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エピローグ
榎本のシベリア横断とその後
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明治十一年(一八七八)七月、ようやく榎本はロシアでの任務を終えて帰国の途につく。榎本は帰路は海路をとらなかった。陸路、広大なシベリアを横断するルートを選んだのである。これもまた途方もない旅で、この時榎本は各地の地理、人情、風俗を事細かに記録に残している。いくつかそのまま抜粋してみたいと思う。
七月二十七日:朝十時モスクワ駅到着。スラヴァンスキー・バザールという府中第一のホテルに宿泊する。
翌日、クレムリンの帝城の中をくまなく見学する。巨大ではあるがペテルブルクの冬宮には及ばない。
昼食後市中を馬車で周り、午後八時三十分汽車でノドゴウロに向けて発つ。乗車後大岡君が持っていたポルトガル産の白ワインを楽しみ、十一時に眠りにつく。
七月三十日:午前十時サモレット号という汽船でヴォルガ川を下る。川幅を狭いところでも三、四丁はくだらない。大抵十丁ほどある。水は赤濁色をしている。カモメが飛んでいる。ステルリッチ(チョウザメの一種)という魚が釣れるそうである。
午後九時頃よりすっかり暗くなる。星の光が水に映り、夜の空気は冷たくすがすがしい。甲板の上をしばらく歩く。両岸とも夜の航行のため、ところどころ二本ずつ並んだ灯火が見える。
(八月三日以降、馬車でシベリア横断を始める)
八月四日:馬車の中で睡眠をとろうとするも、ウラル山脈を越える道で、車中の動揺が激しく中々眠れない。冷気は氷点上五、六度ほどであろうか。日中の暑気とはおおいに反する。明け方三時ほどに目を覚ます。空にはまだ星が残っている。
八月二十八日:夕方、馬車はバイカル湖のほとりイルクーツク市に到着。駅で茶を飲み卵を食べる。イルクーツク府はアンガラ川を渡って向こう岸にある。人口は三万五千ほど。アンガラ川は大河で流れはたいへん急である。水が冷たすぎて魚はいないという。河原よりイルクーツク府は八、九里ほどの距離を隔ててながめることができる。目につくのは寺院屋根、また山の上に陸軍病院が見える。景観の美しいことは、シベリアのペテルブルクといっても過言ではないだろう。
八月三十日:週に一度の定期船に乗り込んでバイカル湖を横断する。馬車も船に載せて運ぶ。馬は対岸で改めて借りた。再び馬車の旅である。モンゴル・中国国境沿いを進む。九月十一日の夕刻にはスターチェンスク村に到着する。
(九月十三日には郵便船に乗り込んで、ウラジオストックまでアムール川を下る旅がはじまる)
九月十三日:朝から空は晴れず、細かい雨が降る。酒屋でビールなどを購入する。ビールは黒竜江を経て輸入されたものである。夕方の七時、ウスチ・カラ村に到着する。ここから三十里ばかりのところに砂金場があり、流刑囚七千人が働いているという……。我々が乗船した船は長さ百三十フィート、馬力は四十ほど、黒竜江をくだる速度は一時間に二十里ほどである。
九月二十八に至って、ようやく船はウラジオストックに到着し、ここで榎本の日記も終わりをむかえることとなる。ほぼユーラシア横断の旅である。榎本は改めてロシアの広大さを思い知ることとなった。
なにしろロシアという国は、国内の時差だけでかなりのもので、例えばモスクワで午前十時である頃、カムチャッカでは午後七時ほどになるという。実に八十日をかけて、ウラジオストクに到達するという気の遠くなるような旅だった。
……榎本は、そこかいずこかわからない景観の中にいた。ふと何者かの殺気を感じた。その時榎本は、地をはいつくばるように移動する一団の兵士の姿を見た。日の丸が見えた。どうやらそこは戦場のようである。
「突撃!」
叫び声と共に日本軍らしい軍隊が、丘をのぼっていく。丘の上からは大砲と銃弾が雨あられと日本兵の上にふりそそぐ。榎本はその時確かにロシア国旗を見た。やがて地雷が爆発したらしい鈍い衝撃音がした。榎本は、さらに驚くべきものを見ることとなる。戦場にはためく「誠」の旗。
「おお! 君は!」
「久しぶりだな榎本さん」
ひときわ巨大な軍馬にまたがった兵士はまさしく、あの新選組の土方歳三だった。
「君は? なぜここにいる?」
「言っただろ榎本さん。俺たちは生きるために戦うのではなく、戦うために生きているんだ。そして死んでも国のため、俺達自身のため戦い続ける。俺達の魂は不滅だ。そしてずっとあんたと共にいる。いいか榎本、なにがあっても死ぬんじゃねえぞ! 俺達の命は、この国行く末を見届けるまでは間に合わなかった。だが後のことは頼んだぞ」
榎本はようやく夢から覚めた。十月二日、すでに榎本たち一行はウラジオストックをも出港し、ついに北海道の小樽を目指していた。榎本は船酔いというわけでもないが、軽いめまいと頭痛を覚えた。ふと懐から一枚の写真をとりだした。それは榎本が、かって蝦夷共和国の建国を宣言した際撮影した記念写真だった。
「土方君、八郎君、中島君、松岡君、甲賀君、私は決して君たちのことを忘れないし、君たちの犠牲をも忘れない。はからずも私一人だけが生き残ってしまったが、例えどんなことがあろうとこの国を導き、そして欧米に負けない国にしてみせる」
榎本は胸中はりさけそうになりながらも、強く誓うのだった。
その後の榎本武揚は伊藤内閣、黒田内閣、山縣内閣、松方内閣で、文部大臣、外務大臣、農商務大臣など各大臣ポストを歴任する。特に大久保亡きあとの薩摩閥のリーダーとして、ついに第二代総理大臣にまで上りつめた黒田清隆との友情は、終生続くこととなる。
明治三十一年(一八九八)には、榎本の長男武憲と黒田の娘梅子が結婚。かっての敵将同士はついに親族となった。その二年後、黒田は五十九歳で死去するが、この時は榎本が葬儀委員長をつとめたという。
一方、日本をとりまく国際情勢は、その後も常に激しく揺れ動いた。特にロシアとの関係は、常に危険をはらみながら推移することとなる。
明治二十四年(一八九一)には、日本訪問中のロシア皇太子ニコライが、滋賀県大津市で津田三蔵巡査に斬りつけられるという大津事件がおきる。日本国中の誰しもが戦争を予期し、誰しもが恐れおののく信じられない事件だった。
明治二十八年(一八九五)には、日本が日清戦争に勝利して清国から割譲した遼東半島を、ロシアがドイツ、フランスと共に清国に返還するよう要求する、三国干渉がおきる。
やがて日本は日清戦争を経て日露の決戦へと歩んでゆく。
日露戦争における日本とロシアの戦力を比較すると、動員可能兵力はロシアが二百万に対し日本は約二十万。海軍力でいえばロシアはバルチック艦隊、バルト海艦隊、黒海艦隊、旅順艦隊あわせて日本のほぼ三倍。戦費からいっても日本が十五億に対しロシアは二十二億ほどだったといわれる。
数字からしてみると無謀な戦いでしかない。世界中の誰しもが日本の敗北と滅亡を予期した。しかし結局この戦いは日本海海戦で日本海軍がロシアのバルチック艦隊を撃滅。ロシア国内でレーニン等がひきおこした内乱等もあり、日本側の完勝で幕を閉じる。
この時、海軍を率いたのは東郷平八郎。かって榎本の幕府海軍と阿波沖で戦い、アポルタージュ作戦での新選組の土方や甲賀源吾の奮闘をも目のあたりした、あの若い海軍士官だった。
実に浦賀へのペリー来航から五十二年目の奇跡だった。日露戦争の意義は日本だけにとどまるものではない。白人優越主義のもと、欧米列強の植民地支配に甘んじていた、多くのアジアの国々に覚醒と自覚をうながすこととなる。そして多くの国々が日本の維新から多くのことを学ぼうとした。トルコでも東郷平八郎が神のごとく崇められ、中国でも孫文が、中国にも維新をおこそうとこころみた。恐らく日露戦争で日本が敗れていたら、その後の世界史はまるで違ったものになっていただろう。
日露戦争から三年後の明治四十一年(一九〇八)十月、榎本武揚はついにその生涯を閉じることとなる。男子の本懐といっていい七十二年のあまりに激動の生涯だった。
(長い間のご愛読に感謝する次第であります)
七月二十七日:朝十時モスクワ駅到着。スラヴァンスキー・バザールという府中第一のホテルに宿泊する。
翌日、クレムリンの帝城の中をくまなく見学する。巨大ではあるがペテルブルクの冬宮には及ばない。
昼食後市中を馬車で周り、午後八時三十分汽車でノドゴウロに向けて発つ。乗車後大岡君が持っていたポルトガル産の白ワインを楽しみ、十一時に眠りにつく。
七月三十日:午前十時サモレット号という汽船でヴォルガ川を下る。川幅を狭いところでも三、四丁はくだらない。大抵十丁ほどある。水は赤濁色をしている。カモメが飛んでいる。ステルリッチ(チョウザメの一種)という魚が釣れるそうである。
午後九時頃よりすっかり暗くなる。星の光が水に映り、夜の空気は冷たくすがすがしい。甲板の上をしばらく歩く。両岸とも夜の航行のため、ところどころ二本ずつ並んだ灯火が見える。
(八月三日以降、馬車でシベリア横断を始める)
八月四日:馬車の中で睡眠をとろうとするも、ウラル山脈を越える道で、車中の動揺が激しく中々眠れない。冷気は氷点上五、六度ほどであろうか。日中の暑気とはおおいに反する。明け方三時ほどに目を覚ます。空にはまだ星が残っている。
八月二十八日:夕方、馬車はバイカル湖のほとりイルクーツク市に到着。駅で茶を飲み卵を食べる。イルクーツク府はアンガラ川を渡って向こう岸にある。人口は三万五千ほど。アンガラ川は大河で流れはたいへん急である。水が冷たすぎて魚はいないという。河原よりイルクーツク府は八、九里ほどの距離を隔ててながめることができる。目につくのは寺院屋根、また山の上に陸軍病院が見える。景観の美しいことは、シベリアのペテルブルクといっても過言ではないだろう。
八月三十日:週に一度の定期船に乗り込んでバイカル湖を横断する。馬車も船に載せて運ぶ。馬は対岸で改めて借りた。再び馬車の旅である。モンゴル・中国国境沿いを進む。九月十一日の夕刻にはスターチェンスク村に到着する。
(九月十三日には郵便船に乗り込んで、ウラジオストックまでアムール川を下る旅がはじまる)
九月十三日:朝から空は晴れず、細かい雨が降る。酒屋でビールなどを購入する。ビールは黒竜江を経て輸入されたものである。夕方の七時、ウスチ・カラ村に到着する。ここから三十里ばかりのところに砂金場があり、流刑囚七千人が働いているという……。我々が乗船した船は長さ百三十フィート、馬力は四十ほど、黒竜江をくだる速度は一時間に二十里ほどである。
九月二十八に至って、ようやく船はウラジオストックに到着し、ここで榎本の日記も終わりをむかえることとなる。ほぼユーラシア横断の旅である。榎本は改めてロシアの広大さを思い知ることとなった。
なにしろロシアという国は、国内の時差だけでかなりのもので、例えばモスクワで午前十時である頃、カムチャッカでは午後七時ほどになるという。実に八十日をかけて、ウラジオストクに到達するという気の遠くなるような旅だった。
……榎本は、そこかいずこかわからない景観の中にいた。ふと何者かの殺気を感じた。その時榎本は、地をはいつくばるように移動する一団の兵士の姿を見た。日の丸が見えた。どうやらそこは戦場のようである。
「突撃!」
叫び声と共に日本軍らしい軍隊が、丘をのぼっていく。丘の上からは大砲と銃弾が雨あられと日本兵の上にふりそそぐ。榎本はその時確かにロシア国旗を見た。やがて地雷が爆発したらしい鈍い衝撃音がした。榎本は、さらに驚くべきものを見ることとなる。戦場にはためく「誠」の旗。
「おお! 君は!」
「久しぶりだな榎本さん」
ひときわ巨大な軍馬にまたがった兵士はまさしく、あの新選組の土方歳三だった。
「君は? なぜここにいる?」
「言っただろ榎本さん。俺たちは生きるために戦うのではなく、戦うために生きているんだ。そして死んでも国のため、俺達自身のため戦い続ける。俺達の魂は不滅だ。そしてずっとあんたと共にいる。いいか榎本、なにがあっても死ぬんじゃねえぞ! 俺達の命は、この国行く末を見届けるまでは間に合わなかった。だが後のことは頼んだぞ」
榎本はようやく夢から覚めた。十月二日、すでに榎本たち一行はウラジオストックをも出港し、ついに北海道の小樽を目指していた。榎本は船酔いというわけでもないが、軽いめまいと頭痛を覚えた。ふと懐から一枚の写真をとりだした。それは榎本が、かって蝦夷共和国の建国を宣言した際撮影した記念写真だった。
「土方君、八郎君、中島君、松岡君、甲賀君、私は決して君たちのことを忘れないし、君たちの犠牲をも忘れない。はからずも私一人だけが生き残ってしまったが、例えどんなことがあろうとこの国を導き、そして欧米に負けない国にしてみせる」
榎本は胸中はりさけそうになりながらも、強く誓うのだった。
その後の榎本武揚は伊藤内閣、黒田内閣、山縣内閣、松方内閣で、文部大臣、外務大臣、農商務大臣など各大臣ポストを歴任する。特に大久保亡きあとの薩摩閥のリーダーとして、ついに第二代総理大臣にまで上りつめた黒田清隆との友情は、終生続くこととなる。
明治三十一年(一八九八)には、榎本の長男武憲と黒田の娘梅子が結婚。かっての敵将同士はついに親族となった。その二年後、黒田は五十九歳で死去するが、この時は榎本が葬儀委員長をつとめたという。
一方、日本をとりまく国際情勢は、その後も常に激しく揺れ動いた。特にロシアとの関係は、常に危険をはらみながら推移することとなる。
明治二十四年(一八九一)には、日本訪問中のロシア皇太子ニコライが、滋賀県大津市で津田三蔵巡査に斬りつけられるという大津事件がおきる。日本国中の誰しもが戦争を予期し、誰しもが恐れおののく信じられない事件だった。
明治二十八年(一八九五)には、日本が日清戦争に勝利して清国から割譲した遼東半島を、ロシアがドイツ、フランスと共に清国に返還するよう要求する、三国干渉がおきる。
やがて日本は日清戦争を経て日露の決戦へと歩んでゆく。
日露戦争における日本とロシアの戦力を比較すると、動員可能兵力はロシアが二百万に対し日本は約二十万。海軍力でいえばロシアはバルチック艦隊、バルト海艦隊、黒海艦隊、旅順艦隊あわせて日本のほぼ三倍。戦費からいっても日本が十五億に対しロシアは二十二億ほどだったといわれる。
数字からしてみると無謀な戦いでしかない。世界中の誰しもが日本の敗北と滅亡を予期した。しかし結局この戦いは日本海海戦で日本海軍がロシアのバルチック艦隊を撃滅。ロシア国内でレーニン等がひきおこした内乱等もあり、日本側の完勝で幕を閉じる。
この時、海軍を率いたのは東郷平八郎。かって榎本の幕府海軍と阿波沖で戦い、アポルタージュ作戦での新選組の土方や甲賀源吾の奮闘をも目のあたりした、あの若い海軍士官だった。
実に浦賀へのペリー来航から五十二年目の奇跡だった。日露戦争の意義は日本だけにとどまるものではない。白人優越主義のもと、欧米列強の植民地支配に甘んじていた、多くのアジアの国々に覚醒と自覚をうながすこととなる。そして多くの国々が日本の維新から多くのことを学ぼうとした。トルコでも東郷平八郎が神のごとく崇められ、中国でも孫文が、中国にも維新をおこそうとこころみた。恐らく日露戦争で日本が敗れていたら、その後の世界史はまるで違ったものになっていただろう。
日露戦争から三年後の明治四十一年(一九〇八)十月、榎本武揚はついにその生涯を閉じることとなる。男子の本懐といっていい七十二年のあまりに激動の生涯だった。
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