残影の艦隊~蝦夷共和国の理想と銀の道

谷鋭二

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【第四章】箱館戦争

五稜郭と松前城

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(道南地方)

 榎本艦隊の蝦夷への上陸地点は、現在の道南の森町にあたる鷲の木あたりであったといわれる。
 明治元年(一八六八)十月十九日夜半、まず八隻ある艦隊のうち甲賀源吾が艦長をつとめる回天が一番乗りをはたす。これを新暦になおすと十二月二十日となる。翌日には、開陽をはじめとして残りの艦隊七隻も鷲の木に上陸する。地元民たちは黒船が来たと大騒ぎになったという。
「北に向かいて航し二十日東蝦夷鷲の木に投錨し、端舟を下ろし諸軍上陸なすに、厳浪巌を噛み烈風雪を捲いて寒気指を落とし、端舟覆って死者数人……」
 というのは元見廻組今井信郎の回想である。また大鳥圭介は後に回想録でいう。 
「余は諸兵隊を上陸せしめて後、二十二日午後鷲の木に登りしに、積雪すでに一尺ばかりあり。蝦夷地は寒郷なれば人家とてなく、土人穴居し我等上陸の後、宿舎もあるまじ、箱館まで行くのに食糧も乏しきことと覚悟せしに、豈はからんや、鷲の木宿は開けたる地にあらざれど、人家百五十軒もあり、以前想像せしとは雲泥の違いなり」
 想像していたものとは、かなり隔たりがあったようである。しかし冬の蝦夷の過酷な自然条件は、やはり榎本に従ってこの地にやってきた者すべてに、不安をいだかせるものだった。
 この後榎本に従って鷲の木に上陸した旧幕軍は、ただちに箱館制圧のため五稜郭を目指して進軍する。大鳥圭介もまた新選組、遊撃隊などを率いて大野方面から箱館を目指す。この時の様子もまた大鳥は日記に記している。
「寒気凛烈にして、道路雪凍て馬脚滑り艱難なりといえども、勇気奮起せるをもって格別の辛苦とも思えず。旅舎に入れば一室ごとに必ず一炉あり。木炭を山のごとく積み重ね、火器炎々として近づくべからず。炉内にはうず高く鉄砂を積み、内に胴壺あるいは鉄壺を置き睡筒にきゅうせり……」
 しかしこの時の大鳥圭介に率いられた部隊は、結局戦らしい戦もなかったようである。
 この頃、五稜郭で箱館府知事の地位に就任していたのは、清水谷公考という京都の公家出身の人物だった。ちょうど大鳥隊の行軍と相前後して、かって伊庭八郎と箱根で共に戦った人見勝太郎に率いられた遊撃隊が、やはり五稜郭を目指していた。彼らの目的は戦闘ではなく、榎本が書いた嘆願書を渡すことであったといわれる。
 しかしおよそ三十名の遊撃隊は、峠下というところで夜半箱館府兵と遭遇。府兵が問答無用で発砲してきたため、やむをえず人見に率いられた遊撃隊側も応戦することとなる。
 戦いは一時間もしないうちに箱館府兵側が逃げ去って終了した。遊撃隊側はスナイドル銃を所持しており、火縄銃しかもたない箱館府兵側とでは装備が違いすぎた。それに兵に練度でも箱根での戦闘を経験してきた遊撃隊と、実戦をまるで知らない部隊では問題にならなかったのである。
 また七飯村でも戦闘があったが、これまたほんの半刻(一時間)ももたず箱館府兵側の敗退で戦闘が終了した。ちなみにこの道南地方には「七飯村」とよく似た地名で、現在の北斗市と函館の中間地点に「七飯浜」というのもある。両者を混同すると厄介なことになる。
 逃げ戻った兵から事の詳細を聞き及ぶにつれ、清水谷は動揺し、そして恐れた。もともと公家育ちで根は臆病で意思薄弱であった。五稜郭を捨てて逃亡することをためらわなかった。清水谷は津軽へ去り、榎本に率いられた旧幕府軍は、拍子抜けするほど簡単に五稜郭入城をはたす。十月二十六日のことである。
 
 五稜郭は総面積約二十五万千平方メートル、土塁の高さが五から七メートル、堀の深さ約五メートル。東京ドームのおよそ三倍の規模のある西洋式城郭である。 
 そもそもなぜ五稜郭は星形をしているのか? これはどの方面から敵が攻めてきても迎撃できるよう、いわば死角をなくす工夫であるという。
 このような形状の城塞は十五、六世紀のイタリアで多くみられた。当時イタリアはフランスの侵攻に苦しんでおり、新型の火砲から防御するため城壁は低く、分厚くつくられることとなった。
 また要塞の防御力強化のため多数の方向からの援護射撃が重要だが、死角を無くすことが必要条件だった。このため数学的に計算された多面体を組み合わせた城塞ができあがったのである。さらに二つの凌堡の張り出し部分から射撃を重ねることで、十字砲火が可能であるというメリットもあった。
 しかし榎本は、この五稜郭が不満だった。西欧の星形要塞とは規模が違いすぎるのである。西欧では、都市それ自体を城で覆ってしまうことはよくあることである。しかし日本では戦にあけくれた戦国時代でさえ、城塞都市といえば小田原城くらいのものだった。もちろん五稜郭は、箱館の都市全体をカバーしているわけではない。いわば形だけまねた、西欧式城塞のミニチュアのようなものだった。
 しかも慶応二年に五稜郭を築いた幕府の役人たちは、これを西欧における最新式の城郭建築だと勝手に思いこんでいたようだが、しょせん十六世紀に流行したものだった。
 大砲の製造技術の進歩は、この時代には十六世紀など比較にならない。射程も長く、着弾も正確になっていた。五稜郭程度の規模の城では、防御は不可能だったのである。そのことは後に、新政府軍の海からの攻撃で明らかにされることとなる。
 まもなく新たに手に入れた五稜郭で、今後の方針を決定するための大会議が開かれることとなった。この頃になると土方、榎本はもちろんのこと主だった者の多くが髷を落とし、洋装していた。
「まったく京にいた頃から思っていたが、公家って奴はどうしてああもだらしがないんだ。こうも簡単に逃げてしまうとは、まるで俺たちの出番がなかったな」
 不満そうにいったのは土方歳三だった。
「まあ京都はよく夏暑くて、冬寒いといいますやろ。けど、ほんまこの土地の寒さは実際に上陸してみて思ったことやけど、京の寒さとはまるで桁が違いまんな。榎本はん、ほんま大丈夫やろうかこの先?」
 と不安そうにいったのは京都出身の人見勝太郎だった。これは人見だけでなく、この場の誰もが思っていることで、テーブルの中央の榎本に一同の注目が集まった。
「何案ずることはない。俺はオランダに留学したが、オランダよりは蝦夷のほうがはるかに温暖だ。しかも面積からしたらオランダのおよそ二倍。確かに江戸や京都からは遠いが、北米大陸にもっとも近いアジアだ。そしてなんといっても箱館という国際貿易港もある。自立の道はあるはずだ」
「確かに、オランダの冬の寒さはここよりはるかにひどかったな。まあ国土が海面より低いところにあるから当然といえば当然だがな」
 といったのは、榎本と共にオランダに留学した沢太郎左衛門だった。
「しかし、京都の連中は我々がここにあることを容認しないだろう。いずれ戦争になるだろうな」
 ため息をつきながらいったのは、大鳥圭介だった。
「その時は戦するしかないな。我等には開陽がある。海軍力では連中をはるかに上回っている。津軽海峡の制海権は渡さん。時がたてば我等の軍備は増強され、蝦夷の防備も完璧なものになる。その時まで勝つ必要はない。負けぬよう戦すればいいんだ」
 と榎本は力説する。
「果たして本当にそうなるだろうか? 数年たてば敵の方こそ新国家の基盤を整え、海軍力も増強するのではないのか? 聞いた話しによると横浜の港には、甲鉄艦とかいう化け物みたいな船が、買い手がみつからないまま放置されているというじゃないか。そいつを京都政権の連中が手に入れれば一体どうなるか」
 と不安を口にしたのは甲賀源吾だった。
「そいつはどうかな? 今のところ列強は局外中立だ。京都政権の連中に武器を売ったりはしないだろ」
 と楽観論をいったのは荒井郁之助だった。
「まあ欧米の連中はしたたかだ。我等の側が京都政権に比べて明らかに不利とみなせば、あっさり中立をやぶって敵の側につくかもしれねえ。我等としても、早くにこの蝦夷に盤石の政権基盤をつくる必要があるな。そのためにまず、次は松前を帰順させる必要がある」
 榎本もまた、ため息をつきながらいった。
「今度こそ俺たち新選組の出番だな。けど昔新選組に松前出身の奴がいて、そいつがいつか言っていたな。松前藩の居城である福山城(松前城)というのは、かなり海に近いところにあるらしい。海軍も動くにこしたことはない。中島さん開陽の調子はどうだい」
 土方は、早く戦がしたくて仕方がない様子だった。
「いや今、必死に修理しているが舵の調子がまだいまいちだな。もう少し様子を見たほうがいい」
 と中島三郎助が、かすかに困惑の様子をうかべた。この頃、開陽は房総沖での嵐の影響でまだ本調子にはほど遠かった。中島三郎助と、やはり榎本にとり長崎海軍伝習所の同窓生である上田寅吉が修理にあたっていた。
「まあ待て、戦は最終手段だ。すでに松前藩には、我等に味方するよう説得の使者を送っている。その返事がくるまでしばし待つことだ」
 しかし土方は不満そうだった。
「榎本さん、あんたは甘い。昔、新選組に永倉という奴がいた。そいつは元松前藩士で後に脱藩して俺たち新選組の一員になった。幾度かおりにふれて脱藩の経緯について語ってもらったことがある。松前藩というのは代々の藩主が幼児か暗君ばかりで、その取りまきの重臣たちも腐った連中ばかりだといっていた。
 奴らは近江商人と結託して己等の利を増やすことしか頭になく、藩政は腐敗しきっている。しかも松前の連中は、この蝦夷地に昔から住むアイヌとかいう連中を強姦することなど日常茶飯事だというではないか。アイヌが松前の奉行所に訴えても、大半は通らないらしいな。他にも、色々話しを聞いたが理屈が通る相手ではないぞ」
 江戸期の松前藩のアイヌに対する蛮行は目にあまるものがある。例えば後に明治政府に出仕し、「北海道」という地名の名付け親にもなった松浦武四郎の記録が残っている。
 武四郎がシャリ・アバシリ、すなわち現在の道東の網走周辺を旅した際のことである。約二十数軒の民家があった。それらのことごとくが空き家もしくは世帯すべてが六十歳以上の年寄り、そして幼子からなり、若者はいなかったというのである。
 若者はどこへ消えたのか? 武四郎が聞いた話しによると、女はだいたい十六頃になるとクナシリ島へ連れていかれた。そこで諸国から来た漁夫、船方の慰み者になるという。一方男はやはり働ける年代になると遠方へ連れてゆかれ、そこで牛馬同然の扱いを受けるというのである。
 また夫婦で島へ連れていかれる場合もある。その場合たいがい夫は遠い漁場へ連れていかれ酷使され、妻は番人、稼人の慰み者とされる。いずれにせよ生きて再会することはかなわぬか、再会したところで、かっての関係に戻ることは不可能だった。
 こうして武四郎が戸数を調査したところ、寛政年間には二千余人ほどであったのが、安政五年のこの時期には四分の一以下まで減っていたという。もちろん若者はおらず、老人たちが病気になっても世話をする者はいない。俗にいう老老介護となるか、ついには孤独死という運命が待っていた。
 榎本とて、十五年前に蝦夷を訪れた時からアイヌの惨状は聞き知っていたし、松前藩の腐敗についても聞き及んでいた。しかし可能なら平和に事を解決したかったのである。しかしこの時は土方のほうが正しかった。はたして翌日、使者の首が五稜郭の追手門の前に、無造作に捨てられているのが発見されたのである。

「そら見ろ! だから言わんこっちゃない。使者の首をはねるなど、今時俺たち新選組でもそんな真似はしない」
 榎本も事ここにいたって戦いを決意した。
 十月二十八日、彰義隊・額兵隊・衝鋒隊などからなる七百名の部隊が松前城に向けて出撃した。指揮官は土方歳三である。
 諸隊が出撃してからほどなく、ジュール・ブリュネをはじめとするフランス軍士官たちが、通訳のアラミスと共に榎本をたずねた。
「なぜに我々はここで留守なのですか? 榎本殿、我々も戦いたいです!」
 榎本は困惑した。やはり戦場に外国人を投入することに抵抗があった。しかしここにきて決心する。
「よろしいでしょう。諸君の友情に感謝します。一軍を率いて、彼らの後を追ってください」
「ありがとう。私たち、彼らと共に戦います」
 その場を立ち去ろうとするブリュネを、アラミスが呼びとめた。
「Je prie ici. Dieu vous benisse」(私はここで祈っています。どうか神の御加護を」
「Merci」(ありがとう)
 とブリュネが返事をかえした。

 私事で恐縮であるが筆者は今帰省し、この書きこみも故郷函館からである。およそ二十数年ぶりに帰郷したわけである。戻ったついでに、この時の旧幕軍の行軍ルートを実際にたどってみようとも考えた。しかし実家に自家用車がないため、無謀な試みであるとあきらめた。
 なにしろ函館から松前まで行くとして、途中の木古内より先はJRすら通過していないのである。自転車で移動するにしても、北海道の距離感覚は本土のそれとはまるで違う。直線距離にして、東京の端から端まで行くほどの距離はある。もちろん一日で戻ってくることは不可能である。
 しかも途中の知内から福島にかけて、千軒岳といわれる峻嶮な森林地帯が延々と続いている。今日でさえ交通網が完全に未発達で、熊がでてもおかしくないほどである。百五十年前のこの時代、特に江戸などという大都会で育った幕臣たちにとり、いかほど苛酷なルートだったか想像するのは難しいことではない。
 まして季節は冬である。十一月一日の夜になり吹雪となり行軍は困難を極めた。現在の道南の知内町、ここに知内川という川がある。一行はそこで野営することとなった。背後は断崖絶壁、目の前は川。防備は完璧なはずだった。しかしそこに落とし穴があった。
 馬でさえも凍死しかねないほどの極寒の中、松前藩兵は、突如として眼前の知内川の方角から姿を現した。あまりの寒さのため川が凍結していたのである。本土では、いかほど寒さの厳しい冬でも、川までもが凍りつくことはまずありえない。
 旧幕府軍は完全に虚をつかれた。気がついた時には視界ゼロの彼方から弓、鉄砲が飛来し、敵兵が襲いかかってくる。やはりこの寒さの中では、松前藩兵のほうが軽快に動くことができる。応戦しようにも、多くの兵が凍結した路面で足を滑らせ転倒する始末だった。
 一時は全軍総崩れかと思えたその時だった。背後の険しい丘から銃声がした。ブリュネたちフランス軍士官に率いられた伝習隊が、戦場に到着したのだった。
 かれらはシャスポー銃といわれる新式銃をもっていた。やはり後装式で弾込めの際の手間を省くことができる。後に西欧では普仏戦争などでも活躍する銃である。この銃の威力の前には、火縄銃そしてゲベール銃を所持するだけの松前藩兵では太刀打ちできない。一度崩れ出すと、松前藩兵は驚くほどもろかった。


(シャスポー銃)

「よし! 外国人などに負けられん! 凍死する前に一気に敵を蹴散らすぞ!」
 叫んだのは土方だった。
 ここから旧幕府軍の快進撃が始まった。松前藩側の不覚は、ここから蝦夷地最南端の松前・白神あたりまで五十人ほどの小部隊を転々と配置していたことだった。これらは圧倒的兵力をほこる旧幕軍により、苦もなく個別に撃破されていった。
 翌十一月二日未明に至って、旧幕府軍は福島村まで到達している。ここで土方は野営の準備を整え、ようやく全軍に休息を命じた。土方もまた、疲労がピークに達していて倒れるように眠った。

 ……土方は、一軒の古びた屋敷の前に立っていた。髷を結い、そしてダンダラ羽織に身を包んでいた。
「己、長州の連中め今日こそは!」
 土方は扉を蹴破った。しかしそこに長州の侍はいなかった。代わりに近藤や沖田をはじめ新選組の幹部が集結していた。
「どうした歳、血走った目をして」
 不思議そうな顔でたずねたのは近藤だった。
「長州の侍はどうしたんですか近藤さん? ここに潜んでいると探索方からの報告が!」
 土方は相変わらず血走った目をしている。
「落ち着いてくださいよ土方さん。近々、長州の連中が都で兵をあげるという噂は、この江戸にも伝わっていますが、こんなおんぼろ道場に長州人なんていませんよ」
 とにこにこしながら言ったのは冲田だった。
「江戸だと? 馬鹿いってんじゃねえ。俺たち新選組は今までさんざん京の都で戦ってきたじゃねえか。蛤御門でも鳥羽伏見でも」
「歳、おめえ本当にどうかしちまったのか? 俺たちは確かに新選組として京までいってきたが、何もできずに三月ほどで御役御免になったことわすれたか?」
「本当、俺たち結局何だったんだろうな?」
 苦笑しながらいったのは原田左之助だった。
「長州が都で暴れようが俺たちには関係ないさ。それより、このおんぼろ道場の行く末のほうが気がかりだ。昨日も強い雨で雨もりしたしな。この古い道場もそろそろ改築が必要じゃないかって、今しがた近藤さんとも相談していたところだ」
 と酒をあおりながらいったのは井上源三郎だった。
「そんなことより歳、みんなお前のこと待っていたんだぜ。今日はおめえさん誕生日じゃねえか忘れたのか?」
「そんな馬鹿な……? 俺たちは確かに……」
 土方は、まだ信じらないというような顔をしている。
「とにかく座れよ歳。お前のために酒と料理用意して待っていたんじゃないか」
 と少し呂律の回らない口調で近藤はいう。
「ありがとうみんな。でもやっぱり俺は行かないと……」
「どこへゆくというのだ?」
 すかさず聞き返したのは永倉新八だった。
「戦場へ」
「そうか残念だな。でも俺たちは待ってるぜ。来年も再来年もおまえさんの誕生日に酒を用意して」
 近藤はしみじみといった。
「ありがとうみんな……」
 
 ……凍えるような寒さの中、土方は夢からさめた。
「一体何だったんだ今のは? もしかして違う俺たちの運命が存在するとでもいうのか? でも結局俺たちが選んだ道では、もう近藤も沖田も原田も源さんも存在しないんだな……」
 土方は憂えるような目で蝦夷の天を仰ぎみた。
 
 
(松前城)

 翌十一月四日には、標高百八十メートルの吉岡峠でも敵を撃破。
 十一月五日未明、ついに旧幕軍は松前城が見える場所まで到達した。
 松前城は、面積約七万七八〇〇平方メートルほどであった。本丸、二の丸、三の丸があり、楼櫓六、城門十六、砲台七座を備えていたといわれる。
 別に戦国時代に建造された城ではない。嘉永二年(一八四九)に、当時の三大兵学者の一人である高崎藩の市川一学の設計により、五年の歳月をかけて築城された城である。
 まさに日本最後の日本式城郭である。なぜ江戸時代も末期になり、このような城郭が建造されたかというと、まさに北辺の防備のため、特にロシアの脅威に備えるためであった。
「何たいしたことはない。この土方様にかかればな」
 と土方は強気にいう。
 戦闘は夜明けと共に開始された。城方は三百人ほどである。対する旧幕軍は兵を二手にわけた。城の正面から攻めるのは渋沢成一郎に率いられた旧彰義隊、背面は陸軍隊と仙台・額兵隊の受け持ちであった。土方隊は昼ころになり大手門と搦手門の前まで達する。
 余談ではあるが、この松前城の一部は明治後改築され、小学校の校舎として利用されることになる。筆者の祖父や父が通っていた小学校がまさにそれである。それはあくまで余談としても、そのためこの時の戦場の様子や、土方歳三という人物の人物像まで人伝に筆者に聞こえている。
 この時、松前藩側では内側から門を開いては大砲を放ち、また門と閉じるという一連の動作を繰り返す作戦にでた。城内からは双眼鏡で、敵本陣にひるがえる例の「誠」の旗が見えた。また、その周囲を馬で行き来する洋風の軍服を着た敵将らしき人物の姿まで見えたという。
 大砲はそこまで射程距離であったはずである。しかし砲弾が炸裂した後、硝煙の煙の後には、何事もなかったかのように誠の旗が風になびいていたという。遠く北辺の地に領土を持つ松前藩の侍たちとて、新選組と、そして鬼の副長と恐れられた土方歳三の武名は聞き知っている。
「さてはこれは神業であろうか?」
 とこのことは松前藩の士気を挫くこととなったという。まああくまで言い伝えではあるが……。
 また実際に、蝦夷地で土方に会ったという松前藩のある侍の話しも伝わっている。その侍は新選組の鬼の副長と聞いて、殺人鬼のような人物像を頭に思い描いていたという。しかし実際に会ってみた土方は繊細で優し気で、まるでイメージが違っていたらしい。
 ちなみに京洛にいた頃の新選組の印象を、土佐藩の田中光顕は昭和十四年まで生きたその最晩年に幕末期をふりかえって語っている。
「新選組は怖かった。特に土方は怖かった。土方が隊士を連れ、都大路を向こうからやってくると、我々の仲間は皆、路地から路地へと逃げたものだった」
 どうも蝦夷に来た頃から、土方歳三の心境に大きな変化がおこったようである。鬼の副長と恐れられた男は、この頃から新選組隊士からも他の隊の者たちからも慕われる、慈悲深い「仏の土方」と呼ばれるようになったという。

 やがて土方は決死隊二十数名を募り、搦手門の前に伏せた。
「門が開くと同時に、射手めがけて一斉射撃をするつもりらしい」
「馬鹿な! 大砲の発射のほうが早ければ木端微塵だぞ」
 この光景を見守る幕軍将兵たちはざわついた。時間が容赦なく流れた。土方にとっても決死隊の将兵たちにとっても、死への秒読みといっても過言ではない時が刻まれていく。そしてついに門が開いた。
「今だ撃てぃ!」
 およそ二十挺の小銃が火を噴いた。鈍い衝撃音の後、そこに倒れた松前藩兵の姿あった。
「よし突撃!」
 旧彰義隊士たちを先頭に、城内に次から次へと乱入していく。
  同じ頃、旧幕府軍の別動隊は、城の北東の後背高地の法華寺という寺の境内に布陣。ここは城の本丸より高台に位置した。ここからまず城郭外の砲陣地を大砲で破壊。さらに城内を破裂弾で攻撃する。これによってついには火災が発生した。
 藩兵は、これにより城を捨てて江差方面に退却することとなる。しかし一連の箱館戦争はまだ始まったばかりだった。
 
 
 
 
 
 



  
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