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【伊勢湾制圧編】南伊勢の諸城
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(一)
信長は美濃を出立して、伊勢路を南下していた。古来よりこのルートは三度までも天下分け目の合戦が行われた、日本史の中でも最も重要なルートである。
一度目は天武元年(六七二)におこなわれた、古代史上最大の内乱といわれる壬申の乱である。この時、大海人皇子は吉野を脱出した後に鈴鹿山道を封鎖。伊勢神宮で戦勝を祈願した後、美濃へと攻めのぼり、見事に大友皇子の軍をやぶり即位して天武天皇となった。
二度目は延元三年(一三三八)、当時の後醍醐天皇方と足利一族が激突した、青野ヶ原の戦いである。
この戦いの天皇方の大将が、北畠氏始祖・北畠親房の嫡男の北畠顕家だった。はるか奥州より、鬼神のような速さで美濃に出現した親房は、青野ヶ原(現在の岐阜県大垣市)で足利軍を撃破。そのまま京に攻め上るのも夢ではなかったが、突如として伊勢路にルートを変更する。
結局、北畠顕家と天皇方の最大の支柱である新田義貞との連携はうまくゆかなかった。最後は足利方に大敗し、顕家は和泉国堺浦・石津にて、わずか二十年ほどの短い生涯を終えることとなる。 また新田義貞も、間もなく越前で討ち死にする。これにより、足利の天下はほぼ定まったといってよい。
そして三度目が、あの関ヶ原の合戦である。
さて織田勢の侵攻を前に、北畠氏が誇る難攻不落の要塞・大河内城を拠点とした北畠具教は、改めて将達を参集し最後の覚悟を語った。
「かって我が始祖・北畠親房様の時代以降、我が北畠一族は幾度も存亡の危機を乗り越えてきた。南朝方として足利幕府に対抗し、また足利義満公、義教公の時代にも幕府の大軍を一手に引き受け、及ばずといえど善戦した。なれど今回はおそらく、それ以上に厳しい戦いが予想されることであろう。織田勢七万の軍勢が、こちらに向かっておる」
さすがに居並ぶ諸将の間からどよめきがおこった。先ほどまで笑みをうかべていた将でさえ、一瞬にして深刻な表情をうかべた。
「最初にいっておく、こたびの戦、家名を存続させるための戦と思うな。親房様の以降延々と、この北畠の家は、国家の柱石たらんとして今日まで続いてきた。故にもし我等ここで滅んだとて、後の世に何を残せるか、それをまず皆に考えてほしい」
具教は改めて一座を見渡した。眼光が虚空を睨んでいるものもいれば、目をつむって何事かを思案している者もいる。あれいはうつむいて、興奮をおさえかねているのか、小刻みに震えている者もいる。それぞれが事の重大さを、強くかみしめている様子だった。
「かっての有力守護大名のほとんど多くは、今は衰退して久しい。その昔、六分の一殿といわれた山名氏も、今はその面影さえない。細川氏は三好、松永等に力奪われた。また大内氏も、重臣陶晴賢の反逆により命運尽きた。いやそればかりか、将軍家でさえ今やあの有様。我等ここで命脈つきるも、あれいは天命やもしれぬ」
具教は、やや声を震わせながら、はっきりと自らと北畠氏の滅亡を予言した。
「人の世は移ろいゆくものにして、盛者必滅は世のならい。なれど例え幾度世が移り変わろうとも、変わらぬものが一つだけある。それは天である。かの伊勢神宮の社の深くに端座される、天照大神様は、人の世が幾度移りかわろうと、決して変わることはない。
皆、とにかく今日は飲め。そして必ずや天に恥じぬ戦をしようではないか。あれいは百年先、千年先の世に、我等を貶める者が現れるやもしれぬ。我等を謗る者もいるやもしれぬ。なれど天は、天照大神様は見ておられる。汝等決して退くな、敵を恐れるな、そして死を恐れるな。生よりもはるか高みにある何かを目指し各々戦うがよかろう」
諸将に酒がふるまわれ、具教も久方ぶりに幸若を舞った。死を覚悟しての舞だった。
(二)
迫りくる織田勢の南伊勢での最初の攻略目標となったのは、一志郡阿坂(現在の三重県松阪市大阿坂町)の阿坂城だった。
阿坂城は応永年間(一三九四年から一四二八年)に北畠満雅によって築城された。標高三一二メートルの桝形山に城が築かれ、主郭部は山頂部にあり白米城と呼ばれている。山頂を円形に削平し切岸加工しており、北東側には浅い堀切ある。その尾根はそれほど削平されていないが、先端部分にも一条の堀切があった。
主郭から北西に二百メートル程離れた所にあるのが二郭で、椎の木城と呼ばれていた。二郭は切岸で高く削られた曲輪を南北二郭にし、周囲には低土塁が巡る。北西側にはやや大きな竪堀が一条あり、そこから北側にかけて土塁の付いた腰曲輪がある。北東尾根は堀切で遮断しているが、今は遊歩道があって食い違い虎口のようになっている。主郭へ向かう南尾根は二条の堀切が残る。
北畠方でこの城を任されたのは、齢すでに七十をこえながらも、家中随一の武勇の士と噂される大宮含忍齋と、その嫡子でやはり武勇に傑出した大宮大之丞だった。一方、織田方でこの城の攻略を任されたのは、かの悪名高い木下藤吉郎である。
木下藤吉郎にとり、この合戦はいかにして兵等の損耗をおさえて勝つか、思案はその一点にしぼられていた。一方の大宮大之丞は、寡兵で大軍を破るには、敵将木下藤吉郎の首を取るほか道なしと、密かに思いをめぐらせていた。
だが戦端は、両陣営の予想だにせぬ形でひらかれてしまった。夜陰に乗じ大物見にでた北畠勢の一隊が、織田方の夜襲部隊と不覚にも遭遇してしまったのである。
闇の中、火縄銃の発砲音が高く響きわたり、大宮含忍齋も配下の者達も、即座に夢の世界から現実にひき戻された。
北畠勢の物見部隊は、敵の数がはるかに勝ることを察し、即座に城にむかい撤退をはじめた。
「恐れながら、城壁の前で物見にでた部隊が助けもとめております。いかがいたしまするか!」
「ならぬ! 今もし城門を開けば味方のみならず、敵をも招きいれてしまうことになる。不憫なれど見殺しにするより他あるまい」
大宮大之丞は、厳しい表情でいった。
「待てい! ただちに城門を開くがよいぞ。城から討ってでる」
と反対意見をいったのは、寝巻き姿から鎧・甲冑に着替えたばかりの大宮含忍齋だった。
「殿も申したはずじゃ、こたびの戦は生きるための戦ではなく、いかに武名を後の世に伝えるかの戦であると。かような戦で味方を見殺しにしたなどと、敵からも、後の世に人間からも嘲りをうけたくはない。大之丞、もし及ばずともこたびは、一兵卒とともに死生を共にしようぞ」
「父上、承知致しました。ならばこの大宮大之丞も命すてまする!」
かすかに笑みをうかべ、大宮大之丞は父に同意した。
城門は開かれ、北畠勢は城から討ってでた。その先頭には大宮大之丞の姿があった。瞬時、織田勢はなにがおきたのかわからなかった。獰猛な虎のごとく大宮大之丞の部隊は、織田勢に襲いかかったのである。しばし織田方の『黄色地に永楽銭』の旗と、北畠氏の『割菱』の旗が、闇の中でもみ合うこととなった。 だが兵の練度では北畠勢は織田方をはるかに上回り、織田勢は少しずつ押されはじめる。特に大宮大之丞は、一人で二人、三人を相手に戦う奮闘ぶりで、織田勢を恐れさせた。
「なにをしておる! あれに見えるは敵将ぞ! 討ち取って手柄にせい」
織田方の木下隊の大将は、この時蜂須賀小六だった。小六は半ば声をうわずらせながら将兵に命令するも、大之丞が危うくなると、櫓の上から今度は大宮含忍齋が弓矢で助太刀した。その弓の腕は百発百中で、到底七十を越えた老人とは思えなかった。
結局一刻(二時間)にも満たない戦闘で、織田方の木下隊は予想外の損害をだして一時撤退した。
だが木下隊を悩ませたのは大宮含忍齋、大之丞父子の武勇だけではなかった。夜毎繰り返される夜襲が、兵士達の心身を著しく損耗させた。木下隊の側でも夜襲を警戒してはいるが、北畠勢は味方の損害をも度外視して、決死の奇襲をかけてきた。日によっては、夜襲部隊がほぼ全滅することもあった。しかし彼等は、やがて暁がおとずれる時、かすかに地平線の彼方に天照大神の影を見た。ほとんどの兵が、なんら悔いることなく、安らかな死をむかえたのであった。
「今日で一体何日目じゃ。敵はどうなっておるのじゃ? なぜ幾日も夜襲を繰り返すことができる。このままでは敵より先に我等のほうがまいってしまうぞ」
織田軍を率いる木下藤吉郎は、自軍の陣営を見回りながら、かたわらに控える軍師として名高い竹中半兵衛に語りかけた。
「恐らく敵はすでに合戦の勝敗や生死を度外視して、なにやら見えざる力に支えられて戦っているとしか思えませぬ」
と、半兵衛は地声が異常にでかかったといわれる主君とは対照的な、小さな声で語った。
どの陣営でも額や肩、あれいは太腿から、おびただしい出血をした兵士の姿が目についた。
余談だがこの時代、負傷した兵士は薬草を使って応急処置するのが普通だった。よく使われたのは『紫根草』という、植物の根を乾燥させて粉末にしたものである。この粉末を負傷した場所に塗ると、すぐに被膜ができ、止血効果があったようである。兵士達は紫根草の粉末を袋に入れて、戦場に持ち歩いたといわれる。
運悪く紫根草がなかった場合は、泥や灰を傷口に塗り、あれいは馬の小便を利用することさえあったといわれる。あまり衛生的とはいえないが、とりあえず止血効果は期待できたようである。
「なんじゃその見えざる力とは?」
まだ若く、そして徹底した打算家である木下藤吉郎には、その目に見えぬなにかがまったく把握できない。
「それがしにも理解しかねます。ただ確かにいえることは、敵は寡兵なるも屈服させるには、我等も相応の覚悟がいるということでござる」
「うむ、これ以上味方を多く死なせたくない。なにか策はないか?」
藤吉郎は手にした軍配で、首のあたりをガリガリ引っかきながらいった。
「なれば、阿坂城において例の大宮含忍齋・大之丞父子の仲は、決して一枚岩ではないとか」
「なんじゃと? そんな馬鹿な。この前の合戦では息子が戦う様を、父である含忍齋が櫓の上から援護したというではないか?」
「それが、あくまで最後の一兵まで戦うべしと声高にとなえる大宮含忍齋に対し、大宮大之丞の側は、これ以上の抗戦は無駄であるとして降伏を口にしたとのこと。怒った含忍齋と大之丞が、大勢の将兵の前で一触即発となり、中に止めに入る者がおらねば、互いに刀を抜いていたとのことでござる」
「信じられぬ。あの父子が仲互いとは……」
藤吉郎は驚きの色を浮かべた。何しろこの男は実父と早くに死別し、新たな父とのおりあいが悪く、寺に小姓に入らねばならなかったような男である。肉親の情ということになると、いまいち疎かった。
「まあいいだろう。間者を放ち大宮大之丞に内応を促してみるがよい。半兵衛ただちにとりかかれ」
三十二歳の木下藤吉郎は戦で垢だらけになった面相を、やはり泥にまみれた手でこすりながら命令した。
数日を待たずして効果はあった。城内の将兵の間にも、あくまで抗戦をとなえる大宮含忍齋に対する不満が高まっている様子だった。大宮大之丞が兵士とともに含忍齋の寝所に乱入し、その身柄を拘束し、同時に火縄銃の音を合図に城門を開くというのである。
八月五日未明、はたして合図の発砲音があった。同時に城壁に姿を現したのは大宮大之丞と、縄で身柄を拘束された大宮含忍齋だった。
「己! 放せ、放さぬか! この親不孝者めが」
含忍齋はしきりに何事かをわめいていたが、それが何をいっているかまでは、織田方の将兵には聞こえない。やがて城門が開いた。
「さあ入られるがよろしかろう」
藤吉郎は喜び、わずかな供を従えただけで、喜々として先頭で城門をくぐった。この男の若い頃からの癖で、度胸がありすぎるのか、時々警戒心が極めて薄くなる。
門をくぐるとそこは武者溜とよばれる、土でできた城塁に囲まれた長方形の空間になっており、その先に二の門があった。ところがである、二、三歩足を踏み入れた時、藤吉郎は明らかに強い殺気を感じた。
『かかったな藤吉郎! 我が北畠の武士に降伏を望む者など一人もおらぬ!』
上空から声がした。瞬時にして罠だと気付いた時にはもう遅かった。城塁の上から弓矢が凄まじい勢いで放たれた。そのうち一本が見事藤吉郎の右太腿に命中した。だが悪運だけは異常に強いこの男は、意識が朦朧とした状態ながらも、味方の兵士が盾となり犠牲となり、かろうじてこの虎口だけは脱出する。
大宮大之丞・含忍齋父子の仲違いは、敵将を誘い出すだめの芝居だったのである。しかし後今一歩のところで、敵将木下藤吉郎を逃がしてしまった。一生の不覚といわざるをえない。
木下藤吉郎、今さらいうまでもなく後の太閤豊臣秀吉である。勇気・知力・胆力全てにおいて常人より傑出しているはずのこの男であったが、北畠武士の精強さに苦しめられ、ついには欺かれ、重傷を負い、数日床に伏すこととなってしまった。この時から藤吉郎に率いられた織田勢は、力攻めをあきらめ、兵糧攻めにきりかえるのであった。
(三)
さて一方、織田勢の本隊は、やはり伊勢・北畠攻略のための難関の一つに遭遇していた。船江城である。
船江城は、現在の三重県松阪市にかすかに遺構をとどめている。伊勢自動車道松阪ICを降りて、そのまま県道五十九号を東へ松阪市民文化会館南を左折し、川井町四を左折、約六百メートルで船江町信号を左折すると浄泉寺に到着する。その浄泉寺こそが、かって織田勢を苦しめた船江城跡地である。平山城であったようだ。
この城の主は本田美作守といい、まだ若い。この男は今、織田勢に対して尋常一様ならざる憎悪をいだいていた。というのも、この合戦に先立ち、寝返り者の木造一族の人質阿美の首をはねたのは、この本田美作守その人だからである。
これには説明がいる。かって北畠具教が人質の阿美を側室にするといいだした際、家臣の多くはこれに反対した。特に猛然と反対したのが、この本田美作守だった。
「恐れながら、国の主たる者が人質の娘を側室にするなど、聞いたことがありませぬ。木造の者達も、殿を卑しき者と思うは必定」
あまりに強硬な反対意見に、具教はついに疑念を抱いた。
「美作守よ、汝は阿美に恋心でも抱いておるのか? そなたと阿美は幼馴染、兄弟同然に育った仲、故にかように反対するのであろう」
具教の眼光が鋭く美作守をいすくめた。
その夜、具教に多芸館に呼び出された美作守は、剣の練習相手を命じられ、散々に打ちのめされた。美作守も武勇において傑出した者であるが、さすがに剣の腕では具教に及ぶべくもない。顔が腫れ上がるほど打たれたが、幾度打たれても立ち上がり、具教をも動揺せしめた。
その美作守に、具教はあえて阿美の首をはねる役を与えた。せめてもの慈悲であるとして……。具教にとっても断腸の決断だった。美作守の怒りと憎悪は、寝返りをうった木造具政よりも、織田信長とその配下の諸将にむけられた。幾度、夢で信長の首をはねたことか……。まさしく美作守は復讐の鬼に変じようとしていた。
織田信長はこの戦を楽観視していた。最初、圧倒的な数を頼みとし、数日を待たずして船江城は落ちるものと思っていた。しかし城方は美作守を中心に、心を一つにして頑強に抵抗し、織田方を寄せつけない。さらに阿坂城同様、城方の夜襲にあい、失う必要のない兵士を失うこととなった。
信長は実に頭の切りかえの早い男である。船江城は置き捨てにして、堀坂山という険しい山道を通り、目指す敵の本拠大河内城へと到達するという計画をねった。とにかく北畠具教の首をはねることが、この戦の最終目標である。そのために船江城ごときは、置き捨てにしてよい城と、信長は考えた。
「恐れながら、それでは我等の背後を船江城の連中に襲われ、危ういのではござりませぬか?」
軍議の席上、当然のように疑念を抱いたのは柴田勝家だった。
「なに案ずるに及ばぬ。もしかようなことがあっても、別働隊が船江城に殺到し、これを奪う算段になっておる。我等との間で腹背に敵をうけ破滅するは、連中のほうだ」
信長は自信ありげにいう。しかし勝家には、その別働隊なるものがいずこに存在するのか、主君の胸中がこの時は読めないでいた。
八月二十三日の日付が変わろうとする頃のことである。織田勢は夜陰に乗じ、堀坂山といわれる険しい山道を通り、一路、大河内城を目指した。
同じ頃、本田美作守は深い眠りの中にあった。奇妙な夢を見た。海上におびただしい船団がうかんでいる。突如として天空に巨大な両の腕が出現し弓を放った。同時に海は激しく荒れ、船団がばらばらになっていく。
夢から覚めた本田美作守の両手には、いつの間にか伊勢神宮の風神のお守りが握られていた。
この合戦に先立ち、美作守は阿美とともに雲津川の堤へと赴いた。むろんあまり人気のないこの場所で、彼女の首をはねるためである。
「思いだしますなあ。兄上とともに初めて伊勢神宮に詣でた日のことを」
阿美はあいかわらず微笑みをうかべいった。
美作守もまた、まだ幼かった頃、初めて阿美と一緒に伊勢神宮に詣で、風宮の前で手を合わせた日のことを思いうかべていた。
伊勢神宮の風宮・風日祈宮の祭神は、イザナギとイザナミの間に生まれた級長津彦命(しなつひこのみこと)と級長戸辺命(しなとべのみこと)であるといわれる。
阿美は、年上の美作守をいつも兄とよんでいた。
「遠い昔、蒙古とかいう異国が、この国に攻めてきたことがあったんだ。その時にこの社に祭られている神が風をおこし、敵を撃退したらしい」
美作守は、簡単に祈りをすませた後、阿美の方を向いていった。
「その蒙古にせめられていたら、この国はどうなっていたの」
まだ幼かった阿美は、不思議な顔をしてたずねた。
「どうなったも、こうなったも、恐らくこの国に住む人間の多くは、敵国の人間に殺され、あれいは力でいいなりにされる。ここから遠く九州という場所で、多くの兵士が自らを犠牲にしながら敵と戦った。だから今、俺たちもこうして出会い、ともに神仏に祈りを捧げることもできるんだ。男は誰しも、大切な者のために戦わなければならないんだ」
まだ幼かった美作守は、真顔でそんなことをいってみた。
「じゃあ兄さんは、私を守るために戦ってくれる?」
美作守の表情がかすかに曇った。この頃になってようやく、この阿美という少女のおかれている状況が、薄々わかりはじめていたからである。しかしそのつぶらな表情を目のあたりにして、美作守はいいきった。
「必ず約束する。どんなことがあってもお前を守る」
……だが今その阿美の首を、自らの手ではねようとしている。
「どうかこれをお受けとりくだされ。例えいかなる大敵があらわれようと、神仏の加護がありまするよう」
阿美がこの時、美作守にたくしたものこそ、まさしく伊勢神宮の風神の御守だった。その時、美作守は思わず亜美の細い体を強く抱いた。
「許せよ! どうか許せよ!」
ほどなく阿美は冷たい屍となったが、その時美作守胸中に、沸々と煮えたぎる強い思いがあった。
「申し上げます。敵方に動きあり。堀坂山を越え、真っ直ぐに大河内城へ向かう様子」
物見の報告がもたらされるや否や。城中の主だった者達が、即座に鎧姿に着替えて軍議が開かれた。
「恐れながら、我等まだ十分に余力を残しておりまする。ここは一つ追撃するも手かと存ずるがいかに」
小原冷泉という将が真っ先に意見し、大勢がこれに同意した。しかし美作守は目をつぶり沈黙しままである。やがて一言、
「敵は堀坂山の織田勢に非ず」
と短くいった。
「ならば敵はいずこにありと?」
当然、将達は疑念をていした。
「申し上げます。敵の船らしい謎の船団が黒部の沖に出現したとの知らせ、近在の漁師より入りもうした。いかがいたしまするか」
新たなる物見に知らせに、軍議の席は騒然となった。
「恐らく敵の船団とみて間違いないだろう。生憎今日は風雨が強い。この分だと波もさぞ荒れておることだろう。皆出陣じゃ! 上陸地点で待ち伏せ、敵をねじ伏せてくれようぞ!」
かくして船江城の城兵達は城からうって出た。まさしくこの時、九鬼嘉隆が育てあげた織田水軍が、黒部の沖めがけて殺到しようとしていたのである。しかしこの部隊を率いるのは、九鬼嘉隆自身ではなく金剛九兵衛だった。そして不幸にして嵐に遭遇し、船団はバラバラになってしまった。
かろうじて滝川市郎兵衛に率いられたわずかな部隊だけが、黒部の沖に無事上陸した。しかし沖合いで本田美作守を将とする船江城の城兵達は、迎撃体制をしっかりと整えて待ち構えていた。
轟音とともに火縄銃が一斉に火を噴く。九鬼水軍の将兵達は、たちまちのうちに海へとおいやられ、重い鎧のため溺死者が続出した。さらに通常より巨大な馬にまたがった本田美作守が、鬼の形相で敵を斬りまくった。
ところがここに戦況を一変させる事態が勃発した。嵐で離散した金剛九兵衛率いる本隊が、ついに到着したのだった。
九兵衛は、海岸にうち捨てられた主なき馬を拾うと、そのまま敵兵の群がる中へ単騎で突撃。真っ黒な鎧の敵兵の海の中をかきわけ、やがて槍の穂先に生首をぶら下げた本田美作守と遭遇した。
「我こそは九鬼嘉隆の配下金剛九兵衛なり、そこに見えるは敵将と見た。尋常に勝負せよ」
「金剛九兵衛だと? 一人で百人の敵を倒した豪傑とは汝か? 面白いぜひ手合わせしたいものだ」
しばし両者は槍を手にしたまま間合いをはかった。両軍の兵士達は、しばし己の戦を忘れて固唾を飲んだ。それほど両者の間から漂う殺気は尋常一様ではなかった。
やがて一陣の砂塵が吹き荒れ、見る者の視界を阻んだ。その刹那、いかようにして間合いをつめたのか両者は馬で肉薄。壮絶な槍の叩き合いがはじまった。十合、二十合、三十合、そして両者の槍が同時に折れる。九兵衛はその巨体で美作守に組みつき、そのまま共に落馬する。しばし砂浜でもみあい、さらに海中でもみあい、いずれも立ち上がった。そして今度は互いに剣をぬく。その有様はさながら龍と虎、阿修羅と帝釈天の戦いであった。そしてついに金剛九兵衛の刀が先に折れた。
「その首もらった!」
さしもの九兵衛も覚悟を決めた時、突然鈍い音ともに美作守は地に伏した。鮮血が勢いよく噴きだした。九兵衛を救ったのは、市郎兵衛の火縄銃だった。
意識が朦朧とする中で、美作守は生暖かい風を感じた。何故か懐かしさを感じさせる風だった。そこに猫を抱いた何者かが立っていた。一寸の曇りもない澄んだ瞳で、阿美がじっと見つめていた。
「すまぬ、わしはお前を守ることができなかった……。そして己でなに一つ守りぬくことできなんだ。許せよ、許せよ」
しかしまるで影であるかのように、阿美は言葉を発することはなかった。
美作守は享年二十二であったと伝えられる。
「何故! 何故、銃を撃った!」
戦いが終わった後、金剛九兵衛は滝川市郎兵衛の胸倉をつかんでつめよった。
「馬鹿な! 発砲せねばお主は死んでいた。当然であろう」
九兵衛はなおも怒りを抑えかねていたが、今はもう戦闘は再開されている。これ以上味方を責めている余裕はなかった。
結局、主を失った船江城はその日のうちに陥落し、ここに織田方は戦略的に極めて重要な拠点を確保したのであった。
(四)
同じ頃、阿坂城もまた、長期の兵糧攻めの末、今度こそまことの降伏開城の時をむかえていた。
阿坂城の城門は再び開き、大宮含忍齋・大之丞の父子が、まず木下藤吉郎の前に出頭した。
『図が高い!』
『図が高いぞ! 敗軍の将ならその場に土下座せよ』
馬上から両者の様子を見下ろす木下藤吉郎の背後から、両者に屈従を強いる声が飛んだ。
両者はしばしその場に突っ立ったままだったが、やがて意を決したように含忍齋が土下座し、次いで大之丞もまた土下座した。
「待てい、待たぬか!」
木下藤吉郎は馬をおりると、まだ痛む足をひきずりながらも、
「待たれよ、貴殿等はまことによう戦った。なにも土下座までする必要はない。立たれよ、さあ立たれよ」
と勝者の度量を見せた。しかし含忍齋はこれを拒否した。
「わしが、頭下げるは貴殿に対してではない。わしはこの城の者達、今まで慈しんできた領民達、そして我が主に、例え死してもこの城を守ると固く誓った。なれど非力ゆえ、わしは今日こうして降伏・開城するはめとなってしまった。わしは土下座せねばならぬ。多くの部下に、領民に、そして我が主にだ」
そういうと含忍齋は慟哭し、つられて大之丞もまた地に伏して嗚咽した。藤吉郎をもってしてもこの事態ばかりは、どうすることもできなかった。
彼等は後に『天下人に一矢報いた男』として、歴史に名を残すことになる。むろん両者とも、やがておとずれる秀吉の天下など、知ることもなく世に別れを告げるのではあるが。
こうして、北畠氏の南伊勢における防衛ラインのほとんどは、織田方によりやぶられた。織田信長の本隊は、八月二十八日には北畠にとり最後の砦である大河内城に到達するのである。織田勢と北畠方の最後の戦いは刻一刻と近づいていた。
信長は美濃を出立して、伊勢路を南下していた。古来よりこのルートは三度までも天下分け目の合戦が行われた、日本史の中でも最も重要なルートである。
一度目は天武元年(六七二)におこなわれた、古代史上最大の内乱といわれる壬申の乱である。この時、大海人皇子は吉野を脱出した後に鈴鹿山道を封鎖。伊勢神宮で戦勝を祈願した後、美濃へと攻めのぼり、見事に大友皇子の軍をやぶり即位して天武天皇となった。
二度目は延元三年(一三三八)、当時の後醍醐天皇方と足利一族が激突した、青野ヶ原の戦いである。
この戦いの天皇方の大将が、北畠氏始祖・北畠親房の嫡男の北畠顕家だった。はるか奥州より、鬼神のような速さで美濃に出現した親房は、青野ヶ原(現在の岐阜県大垣市)で足利軍を撃破。そのまま京に攻め上るのも夢ではなかったが、突如として伊勢路にルートを変更する。
結局、北畠顕家と天皇方の最大の支柱である新田義貞との連携はうまくゆかなかった。最後は足利方に大敗し、顕家は和泉国堺浦・石津にて、わずか二十年ほどの短い生涯を終えることとなる。 また新田義貞も、間もなく越前で討ち死にする。これにより、足利の天下はほぼ定まったといってよい。
そして三度目が、あの関ヶ原の合戦である。
さて織田勢の侵攻を前に、北畠氏が誇る難攻不落の要塞・大河内城を拠点とした北畠具教は、改めて将達を参集し最後の覚悟を語った。
「かって我が始祖・北畠親房様の時代以降、我が北畠一族は幾度も存亡の危機を乗り越えてきた。南朝方として足利幕府に対抗し、また足利義満公、義教公の時代にも幕府の大軍を一手に引き受け、及ばずといえど善戦した。なれど今回はおそらく、それ以上に厳しい戦いが予想されることであろう。織田勢七万の軍勢が、こちらに向かっておる」
さすがに居並ぶ諸将の間からどよめきがおこった。先ほどまで笑みをうかべていた将でさえ、一瞬にして深刻な表情をうかべた。
「最初にいっておく、こたびの戦、家名を存続させるための戦と思うな。親房様の以降延々と、この北畠の家は、国家の柱石たらんとして今日まで続いてきた。故にもし我等ここで滅んだとて、後の世に何を残せるか、それをまず皆に考えてほしい」
具教は改めて一座を見渡した。眼光が虚空を睨んでいるものもいれば、目をつむって何事かを思案している者もいる。あれいはうつむいて、興奮をおさえかねているのか、小刻みに震えている者もいる。それぞれが事の重大さを、強くかみしめている様子だった。
「かっての有力守護大名のほとんど多くは、今は衰退して久しい。その昔、六分の一殿といわれた山名氏も、今はその面影さえない。細川氏は三好、松永等に力奪われた。また大内氏も、重臣陶晴賢の反逆により命運尽きた。いやそればかりか、将軍家でさえ今やあの有様。我等ここで命脈つきるも、あれいは天命やもしれぬ」
具教は、やや声を震わせながら、はっきりと自らと北畠氏の滅亡を予言した。
「人の世は移ろいゆくものにして、盛者必滅は世のならい。なれど例え幾度世が移り変わろうとも、変わらぬものが一つだけある。それは天である。かの伊勢神宮の社の深くに端座される、天照大神様は、人の世が幾度移りかわろうと、決して変わることはない。
皆、とにかく今日は飲め。そして必ずや天に恥じぬ戦をしようではないか。あれいは百年先、千年先の世に、我等を貶める者が現れるやもしれぬ。我等を謗る者もいるやもしれぬ。なれど天は、天照大神様は見ておられる。汝等決して退くな、敵を恐れるな、そして死を恐れるな。生よりもはるか高みにある何かを目指し各々戦うがよかろう」
諸将に酒がふるまわれ、具教も久方ぶりに幸若を舞った。死を覚悟しての舞だった。
(二)
迫りくる織田勢の南伊勢での最初の攻略目標となったのは、一志郡阿坂(現在の三重県松阪市大阿坂町)の阿坂城だった。
阿坂城は応永年間(一三九四年から一四二八年)に北畠満雅によって築城された。標高三一二メートルの桝形山に城が築かれ、主郭部は山頂部にあり白米城と呼ばれている。山頂を円形に削平し切岸加工しており、北東側には浅い堀切ある。その尾根はそれほど削平されていないが、先端部分にも一条の堀切があった。
主郭から北西に二百メートル程離れた所にあるのが二郭で、椎の木城と呼ばれていた。二郭は切岸で高く削られた曲輪を南北二郭にし、周囲には低土塁が巡る。北西側にはやや大きな竪堀が一条あり、そこから北側にかけて土塁の付いた腰曲輪がある。北東尾根は堀切で遮断しているが、今は遊歩道があって食い違い虎口のようになっている。主郭へ向かう南尾根は二条の堀切が残る。
北畠方でこの城を任されたのは、齢すでに七十をこえながらも、家中随一の武勇の士と噂される大宮含忍齋と、その嫡子でやはり武勇に傑出した大宮大之丞だった。一方、織田方でこの城の攻略を任されたのは、かの悪名高い木下藤吉郎である。
木下藤吉郎にとり、この合戦はいかにして兵等の損耗をおさえて勝つか、思案はその一点にしぼられていた。一方の大宮大之丞は、寡兵で大軍を破るには、敵将木下藤吉郎の首を取るほか道なしと、密かに思いをめぐらせていた。
だが戦端は、両陣営の予想だにせぬ形でひらかれてしまった。夜陰に乗じ大物見にでた北畠勢の一隊が、織田方の夜襲部隊と不覚にも遭遇してしまったのである。
闇の中、火縄銃の発砲音が高く響きわたり、大宮含忍齋も配下の者達も、即座に夢の世界から現実にひき戻された。
北畠勢の物見部隊は、敵の数がはるかに勝ることを察し、即座に城にむかい撤退をはじめた。
「恐れながら、城壁の前で物見にでた部隊が助けもとめております。いかがいたしまするか!」
「ならぬ! 今もし城門を開けば味方のみならず、敵をも招きいれてしまうことになる。不憫なれど見殺しにするより他あるまい」
大宮大之丞は、厳しい表情でいった。
「待てい! ただちに城門を開くがよいぞ。城から討ってでる」
と反対意見をいったのは、寝巻き姿から鎧・甲冑に着替えたばかりの大宮含忍齋だった。
「殿も申したはずじゃ、こたびの戦は生きるための戦ではなく、いかに武名を後の世に伝えるかの戦であると。かような戦で味方を見殺しにしたなどと、敵からも、後の世に人間からも嘲りをうけたくはない。大之丞、もし及ばずともこたびは、一兵卒とともに死生を共にしようぞ」
「父上、承知致しました。ならばこの大宮大之丞も命すてまする!」
かすかに笑みをうかべ、大宮大之丞は父に同意した。
城門は開かれ、北畠勢は城から討ってでた。その先頭には大宮大之丞の姿があった。瞬時、織田勢はなにがおきたのかわからなかった。獰猛な虎のごとく大宮大之丞の部隊は、織田勢に襲いかかったのである。しばし織田方の『黄色地に永楽銭』の旗と、北畠氏の『割菱』の旗が、闇の中でもみ合うこととなった。 だが兵の練度では北畠勢は織田方をはるかに上回り、織田勢は少しずつ押されはじめる。特に大宮大之丞は、一人で二人、三人を相手に戦う奮闘ぶりで、織田勢を恐れさせた。
「なにをしておる! あれに見えるは敵将ぞ! 討ち取って手柄にせい」
織田方の木下隊の大将は、この時蜂須賀小六だった。小六は半ば声をうわずらせながら将兵に命令するも、大之丞が危うくなると、櫓の上から今度は大宮含忍齋が弓矢で助太刀した。その弓の腕は百発百中で、到底七十を越えた老人とは思えなかった。
結局一刻(二時間)にも満たない戦闘で、織田方の木下隊は予想外の損害をだして一時撤退した。
だが木下隊を悩ませたのは大宮含忍齋、大之丞父子の武勇だけではなかった。夜毎繰り返される夜襲が、兵士達の心身を著しく損耗させた。木下隊の側でも夜襲を警戒してはいるが、北畠勢は味方の損害をも度外視して、決死の奇襲をかけてきた。日によっては、夜襲部隊がほぼ全滅することもあった。しかし彼等は、やがて暁がおとずれる時、かすかに地平線の彼方に天照大神の影を見た。ほとんどの兵が、なんら悔いることなく、安らかな死をむかえたのであった。
「今日で一体何日目じゃ。敵はどうなっておるのじゃ? なぜ幾日も夜襲を繰り返すことができる。このままでは敵より先に我等のほうがまいってしまうぞ」
織田軍を率いる木下藤吉郎は、自軍の陣営を見回りながら、かたわらに控える軍師として名高い竹中半兵衛に語りかけた。
「恐らく敵はすでに合戦の勝敗や生死を度外視して、なにやら見えざる力に支えられて戦っているとしか思えませぬ」
と、半兵衛は地声が異常にでかかったといわれる主君とは対照的な、小さな声で語った。
どの陣営でも額や肩、あれいは太腿から、おびただしい出血をした兵士の姿が目についた。
余談だがこの時代、負傷した兵士は薬草を使って応急処置するのが普通だった。よく使われたのは『紫根草』という、植物の根を乾燥させて粉末にしたものである。この粉末を負傷した場所に塗ると、すぐに被膜ができ、止血効果があったようである。兵士達は紫根草の粉末を袋に入れて、戦場に持ち歩いたといわれる。
運悪く紫根草がなかった場合は、泥や灰を傷口に塗り、あれいは馬の小便を利用することさえあったといわれる。あまり衛生的とはいえないが、とりあえず止血効果は期待できたようである。
「なんじゃその見えざる力とは?」
まだ若く、そして徹底した打算家である木下藤吉郎には、その目に見えぬなにかがまったく把握できない。
「それがしにも理解しかねます。ただ確かにいえることは、敵は寡兵なるも屈服させるには、我等も相応の覚悟がいるということでござる」
「うむ、これ以上味方を多く死なせたくない。なにか策はないか?」
藤吉郎は手にした軍配で、首のあたりをガリガリ引っかきながらいった。
「なれば、阿坂城において例の大宮含忍齋・大之丞父子の仲は、決して一枚岩ではないとか」
「なんじゃと? そんな馬鹿な。この前の合戦では息子が戦う様を、父である含忍齋が櫓の上から援護したというではないか?」
「それが、あくまで最後の一兵まで戦うべしと声高にとなえる大宮含忍齋に対し、大宮大之丞の側は、これ以上の抗戦は無駄であるとして降伏を口にしたとのこと。怒った含忍齋と大之丞が、大勢の将兵の前で一触即発となり、中に止めに入る者がおらねば、互いに刀を抜いていたとのことでござる」
「信じられぬ。あの父子が仲互いとは……」
藤吉郎は驚きの色を浮かべた。何しろこの男は実父と早くに死別し、新たな父とのおりあいが悪く、寺に小姓に入らねばならなかったような男である。肉親の情ということになると、いまいち疎かった。
「まあいいだろう。間者を放ち大宮大之丞に内応を促してみるがよい。半兵衛ただちにとりかかれ」
三十二歳の木下藤吉郎は戦で垢だらけになった面相を、やはり泥にまみれた手でこすりながら命令した。
数日を待たずして効果はあった。城内の将兵の間にも、あくまで抗戦をとなえる大宮含忍齋に対する不満が高まっている様子だった。大宮大之丞が兵士とともに含忍齋の寝所に乱入し、その身柄を拘束し、同時に火縄銃の音を合図に城門を開くというのである。
八月五日未明、はたして合図の発砲音があった。同時に城壁に姿を現したのは大宮大之丞と、縄で身柄を拘束された大宮含忍齋だった。
「己! 放せ、放さぬか! この親不孝者めが」
含忍齋はしきりに何事かをわめいていたが、それが何をいっているかまでは、織田方の将兵には聞こえない。やがて城門が開いた。
「さあ入られるがよろしかろう」
藤吉郎は喜び、わずかな供を従えただけで、喜々として先頭で城門をくぐった。この男の若い頃からの癖で、度胸がありすぎるのか、時々警戒心が極めて薄くなる。
門をくぐるとそこは武者溜とよばれる、土でできた城塁に囲まれた長方形の空間になっており、その先に二の門があった。ところがである、二、三歩足を踏み入れた時、藤吉郎は明らかに強い殺気を感じた。
『かかったな藤吉郎! 我が北畠の武士に降伏を望む者など一人もおらぬ!』
上空から声がした。瞬時にして罠だと気付いた時にはもう遅かった。城塁の上から弓矢が凄まじい勢いで放たれた。そのうち一本が見事藤吉郎の右太腿に命中した。だが悪運だけは異常に強いこの男は、意識が朦朧とした状態ながらも、味方の兵士が盾となり犠牲となり、かろうじてこの虎口だけは脱出する。
大宮大之丞・含忍齋父子の仲違いは、敵将を誘い出すだめの芝居だったのである。しかし後今一歩のところで、敵将木下藤吉郎を逃がしてしまった。一生の不覚といわざるをえない。
木下藤吉郎、今さらいうまでもなく後の太閤豊臣秀吉である。勇気・知力・胆力全てにおいて常人より傑出しているはずのこの男であったが、北畠武士の精強さに苦しめられ、ついには欺かれ、重傷を負い、数日床に伏すこととなってしまった。この時から藤吉郎に率いられた織田勢は、力攻めをあきらめ、兵糧攻めにきりかえるのであった。
(三)
さて一方、織田勢の本隊は、やはり伊勢・北畠攻略のための難関の一つに遭遇していた。船江城である。
船江城は、現在の三重県松阪市にかすかに遺構をとどめている。伊勢自動車道松阪ICを降りて、そのまま県道五十九号を東へ松阪市民文化会館南を左折し、川井町四を左折、約六百メートルで船江町信号を左折すると浄泉寺に到着する。その浄泉寺こそが、かって織田勢を苦しめた船江城跡地である。平山城であったようだ。
この城の主は本田美作守といい、まだ若い。この男は今、織田勢に対して尋常一様ならざる憎悪をいだいていた。というのも、この合戦に先立ち、寝返り者の木造一族の人質阿美の首をはねたのは、この本田美作守その人だからである。
これには説明がいる。かって北畠具教が人質の阿美を側室にするといいだした際、家臣の多くはこれに反対した。特に猛然と反対したのが、この本田美作守だった。
「恐れながら、国の主たる者が人質の娘を側室にするなど、聞いたことがありませぬ。木造の者達も、殿を卑しき者と思うは必定」
あまりに強硬な反対意見に、具教はついに疑念を抱いた。
「美作守よ、汝は阿美に恋心でも抱いておるのか? そなたと阿美は幼馴染、兄弟同然に育った仲、故にかように反対するのであろう」
具教の眼光が鋭く美作守をいすくめた。
その夜、具教に多芸館に呼び出された美作守は、剣の練習相手を命じられ、散々に打ちのめされた。美作守も武勇において傑出した者であるが、さすがに剣の腕では具教に及ぶべくもない。顔が腫れ上がるほど打たれたが、幾度打たれても立ち上がり、具教をも動揺せしめた。
その美作守に、具教はあえて阿美の首をはねる役を与えた。せめてもの慈悲であるとして……。具教にとっても断腸の決断だった。美作守の怒りと憎悪は、寝返りをうった木造具政よりも、織田信長とその配下の諸将にむけられた。幾度、夢で信長の首をはねたことか……。まさしく美作守は復讐の鬼に変じようとしていた。
織田信長はこの戦を楽観視していた。最初、圧倒的な数を頼みとし、数日を待たずして船江城は落ちるものと思っていた。しかし城方は美作守を中心に、心を一つにして頑強に抵抗し、織田方を寄せつけない。さらに阿坂城同様、城方の夜襲にあい、失う必要のない兵士を失うこととなった。
信長は実に頭の切りかえの早い男である。船江城は置き捨てにして、堀坂山という険しい山道を通り、目指す敵の本拠大河内城へと到達するという計画をねった。とにかく北畠具教の首をはねることが、この戦の最終目標である。そのために船江城ごときは、置き捨てにしてよい城と、信長は考えた。
「恐れながら、それでは我等の背後を船江城の連中に襲われ、危ういのではござりませぬか?」
軍議の席上、当然のように疑念を抱いたのは柴田勝家だった。
「なに案ずるに及ばぬ。もしかようなことがあっても、別働隊が船江城に殺到し、これを奪う算段になっておる。我等との間で腹背に敵をうけ破滅するは、連中のほうだ」
信長は自信ありげにいう。しかし勝家には、その別働隊なるものがいずこに存在するのか、主君の胸中がこの時は読めないでいた。
八月二十三日の日付が変わろうとする頃のことである。織田勢は夜陰に乗じ、堀坂山といわれる険しい山道を通り、一路、大河内城を目指した。
同じ頃、本田美作守は深い眠りの中にあった。奇妙な夢を見た。海上におびただしい船団がうかんでいる。突如として天空に巨大な両の腕が出現し弓を放った。同時に海は激しく荒れ、船団がばらばらになっていく。
夢から覚めた本田美作守の両手には、いつの間にか伊勢神宮の風神のお守りが握られていた。
この合戦に先立ち、美作守は阿美とともに雲津川の堤へと赴いた。むろんあまり人気のないこの場所で、彼女の首をはねるためである。
「思いだしますなあ。兄上とともに初めて伊勢神宮に詣でた日のことを」
阿美はあいかわらず微笑みをうかべいった。
美作守もまた、まだ幼かった頃、初めて阿美と一緒に伊勢神宮に詣で、風宮の前で手を合わせた日のことを思いうかべていた。
伊勢神宮の風宮・風日祈宮の祭神は、イザナギとイザナミの間に生まれた級長津彦命(しなつひこのみこと)と級長戸辺命(しなとべのみこと)であるといわれる。
阿美は、年上の美作守をいつも兄とよんでいた。
「遠い昔、蒙古とかいう異国が、この国に攻めてきたことがあったんだ。その時にこの社に祭られている神が風をおこし、敵を撃退したらしい」
美作守は、簡単に祈りをすませた後、阿美の方を向いていった。
「その蒙古にせめられていたら、この国はどうなっていたの」
まだ幼かった阿美は、不思議な顔をしてたずねた。
「どうなったも、こうなったも、恐らくこの国に住む人間の多くは、敵国の人間に殺され、あれいは力でいいなりにされる。ここから遠く九州という場所で、多くの兵士が自らを犠牲にしながら敵と戦った。だから今、俺たちもこうして出会い、ともに神仏に祈りを捧げることもできるんだ。男は誰しも、大切な者のために戦わなければならないんだ」
まだ幼かった美作守は、真顔でそんなことをいってみた。
「じゃあ兄さんは、私を守るために戦ってくれる?」
美作守の表情がかすかに曇った。この頃になってようやく、この阿美という少女のおかれている状況が、薄々わかりはじめていたからである。しかしそのつぶらな表情を目のあたりにして、美作守はいいきった。
「必ず約束する。どんなことがあってもお前を守る」
……だが今その阿美の首を、自らの手ではねようとしている。
「どうかこれをお受けとりくだされ。例えいかなる大敵があらわれようと、神仏の加護がありまするよう」
阿美がこの時、美作守にたくしたものこそ、まさしく伊勢神宮の風神の御守だった。その時、美作守は思わず亜美の細い体を強く抱いた。
「許せよ! どうか許せよ!」
ほどなく阿美は冷たい屍となったが、その時美作守胸中に、沸々と煮えたぎる強い思いがあった。
「申し上げます。敵方に動きあり。堀坂山を越え、真っ直ぐに大河内城へ向かう様子」
物見の報告がもたらされるや否や。城中の主だった者達が、即座に鎧姿に着替えて軍議が開かれた。
「恐れながら、我等まだ十分に余力を残しておりまする。ここは一つ追撃するも手かと存ずるがいかに」
小原冷泉という将が真っ先に意見し、大勢がこれに同意した。しかし美作守は目をつぶり沈黙しままである。やがて一言、
「敵は堀坂山の織田勢に非ず」
と短くいった。
「ならば敵はいずこにありと?」
当然、将達は疑念をていした。
「申し上げます。敵の船らしい謎の船団が黒部の沖に出現したとの知らせ、近在の漁師より入りもうした。いかがいたしまするか」
新たなる物見に知らせに、軍議の席は騒然となった。
「恐らく敵の船団とみて間違いないだろう。生憎今日は風雨が強い。この分だと波もさぞ荒れておることだろう。皆出陣じゃ! 上陸地点で待ち伏せ、敵をねじ伏せてくれようぞ!」
かくして船江城の城兵達は城からうって出た。まさしくこの時、九鬼嘉隆が育てあげた織田水軍が、黒部の沖めがけて殺到しようとしていたのである。しかしこの部隊を率いるのは、九鬼嘉隆自身ではなく金剛九兵衛だった。そして不幸にして嵐に遭遇し、船団はバラバラになってしまった。
かろうじて滝川市郎兵衛に率いられたわずかな部隊だけが、黒部の沖に無事上陸した。しかし沖合いで本田美作守を将とする船江城の城兵達は、迎撃体制をしっかりと整えて待ち構えていた。
轟音とともに火縄銃が一斉に火を噴く。九鬼水軍の将兵達は、たちまちのうちに海へとおいやられ、重い鎧のため溺死者が続出した。さらに通常より巨大な馬にまたがった本田美作守が、鬼の形相で敵を斬りまくった。
ところがここに戦況を一変させる事態が勃発した。嵐で離散した金剛九兵衛率いる本隊が、ついに到着したのだった。
九兵衛は、海岸にうち捨てられた主なき馬を拾うと、そのまま敵兵の群がる中へ単騎で突撃。真っ黒な鎧の敵兵の海の中をかきわけ、やがて槍の穂先に生首をぶら下げた本田美作守と遭遇した。
「我こそは九鬼嘉隆の配下金剛九兵衛なり、そこに見えるは敵将と見た。尋常に勝負せよ」
「金剛九兵衛だと? 一人で百人の敵を倒した豪傑とは汝か? 面白いぜひ手合わせしたいものだ」
しばし両者は槍を手にしたまま間合いをはかった。両軍の兵士達は、しばし己の戦を忘れて固唾を飲んだ。それほど両者の間から漂う殺気は尋常一様ではなかった。
やがて一陣の砂塵が吹き荒れ、見る者の視界を阻んだ。その刹那、いかようにして間合いをつめたのか両者は馬で肉薄。壮絶な槍の叩き合いがはじまった。十合、二十合、三十合、そして両者の槍が同時に折れる。九兵衛はその巨体で美作守に組みつき、そのまま共に落馬する。しばし砂浜でもみあい、さらに海中でもみあい、いずれも立ち上がった。そして今度は互いに剣をぬく。その有様はさながら龍と虎、阿修羅と帝釈天の戦いであった。そしてついに金剛九兵衛の刀が先に折れた。
「その首もらった!」
さしもの九兵衛も覚悟を決めた時、突然鈍い音ともに美作守は地に伏した。鮮血が勢いよく噴きだした。九兵衛を救ったのは、市郎兵衛の火縄銃だった。
意識が朦朧とする中で、美作守は生暖かい風を感じた。何故か懐かしさを感じさせる風だった。そこに猫を抱いた何者かが立っていた。一寸の曇りもない澄んだ瞳で、阿美がじっと見つめていた。
「すまぬ、わしはお前を守ることができなかった……。そして己でなに一つ守りぬくことできなんだ。許せよ、許せよ」
しかしまるで影であるかのように、阿美は言葉を発することはなかった。
美作守は享年二十二であったと伝えられる。
「何故! 何故、銃を撃った!」
戦いが終わった後、金剛九兵衛は滝川市郎兵衛の胸倉をつかんでつめよった。
「馬鹿な! 発砲せねばお主は死んでいた。当然であろう」
九兵衛はなおも怒りを抑えかねていたが、今はもう戦闘は再開されている。これ以上味方を責めている余裕はなかった。
結局、主を失った船江城はその日のうちに陥落し、ここに織田方は戦略的に極めて重要な拠点を確保したのであった。
(四)
同じ頃、阿坂城もまた、長期の兵糧攻めの末、今度こそまことの降伏開城の時をむかえていた。
阿坂城の城門は再び開き、大宮含忍齋・大之丞の父子が、まず木下藤吉郎の前に出頭した。
『図が高い!』
『図が高いぞ! 敗軍の将ならその場に土下座せよ』
馬上から両者の様子を見下ろす木下藤吉郎の背後から、両者に屈従を強いる声が飛んだ。
両者はしばしその場に突っ立ったままだったが、やがて意を決したように含忍齋が土下座し、次いで大之丞もまた土下座した。
「待てい、待たぬか!」
木下藤吉郎は馬をおりると、まだ痛む足をひきずりながらも、
「待たれよ、貴殿等はまことによう戦った。なにも土下座までする必要はない。立たれよ、さあ立たれよ」
と勝者の度量を見せた。しかし含忍齋はこれを拒否した。
「わしが、頭下げるは貴殿に対してではない。わしはこの城の者達、今まで慈しんできた領民達、そして我が主に、例え死してもこの城を守ると固く誓った。なれど非力ゆえ、わしは今日こうして降伏・開城するはめとなってしまった。わしは土下座せねばならぬ。多くの部下に、領民に、そして我が主にだ」
そういうと含忍齋は慟哭し、つられて大之丞もまた地に伏して嗚咽した。藤吉郎をもってしてもこの事態ばかりは、どうすることもできなかった。
彼等は後に『天下人に一矢報いた男』として、歴史に名を残すことになる。むろん両者とも、やがておとずれる秀吉の天下など、知ることもなく世に別れを告げるのではあるが。
こうして、北畠氏の南伊勢における防衛ラインのほとんどは、織田方によりやぶられた。織田信長の本隊は、八月二十八日には北畠にとり最後の砦である大河内城に到達するのである。織田勢と北畠方の最後の戦いは刻一刻と近づいていた。
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織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
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