残影の艦隊~蝦夷共和国の理想と銀の道

谷鋭二

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【第五章】駐露全権公使・榎本武揚

内憂外患

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(一)
 
 明治新政府は外交問題山積みであった。
 まず北方の樺太である。当時樺太は日本、ロシア両国の雑居地であった。ロシアはこの地を半ば流刑地と考えており、犯罪者やならず者を次から次へと送りこんできた。当然のように現地の治安は乱れた。明治六年(一八七三)頃、樺太で現地アイヌ人の殺傷事件がおこる。これを機に樺太でのロシア問題が、明治新政府の重要な外交課題となる。
 一方、目を南へ転じると琉球問題があった。江戸時代より琉球を巡る国際関係は実に複雑極まりない。琉球は清国の冊封体制の中にあり、半ばは属国であった。しかし同時に慶長十四年(一六〇九)に日本の薩摩藩の武力侵攻に屈服し、いわば薩摩藩の属国でもあった。
 明治四年に、台湾で琉球人五十名ほどが殺害されるという事件がおこった。この事件を機に日本国政府は琉球国王に貴族の位を与え、同時に琉球国を琉球藩とした。事実上琉球国は消滅し日本国の一部となった。当然のように琉球を属国と考えていた清国と、日本との関係は悪化することとなる。
 そしてさらに、ここに新たなる外交問題が勃発する。それが朝鮮問題だった。
  江戸時代の日本と李氏朝鮮王朝は、対馬藩を仲介して通信使という形で、細々と交易をし国交をかわしていた。
 しかし廃藩置県によって対馬藩は消滅。朝鮮・釜山には、対馬と朝鮮の交易ための草梁倭館なるものが置かれていた。これを日本国政府が、朝鮮の許可なく大日本公館を改め外務省の管轄とする。
 日本の外務省はさらに朝鮮に、明治新政府として新たに国同士の国交を求める。しかし朝鮮もまた江戸期日本同様に鎖国攘夷の国であり、固陋の国である。特に日本側の使節が、西洋式の服装をしていることに強い嫌悪感をしめす。さらに日本側の朝鮮国王への親書には、明治天皇を朝鮮国王の上におくという文書があったため、朝鮮側は激怒する。国交樹立云々の問題はまるで進展しなかった。
 

 明治六年も七月になると、洋行に赴いていた大久保、木戸等が相次いで帰国する。そして朝鮮と日本との国交問題が、思わぬ方向に進んでいることに仰天する。
「困りましたな大久保殿、今、我が国は朝鮮と戦している時ではありませぬぞ」
 東京の大久保邸で、木戸は相も変わらず憂鬱な表情でいった。
「左様でござる。我ら欧米の文明をしかとこの目で確かめもうした。我が国との差は想像をこえるものでごわんど。今は他国と争うよりも、内政を固めるときでごわすなあ」
「一体だれでござるか? 軍を動かし、無礼な朝鮮を討伐すべきだなどと言い出したのは?」
「まず土佐の板垣退助、これに佐賀の江藤新平などが同調したもよう」
「まったく馬鹿げている!」
 木戸はいらだちを隠せぬ様子でいった。
「特に江藤は我らがおらぬうちに教育改革、司法改革など次から次へと新たな改革にのりだし、まるで自らがこの国の政府であるかのような傲慢ぶり。いずれなんとかせねば」
 と大久保は、洋行中プロイセンのビスマルクに影響を受け、のばしはじめたヒゲをいじりながらいう。
「江藤のことはともかく、最大の問題は西郷参議のことだ。自らが大使となって朝鮮に赴き、もし自らが死ねばその時は、それを口実に朝鮮に軍を派遣すべきなどとどうかしている」
 すると大久保を思いつめたように沈黙した。
「大久保君! 君と西郷が竹馬の友であることはわかっている。なれど今は国家が大事。私情をはさむのは慎んでもらいたい!」
 木戸はいつになく厳しくいった。
「厄介なことに八月十七日の閣議で、西郷使節派遣が正式に決定してしまいもうした。これを覆すのは容易なことではごわはん。いずれにせよ今は岩倉殿の帰国を待つよりほかありませぬ」
 九月十三日、ついに右大臣・岩倉具視が帰国する。岩倉もまた世にいう征韓論は、国を亡ぼす元であると憂慮する。かといって打つ手があるわけではない。西郷の背後には強力な薩摩兵がおり、敵に回すとこれ以上に恐ろしい相手はいなかった。岩倉と太政大臣の三条実美にできることといえば、閣議の開催を遅らせて時間かせぎをすることくらいだった。
 また同じ頃、長州の木戸孝允は病で寝こみがちとなる。そして大久保利通は、アメリカでの条約改正の失敗ですっかり自信を失い、政界引退まで考えていたという。ところがここで、征韓論をつぶすため積極的に動く者がいた。長州の伊藤博文だった。
 
 明治六年も九月半ばを過ぎた頃のことである。伊藤、大久保、そして三条実美は東京・新橋のとある料亭にて、今後の政局を語りあった。
「西郷参議と貴殿のことはよう存じている。しかし今西郷を止められるのは、大久保殿をおいてほかにありませぬ」
 伊藤の必死に説得にも大久保は煮えきらなかった。三条という貴族にいたっては、事実上国家の最高職にあるものの所詮お飾りでしかない。典型的なお公家育ちで、何一つ政治的決断をくだせるような人物ではなかった。
「三条公におかれても、西郷参議と争う覚悟をいたしてもらわねば困りまする」
 伊藤の言葉にも、三条はおろおろするばかりである。
「三条公、貴殿はお忘れか? 文久三年の八月十八日の政変のおり、激しい雨の中、都を追放されたあの時のことを! あの時以来、貴殿は常に我ら長州人と共にあり、我らの苦難をつぶさに見てきたはず。それらをことごとく無駄にするわけにはゆかぬのです」
 伊藤はついに厳しい言葉を三条にあびせた。しかし伊藤の必死の説得に大久保の心はかすかに動いた。 

 
 それからしばらくして、大久保は自邸に同じ薩摩出身で、同じく欧米を視察した仲である川路利良を呼んだ。真新しい軍服を着用した川路は三十九歳である。フランスの警察制度を参考にして、日本にも警察制度を確立しようとしていた。後の初代警視総監である。
「川路よく聞いてたもんせ。おいは動く、参議の職を引き受けることにした。この日本っち国家の後々のため吉之助さんと戦うことになる」
 この一言で、すでに川路は事の重大さを悟り額に脂汗をうかべた。
「先だって、こいを形見の品として薩摩にいる家族に送ろうち思っておる」
 それは大久保が、西欧のいずこかで自らを映した写真だった。
 写真の中の大久保は、かすかに笑みさえうかべていた。しかし今、川路の目の前にいる大久保からは、その悲壮すぎる覚悟しか伝わってこなかった。何しろ薩摩隼人の恐ろしさは、薩摩隼人の大久保が一番よくわかっているはずである。ふと川路は、かってまだ島津斉彬が薩摩の主だった時代におきた、ある事件のことを思い出していた。
 何を隠そう島津斉彬は、自らの姿を写真機で写し、後の世に生前の自らの姿を伝えた最初の日本人だった。ある時、島津斉彬は写真機をいじりながら、かたわらの家臣にたずねた。
「どうだお前、今度わしと一緒に写真をとってみる気はないか?」
 するとその家臣は困惑した。自らを写真に写すと魂を吸い取られるという迷信が、まことしやかに噂されていたのである。君命には逆らえない、だが魂を吸い取られるのも面倒である。結局その家臣は数日の後、自ら腹を斬ってはててしまった。
 西郷の親衛隊といってもいい桐野や篠原などという近衛将校たちは、西郷が死ねといえば、その場ですぐにでも腹を斬るような連中である。薩摩人だけではない。人をひきつける不思議な魅力をもった西郷を慕う人間は、全国に五万といる。それらをも大久保は敵に回すこととなる。大久保の命が幾つあっても恐らく足りないだろう。事実大久保は明治十一年五月、ついに刺客の刃に倒れるのだった……。
 
  こうしてようやく十月十四日、ついに閣議が開催されることとなった。主な参加者は太政大臣三条実美、右大臣岩倉具視、参議で西郷隆盛、大久保利通、江藤新平、板垣退助、工部大輔の伊藤博文。そして参議の木戸孝允は病気のため欠席だった。
 閣議は最初から紛糾した。大使派遣の一件にはやる西郷に対し、岩倉は樺太でおきたロシア人によるアイヌ殺傷事件をあげ、樺太問題のほうが重要であると主張する。
「お言葉なれど、樺太問題が先であるというのは、いささか合点がゆきませぬなあ。樺太問題は現地での人と人との問題。なれど朝鮮国の問題は、国家間の問題。いずこが重要かは明らかなはず」
 発言したのは佐賀の江藤新平だった。正論である。岩倉もしばし反論できなくなった。
「朝鮮国の問題はおいにまかせてたもんせ、必ず事をおさめてごらんにいれもうす。なれどもし、おいの身にないごつかあった時は、そん時はいた仕方ごわはん」
 しばし座に重い沈黙があった。
「西郷参議に申し上げる。私も朝鮮使節派遣の件は時期を待つべきかと……」
 立ち上がって発言したのは、長州の伊藤博文だった。
「ほう、そいは何故じゃ?」
「なぜなら朝鮮の背後にはロシアがおりまする。戦ともなれば、いまだ未熟な我が国の兵力、国力では勝算は薄いものと存じまする」
「じゃっどん、負けるとわかっていても戦わなければならない時もある」
「かって我が長州藩はあまりに血気にはやり、外国に戦をしかけ、結果は散々な大敗北に終わりました。他にも、この新政府ができるまでには、我が藩はあまりに多くの人的犠牲をはらいました。すでに久坂殿も高杉殿も吉田殿もおりません。彼らが生きていれば、私ごときは今のこの席にいるなど思いもよらなかったはず。我が藩だけでなくこの日本国で、あまりに多くの犠牲をはらいました。これ以上、異国との戦で犠牲をだすことはさけるべきと存じます」
「おまんは正直な男じゃのう」
 西郷は思わず苦笑した。すると大久保が意を決したように口を開いた。
「伊藤殿の申されるとおり、朝鮮だけの問題だけではありませぬ。朝鮮の背後には清国がいる。そしてロシアがいる。すでに根幹が腐った清国はともかく、ロシアは厄介でござる。かって徳川時代には蝦夷に兵士を上陸させたこともある。また文久の頃にも、対馬を一時不法に占拠した。あん国は油断も隙もありもうはん。ロシアと事をかまえるには、こちらにもそれなりの準備が必要ごわんど。今のこん国の政府では、まだまだロシアに太刀打ちできもはん」
「そいならなおさらのこと! 朝鮮国にこん国の体面をつぶされたままでは、かえってロシアに侮られる。我が国の武威、我が国の誇り、我が国の意志を朝鮮そして諸外国に知らしめねばなりもうはん」
「それでは西郷参議にたずねる。貴殿のいう国家とはいかなるものでござるか」
 大久保は半ばうんざりしたようにたずねた。西郷は思ってもいなかった問いに、しばし言葉を濁した。
「大久保さぁ、おいもおまんも見たであろう薩摩の山河を……。あん薩摩の国を守るため、元亀・天正の頃いやそのはるか以前から、いかほどの人間が死んだか、いかほどぎりぎりの選択を重ねたか……。そいが重なって、重なって今日に至ったのが国家というものでごわんど」
「西郷参議、貴殿のいう国家とは薩摩国のことでごわすか? おいはヨーロッパを見てきた……」
「例え話をいうておるのがわからんのか! 薩摩を日本国に置きかえても同じことごわんど!」
 西郷は思わず声を荒げた。
「お言葉なれど、貴殿の申す使節派遣は七つの危険を日本国にもたらす恐れがありもうす。まず第一に、もし朝鮮国と戦となった場合、開戦のどさくさにまぎれて、全国に散らばる不平士族が反乱を起こす可能性がありもうす」
 大久保は、西郷の鋭い眼光をもろともせず語りだした。
「第二に、戦費の負担が人民の不平を招く恐れあり。第三に、さらに政府財政もまた戦費にどこまで耐えられるかわかりもうさん」
「おまんの反対理由は金んこつだけかい!」
 西郷はついに立ち上がった。
「今の国家財政で清国、ロシアと戦にでもなれば、兵器の購入その他はエゲレス、メリケン等諸外国からの借金に頼るしかありもうはん。他国の内政干渉を招くは必定!」
 大久保もまた、真っ青になり立ち上がった。その気迫に西郷もまたしばし沈黙した。
「御一同に今一度もうしあげる。こん大使派遣のこつは、まえの閣議できまったことごわす。いまさら語るこつはなか」
 西郷は今一度立ち上がり、閣議の席から立ち去ろうとした。つられて板垣、江藤たちも立ちあがった。
「吉之助さぁ! 逃げるつもりでごわすか!」
 大久保は恐ろしい形相で、西郷を引きとどめようとした。すると西郷は袖をめくってみせた。かすかだが刀傷が刻まれているのが見えた。
「一蔵どん、覚えておろうなこん刀の傷に誓ったこつ、どっちかが道をたがえたら、どっちかが介錯して腹をきる!」
 西郷は思わず眼光をいからせていった。
「おいは! 天地神明に誓って道を違えてなどおりもうはん」
 大久保は顔面蒼白ながらも反論する。
「ならばおいが道が違えたということかい? ならばいつでもこん西郷の首を取りにきやんせ!」
 西郷は大久保に背を向けた。去り際、今一度だけ大久保のほうを向きなおった。
「一蔵どん、さらばにごわんど!」
 こうして幼少の頃、下級士族だった時代から共に歩み、ついには共に国家の重鎮にまでなった両者は、事ここにいたって決定的な対立の時をむかえたのだった。

 西郷の大使派遣は決定したかに思えた。しかしほどなく天皇の裁可をあおぐはずの太政大臣三条実美が病に倒れ、代理となった岩倉具視が、これを好機とばかり事をうやむやにしてしまった。
 西郷は辞表を提出して薩摩に去り、西郷を慕う多くの薩摩出身者が西郷と行動を共にした。さらに参議の江藤新平、板垣退助なども相次いで辞表を提出したのだった。

(二)
 
 朝鮮問題は棚上げとなり、明治政府にとっての外交の最重要課題は樺太問題となった。
 その頃、榎本武揚は北海道各地をまわり、現地の鉱物資源の調査を行っているさなかであった。ところがここに、東京の政府より急な呼び出しがあった。東京で黒田から聞かされた榎本の新たな任務は、実に驚くべき内容であった。
 榎本をして駐露全権公使とし、ロシアへ赴き、樺太と千島をめぐる日露の国境問題を解決してほしいというものだった。さしもの榎本も困惑した。日露の国力差を考えれば榎本ほどの外国通でも、交渉は必ず成功とは断言できない。
 まもなく榎本は、参議・大久保利通の屋敷へと赴くこととなった。西郷なき今となっては、大久保は国家の最高責任者といっても過言ではない。
 榎本が屋敷の召使に広大な居間に通され茶を飲んでいると、突如扉が開いた。恐らく三十半ばほどの体格のよい男が入ってきて、榎本の目の前の椅子に腰かける。男は榎本がいつかパリの町で見た、ポリスをおもわせる格好をしていた。
「榎本先生お久しぶりです」 
 と男は挨拶したが、榎本はどうしても顔を思い出すことができなかった。
「さて、いずこかでお会いしたかな?」
「はい、あれはもう二十年ほど前だったと覚えておりもうす。薩摩にて先生は盗賊に襲われそうになっておったでん、おいと黒田さあで、屋敷まで道案内したはずでごわんと」
 ようやくおぼろげながら榎本も思いだした。
「もしや君は、確か川路くんとかいったかな?」
「はい川路利良でごわんと、またお会いできてうれしい限りでごわんと」
「これはまた、まさかこんな形で再び会うことになろうとは……」
 榎本も思わず驚きの声をあげた。
「今おいは、フランスを参考にして日本国にも警察制度を根付かせるため、きばっているところでごわす。以後お見知りおきを」
「いやあ懐かしいな。あの頃、私は海軍伝習所の学生だった。今でも覚えているよ、薩摩の芋焼酎の味は格別だったな」
 と榎本は社交辞令に近い形で、薩摩をほめたが、なぜか川路はうかぬ顔をした。
そのことに疑念を持つ間もなく、扉が開いた。川路は立ち上がり傍らに直立不動の姿勢をとる。
 入室した男は、洋装をして濃いあごヒゲをはやしている。眼光が異常に鋭い。背丈はそれほど高いほうではなかった。その人物こそ参議・大久保利通その人だった。大久保は川路に代わって榎本の前に腰かけると、しばしの間、榎本の顔をじっとみた。
「話は黒田から聞いたと思う。我々は君の才を高く買っている。君さえ異存がなければロシアに行ってもらいたか思うちょる」
「お言葉なれど、私は西欧に留学してオランダ語、フランス語、英語などを学びましたがロシア語は学んでおりません。またロシアにじかに赴いたこともなく、もし許されるなら、この任は他の者に……」
 と榎本はこの任務を断る。すると大久保は、たまたま机の上に置いてあった地球儀を、くるくると回してみせた。
「見たまえ榎本君。これがロシア国だ。そしてこれが我が国。この大きさはどうだ? おいはロシア国のことは詳しく知りもうはん。じゃっと、こげん大きくなるまでには幾度も戦に勝ったはず。戦に勝つだけでんなか。時には約定を反故にし、国と国との交渉を裏切り、調略、だまし討ち、そして数限りなく人を殺してきたと思うちょる。そげなもんがこん国の近くにある。こいは一大事でごわんと」
「確かに私も、留学中ロシアのことは幾度か噂に聞きましたが、やはり横暴な国だという評判は少なからずありました」
 榎本はゆっくりと頷いた。
「単刀直入に申し上げるとな榎本君。おいは君に、今回でことで死んでほしか思っている」
「それはどういう意味ですか?」
「こげいな国とこの先も相対するのに、犠牲はさけられんって思うておる。君がもしロシアに行けば、あれいは捕らわれの身となって、二度と日本を見ることはないかもしれない。戻ってこれたとしても、交渉は失敗し両国の間が険悪ともなれば、腹を斬ってもらわねばならぬかもしれない。
 じゃっとおい達は薩摩人は、薩摩のため、国ため、公にために命は捨てるは最も尊いことであると、幼少の頃より教えられて育つ。君にもこの国のため犠牲になってもらいたい。君は先の函館の戦で死に損ねて、今ここにこうして生きていることに、慚愧の念があると思う。今度という今度こそ、君に死んでもらいたか……」
 大久保は眼光を鋭くしていった。
「もとよりこの榎本武揚、国のため命を捨てることに何のためらいもありませぬ。なれど場合によりけりです」
 すると大久保はまた大きくうなずいた。
「おいと西郷参議のことは貴殿もよう存じておると思う。おいと西郷さあは、幼少の頃より共に歩んだ仲だった。おいは幼少の頃、体は弱かった。近所の子供たちが喧嘩やちゃんばらに明け暮れる頃、おいは読書のほうが好きだった。正直な話おいは、男はとにかく強くなければならないという、薩摩の考え方が嫌いだった。嫌気がさして他国へ逃げようとしたこともあった。そん時に、おいを引き留めてくれたのは、やはり吉之助さあだった。
 あん人は、そん時に左腕を見せた。刀傷がかすかにうかんでいた。吉之助さんは幼少の頃、近所の子供と本物の刀でふざけあっていて、うっかり利き腕を斬りつけられてから、剣は使えなくなった人じゃ。薩摩で剣を使えないことは、武士としてゆゆしきないことじゃ。吉之助さんはそんことをずっと悔やんでいた。そしておいにいった。
 おいじゃって人に馬鹿にされることもある。つらかこともある。じゃっとおい達には薩摩しかなか。ここを捨てていずこに行くつもりかとな……」
 大久保は遠い目をした。
「そん時においと吉之助さんは誓ったのじゃ。どっちかが道を違えたら、その時は腹を斬る。そして一方が介錯をすっとな。じゃっどん、おいもそこにいる川路も、もう薩摩には戻れん。戻れば必ず大西郷を慕う者に命を奪われる」
 これでようやく榎本も理解した。先ほどの川路の悲し気な表情は、薩摩を捨てたことによるものだったのである。
「しかしな榎本君、人は故郷を捨てることによって、かえって見えてくるものが必ずある。君もロシアに赴いたなら、二度と日本に戻らぬ覚悟で事にあたってほしいと思っておる」
「お話はよう分かりました。あまりに重大なことなので、今この場では返答できかねます。後日ということで」
 去り際、ふと気がつくとあの川路が背後に立っていた。
「榎本さあ、おいは今東京へのガス灯設置の建白書を提出したところでごわす。パリの町は夜になっても明るく、おかげで犯罪のすくなかど聞いておりもす。榎本さあにおかれては、かっておいたちが迷子のおまんさあを導いたように、この国を導いてほしかど」
 榎本は数日おもいあぐねたが、黒田の説得もあり、とうとうロシア行きの決心をする。しかし家族の者はこれに反対した。とくに榎本の嫁多津は猛反対する。
 
 その夜、榎本は多津と共に、久しぶりに神田和泉町の屋敷の近くを歩いた。
「覚えていらっしゃいますか? あなたが品川沖を出港する間際にも、こうしてこの界隈を散歩したはず。どの道もう二度と会えぬと、そうおっしゃいましたなあ」
「許せよ多津、俺はどうしてもお前の近くにいてやれぬ」
 妻の胸中を先取りするように榎本はわびをいれた。
「あの日以来、いかほど貴方を夢に見たことか……。戦局が悪化する一方だと聞かされた時は、胸がつぶれそうになり、食事も喉を通りませんでした。あなたが牢にいる間も、せめて今一度でいい、会って話がしたいと……例えそれで今生の別れになろうと」
「例えロシアにいても、お前のことだけは決してわすれん」
「ここにいることはどうしてもかなわぬのですか? 武憲のことも少しはお考えになってくださいまし」
 榎本はこの時、すでに一児の父だった。武憲と命名したその長男は、明治六年一月一日生まれだった。明治政府は、明治五年十二月三日をもって今までの暦を改め太陽暦を採用し、明治六年一月一日とした。榎本武憲は、その明治六年一月一日に世に生を受けたという。天文マニアの武揚が、この長男の誕生をいかほど喜んだかは想像に難くない。
「ロシアは西欧の国々の中でも特に無法の国だと、旦那様もいつか申したではありませぬか。何故そのような場所に、旦那様が行かねばならぬのですか?」
「多津よ、俺は先の戦いに負けた時、敗者とはいかほど悲惨なものか嫌というほど味わった。敵は負傷者を収容している病院にまで押し入り、抵抗できない者までことごとく殺しまくった。戦いが終わった後、戦で死んだ者たちは見せしめに放置され、腐臭をはなってもなお、野ざらしにされつづけた。
 ロシアは油断も隙もない国だ。ゆくゆく北海道を奪われるかも知れんし、北海道どころか、日本国そのものも危ういかもしれない。俺は俺なりにせっかく産まれてきた子供のために、自分に何ができるか考えてきた。武憲が大きくなる頃、この国がロシアに制圧され、ロシア人に足で踏みつけられているような国にだけはするわけにはいかないんだ。それがために俺はロシアに赴く。俺が死んでも武憲のことはよろしく頼んだ」
「それでは勝手すぎます」
 そういって多津はかすかに涙を見せたのだった。

  翌、明治七年一月になり、榎本は正式に駐露全権公使の職を受諾した。この時、榎本武揚三十八歳。開通したばかりのスエズ運河を通り、途中フランスのパリを経由し、ロシアへと赴く新たなる遠い旅立ちだった。しかしロシアとの交渉は、榎本にとり想像以上の苛酷な任務だったのである。


(お待たせしました。次回いよいよ最終回ですご期待ください)

 

  

 

  
 
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