙を見て船で沖へ出ようとした。
「お前たち泡食って(急いで)どうするつもりだ! まさか藩主様をおいて逃げるつもりか!」
 その時、突如として家臣の一人が稲妻の如く切れた。
「やかましい! 敵が迫っているのがわからねえのか。だから俺たちはあの時、敦千代君様をたてるべきだといったはずだ! おまえらだけで若君の介護でもしていろ!」
 と眼光をいからせ、歯茎をむきだしにして怒鳴った。松前藩内部で病弱の徳広ではなく、前藩主崇広の次男敦千代を藩主に推薦する声があったことは事実である。
 彼らは沖へ去り、残された家臣たちはかろうじて代わりの船を探し、なんとか弘前藩領までたどりつくことができた。しかしここで徳広の容態は再び急変。大喀血し、ついに帰らぬ人となる。わずか二十五年の生涯だった。
 逃避行の最中、藩主を病で死なせたということでは、いかにも世間体が悪い。家臣たちは口裏を合わせ「病死」を「自害」と偽わり、かろうじて藩の体面だけはたもった。
 松前藩は事実上屈服し、これにより旧幕府軍による蝦夷統一は事実上達成された。開陽はじめ旧幕府艦隊はしばし江差沖に停泊する。ところがここで悪夢のような事態が待ちかまえていた。

  旧幕府軍が松前藩と戦っている頃、はるか遠く横浜の地で、遅れて蝦夷行きを望む者がいた。あの伊庭八郎だった。
 伊庭八郎は生きていた。あの嵐での遭難の後、八郎たちを乗せた美賀保丸はかろうじて銚子沖へ流れついた。銚子は高崎藩の飛び地である。高崎藩は勤王派で、ぐずぐずしていたら捕縛され薩長へ引き渡されてしまう。ここでさすがの八郎も絶望し、腹を斬ろうとしたが周囲の者に止められた。
 八郎は厳しい監視の目をかいくぐって、なんとか横浜までたどりつく。ここで蘭学塾を開いている尺振八という者にかくまわれることとなった。尺は元々練武館の門弟だった。
 やがて遠く蝦夷地での出来事が八郎の元にもとどいてくる。なんとかして自らも箱館に赴き、榎本たちと今一度戦うことができないか八郎は思案した。そして横浜から蝦夷地に赴く英国船の噂を耳にする。しかし英国船に乗船するには五十両の金が必要だという。指名手配犯の八郎には到底無理な額だった。
 八郎には、美賀保に乗船していた頃から行動を共にしている本山小太郎という同じ遊撃隊の仲間がいた。八郎と小太郎は今後のことを相談した後、なんとあの吉原の小稲に金の工面を頼むことにした。
 しかし八郎は箱根での戦い以後、江戸の町ではある種のヒーローでそれだけに薩長の目も厳しい。片腕であるだけに人目にもつきやすい。吉原に自ら赴くことは不可能である。代わりに小太郎が小稲に会いにゆくこととなった。
 
 小太郎が吉原におもむいたその夜、八郎は夢を見た。
 そこは室内のようだが、なぜか桃の花がひらひらと舞っていた。
「うちになにか用どすか?」
 振り返るとそこに、胴抜きと呼ばれる間着に俎(まないた)と呼ぶ大きい前帯を結び、襠(しかけ)と呼ぶ打掛を着て小稲が立っていた。
「そうか、そういえばお前は関わりをもった男の夢を支配することができたんだな」
 八郎はすぐにそこが夢か幻の世界であることを察した。
「蝦夷へ行くため金を貸してほしい。実に申しわけない話しだが五十両いる」
 八郎が単刀直入にいうと、小稲はくるりと背をむけた。
「嫌どす!」
「何故」
「その前に、どうしてあれっきりうちの前に来てくれへんの? 夢の中でしか会えんなんてうちかて嫌や」
「お前とのことは本当に夢にしたいんだ」
「まあええわ、所詮うちが化け物やから……」
「違う!」
 と八郎は強く否定した。
「俺は戦いの中に生きている。体も見てのとおりだ。本当にお前の顔を見たら、どうしても未練が残る」
「あきまへん」
「頼む!」
「その体でもう戦は無理どす!」
 小稲は強くいった。
「蝦夷へ行ったら最後、今度こそ今生の別れや」
 そこまで言って小稲は、はげしく咳をした。
「どうしたんだ」
「うちはこの小稲という女に憑いて、かろうじて命を永らえている身どす。けんどうちが取りついたことにより、この女の寿命があとわずかしか続きません」
「もし寿命が尽きたら、お前はどうなる?」
「どうもこうもありゃしません。もはや魂をも失い、その後のことはうちにもわかりません。ただ一つ魂のみは救われる道がありんす」
 小稲は色目を使って八郎を見た。
「本当に好いた男と関係を持ち、それ以後はいかなる男とも関係を持たなければ、魂だけは生きながらえることができるのでありんす。五十両の金と引き換えにうちと今一度例え夢幻でも……」
 そういうと小稲は、ゆっくりと八郎の腰に手をまわした。八郎も誘われるままに天鵞絨の布団に小稲を押し倒した。
 八郎は最初着物を脱がなかった。片腕のない姿をさらしたくなかったのだ。そしてそのまま俎をほどきはじめる。次第、次第に肢体が露わになる。しかし片腕のない八郎の愛護はあまりにぎこちないもので、小稲はもどかしく感じた。
 やがて小稲は八郎の体の上におおいいかぶさり、激しく口づけをした。そして着物をゆっくりとはがし肩といわず、太腿といわず軽く噛みはじめた。痛みを感じる間もなく下腹部に手がのびてくる。さすがに遊女だけあって、男の壺を的確についてくる。八郎はたちまち息が荒くなった。今一度股間に手をまわすと見せかけて軽く太腿のつけ根あたりをつねると、官能がゆっくりと、全身に伝わっていった。
 ……次に気がついた時、八郎は布団の上に横になっていた。小稲は白拍子の姿になっていた。
「別れの舞を……」
 
 秦時の 明月  漢時の夕暮れ
 萬里 長征  人 未だ帰らず
 但だ 龍城に  飛將をして 在ら使(し)めば
 胡馬をして  陰山を 渡ら敎(し)めず

 これは中国の漢詩で、辺境に赴く兵士への惜別の詩だった。小稲は三度舞い、そしてついには涙した。舞い終わって小稲は再び咳をして、その場に崩れた。
「小稲しっかりしろ!」
 八郎が気づかうと、小稲は懐から御守を取りだした。
「これはうちの魂や。うちもあんたも所詮長く続かへん。けど最後の時がくるまで大事に取っといてや。今度こそお別れや」
 そこで八郎は夢から覚めた。その手には、しっかりと御守が握られていた。
 数日して小太郎は五十両を手にして戻ってきた。喜びもつかの間、小太郎の口から八郎は悲しみを聞くことになる。稲本楼の亡八(店主)がいうには小稲はすでに死んでいたという。ただ遺言により、金を借りにくる者がいるから五十両を渡すよう、頼まれたというのである。八郎は小稲が不憫すぎて、しばし自失の状態となった。

 

 現在の稲本楼(稲本ホテル)


こうして八郎は英国船に乗りこむことができ、一路蝦夷を目指すこととなる。明治元年(一八六八)十一月二十八日、八郎はついに蝦夷・箱館の地におりたった。
 予想していたこととはいえ、蝦夷の寒さは尋常なものではなかった。ふと八郎は、小稲が蝦夷の地と深いかかわりがあることを、今更ながら思い出した。しんしんと音もなく降り積もる雪をながめていると、小稲が優しくなにごとかを語りかけているようにさえ思えた。
 やがて幕府海軍士官が見分のため英国船に近づいてくる。遊撃隊の伊庭八郎だと八郎が自らを名乗ると、士官たちは不思議なものでも見るような目をした。
「死んだのではなかったのか?」
「いや、見てみろ確かに片腕がない。間違いなく本人だろ」
 すぐに使いの者が走る。やがて五稜郭からの使者らしき士官が現れ、八郎を箱館港から五稜郭まで案内した。その間、幾度か兵卒らしい者にでくわしたが、何かがおかしいことを八郎は敏感に察していた。言葉にあらわせないが、どこか兵卒たちに張りが感じられないのだ。松前藩との戦いは連戦連勝と聞いているが本当に大丈夫なのだろうか? 八郎は不安になりはじめた。
 五稜郭の表門の前で待っていたのは大鳥圭介だった。最初八郎を、まるで幽霊でも見るような目で見た。
「とにかく榎本さんに取りついでくる。ただ榎本さんは、最近あまり人に会いたがらないんだ」
「どういうことです?」
 大鳥は表情をくもらせ、言葉を濁した。さらに問いつめると大鳥の口から、驚くべき不幸を聞かされることとなる。
「いずれにせよそこで待っていたまえ。榎本さんに君が生きていたと伝えてくる」
 四半刻(三十分)ほど待たされ大鳥が戻ってきた。
「榎本さんがお会いになるそうだ」
 八郎は榎本の執務室に通された。榎本は心なしか痩せたように思える。表情もかすかに暗い影がさしていた。
「八郎君久しぶりだな。君は死んだものと思っていたが、また会えてうれしいよ。この前の嵐の時はやむをえず纜を切ってしまった。本当に申し訳ないことをした」
「いえ、あれはあの嵐の中やむをえない措置だったこと理解しています。自分は恨んでなどいません」
「おかげで松前藩を屈服させ、ほぼ蝦夷は平定した。君のような武者が来てくれてなおのこと助かるよ。長旅でさぞ疲れただろう。当分は戦もないことだろうし、君もゆっくり休んだらいい。そうだ君の宿舎のことも考えなければならないな」
 榎本は表面上は和やかに接しているが、その実、早くに客人を帰らせ一人になりたがっている。八郎はそのことを敏感に察した。
「榎本さん、正直に聞かせてください。開陽丸はどうしたんですか?」
 榎本は瞬時に沈黙して、そして唇をふるわせた。
「八郎君、君は今まで幾度も生死の境をさまよってきた。聞きたいことがある。男はいつ死ぬべきだと思う」
「どういうことです榎本さん!」
 死という言葉がでてきて、八郎もかすかに声が震えた。
「開陽を江差沖で座礁させてしまった。全ては私の責任だ。俺の……オランダ留学 五年間は一体何だったんだ? あの船を失い、俺に生きる価値があるのかと自分にずっと問いつめていたところだ」
 八郎は改めて驚愕した。開陽を失い榎本の落胆がいかばかりであるか、八郎にも痛いほど伝わってきた。榎本だけではない。榎本に従って最果ての蝦夷までやってきた、およそ三千人の人たちの失望がいかほどのものであろうか。
「それでは自分はこれで失礼します」
 八郎は、逃げるようにその場を去ろうとした。
「答えてくれ八郎君! 今の俺に生きる価値はあるのか!」
 榎本は机に手をつき、下を向いたまま叫ぶようにいった。
「俺はオランダから戻ってきて、何の苦もなく気がついたら海軍の長になっていた。俺にその資格があるのかずっと己に問うてきた。だがしょせん力足らずだったようだ。君は片腕を失った。土方君もここに来るまで多くの仲間を失った。ここにいる皆は、そのほとんどが大事な何かを失ってきたものばかりだ。だが俺は、今まで大事なものを失ったことなど一度もなかった。開陽を失って、やっと彼らの気持ちがわかったんだ。俺は愚か者だ。そして失ったものの代償が大きすぎる」
 榎本は唇を強く噛んだ。顔色が青白かった。
「どうしたらいい? 開陽なき今、薩長の連中が攻めてきたらいかにして防ぐべきかなあ……?」
 八郎は呆然とその場に立ちつくした。榎本にかける言葉が見つからなかった。
 後に榎本はいう。もし開陽が沈まなければ戦いは長期化し、その影響は朝鮮国に及んだであろうと。いずれにせよ開陽の座礁により榎本と旧幕臣たちが思い描いた未来や戦略は、根底から崩壊してしまった。

 到着して間もない八郎は、そのまま松前を目指すこととなった。松前には、人見勝太郎はじめ遊撃隊士たちが多数駐屯していたのである。
「八郎生きていたのか!」
 制圧したばかりの松前城で、歓喜の声をあげたのは人見勝太郎だった。
「そう簡単に死んでたまるか! 腕はなくても足はある。幽霊じゃないぞ」
 勝太郎とは熱海沖で別れた以来の再会だった。早速その夜、他の遊撃隊士たちも交えて歓迎の宴が開かれた。さらに途中から、江差から戻ったばかりの土方歳三も加わった。
「なあに開陽丸なんざなくても俺たちは平気さ。ここにおわす伊庭八郎様は天下一の豪傑だからな。薩長の連中なんぞは屁だ!」
 と酔って大言壮語したのは人見勝太郎だった。
 やがて酒宴はお開きとなり、その場には八郎と土方だけが残った。
「何が官軍など屁だ。俺は酒を飲んで大口たたく奴があまり好きではない」
 そういって土方はその場にゴロリと横になった。
「まあ連中の気持ちもわからんでもないけどな。あいつらだって薄々気付いているはずだ。開陽なき今、薩長の連中が攻めてきたら、ほとんど勝ち目がないってことを」
「戦局を打開する策はないんですか?」
 すると土方は思わぬことをいいだした。
「そういや昔永倉の奴がいってたな。ここいら辺りは春先になると、それはそれは桜が美しく咲き乱れるそうだ。果たして、その頃まで俺たちの命があるかどうか」
「土方さん……そういえば永倉さんはどうなりました」
「奴とは袂をわかったよ。半ば喧嘩別れして、別々の道をゆくこととなった」
「近藤さんや沖田さん、原田さんたちは?」
「残念ながら皆死んだ」
 土方が表情が重苦しくなるのを見ながら、八郎自身も心に悲壮感が広まっていった。
「時におまえさん榎本とは幼少の頃から親しい仲だそうだな。奴のことをお前はどう思う」
「広い包容力をもった、無限の可能性を持った人だと思います」
「確かにあらゆる分野に秀でていることは認める。しかしただ一つだけ欠けているものがある。一番肝心な軍事的才能があの人には欠落しているんだ。しょせんあいつは学者だ。頭で戦がわかっていても、戦いで必要なのは戦機というものを決して逃さず、最良の決断ができる嗅覚なんだ。それが奴にはない」
 確かにその通りかもしれないと八郎も思った。鳥羽伏見以降、榎本に決断力があれば北関東や奥州での戦局も変わっていたかもしれないし、自分や遊撃隊の運命もだいぶ違っていたかもしれない。
「開陽が沈んだ後、改めて薩長の連中が攻めてきたらどう防ぐか軍議が開かれた。その時奴が考えた作戦があんまり稚拙だったんで、俺は奴にはっきりいってやった。あなたに戦は無理だ。開陽がない今、あんたはそこに座っているだけでいい。戦は俺たちがやるってな」
 八郎の額に脂汗が光った。
「それで榎本さんは何といったんですか?」
「普段温厚な奴も激高したよ。あまりみくびくるなってよ。周りの人間が止めにはいらなければ斬りあいになっていたな」
「土方さん、さすがにそれはいいすぎです」
 八郎は青ざめた顔でいった。
「でもな、俺だって奴のことを高く買ってるんだぜ。奴は俺たちの知らない世界を知っている。最初会った時奴は言った。西洋では海に潜る軍艦があるらしい。まさかとは思ったが、以前軍議をやった時だれかいっていた。奴が留学した国は、海面より低いところに土地があるらしいじゃないか。
 俺たち新選組は、今まで剣と戦いだけに生きてきた。この世のどこかに、そんな世界があることなど深く考えたこともなかった。そのことに悔いはないが、ただ、もしかなうことなら総司の奴にも見せてやりたかった。そういう広い世界を……」
 そういって土方は、何かを憂えるような表情をみせた。
「俺は結局、総司や近藤さん、そして新選組を守ることができなかった。ただあの榎本という男、奴を死なせてはいけない気がするんだ。俺もおまえも所詮命は消耗品にすぎないかもしれない。だが奴の場合生きる価値のある命だ。俺とおまえで何としても奴を守るんだいいな!」
 と最後に土方は強く念をおした。
 しかしこの頃、新政府側は着々と雪解けを待っての蝦夷制圧の準備を整えていた。ちょうど蝦夷地で桜が開き散る頃、両者もまた散る運命にあったのである。



 
 



 
 

  
 
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