残影の艦隊~蝦夷共和国の理想と銀の道

谷鋭二

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【第四章】箱館戦争

軍神

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 前代未聞の甲鉄艦奪取作戦は失敗に終わった。蝦夷共和国側の四隻しかない軍艦のうち高雄は敵に拿捕されてしまう。残る回天と蟠龍そして千代田形のみで蝦夷共和国軍は、新政府軍と戦わなければならなかった。
 三月二十八日には、明治新政府により東京が正式に日本の首都と決定した。その前日には箱館在住の居留外国人に対し、戦いに備えて箱館から避難勧告がだされた。
 四月にはいると、いよいよ新政府軍は青森にまで進出してきた。蝦夷共和国側がつかんだ新政府軍の兵力は、およそ次のとおりである。

 長州藩 七百
 備前藩 五百 
 福山藩 六百
 松前藩 五百
 弘前藩 二千
 薩摩藩 百

 他に筑後、津、大野などの各藩の軍勢をあわせて総勢六千三百。これだけで蝦夷共和国側の二倍ほどになる。
「肝心の薩摩の軍勢が少なすぎるようだが」
 軍議の席上、疑念をていしたのは松平太郎だった。
「なにしろ、薩摩はこの蝦夷の地から最も遠いからな。軍勢の移動に手間どっている様子だ」
 答えたのは榎本だった。
「それでいい。一口に薩長といっても、俺たちが今まで戦ってきた経験からいえば、長州はそこまで強くはない。だが薩摩は違う。あいつらの強さは確かに桁がちがう。可能なら、そのまま姿を見せないでもらいたいものだ」
 と眉間に皺をよせながらいったのは、土方歳三だった。
「まったく、敵さんも御苦労だな。薩摩からこの蝦夷まで出張とはな」
 苦笑しながらいったのは大鳥圭介だった。
「問題は敵の上陸地点だな。この箱館は恐らくないだろう。松前か、江差か、はたまた俺たちが上陸した鷲の木あたりか?」
 土方は机に広げられた地図を見ながら、しばし思案にふけるのだった。

「我が海軍は乙部に上陸する」
 津軽の平館での軍議の席上、新政府軍陸海軍参謀・山田市之允は、机に広げた地図を指さしながらいった。
 この人物は長州の松下村塾出身で、かって同じ長州の高杉晋作と四境戦争を戦ったことは以前に書いた。その後、越後での戦いでは日本初の衝背上陸作戦を実行し、その名声は非常に高まっていた。
「乙部? 江差よりはるかに北方じゃなかか。わざわざそげいなところに上陸せんでも……」
 長州の長を市之允とすれば、薩摩の長は黒田了介である。その黒田は乙部上陸作戦に明らかに不満であった。
「敵は兵力にも海軍力にも限りがある。さすがに乙部までは手が回らんじゃろ。敵の手薄のところをつくのは戦いの常道じゃ」
「我が薩摩は遠国ゆえ、兵の移動にてまどっておる。それだけでん大変なのに、乙部から箱館ということになると、薩摩から長崎ほどの距離はあるな。いや関門海峡、長州まであるかもしれん」
「戦に犠牲はつきものじゃ。どうしても兵士に負担を強いるのいやなら、薩摩の方々はこの津軽で心ゆくまで休んでよろしいぞ。戦は我が長州だけでやる」
 市之允は冷たくいう。
「そげいな面倒なことせんでも、箱館の町を直接攻めるか、そいが無理ならせめて松前あたりにでも兵を上陸させればよか。どうせ犠牲を払うのなら、我が薩摩の兵は戦で死ぬほうの犠牲を選ぶ」
「貴殿ら薩摩の方々は何か事あるごとに死ぬ、死ぬいうが、味方がむやみやたらと死ねば敵が喜ぶだけじゃ。戦わずして勝つが上策と兵法にもそう書いておろう。犠牲を最小限にとどめるのも我らのつとめじゃ」
 しかし黒田は、納得していない様子だった。
「そげいな甘いことばかりいっておるから、長州は戦をすれば必ず負けるのじゃ。我が薩摩が助けねば長州など、とっくの昔に滅んでおった」
「お言葉なれど、幕府軍と戦いこれをうち破ったのは我が長州じゃ。薩摩の方々は何をしておられた? 形勢を観望しておっただけじゃ!」
 市之允は、ややむきになって言った。
「薩摩がその気になれば、幕府と手を結んで長州など簡単に滅ぼしておったところだ」
 この黒田の言葉に、市之允はついに立ち上がった。背後に控えている長州人たちも立ち上がり、中には刀に手をかける者もいた。対する黒田の背後に控える薩摩人達も立ち上がった。
「まあまあ双方共にお座りくだされ。ここで味方同士争そっていては敵に利するばかりですぞ」
 仲にはいったのは松前藩の人間だった。松前藩としては、薩長の力を借りてでも一刻も早く松前を奪還したかった。
「話しにならん帰るぞ!」
 薩摩人は軍議の席を蹴ってしまった。薩摩と長州は、薩長同盟以降表面上は和解した。しかし過去のいきさつを完全に忘れて、互いの敵愾心、競争意識までも消しさることは不可能だったのである。

 結局、幾度かの軍議の末、山田市之允の希望どおり新政府軍は乙部から上陸することとなった。
 蝦夷地はまことに広大な土地である。この時、新政府軍は太平洋側のいずこかの土地に上陸すると見せかけて、反対の日本海側の乙部への上陸を決行したという。
 ここで疑問なのだが、果たして開陽が江差沖で座礁しなければ、榎本海軍は蝦夷を防衛しえたのであろうか? 筆者は軍事の知識は乏しいが、それでも無理であるような気がしてならない。
 もし新政府側が江差あたりにでも上陸すると見せかけて、開陽丸他の榎本艦隊の注意を引きつけておいて、まったく逆の室蘭(当時はモロランといった)あたりに兵士を上陸させていたらどうなっていただろう。
 榎本海軍がいかほど優れていても、所詮、戦いは最後は陸戦で決着する。新政府側は兵士も資金もいくらでも戦場に投入できるが、蝦夷共和国側はそうはいかなった。
 すでに箱館戦争が始まる頃には、蝦夷共和国の財政は極めて厳しいものとなっていた。そのため箱館市民から苛酷な税の取り立てがおこなわれ、不満の声は日一日と高まっていたという。人の生き血をすする蚊の仲間に「ブヨ」というのがいる。市民たちは恨みをこめて榎本「武揚」を「ぶよう」、「ブヨ」と仇名したといわれる。
 いずれにせよ、蝦夷共和国側にとり極めて勝算の少ない戦いであったことは間違いないだろう。

 四月九日未明、新政府軍艦隊は音を消して江差沖を通過した。山田市之允は甲鉄艦の甲板で、まだ寒気の厳しい蝦夷の海風に身をさらし、物思いにふけっていた。
「市どうした? そろそろ戦支度をしなければならないぞ」
 背後で声がした。それは同じ村塾門下の駒井政五郎だった。
「いや何、こうして戦を前にして、海の叫びを聞くのも一興だと思ってな……」
「海の叫び……?」
 政五郎は、しばし不思議そうな顔をした。
「ずいぶん遠くへ来たものだな。関門海峡からここまで、考えてみたら日本が小さな島国などというのは嘘じゃろ? 海岸線だけたどっていってもそれなりに距離がある。この海を見ているとわしにはわかる。異国が、この国を支配するのはそう簡単なことではないな」
「確かにな。わしら長州が異国と戦った時も、関門海峡の潮の流れが早すぎて、欧米の海軍力をもってしても混乱はさけられなかったしのう。そういや敵の欧米の技術力を駆使した最新式の軍艦も、結局ここいら辺りで沈没してしまったはず」
 市之允はかすかにうなずいた。
「まあ高杉さんは、ぜひ一度欧米を見てみたいといいつつ果たせず世をさった。じゃがわしは、もうここまで来るだけで十分じゃ。この海のはるか彼方にある異国になど行きたいとは思わん」
 ふと市之允は、背後をふりかえった。
「どうかしたのか市よ?」
 政五郎は市之允の様子をいぶかしんだ。なぜか市之允には、そこに高杉が立っているような気がしたのである。そこで一句つくった。

  波濤千里 異国へ連なる
 蝦夷の海峡 霧に浮かびて鮮やかなり
 東行君の幽魂 何れの処にか在る
 砲声 空しく響く 江差の天

 これは高杉晋作が、幕府艦隊との戦いの前につくった句をまねたものだった。東行とは高杉晋作の号である。
 やがて目指す乙部の沖が見えてきた。
「高杉さん見ていてください。私はあなたの魂と共に戦ってみせる。よし全軍上陸準備にかかれ!」
 市之允は童顔に眼光をいからせて叫んだ。

 新政府軍の乙部上陸は難なく達成された。やはり蝦夷共和国側の戦力では乙部まで防衛が回らなかった。五、六名の兵士が見張りとして常駐していただけだったのである。
 江差奉行の松岡四郎次郎は報に接し、配下の三木軍司に兵力のほとんどを預け乙部へと急行させた。これに対し新政府軍は艦隊を江差へと向け、手薄となった江差に強力な艦砲射撃をおこなった。四郎次郎配下の一聯隊は大砲で反撃を試みるも、敵艦までとどかない。
 そうこうしている間にも、乙部にはついに松前藩兵が出現。失地奪還に燃える松前藩の勢いは凄まじく、たちまち三木軍司の部隊はおされはじめた。このままでは腹背に敵を受け全滅する。四郎次郎は江差を捨てて松前まで後退した。
 江差からは新政府側は三方面に兵力を分散させる。二股口へ向かう一隊(現在は函館の隣り町北斗市)八百名。松前方面と木古内方面へ向かう部隊が合わせて六百名ほどである。
 松岡四郎次郎は十一日には松前まで逃げもどる。ここには人見勝太郎と伊庭八郎がいた。二人は四郎次郎を卑怯者と激しく非難した。
「あんたはん、どないしなはるつもりや! ろくに戦いもせず逃げてくるとは!」
 人見勝太郎は怒りをあらわにする。四郎次郎はやむなく反転、かろうじて松前城下まで迫っていた新政府軍を、おそよ五里離れた江良まで押しかえす。
 しかしここで木古内口で戦っている大鳥圭介からの伝令があった。木古内口が苦戦中なので、松前を捨てて木古内まで後退しろというのである。伊庭八郎、人見勝太郎、松岡四郎次郎たちは軍議を開いた後、ひとまず松前城まで後退することとした。
 やがて新政府軍は第一軍に続き、第二軍、第三軍まで上陸を完了。ほどなく松前城下には敵海軍がその威容をあらわにする。すなわち甲鉄、春日、陽春、丁卯、朝陽の各軍艦である。海に近い松前城はたちまち砲撃で壊滅的な打撃を受けた。八郎、勝太郎たちは、これを放棄して木古内まで撤退することとなるのであった。

 一方、新政府軍の一隊は二股口を目指していた。
 戦場となった二股口は、今日では箱館の隣の北斗市の一部となっている。しかし市町村合併前は大野町という、小さな町だった。村じゃないのが不思議なほどで、村どころか集落である。
 大野新道という広い道路が走り、筆者も幾度もこの道を車で走ったが、首都圏の道路のように障害物もない。人もまばらで、筆者のような運転下手でも軽く百キロはだせる。ほとんど高速道を走るのと同じ感覚で運転することができる。
 そのはるか奥地、正直筆者も得体の知れない土地なのでそこまで行ったことがない。北斗市の市街地から、車で通常の速度で約四十分ほどで二股口の戦場跡にでる。地元の人間でさえ、危険な山岳地帯なのでめったに足を踏みいれないらしい。
 乙部からここまでは物資の運搬のことなどもある。もしかして攻めてくる新政府軍は土方歳三にではなく、地形に負けたのではと思えてくるほど僻地である。
 ここで衝鋒隊、伝習歩兵隊などからなる四百の蝦夷共和国軍は、土方歳三を大将として縦深陣地をつくって新政府軍の到来を待った。午後三時頃、地鳴りのような音ともに、長州藩兵を中心として備後福山藩兵、松前藩兵などを加えた八百の敵兵の姿が見えた。
 やがて赤熊を頭からかぶり、陣の戦闘に姿を現す者があった。
「土方! 土方歳三はいるか。俺の顔に見覚えがあるだろう。戦いの前に話しがある。出てこい!」
 土方は陣地の奥にいた。確かに、その年齢よりはるかに若く見える童顔といっていい面相には見覚えがあった。
「こいつは奇遇だな」
 土方は、敵将である山田市之允の前に姿を現した。
「まさかお前が大将とはな。こういうことになるならあの時、お前を殺しておくべきだったな」
 土方は、つとめて冷静な顔でいう。
「今頃後悔しても遅いぞ。改めて聞こう。なぜあの時、さして調べもせず寺を去った?」
「俺はあの禁門の変の時、一歩も退かず向かってくるおまえたち長州人を見て、むしろこの乱世に生まれてきたことを天に感謝した。平和な時代に生まれてきて道場で木刀を振るだけでは、あの高揚感、興奮は味わえないからな。戦勝で気をよくしすぎて、さして調べもせずおまえ達を逃してしまったな。あの後、西本願寺は新選組の屯所としてありがたく使わせてもらった」
「そういえば聞いたなそんな話。今日という今日こそは、俺を生かしたことを後悔させてやる!」
「面白いな。あの時のように向かってくるがいい」
 土方は笑みさえうかべながらいった。そして市之允もまたかすかに笑った。そして両陣営にわかれていった。

 新政府側の先陣をきったのは、やはり長州軍だった。新政府軍の兵力は蝦夷共和国側の約二倍はある。しかし土方には秘策があった。
 土方は二股川渡河点の台場山(二六一メートル)に、フランス軍騎兵伍長フォルタンの指導のもと、およそ十六もの胸壁をつくっていたのである。長州軍が迫ってくるもミニェー銃しかもたないため、後装式のスナイドル銃を所持した蝦夷共和国軍の前に苦戦を強いられる。
 しかもここで、戦いの前に兵士を動員して短期間でつくった胸壁がものをいった。約十六ある胸壁を線でつないでいくと、いたるところに奇妙な「角」ができる。これは五稜郭を意識したもので、いわば敵がどの角度から迫ってきても死角なく挟撃するための工夫だった。新政府軍は共和国軍の十字砲火にされされ、どうしても二股口をぬくことができなかった。
 この時の様子を戦いに参加した衝鋒隊の今井信郎は、次のように記録に残している。
「深い霧に乗じて政府軍潮のごとく競い来たれり。倒れる者を踏み越えて、兵を繰り返し繰り返し発砲する。五月雨より繁く砲声山野に震う。しかれども守る兵は戦場になれたる精兵。ここに隠れ、かしこに隠れ千万変化、勇をふるって防戦一昼夜、流血渓水を染む数十町」
 土方は、緒戦の優勢を見てひとまず安堵した。
「これでいい。しばらくは持ちこたえられるだろう。後は薩摩の連中、奴らがでてこないことを祈るのみだ」
  土方は思わず天をあおいた。

 同じ頃、木古内口でも激戦が展開されていた。木古内は、松前からも箱館からもちょうど車で一時間ほどの中間地点にある小さな寒村である。
 こちらの新政府側の主力は薩摩藩が担った。
「なんだあの軍装は?」
 まず薩摩兵を驚かせたのは、正面きってこれと対峙した仙台額兵隊の異様な姿、恰好だった。赤黒リバーシブルのラシャ製の軍服。額兵隊は英国式調練をうけており、英国の影響を受けての蝦夷共和国軍でも異彩をはなつ軍装だった。
「どこの隊じゃ、仙台? ドンゴリか!」
 戊辰戦争最中、仙台藩兵は密かに弱兵として官軍に侮られた。大砲の音がドンと響くと五里逃げるというので、ドンゴリと仇名されたという。
「所詮見かけ倒しの弱兵よ! 一撃で蹴散らしてくれる!」
 果たして額兵隊は、しばし薩摩兵と戦うと逃げ出した。
「ふがいない奴らだ! よし一兵たりとも逃がすな!」
 薩摩兵を追撃を開始した。しかし草深い茂みをぬけると、すでにそこに額兵隊の姿はなかった。
「ほんのこつ逃げ足だけは早い奴らだ!」
 その時、近くの丘で歓声があがった。
「やーい芋侍め!」
「こんやっせんぼ(臆病者)! かかってきやんせ!」
「ゆっさ! ゆっさ!(戦のこと)」
 丘の上の額兵隊は、薩摩弁をからかいながら口々に挑発する。
「己! ドンゴリの分際で!」
 薩摩隼人は一際誇り高い。この侮辱に我慢ならず丘を登りはじめた。これが罠だった。突如として鈍い衝撃音と共に爆発がおこった。仙台藩兵は密かに地雷を埋めていたのである。この爆発で多くの薩摩兵が死傷する。
 ここで一転して額兵隊と、そして伊庭八郎に率いられた遊撃隊は反撃に転じる。小雨が降る中、乱戦となった。
 遠く五稜郭の地で、木古内口からの戦況の第一報を聞いた榎本は、しばし驚き耳を疑った。額兵隊と遊撃隊は精強と恐れられた薩摩兵と互角以上に戦い、緒戦ではこれを圧倒したという。榎本でさえ、額兵隊を見かけだけの弱兵と思っていたのである。
 このうれしい誤算におおいに喜んだ榎本だったが、続く伝令の報告で、信じられない悲報を聞くこととなる。

 遊撃隊と額兵隊は緒戦でこそ薩摩藩兵に勝利したものの、ここで木古内口の総大将といっていい大鳥圭介が誤りをおかす。勝っている戦で、どういうわけか後方の矢不来への撤退を指示したのである。
 額兵隊を率いる星恂太郎は泣く泣くこれに従ったが、遊撃隊の伊庭八郎は納得しなかった。軍を返すとわずかな手勢を率いただけで、薩摩藩兵の陣地に夜襲を決行する。ところが陣地はなんと空だった。突如として周囲の山々から一斉に歓声があがった。薩摩兵はこの夜襲を見ぬいていたのである。気がついた時には、前後左右を丸十字の旗の武者が縦横無尽に旋回していた。
「今こそ死す時だ!」
 これが逆に八郎の闘争心に火をつけた。わずかな手勢と共に薩摩兵相手に大太刀まわりを演じて、その心胆を寒からしめる。しかし、ついに右肩を銃弾が貫通する。驚くほど多量の血が噴出した。
「土方さん、榎本さん、もう終わりなのかな……」
 その時、八郎の懐から一枚の紙きれがひらひらと風に舞った。それは江戸庶民が描いた八郎の錦絵だった。
「薩長に支配された今の江戸の町で、君は希望なんだ」
 八郎は、しばし石のように固まって動かなかった。
「死んだのか?」
 敵兵が近寄るも、八郎の剣の一突きでたちどころに倒された。さらに二、三人の敵兵がたちどころに八郎の剣の餌食になる。
「俺は屈しない。戦いぬく!」
「信じられん! ほんのこつ、こいが人間か!」
 さしもの薩摩隼人も戦慄した。
「ええい! 高々片腕の武者なんぞ、こん示現流の一撃で仕留めてくれる!」
 一際体格のいい薩摩武者が、蜻蛉の構えから八郎にとどめを刺そうとした。しかしこの時、八郎に奇妙なことがおこっていた。死を意識した者は、五感が極度に研ぎすまされるという。八郎はすでに何事かを超越していた。一撃必殺のはずの示現流の振りが八郎には、まるでスローモーション動画でも見るように、ゆっくりした動きに見えたのである。
 片膝をつき八郎は冷静に胴をはらった。薩摩武者は剣を手にしたままの状態で、血しぶきと共に真っ二つになった。
「嘘だ!」
 再び薩摩兵は戦慄した。しかし八郎を守る兵は後わずかに数名、丸十字の攻囲はいよいよ分厚いものと化していた。
「これまでだな」
 八郎が死を覚悟したその時だった。八郎と薩摩武者の間に騎馬で乱入する者がいた。謎の兵士は馬上から八郎に飛びかかり、両者は背後の急な坂道をもつれるように転がり落ち、敵兵の視界から消えた。後には主なき馬だけが残された。それは人見勝太郎だった。
「もういい八郎! もうおまえは戦わなくていい! たのむ治療に専念してくれ! 後は俺たちが戦う」
 人見は、泥まみれの凄まじい形相でいった。八郎はかろうじて戦線を離脱。再び高松凌雲の病院に収容されるのだった。

 一方、二股口ではまだ戦闘が続いていた。新政府軍は、団子状になり土方率いる蝦夷共和国軍部隊に突撃をくりかえす。しかし、どうしても二股口を突破できなかった。
 なにしろ両軍の中間にある河原に出ると、一四〇メートルから三百メートルのちょうどよい頃あいから狙撃されてしまう。幅数十メートルの河原には遮蔽物はほどんどない。ほぼ前進すなわち死だった。
「ええい一体何をしておるんだ! やはり戦は長州のやつらには任せられん!」
 戦闘開始から十時間が経過し、すでに夜である。ここで土方が恐れていた薩摩隊が不気味な唸り声と共に姿を現した。
「とうとう来たか……」
 土方は思わず目をつぶった。
 果たして薩摩兵は、いかほど味方の兵が銃弾の餌食になろうと、構わず突撃をくりかえす。死を恐れることも、後方をふりかえることもなかった。土方配下の兵卒にも動揺が広がった。
「いいか、ここから先は互いに覚悟の戦いとなる。敵が恐ろしければ目をつぶって撃て! 前へ進もうとする者だけに希望が見える。退けば地獄、そして斬る!」
 土方は刀をかまえ、部下を叱咤した。
 新選組隊士・島田魁は、この時の様子を日記に記録している。
「風雨の如きは長州藩、死を恐れざるは薩摩藩」
 戦いは夜を徹して続けられた。銃身が連射で熱を帯びても、水桶で冷やして射撃は続行された。夜になって激しい雨が降り出すも、軍服の上衣をぬいで銃身をおおって射撃は続けられた。兵士の大半が火薬の粉で顔が真っ黒になっても、なお銃撃は続いた。こうしてついに夜が明けたが、なお戦闘は続いた。
 死闘十六時間……。
 土方に率いられた蝦夷共和国軍が使用した弾丸は、三万五千発に及んだという。そして新政府軍の弾薬が尽きた。精強をもって知られる薩摩隼人をもってしても、二股口を突破することはできなかった。朝七時頃、新政府軍は撤退のやむなきに至ったのである。
 
 その後、土方は十六日にわたって二股口を守りぬくも、一方の木古内口はやぶられた。蝦夷共和国軍は矢不来に撤退。ここを突破されれば後は箱館平野、そして五稜郭まで遮るものはない。まさに蝦夷共和国軍にとり土俵際だった。

 
 
 
 



 

 

  



 

 
 
 
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