残影の艦隊~蝦夷共和国の理想と銀の道

谷鋭二

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【第四章】箱館戦争

夢の終わり

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   箱館戦争はいよいよ終盤をむかえつつあったが、そのことを語る前に、戦争終結後の榎本の人生について少しふれておきたいと思う。
 結局、敗軍の将となった榎本は、約二カ年半にわたって獄につながれることとなる。しかし最終的には罪に問われることなく、無罪放免となった。この新政府の寛大な処置の背後には、箱館戦争で榎本の前に立ちはだかった、あの黒田了介の必死の助命嘆願があったといわれる。
 それ以降も黒田は榎本の終生の友となり、北海道開拓などでは重要なパートナーとなる。そして後に黒田は、ついには日本国の第二代総理にまで登りつめるのである。
 一方、榎本のその後の出世もたいへんなものだった。文部大臣、外務大臣、農商務大臣などを歴任することとなる。榎本の場合、特に出世のテクニックがあったのではない。有能なので必要とされたといっていい。もし旧幕臣でなければ、あれいは総理にまでなっていたかもしれない。
 特に重要なことは、外務大臣として大国ロシアと対等の外交を展開し、千島・樺太交換条約の調印にこぎつけたことだった。
 国際規模でのこととなると、中国では李鴻章と会談。あれいは結果的に失敗に終わったが、メキシコに日本人街をつくろうともした。
 そして北海道の開拓もまた重要である。今日北海道の食料自給率は二百パーセントほどもある。東京はわずか一パーセントにも遠く及ばない。江戸時代不毛の台地だった北海道が、ここまで豊かになったその基礎は、もちろん榎本が築いたといっていいだろう。
 明治四十一年(一九〇八)腎臓病のため逝去。七十二年のあまりに波乱に満ちた、そしてスケールの大きな生涯だった。
 しかし明治二年、三十四歳の榎本はまだそのような前途のことなど知るよしもなく、五稜郭で半ば死をも覚悟していた。実はまだ、七十二年の生涯の折り返し地点にすら到達していないのだった。

 
 五月十四日、奮戦もむなしく弁天台場が陥落した。守将の永井尚志は敵に降り、およそ二四〇人の将兵は山手の実行寺におしこめられてしまう。
 蝦夷共和国側に残された防御の拠点は、千代ケ岡台場と五稜郭だけになった。事ここに至って、さすがの榎本もこれ以上の抵抗は、無駄に犠牲を増やすだけであるということを悟るにいたる。自らの首と引きかえに、大勢の将兵の命を救うという条件で、新政府側と内々に降伏のための交渉にはいる。
 
 翌五月十五日は、交渉が開始されたため新政府側の攻撃は一時中止となった。そして榎本は休戦中のこの日、特別の許可のもと、今や事実上薩摩藩の支配下にある箱館病院をたずねた。
「榎本さん、八郎の君の件ですが……。手をつくしましたが今度ばかりは……」
 高松凌雲が深刻な顔色でいうと、榎本はゆっくりと頷いた。
 榎本が病室に現れると、八郎はつとめて元気であるようにふるまおうとした。しかし顔色は青白く、以前に比べればかなり痩せていた。
「私が君と初めて会った時、君はいくつだったかな?」
 榎本は、あえて八郎に背を向けて語りはじめた。
「確か八つほどだったと思います」
「そうだ、あの頃君は華奢な体格をしていて、顔色も青白かった。なにやら風が吹けば倒れそうだったな。よもやここまでの侍に成長するとはな」
「榎本さん、正直に教えてください。傷は治るんですか?」
 八郎は榎本の答えを待った。
「八郎君……腹を斬ってくれ」
 この榎本の一言で八郎はすべてを察し、無念のあまりうつむいたまま、かすかに嗚咽をもらした。
「君を守れなかったのは私の責任だ! 君だけではない。土方君も死なせてしまった。すべて私の不覚だ! 君だけを死なせはしない。私もじきに行く」
 すると八郎は首を横にふった。
「自分は、今日まで存分に戦いました。武士として、男としてもう悔いはありません。ただ心残りがあるとしたら榎本さんのことです。死んだ土方さんとも約束しました。必ずあなたを守ると……。生きてください自分たちのために、死んでいった者のためにも」
 八郎がどこまでも真剣な眼差しでいうので、榎本は、
「わかった、君や土方君のためにも、私はどんなことがあろうと生きる。生きて、生きて、生き抜いてみせる」
 とできない約束をした。
「ただ、腹を斬れといっても自分には片腕がないし、右腕だけではうまく腹を斬る自信がないなあ」
 すると榎本は、かたわらに控えていた高松凌雲と何事かを相談した。凌雲はしばし姿を消し、やがて薬品を持参して戻ってきた。それはモルヒネだった。
「これを飲めば楽に死ねる。君は今まで、嫌というほどつらい思いをしてきた。せめて最後くらいは……。全て私の力が至らなかったばかりに……」
 榎本は声が震えていた。
「必ず生きてくださいよ。土方さんと一緒にあの世から見守っています。僕らのためにいつまででも」
 ほどなく八郎はモルヒネを一気に飲みほし、二十六年の壮絶極まりない戦いの生涯を終えた。
「べらぼうめ! 生きろだと! 生きたくても薩長の連中が許すと思っているのか!」
 榎本は無念のあまり、机に額をこすりつけた。

 
 新政府側との交渉が続き、榎本は千代ヶ岡台場にも、武装解除を求める使者をつかわした。しかし千代ヶ岡台場を守る中島三郎助は、なんとこれを拒絶した。
 そのため最初は大鳥圭介が、次いで副総裁である松平太郎が説得に赴いたが、三郎助が頑ななほど抗戦をあきらめようとしなかった。
「どうしても死にたいのか……」
 同じ長崎海軍伝習所の出身であり、一時は親しい仲だっただけに榎本は胸を痛めた。
「それではせめて御子息のうちどちらかだけでも、この五稜郭に身柄を引き取ることができないだろうか? 三人とも死ぬのは、あまりといえばあまりだ」
 榎本は、夜になって再び千代ヶ岡台場に使者を走らせようとした。ところがである。使者がまだ三郎助のもとに到着しない間に、千代ヶ岡台場の方角から爆発音が響いてきた。次いで銃声が激しく聞こえてくる。三月十六日夜半、新政府軍は頑強に抵抗を続ける千代ヶ岡台場に、夜襲を決行したのだった。
 千代ヶ岡台場は南北一四四メートル、東西約百三十メートルほどある。土塁でつくられた城壁は二階建ての家ほどの高さはあった。残された兵は五十名ほどで、新政府側の主力は長州兵だったといわれる。守備側の三倍ほどの兵力があった。
 この時、中島三郎助は自ら十二斤加農砲で敵をむかえうった。砲弾がつきると塁壁の外にでて敵と白兵戦を演じる。兵士たちの中には中島三郎助父子以外にも十数名ほど、浦賀奉行所の与力・同心だったものが含まれていた。
 彼らの抵抗は頑強で粘り強く、新政府側は一時攻撃を中止せざるをえなくなった。
 三郎助の次男英次郎は、かろうじて岩陰に隠れている父三郎助を発見する。
「恒太郎はどうした?」
 この時、三郎助は英次郎の悲しげな表情からすべてを察した。やがて何事かを悟ったかのような穏やかな表情をかすかに見せた。
「わしの一生は黒船を見た時、すべてが変わった。だがいい親父殿でやがて年老いてゆくより、よほど痛快な人生を歩めたわい。ただ、そなたのことを思うと心が痛む。さぞや無念であろう。まだやり残したことは山ほどあるはず」
「父上!」
「なんじゃ、何でもいうてみい!」
「父上、それがしは一度でいいから遊郭なるところに行ってみとうござった」
 三郎助は思わず苦笑した。
「馬鹿たれが! それが戦のさなかに言うことか! じゃがそなたとこんな他愛もないやりとりができるのも、これが最後じゃな」
 かすかに東の空に暁がみえた。それとほぼ同時に敵方から銃声が聞こえてきた。それが合図だった。新政府側は覚悟の総攻撃にでてきた。
 やがて乱戦最中、英次郎が左足を撃ちぬかれ動けなくなる。
「父上!」
「英次郎!」
 次の瞬間、大砲がさく裂してもあもあと煙があがった。煙が晴れた後、三郎助は英次郎の上におおいかぶさり、そのまま絶命していた。中島三郎助享年四十九歳。黒船来航から戊辰戦争の終結まで、幕末維新をまるまる生きぬいた壮絶な生涯だった。
 二人の子供も共に死んだが、三郎助にはまだ幼い三男與曽八が残されていた。この三男は後に榎本武揚や、あの木戸孝允の支援を受けて成長。明治十六年には東京大学法科大学を首席卒業する。
 その後は海軍軍人として日清戦争に参加するなどする一方、海軍機関少監に進み、海軍機関学校教官、海軍機関学校監事長、 グラスゴー大学に留学した後海軍機関中監に進級。海軍大学校教官、大本営人事部部員、横須賀海軍工廠検査官、造船監督官、艦政本部員、海軍機関少将、横須賀海軍工廠造機部長、呉海軍工廠造機部長などあらゆる職を歴任する。大正四年(一九一四)、工学博士を授けられ、翌年、海軍技術本部第五部長、海軍機関中将となり、大正九年(一九二〇)大勲位旭日大綬章を受章することとなる。
 あの世の三郎助は、どのような思いで三男の行く末を見守っていたことであろうか。

  
 残すところ蝦夷共和国側には五稜郭しか残されていなかった。こうしていよいよ終戦に向けての交渉が本格化する。
 この同じ五月十六日の夕刻、新政府側の黒田から酒五樽と鮭数十尾が榎本陣営に届けられた。先に講和交渉が決裂した直後には、最後の決戦に先んじて兵糧と弾薬が足りてなければ補充してもよいという申し出まであったという。榎本側では半ばあっけにとられながら、この申し出を拒否した。しかし今回の差し入れに関してはありがたく受けることとした。
 こうしてその日の夕刻、最後の宴が行われた。その最中、榎本はいつの間にか人々の前から姿を消す。自らの執務室で切腹をはかったが、大塚雀之丞という元彰義隊士が、あわやのところで榎本の自殺を未遂に終わらせる。この時、雀之丞は刀を素手で触ったため指が数本飛んでしまったという。

 
 翌、五月十七日箱館・亀田八幡宮にて榎本、荒井、大鳥、松平太郎が出頭して、正式に降伏の誓約式がおこなわれた。榎本の蝦夷共和国の夢は、まさに夢としてついえたのだった。
「新政府軍陸軍参謀の黒田でごわす。おまんとは、いつぞや薩摩でお会いしたはず、よもやこのような形で再びまみえることとなろうとは……」
 榎本はかすかにうなずいた。
「これも何かの縁でござるな。とにかく私は厳罰を覚悟している。自分はこれまで五大州をあまねく周った。見るべきものはすべて見たつもりだ。今は首をはねられても悔いはないつもりでいる。その代わりに将兵たちの命を救ってやってくれ」
 すると黒田は首を横にふった。
「先刻は海律全書の件、こん黒田お礼の言葉もござりもうさん。おまはんの国を思う心はようわかりもうした。おまはんほど者をみすみす死なせるは、こん日の本にとりたいへんな損失でごわんと。おまんの命、たとえ他の誰がなんといおうとこん黒田が必ず守りもうす。あの時申したはずでごわす。薩摩人は敵であっても必ず筋は通すと」
 榎本は、黒田の言葉を半信半疑で聞いた。
「また我が薩摩人は、味方であっても臆病な者そして卑怯なふるまいに及ぶ者をもっとも憎む。そして敵であっても勇者を称賛いたしもうす。おまはんはもちろんのこと、死んでいった者たちの決死の覚悟と抗戦ほんのこつ見事でごわした。こん黒田ほとほと感じいりもうした」
 この一言に榎本は、
「かたじけない」
 と一言いって顔をおおって男泣きした。ここに箱館戦争はついに終結した。しかし、繰り返すようだが榎本武揚という男の生涯を思うとき、その七十二年の生涯の折り返し地点にすら到達していないのだった。


(ようやくここまでたどりつきました。小説としてはほぼこれで終わりです。第五章も一応書くつもりでおりますが、恐らく小説というより榎本のその後の人生を題材とした十話ほどのエッセイのようなものになると思います。正直そちらはあまり期待しないでください。とりあえずその前に2、3カ月ほど休養したいと思っています。ここまでのご視聴に心より感謝いたす次第であります)




 

 

 
 
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