海将・九鬼嘉隆の戦略

谷鋭二

文字の大きさ
5 / 19

【志摩騒乱編】くノ一麻鳥の罠

しおりを挟む
 

 



(一)


   九鬼家の現当主であり、嘉隆の兄にあたる浄隆 の砦である田城砦は、現在の地名でいえば三重県鳥羽市岩倉町にあたる。国道百六十七号線沿いにある、九鬼岩倉神社周辺であったと伝えられる。天文年間(一五三二年から一五五五年)に、すでに世を去った九鬼泰隆によって築城されたようである。
 田城砦周辺は志摩の国中で、最良の穀倉地帯とでもいうべきであろう。嘉隆のいる波切からだと、北へざっと十里ほども離れている。祖父・泰隆の代に姦計の限りをつくして、他の地頭から奪い取った地といわれる。泰隆がすでに世を去り浄隆の代になったが、むろん油断はできなかった。この地を奪還せんと、周辺地頭達は虎視眈々と隙をうかがっていた。


 永禄三年(一五六〇)も秋がおとずれ、この年も稲穂がたわわに実り、風にゆれる季節がやってきた。一通り領内の視察を終えた九鬼浄隆は、一人の行き倒れの夫人を発見した。戦国のこの時代は、特に夫人にとり受難の時代だった。戦がおこり、負けた側の領内で夫人が強姦などの被害にあうことはよくあることだった。また人が人を売る人身売買なども、日常茶飯事的におこなわれていた。
「御館様、どうやらまだ息があるようですぞ、いかが致します。浄隆とその家臣数名は、この思わぬ遭遇に驚くと同時に、興味津々といった様子で夫人の顔をのぞきこんだ。
「中々の上玉ですな。年齢は二十そこそこといったところでしょうな。この衣装からしたら、恐らく遊女か何かでしょう。どこぞに売られていく最中に、嵐に遭遇したといったところでありましょうか?」
「うむ、とりあえず城に連れていって看病してやるがよいぞ」
 浄隆は意味ありげにいった。
 

 女は田城の砦に身柄を移された。二日目までは人事不肖の体で、うわ言以外に言葉を発しなかった。三日目なってようやく意識を取り戻し、四日目にはかろうじて食事もとれるようになった。
 浄隆は家臣に命じて、なにくれとなく女の面倒を見てやった。衣類の世話、食事の世話、そして日一日と回復に向かうのを見計らって、女にじかに素性をたずねてみた。
「まず聞こう。そなたはいずこから参った?」
「さ……堺」
 ひ弱な声で、かろうじて女は答えた。
「堺から来たと申すか? ならば名は」
「麻鳥……」
「うむ、麻鳥と申すか。見たところ遊女のようだが間違いないか? そなた父母はおらぬのか? いずこの生まれであるか」
 浄隆はたて続けに質問した。
「生まれは京、父母は戦乱で死んだ。私は今まで人から人へと売られた。今回も東国へ売られていく最中……」
 そこまでいうと、麻鳥は不意に涙ぐんだ。
「どうやら辛い生い立ちのようだな。身寄りがないと申すなら、しばらくはここでゆるりとしていくがよかろう」
 浄隆は、麻鳥を半ば心から哀れみながらいった。むろん罠であることなど、この時は知るよしもなかった。


(二)


「助けて! 誰か来て!」
 夜が来て麻鳥は突然騒ぎだした。なにか幻影でも見えるようで、恐怖に怯えた目をしている。
「一体どうしたというのだ麻鳥よ? こんな夜更けに亡霊でも見たというのか」
 ようやく姿を現した浄隆が疑念を抱く。すると赤い寝巻き姿の麻鳥は、ゆっくりと浄隆に身を寄せて、そのまま抱きつき震える声で、
「恐ろしい夢をみました。父母が目の前で殺される夢です。今まで幾度も見ず知らずの男に乱暴されました。世が恐ろしいのです」
 耳元でつぶやくように麻鳥はいった。寝巻きからのぞく太腿は赤く熟れていて、甘美な香りがする。か弱いが眼光だけは鋭く、なにやら強いものを感じさせる。

 
 数日して浄隆は麻鳥を抱いた。閨での麻鳥は華奢な体とはうらはらに、いったん強い刺激を感じると、まるで狂気のようによがり狂った。その有様は、まるで何かに憑かれているかのようである。しかも一晩中幾度でも求めてくるため、朝が来るころには、浄隆のほうがぐったりと床に伏していた。
 そんな幾日かが過ぎるうち、浄隆の身に異変がおこる。家臣達の前で突如意味不明の奇声を発したり、激情にかられやすくなり、ささいなことで近習の者を惨殺したりした。あれいは皆が寝静まる夜更けに突然起きだして、やはり奇声を発しながら馬で周辺を走り回ったりと、乱心としか思えない状況となった。
 またある夜、麻鳥を抱いて寝静まったかと思うと、突如剣を抜き暴れだす。家臣等が止めに入ろうとすると、その場にばったりと倒れ意識を失った。


「それほどひどいのか? 原因はなんだ? いかなる病じゃ」
「それが薬師も手をつくしましたが、原因がさっぱりで」
 兄の危急を聞き、ようやく嘉隆が見舞いに訪れた。浄隆は人事不肖の状態で、寝床に横になっていた。
「兄上しっかりしてくだされ。嘉隆が参りましたぞ」
 嘉隆が浄隆の耳元でささやいたが、浄隆は目を覚まさない。今一度嘉隆が名を呼ぶと、浄隆はようやく目を開いた。しかしすぐにまた元の状態に戻ってしまう。
「いかがいたしました。嘉隆様」
 かたわらの滝川市郎兵衛が、嘉隆の様子に疑念をていした。
「いやなんでもない。何やら今、見てはいけぬものを見てしまったような気がしたのだ。恐らく気のせいであろう」
 だが嘉隆は知らずにいた。この時嘉隆は浄隆の眼光の奥にある、別の世界の前に立ってしまったことを……。


(三)


  その頃、浄隆は悪夢の中をさまよっていた。全てが真っ暗で、朽ち果てた木々だけが生い茂る死の世界にいた。
「ここはどこじゃ? わしは今死せる世界におるのか?」
 浄隆が半ばいいようのない恐怖を感じた時、どこからともなく笑い声がした。
「案ずるなお前はまだ死んではいない。ここは死後の世界ではなく、おまえの夢の中だからな」
 背後を振り返ると、そこに麻鳥が立っていた。しかも全身黒一色の忍びの姿をしている。
「そなた忍びだったのか? わしとしたことがなんとした不覚」
 浄隆は思わず歯ぎしりした。
「ほほほ、いかにも私は甲賀のくノ一。そなたが私を抱いた時、私は全身に毒をぬっていた。少しでも吸い込むと、やがて精神が崩壊してしまう恐ろしい毒じゃ。真の世でのそなたはすでに虫の息、残り数日で命を失うことになる」
 そういって、麻鳥は浄隆を愚弄するかのようにカラカラと笑った。


 ちなみに滋賀県甲賀市で、二〇〇〇年に忍者の子孫宅から見つかった江戸時代の古文書『渡辺家文書』というものがある。そこには夜襲方法などを記した忍術書十七点とともに、毒薬の調合方法なども詳細に記されていた。 毒薬としてハンミョウやトカゲを丸焼きにして粉にし、井戸に入れるなどと書かれてある。またクソムシの抜け殻やタバコなどの粉を火であぶると、煙で敵は眠るなどとも記されていた。
 また戦国期の甲賀忍者の掟といってもいい『定同名中組掟条々』というものの中にも、毒飼の禁止を義務付けた一文がある。わざわざ規制しなければならぬほど、当時の甲賀の忍びの間では、毒の調合及び研究は頻繁におこなわれていたわけである。


「己許せん!」
 浄隆は抜刀して、麻鳥に切りかかろうとしたが、その時足元で異変がおこった。無数の蛇がとぐろを巻いており、足元に絡まったかと思うと、ものすごい勢いで浄隆を引きずり始めたのである。
 やがて浄隆は、蛇がまるで鎖のように全身にからまり、巨大な大木に縛られた状態になってしまう。さらに無数の蛇が浄隆の全身にまとわりつき、衣類がことごとくやぶけ、全身くまなく蛇に噛みつかれる。それは何故か痛みよりも、苦しみよりも、快楽を感じさせるものだった。浄隆はそのままぐったりとなった。
「気分はどうかな? やがてお前は魂までもが朽ちはててしまうのだ。だが助かる道が一つだけあるぞ」
 麻鳥は、底意地の悪い笑みを浮かべていった。


(四)


 その頃、嘉隆もまた悪夢にうなされていた。
「ここはどこだ? 何故私はここにいる?」
 嘉隆は辺りを見回したが、周囲には朽ち果てたような大木以外、猫の子一匹すらいない。やがて何者かがうめく声を耳にした。聞き覚えのある声だった。
「兄上」
 とっさに嘉隆は叫んだ。唸り声のする方角へ小走りにかけ、そこに木に縛りつけられた兄浄隆らしきものを発見した。いや半分腐りかけており浄隆であるのか否か、しかとしたことはわからない。全身に毒蛇が絡みつき、浄隆らしき人物は、薄ら笑いのようなものをうかべていた。
「兄上、なんという姿になられた」
しばし呆然としていた嘉隆は、不意に背後に恐ろしい殺気を感じた。突如剣が振りおろされた。嘉隆は紙一重のところでこれをかわす。敵は鎧の上に、九鬼家の紋である五七の桐の紋のはいった陣羽織を着用していた。
「兄上、そんな馬鹿な!」
 嘉隆は思わず背後を振り返った。そこに先程までの浄隆らしき生きる屍は、すでに存在しなかった。


「嘉隆よ、私の魂はじき朽ち果てるだろう。だが一つだけ生き残る方法がある。そなたに身代わりになってもらうことだ。そなたの命わしにくれ」
「兄上、本気でかようなことを申しているのですか?」
 嘉隆はしばし激しく動揺したが、浄隆が遠慮なく攻めかかってくるので嘉隆も刀を抜いた。しばし両者の間に沈黙があった。
「武家の世において、兄弟争うは決して珍しいことではない。かって頼朝公も弟判官義経を成敗し、足利尊氏公も弟君を自ら滅ぼした。わしが死ぬか、汝が死ぬか二つに一つ」
  

 ついに両者は刀を手に斬り合った。五十合ほど剣をまじえたが決着がつかない。浄隆は兜が飛び、曲げも乱れ総髪になった。嘉隆もまた全身に無数のかすり傷を負う。いつの間にか二人の周りは鬼火が無数に集まり、巨大な文字を幾つも作りだしていた。陣・戦・烈……。
 そして六十合討ちあったところで、両者の剣がほぼ同時に折れた。
「己!」
 浄隆はすぐに弓を手にし、矢を引きしぼった。嘉隆にはもはや身を守るすべはない。
「兄者、今生の別れにござります」
 嘉隆は覚悟し目を閉じた。だが浄隆は殺気を両の眼に浮かべながらも、しばし躊躇しついには、
「己! この浄隆血を分けた弟は討てぬ!」
 と絶叫し、矢を手にするとそのまま飲みこんでしまった。鮮血が勢いよく噴きだした。


(五)


「兄上、しっかりなさいませ! 兄上!」
 嘉隆はようやく悪夢から覚めた。同時に廊下を世話しなく歩く音がした。
「恐れながら、ご病状が……」
 と、滝川市郎兵衛が嘉隆に危急を告げた。
「兄上……」
 嘉隆が呼びかけると、浄隆は薄目を開いた。
「覚えておるが嘉隆……。幼い頃釣りにでかけ、船が流されて英虞湾の方画まで流された時のことを」
「もちろん忘れてはおりません。あの時は互いにつらい思いをいたしましたなあ」
 

 嘉隆が七つほどの時のことだった。浄隆と嘉隆を乗せた船が漂流し、近在の漁師に助けられた。その後、暖かい粥などが出されたが、九鬼の家の者だと名乗ると態度が豹変。罵声とともに追い出され、その後幼い兄弟は、野宿までしてようやく波切まで戻ることができた。
「あの夜は洞窟で寒い思いをいたしましたなあ……。兄上が、それがしが眠りにつくまで歌ってくれた子守唄、今でも覚えておりもうす」
 しばし嘉隆は目を閉じ沈黙した。


「兄者しっかりしてくだされ。兄者が世を去れば、もはやこの嘉隆、世に頼る者などござりませぬ」
 嘉隆は、浄隆の手を強く握りながらいった。
「嘉隆よ、そなたはわしより全てにおいて優れている。いつかそなたが申したとおり、決してこの志摩に生きようと思うな。海に生きよ。そして我が子澄隆のことしかと頼んだぞ……」
 浄隆には、七つになる嫡子澄隆がいた。その行末を案じつつ浄隆はついに逝った。時に永禄三年秋浄隆は二十五歳の若さだった。これにより九鬼家は幼い澄隆が事実上の主となり、これを嘉隆が補佐する時代へと移行するのだった。しかしその嘉隆も、まだ十八にすぎない。
 



  
 
 
 
 


 

 


 
 


 




しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

滝川家の人びと

卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。 生きるために走る者は、 傷を負いながらも、歩みを止めない。 戦国という時代の只中で、 彼らは何を失い、 走り続けたのか。 滝川一益と、その郎党。 これは、勝者の物語ではない。 生き延びた者たちの記録である。

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

対ソ戦、準備せよ!

湖灯
歴史・時代
1940年、遂に欧州で第二次世界大戦がはじまります。 前作『対米戦、準備せよ!』で、中国での戦いを避けることができ、米国とも良好な経済関係を築くことに成功した日本にもやがて暗い影が押し寄せてきます。 未来の日本から来たという柳生、結城の2人によって1944年のサイパン戦後から1934年の日本に戻った大本営の特例を受けた柏原少佐は再びこの日本の危機を回避させることができるのでしょうか!? 小説家になろうでは、前作『対米戦、準備せよ!』のタイトルのまま先行配信中です!

織田信長 -尾州払暁-

藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。 守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。 織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。 そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。 毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。 スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。 (2022.04.04) ※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。 ※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。

甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】  戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。  永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。  信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。  この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。 *ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する

克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。

処理中です...