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【志摩騒乱編】船戦
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(一)
その夜、嘉隆は夢で篠と久方ぶりの再会をした。
「そなた生きておったか?」
嘉隆は驚きの声をあげたが、篠は空ろな表情で嘉隆を見下ろすだけである。やがて、
「今宵、夜襲があります。お気をつけください。今、私は黄泉の国にいますが、いずれ必ずまた会いましょう。私の魂ならいつでも、私達が初めて会ったあの浜にあるでしょう」
とだけいい、そのまま消えてしまった。
夢から覚めた嘉隆は、ただちに沖合いに見張りをだす。果たして敵襲はあった。志摩地頭衆の一人で小浜真宗だった。小浜砦の主で官途は将監、通称久太郎といった。
「して、兵の数はいかほどじゃ」
「ざっと八十人ほどかと、小早船が三艘ほど、後は漁船が数艘とのこと」
すでに甲冑を着た滝川市郎兵衛がいうと、嘉隆は、
「ただちに田城の兄上に早馬で、このことを知らせよ。皆はわしに続け、ただちに迎撃する」
嘉隆は迅速に動いた。この時嘉隆が率いた兵の数は約百五十人ほど、関船が一艘の小早船が四艘、漁船数艘ほどだった。
ちなみに関船といわれる船の際だった特徴は、船体が矢倉で囲まれていることだった。この時、九鬼一族が所有していた関船で全長十八メートル、幅六メートルほどだった。矢倉はさらに防弾板によって囲まれており、敵の矢をある程度まで防ぐことができたといわれる
また小早は小型であり船足は確かに速いが、関船のように矢倉などという、たいそうなものはなく、櫓の数も四十挺以下であった。主な任務は大型船の援護、偵察、輸送、護衛、補助艦的役割といったところであろうか。また関船を上回る快速性から、奇襲攻撃には小早船が有利であったといわれる。
夜の闇に両軍はまみえた。小浜衆の側では夜襲が察知されていたことに、全軍に動揺が広がる。しかしただちに気をとりなおし、九鬼水軍に接近して、弓矢を嵐のように浴びせる。それに対して嘉隆も反撃を命じて、双方闇の中で激しい弓矢の応酬となった。
しかし一刻(約二時間)ほどもすると、兵力と船数の差がものをいい、小浜衆は逃げ出した。嘉隆は関船で指揮をとり、帆柱の後方に矢倉板(甲板)を一部下げ、腰から上が矢倉上に露出する位置に立っていた。
「よし敵は逃げ出したぞ、ただちに追撃する」
大音声とともに、全軍が追撃体制にうつる。
だがまだ若く、海戦の経験も少ない嘉隆は、この時致命的な過ちを犯す。敵を追撃しすぎたのである。菅島のあたりまで追撃したところで異変はおこった。潮の流れが突如変化し、九鬼水軍にとり逆流となった。さらに島影に敵の伏兵の関船が二艘隠れていたのである。船上ひるがえる丸に割菱紋、伊勢の国司北畠具教の旗だった。兵数にすると百ほど。これで兵の数は敵方がはるかに勝ることとなった。
嘉隆は志摩の地頭衆が、ついに伊勢の国司北畠氏をも味方につけたことに驚き、危険を察知し、手旗信号で全軍に撤退の合図を送った。しかし逆流に阻まれ思うようにいかない。敵船が接近してきて、弓矢を激しく打ちこんでくる。ついには熊手や投げ縄を放って、敵が船内に潜入してきた。嘉隆自らも剣を抜いて応戦する事態の中一大事はおこった。
「若君、危ない!」
嘉隆を狙った一本の矢は、嘉隆に命中することなく、その盾となった滝川市郎兵衛に命中した。
「しっかりしろ市郎兵衛」
嘉隆は必死に市郎兵衛に声をかけたが、市郎兵衛は、
「若君、一命捧げたてまつる……」
とかすれた声でいい、そのまま意識を失った。
嘉隆はひとまずの応急措置として、市郎兵衛の傷口をサラシで強くしばった。
「恐れながら若殿、今は戦の最中、市郎兵衛の死を悲しんでいる場合ではござらぬ」
かたわらの金剛九兵衛が、鬼の形相で叫んだが、市郎兵衛はまだ息を引き取ってはいない。手当てが早ければ助かると嘉隆は見た。むろん、敵に囲まれつつある今の状況では無理である。
「若君、船は囲まれつつありまするぞ。かくなりたるうえは、若君だけでも泳いでここから落ちのびられよ!」
金剛九兵衛が絶叫した。
「いや、わし一人だけ逃げるわけにはいかぬ。皆とともに死ぬぞ」
「愚かなことを申されるな! 我らが死んでも若君は生きねばならぬのです!」
押し問答の末、嘉隆は覚悟を決めた。
「ならばわし一人だけでも生きてみせよう。なれどこの市郎兵衛は、物心ついた時からの己にとりなくてはならぬ存在。ここに捨てるは忍びない」
この時、嘉隆は驚くべき行動にでた。
「九兵衛よ、必ずまた生きてまみえようぞ!」
そういい残すやいなや、嘉隆は市郎兵衛を背負って、そのまま海に飛び込んだ。
残された金剛九兵衛に呆然としている余裕はなかった。敵が迫ってくる。若年ながら二十四貫(約九十キロ)という堂々たる体躯をし、剣の代わりに巨大な鉄槌を武器とする九兵衛が、恐るべき底力を発揮したのは、まさにこの時だった……。
当時の海戦は、大将船が城攻めでいうところの本丸に相当する。大将船に敵が潜入してきたら終わりである。だが九兵衛は次から次へと船に乗り移ってくる敵兵を、その度ごとにことごとく倒した。味方の兵は次から次へと倒れるも、九兵衛は敵味方のおびただしい屍を山の中、なおも仁王のように戦い続けた。なんと数百の国司軍のほとんどが九兵衛一人のために倒されるか、海に突き落とされた。小浜真宗もまた危険を察知し撤退した。
やがて国司軍の最後の船が乗り移ろうとしたが躊躇した。九兵衛は九鬼家の七曜の旗を手にしたまま、なおその場に立ちつくしていた。身に十数カ所の傷を負っていたが、なお戦意を失っていなかった。その様子を見て戦うことを恐れて撤退したのだった。
(二)
後の世も また後の世もめぐりあえ
染む紫の 雲の上まで
六道の ちまたの末に 待てよ君
遅れ先立つ 習いありとも
伊勢の国司北畠具教は、まだ昼間だというのに酒を大量に飲み、美女をはべらせていた。自ら扇子を片手に幸若舞を舞い、実に上機嫌だった。笛や鼓の音が周囲に妖しく響きわたる。
舞の曲名は『高館』である。平安末期、平泉での源義経と弁慶の今生の別れを、唄にしたものである。この有様だけ見ると、具教は暗君に見えなくもないが、具教の本質は決してそのようなものではなかった。具教が朗々と舞う姿は実に流麗であり、その場に居合わせた誰もが、見惚れるほど見事なものだった。しかも具教は、ただの柔弱な公家大名とは異なる資質を持っていた。
嘉隆達を窮地のおとしめた伊勢の北畠氏は、村上源氏を血を引く名門である。遠祖は南北朝時代に後醍醐帝に仕えた南朝の柱石・北畠親房にさかのぼる。建部三年・延元元年(一三三六)後醍醐天皇が吉野山に遷幸の時に、北畠親房が南伊勢に下向し、この地での北畠氏の歴史が始まったといってよい。
親房は『神皇正統記』を著すほどの文の人であり、典型的な公家の出自であった。現在の当主は十二代目の北畠具教であるが、出自が出自なだけに北畠氏は、代々朝廷の高い官職に就いてきた。いわば公家大名である。三十一歳の具教もまた正三位という、朝廷の高い位を手に入れていた。
そして北畠氏の本拠とでもいうべき城が霧山城である。現在の三重県津市、JR名松線比津駅から歩いてちょうど一時間という山奥に、北畠神社が建立されている。そこからさらに、はるか山頂部まで登ると標高約六百メートル、比高約二四〇メートルの山麓に霧山城は存在した。
ちょうど北畠神社の境内あたりが北畠氏の平時の居館・多芸御所が存在した。そして居館背後の山の尾根の突端に詰の城を築き、さらに尾根沿いの山頂付近に霧山城を築いた。多芸御所・詰の城・霧山城の3城を含めて多気城ともよばれていた。
周辺には日本最古の石垣跡や、日本三大武将庭園、日本名園五十撰にも数えられた庭園の跡も残っており、北畠氏およそ二四〇年の夢の跡を今日に伝えている。
今、具教はその多芸御所にて、軽く酒に酔い上機嫌だった。しかしすぐに具教を現実に戻す事態が勃発した。
「申し上げます。志摩にさしむけた我が軍勢、大敗北を察したとのことであります」
近習の者の一声で、具教はたちまち興ざめした。
「……して、その金剛九兵衛とかいう怪力の化物一人のために、我等の手の者はことごとく海に落とされるか、深手を負い、残った者も逃げてきたと申すか」
具教は信じられないといった表情で、合戦のその後の話に聞き入った。
「で、海に逃げこんだ嘉隆はどうなった」
「それが重傷を負った滝川市郎兵衛もろとも、無事波切まで泳ぎきり、滝川市郎兵衛とかいう者も回復に向かっているとのことであります」
「なんということよ……。まだ若輩者なれど、以後も敵として戦うとなれば、やっかいな連中であるな」
具教は思わずため息をついた。
「恐れながら、十名ほどの我が手の者が、戦場から逃げ戻ってまいりましたが、お会いになりますか?」
「ここへ通すがよい」
庭先には十人ほどの武士が平伏して、具教の出現を待っていた。
「汝等か? たった一人の敵に恐れをなし、逃げてまいった卑怯者というは」
具教は、先ほどとは別人のような厳しい表情でいった。
「さりながら殿、敵は常軌を逸した化物のような輩で……」
具教のいう卑怯者達の中で、一番年長に見える者が言葉を発したが、具教はすぐにそれをさえぎった。
「言い訳は聞きとうない。我が北畠の家に臆病者はいらぬ。死罪申し渡すといいたいところだが、こたびだけは生きる機会を与えよう。今より余と真剣で立ち会い、余にかすり傷一つでも負わすことができたなら、汝達すべての罪を許すこととしよう。どうじゃ? やってみるか」
瞬時、具教は刀の鞘に手をかけた。
(三)
やがて大広間にて、十対一の決闘が行われることとなった。むろん逃げてきた十人にとり、主君に刃を向けることは、あまりに恐れ多いことである。しかも北畠具教は、有名な塚原ト伝から『一の太刀』を伝授された当代きっての剣豪なのである。戦い自体に対しためらいがあった。しかし具教は先程の酒の影響で、足元がおぼつかない。勝てるかもしれない。せめて一太刀ぐらいは……。
「殿、ご免つかまつる!」
十人の中で特に血の気の多い者が切りかかった。刀ではなく、なぜか脇差を手にした具教に、いきなり襲いかかったのである。瞬時にして鮮血が、噴水のようにわきあがる。最初それは、具教の肩から首にかけての出血におもえた。見守る者すべてから歓声があがった次の瞬間だった。襲いかかった最初の武者の首が、ごろりと地に転がり落ちた。具教が刀を抜いたその刹那が、誰の目にも見えなかった。
だいたい人間の首の骨というものは、実に固いものである。切腹の際の介錯も、かなりの剣の腕前がなければ、切腹する者の苦しみを終わらせるどころか、かえって酷いことになりかねない。このことからも、具教の剣の腕がいかばかりかよくわかる。他の九人の者達に、しばし戦慄が走った。
しかし多勢に無勢である。今度は五、六名が一斉に襲いかかった。この時、具教は奇怪な行動にでた。手にした脇差を、突如として天高く放り投げたのである。ほぼ同時に刀を抜き、神速で六名の者達をたちまち斬りすてた。彼等は恐らく、自らが死んだことに気付かなかっただろう。
あとは修羅地獄であった。臓器がむきだしになっている者、恐らくあばらが砕けているであろう者、辺りは異様な臭気につつまれた。
なにしろ、ようやく脇差が床に刺さる前に、六名もの者が命を落としたのである。いや、脇差は床に刺さったわけではなかった。呆然とこの光景を見守っていた、いま一人の武者の背に、一直線に、まるで生をえた獣のように襲いかかり、突き刺さったのである。
こうして、八名がたちまち息絶えた。恐れをなした残り二人のうち一人が、またしても逃走をはかった。
「愚か者め! 一度ならず二度までも敵に背を向けるか!」
即座に具教の家臣数名が眼前に立ちはだかり、その者を斬殺してしまった。こうして最後の一人になった。残りの一人は、見たところ十五、六ほどの年少者だった。
「最後に名を聞いておこうか」
具教が鮮血を浴びた刀を、新たな刀に取り替えた後いった。
「正衛門と申します」
「正衛門か、あらためて聞こう。何故敵を前にして逃げて戻った」
「到底、それがしの手に負える相手ではありませんでした。それがしは、まだ世に生を受けて以来、何事も為してはおりません。なんのために剣の腕を磨いてきたのか、なんのために学問に励んできたのか?」
正衛門は臆することなくはっきりといった。
「生きたいか?」
具教の問いに対し、正衛門はしばし沈黙した。
「ならばわしに勝たねばならぬ。こたびは逃げること許されぬぞ」
「覚悟しております」
正衛門が刀をかまえると、突如として具教は片膝を地についた。狂ったような叫び声とともに正衛門が向かってきた。具教は太刀の峯をあげ、柄が地面につくほどにし、正衛門のへその下を無二無三に突いた。たちまち正衛門は防戦一方となり、ついにはバランスを崩し転倒した。
「どうだ正衛門まだやるか? 潔く自害するなら介錯してやってもいいぞ」
「まだ、まだ」
髪を乱した正衛門は、今一度挑み、そして奇跡はおこった。具教の利き腕である右の手の甲から出血。その瞬間、見守っていた多くの人々から歓声があがった。
「うぬ、見事だ正衛門。こたびは許してつかわす。だが二度と敵を前にして逃げるなよ」
正衛門はその場に平伏して感謝の言葉を述べたが、見守る具教の家臣達の中には、察している者もいた。恐らく具教が年少者相手に、手を抜いたであろうことを……。
「鳥尾屋石見守はおるか」
「ここにおりまする」
多芸御所に戻った具教は、居並ぶ家臣達の中から、側近中の側近、鳥尾屋石見守満栄を呼んだ。 鳥尾屋石見守満栄は、年齢的には初老の域に達しており、髪も白いものが目立ちはじめる年齢だった。
「九鬼嘉隆と申す者ちと厄介じゃ。麻鳥に命じて、嘉隆はじめ九鬼一族の様子探らせろ。可能なら嘉隆やその一族の者の首、奪ってもよいと申し伝えよ」
具教は凛とした声でいった。
その頃、嘉隆はようやく傷が回復しだした滝川市郎兵衛、一人で百人以上の敵と戦い無事帰還した金剛九兵衛と主従の誓いを新たにしていた。
「我等三人、死してなお共にあろうぞ。いつの日か必ずや唐・天竺まで船で旅しようではないか」
若い嘉隆は意気盛んだった。むろんまだ恐ろしい災いが九鬼一族に迫っていることを、知らないでいる。
その夜、嘉隆は夢で篠と久方ぶりの再会をした。
「そなた生きておったか?」
嘉隆は驚きの声をあげたが、篠は空ろな表情で嘉隆を見下ろすだけである。やがて、
「今宵、夜襲があります。お気をつけください。今、私は黄泉の国にいますが、いずれ必ずまた会いましょう。私の魂ならいつでも、私達が初めて会ったあの浜にあるでしょう」
とだけいい、そのまま消えてしまった。
夢から覚めた嘉隆は、ただちに沖合いに見張りをだす。果たして敵襲はあった。志摩地頭衆の一人で小浜真宗だった。小浜砦の主で官途は将監、通称久太郎といった。
「して、兵の数はいかほどじゃ」
「ざっと八十人ほどかと、小早船が三艘ほど、後は漁船が数艘とのこと」
すでに甲冑を着た滝川市郎兵衛がいうと、嘉隆は、
「ただちに田城の兄上に早馬で、このことを知らせよ。皆はわしに続け、ただちに迎撃する」
嘉隆は迅速に動いた。この時嘉隆が率いた兵の数は約百五十人ほど、関船が一艘の小早船が四艘、漁船数艘ほどだった。
ちなみに関船といわれる船の際だった特徴は、船体が矢倉で囲まれていることだった。この時、九鬼一族が所有していた関船で全長十八メートル、幅六メートルほどだった。矢倉はさらに防弾板によって囲まれており、敵の矢をある程度まで防ぐことができたといわれる
また小早は小型であり船足は確かに速いが、関船のように矢倉などという、たいそうなものはなく、櫓の数も四十挺以下であった。主な任務は大型船の援護、偵察、輸送、護衛、補助艦的役割といったところであろうか。また関船を上回る快速性から、奇襲攻撃には小早船が有利であったといわれる。
夜の闇に両軍はまみえた。小浜衆の側では夜襲が察知されていたことに、全軍に動揺が広がる。しかしただちに気をとりなおし、九鬼水軍に接近して、弓矢を嵐のように浴びせる。それに対して嘉隆も反撃を命じて、双方闇の中で激しい弓矢の応酬となった。
しかし一刻(約二時間)ほどもすると、兵力と船数の差がものをいい、小浜衆は逃げ出した。嘉隆は関船で指揮をとり、帆柱の後方に矢倉板(甲板)を一部下げ、腰から上が矢倉上に露出する位置に立っていた。
「よし敵は逃げ出したぞ、ただちに追撃する」
大音声とともに、全軍が追撃体制にうつる。
だがまだ若く、海戦の経験も少ない嘉隆は、この時致命的な過ちを犯す。敵を追撃しすぎたのである。菅島のあたりまで追撃したところで異変はおこった。潮の流れが突如変化し、九鬼水軍にとり逆流となった。さらに島影に敵の伏兵の関船が二艘隠れていたのである。船上ひるがえる丸に割菱紋、伊勢の国司北畠具教の旗だった。兵数にすると百ほど。これで兵の数は敵方がはるかに勝ることとなった。
嘉隆は志摩の地頭衆が、ついに伊勢の国司北畠氏をも味方につけたことに驚き、危険を察知し、手旗信号で全軍に撤退の合図を送った。しかし逆流に阻まれ思うようにいかない。敵船が接近してきて、弓矢を激しく打ちこんでくる。ついには熊手や投げ縄を放って、敵が船内に潜入してきた。嘉隆自らも剣を抜いて応戦する事態の中一大事はおこった。
「若君、危ない!」
嘉隆を狙った一本の矢は、嘉隆に命中することなく、その盾となった滝川市郎兵衛に命中した。
「しっかりしろ市郎兵衛」
嘉隆は必死に市郎兵衛に声をかけたが、市郎兵衛は、
「若君、一命捧げたてまつる……」
とかすれた声でいい、そのまま意識を失った。
嘉隆はひとまずの応急措置として、市郎兵衛の傷口をサラシで強くしばった。
「恐れながら若殿、今は戦の最中、市郎兵衛の死を悲しんでいる場合ではござらぬ」
かたわらの金剛九兵衛が、鬼の形相で叫んだが、市郎兵衛はまだ息を引き取ってはいない。手当てが早ければ助かると嘉隆は見た。むろん、敵に囲まれつつある今の状況では無理である。
「若君、船は囲まれつつありまするぞ。かくなりたるうえは、若君だけでも泳いでここから落ちのびられよ!」
金剛九兵衛が絶叫した。
「いや、わし一人だけ逃げるわけにはいかぬ。皆とともに死ぬぞ」
「愚かなことを申されるな! 我らが死んでも若君は生きねばならぬのです!」
押し問答の末、嘉隆は覚悟を決めた。
「ならばわし一人だけでも生きてみせよう。なれどこの市郎兵衛は、物心ついた時からの己にとりなくてはならぬ存在。ここに捨てるは忍びない」
この時、嘉隆は驚くべき行動にでた。
「九兵衛よ、必ずまた生きてまみえようぞ!」
そういい残すやいなや、嘉隆は市郎兵衛を背負って、そのまま海に飛び込んだ。
残された金剛九兵衛に呆然としている余裕はなかった。敵が迫ってくる。若年ながら二十四貫(約九十キロ)という堂々たる体躯をし、剣の代わりに巨大な鉄槌を武器とする九兵衛が、恐るべき底力を発揮したのは、まさにこの時だった……。
当時の海戦は、大将船が城攻めでいうところの本丸に相当する。大将船に敵が潜入してきたら終わりである。だが九兵衛は次から次へと船に乗り移ってくる敵兵を、その度ごとにことごとく倒した。味方の兵は次から次へと倒れるも、九兵衛は敵味方のおびただしい屍を山の中、なおも仁王のように戦い続けた。なんと数百の国司軍のほとんどが九兵衛一人のために倒されるか、海に突き落とされた。小浜真宗もまた危険を察知し撤退した。
やがて国司軍の最後の船が乗り移ろうとしたが躊躇した。九兵衛は九鬼家の七曜の旗を手にしたまま、なおその場に立ちつくしていた。身に十数カ所の傷を負っていたが、なお戦意を失っていなかった。その様子を見て戦うことを恐れて撤退したのだった。
(二)
後の世も また後の世もめぐりあえ
染む紫の 雲の上まで
六道の ちまたの末に 待てよ君
遅れ先立つ 習いありとも
伊勢の国司北畠具教は、まだ昼間だというのに酒を大量に飲み、美女をはべらせていた。自ら扇子を片手に幸若舞を舞い、実に上機嫌だった。笛や鼓の音が周囲に妖しく響きわたる。
舞の曲名は『高館』である。平安末期、平泉での源義経と弁慶の今生の別れを、唄にしたものである。この有様だけ見ると、具教は暗君に見えなくもないが、具教の本質は決してそのようなものではなかった。具教が朗々と舞う姿は実に流麗であり、その場に居合わせた誰もが、見惚れるほど見事なものだった。しかも具教は、ただの柔弱な公家大名とは異なる資質を持っていた。
嘉隆達を窮地のおとしめた伊勢の北畠氏は、村上源氏を血を引く名門である。遠祖は南北朝時代に後醍醐帝に仕えた南朝の柱石・北畠親房にさかのぼる。建部三年・延元元年(一三三六)後醍醐天皇が吉野山に遷幸の時に、北畠親房が南伊勢に下向し、この地での北畠氏の歴史が始まったといってよい。
親房は『神皇正統記』を著すほどの文の人であり、典型的な公家の出自であった。現在の当主は十二代目の北畠具教であるが、出自が出自なだけに北畠氏は、代々朝廷の高い官職に就いてきた。いわば公家大名である。三十一歳の具教もまた正三位という、朝廷の高い位を手に入れていた。
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ちょうど北畠神社の境内あたりが北畠氏の平時の居館・多芸御所が存在した。そして居館背後の山の尾根の突端に詰の城を築き、さらに尾根沿いの山頂付近に霧山城を築いた。多芸御所・詰の城・霧山城の3城を含めて多気城ともよばれていた。
周辺には日本最古の石垣跡や、日本三大武将庭園、日本名園五十撰にも数えられた庭園の跡も残っており、北畠氏およそ二四〇年の夢の跡を今日に伝えている。
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「申し上げます。志摩にさしむけた我が軍勢、大敗北を察したとのことであります」
近習の者の一声で、具教はたちまち興ざめした。
「……して、その金剛九兵衛とかいう怪力の化物一人のために、我等の手の者はことごとく海に落とされるか、深手を負い、残った者も逃げてきたと申すか」
具教は信じられないといった表情で、合戦のその後の話に聞き入った。
「で、海に逃げこんだ嘉隆はどうなった」
「それが重傷を負った滝川市郎兵衛もろとも、無事波切まで泳ぎきり、滝川市郎兵衛とかいう者も回復に向かっているとのことであります」
「なんということよ……。まだ若輩者なれど、以後も敵として戦うとなれば、やっかいな連中であるな」
具教は思わずため息をついた。
「恐れながら、十名ほどの我が手の者が、戦場から逃げ戻ってまいりましたが、お会いになりますか?」
「ここへ通すがよい」
庭先には十人ほどの武士が平伏して、具教の出現を待っていた。
「汝等か? たった一人の敵に恐れをなし、逃げてまいった卑怯者というは」
具教は、先ほどとは別人のような厳しい表情でいった。
「さりながら殿、敵は常軌を逸した化物のような輩で……」
具教のいう卑怯者達の中で、一番年長に見える者が言葉を発したが、具教はすぐにそれをさえぎった。
「言い訳は聞きとうない。我が北畠の家に臆病者はいらぬ。死罪申し渡すといいたいところだが、こたびだけは生きる機会を与えよう。今より余と真剣で立ち会い、余にかすり傷一つでも負わすことができたなら、汝達すべての罪を許すこととしよう。どうじゃ? やってみるか」
瞬時、具教は刀の鞘に手をかけた。
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「殿、ご免つかまつる!」
十人の中で特に血の気の多い者が切りかかった。刀ではなく、なぜか脇差を手にした具教に、いきなり襲いかかったのである。瞬時にして鮮血が、噴水のようにわきあがる。最初それは、具教の肩から首にかけての出血におもえた。見守る者すべてから歓声があがった次の瞬間だった。襲いかかった最初の武者の首が、ごろりと地に転がり落ちた。具教が刀を抜いたその刹那が、誰の目にも見えなかった。
だいたい人間の首の骨というものは、実に固いものである。切腹の際の介錯も、かなりの剣の腕前がなければ、切腹する者の苦しみを終わらせるどころか、かえって酷いことになりかねない。このことからも、具教の剣の腕がいかばかりかよくわかる。他の九人の者達に、しばし戦慄が走った。
しかし多勢に無勢である。今度は五、六名が一斉に襲いかかった。この時、具教は奇怪な行動にでた。手にした脇差を、突如として天高く放り投げたのである。ほぼ同時に刀を抜き、神速で六名の者達をたちまち斬りすてた。彼等は恐らく、自らが死んだことに気付かなかっただろう。
あとは修羅地獄であった。臓器がむきだしになっている者、恐らくあばらが砕けているであろう者、辺りは異様な臭気につつまれた。
なにしろ、ようやく脇差が床に刺さる前に、六名もの者が命を落としたのである。いや、脇差は床に刺さったわけではなかった。呆然とこの光景を見守っていた、いま一人の武者の背に、一直線に、まるで生をえた獣のように襲いかかり、突き刺さったのである。
こうして、八名がたちまち息絶えた。恐れをなした残り二人のうち一人が、またしても逃走をはかった。
「愚か者め! 一度ならず二度までも敵に背を向けるか!」
即座に具教の家臣数名が眼前に立ちはだかり、その者を斬殺してしまった。こうして最後の一人になった。残りの一人は、見たところ十五、六ほどの年少者だった。
「最後に名を聞いておこうか」
具教が鮮血を浴びた刀を、新たな刀に取り替えた後いった。
「正衛門と申します」
「正衛門か、あらためて聞こう。何故敵を前にして逃げて戻った」
「到底、それがしの手に負える相手ではありませんでした。それがしは、まだ世に生を受けて以来、何事も為してはおりません。なんのために剣の腕を磨いてきたのか、なんのために学問に励んできたのか?」
正衛門は臆することなくはっきりといった。
「生きたいか?」
具教の問いに対し、正衛門はしばし沈黙した。
「ならばわしに勝たねばならぬ。こたびは逃げること許されぬぞ」
「覚悟しております」
正衛門が刀をかまえると、突如として具教は片膝を地についた。狂ったような叫び声とともに正衛門が向かってきた。具教は太刀の峯をあげ、柄が地面につくほどにし、正衛門のへその下を無二無三に突いた。たちまち正衛門は防戦一方となり、ついにはバランスを崩し転倒した。
「どうだ正衛門まだやるか? 潔く自害するなら介錯してやってもいいぞ」
「まだ、まだ」
髪を乱した正衛門は、今一度挑み、そして奇跡はおこった。具教の利き腕である右の手の甲から出血。その瞬間、見守っていた多くの人々から歓声があがった。
「うぬ、見事だ正衛門。こたびは許してつかわす。だが二度と敵を前にして逃げるなよ」
正衛門はその場に平伏して感謝の言葉を述べたが、見守る具教の家臣達の中には、察している者もいた。恐らく具教が年少者相手に、手を抜いたであろうことを……。
「鳥尾屋石見守はおるか」
「ここにおりまする」
多芸御所に戻った具教は、居並ぶ家臣達の中から、側近中の側近、鳥尾屋石見守満栄を呼んだ。 鳥尾屋石見守満栄は、年齢的には初老の域に達しており、髪も白いものが目立ちはじめる年齢だった。
「九鬼嘉隆と申す者ちと厄介じゃ。麻鳥に命じて、嘉隆はじめ九鬼一族の様子探らせろ。可能なら嘉隆やその一族の者の首、奪ってもよいと申し伝えよ」
具教は凛とした声でいった。
その頃、嘉隆はようやく傷が回復しだした滝川市郎兵衛、一人で百人以上の敵と戦い無事帰還した金剛九兵衛と主従の誓いを新たにしていた。
「我等三人、死してなお共にあろうぞ。いつの日か必ずや唐・天竺まで船で旅しようではないか」
若い嘉隆は意気盛んだった。むろんまだ恐ろしい災いが九鬼一族に迫っていることを、知らないでいる。
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