8 / 9
トラブル
しおりを挟む
森の中は静かだった。
身をかがめたまま、俺はゆっくりエモノに接近していく。位置はエモノの風下。エモノの雄鹿は草を食んでいる。耳はぐるぐると動いていて、警戒しているが、こちらにはまだ気づいちゃいない。
茂みにひそみながら、俺はそっと弩を構えた。
そのとき遠くで、ギャッと怪鳥が鳴いた。
鹿は気を取られて首を上げる。一瞬の隙。今だ。
茂みの中から矢を発射する。矢は喉元に命中し、雄鹿はその場で打ち倒れた。
近寄って見てみると、それは見事な体躯の雄鹿だった。血が流れているので数キロ圏内の肉食の魔物たちがすぐに寄って来るだろう。その前に目当ての香嚢を腹部から切り取っていく。
この香嚢からは、麝香が作れる。
都市にいくつ香水店があるのか知らないが、もしかしたらミカエルのところに届くのかもしれない。
「クロエ。今日この後空いてるか?」
清算を済ませがてら、カウンターのクロエに訊くと、クロエは「そっちから誘うなんて珍しいわね」と微笑んで答えた。
俺の陰茎は復活した…………と信じたい。
それに今日は月曜日で、次の日曜日には間があいている。あの調香師の鼻をごまかすなら月曜以外にない。
そしてクロエの家に行き、手作りのシチューを食べて、タオルをまいて浴室から出たときだ。
クロエが微笑んだまま言った。
「ねえチェスター。聞きたいことがあるんだけど」
俺の気合いは充分だ。
「なに?」
「貴族の社交サロンに通ってたわよね?」
「ああ。最近は行ってねえけど」
「そこでツバメをしてる…………とかそういう噂を聞いたんだけどね。本当?」
その瞬間、体が凍った。
クロエは不自然なほど平静な声で「そう」と述べた。俺は焦った。
「最近は行ってねえから」
「ツバメをしてたのは本当なんだ」
「…………止めたから。もう行く予定もねえから」
「ねえチェスター、気付いてないの? その鎖骨のとこ」
「は?」
見下ろせば、鎖骨まわりの皮膚が虫刺されのように赤くなっている。なんだこれは。
「キスマークじゃないの?」
視界が暗くなった。ミカエルだ。遊び半分で付けたに違いない。
「…………訓練場でこすったんだろ」
汗をかきながら言うと、クロエは悲しさのこもった目を向けてくる。
「なんで嘘つくの?」
修羅場だった。
「社交サロンでつけた訳でもないなら、どこで付けたの?」
俺は口を薄く開いたまま固まっていた。
「私ね、浮気されてても、いつか止めるって思ってたんだよね。でも最近、私のこと全然見てないし。隠し事がどんどん増えてるっていうか」
「…………そんなことは」
「私に反応しなくなったけど、考えてみたら、その前から無理してる感じだったし」
今オメガ性なんだと秘密を告白すれば、この状況をどうにかできるのか。いや無理だ。もっとひどくなる。俺は無理していたのか?
ただ「ごめん」と口にしていた。
クロエとの将来を考えたら、オメガだと隠したまま、付き合いつづけることはできなかった。前々から分かっていた。
「ううん。付き合ったときも私から一方的だったし。迷惑だったでしょ」
迷惑じゃなかった。それまで転々としていた俺がこの都市に居つくくらいには、クロエの存在は大きかった。
「…………悪かった」
俺はまた謝っていた。
クロエは目を伏せる。
「訓練場の仕事は、できたら続けてね。サムさんが、まるでアルファみたいだって褒めてたから」
俺はうなずいた。呆気なかった。
身をかがめたまま、俺はゆっくりエモノに接近していく。位置はエモノの風下。エモノの雄鹿は草を食んでいる。耳はぐるぐると動いていて、警戒しているが、こちらにはまだ気づいちゃいない。
茂みにひそみながら、俺はそっと弩を構えた。
そのとき遠くで、ギャッと怪鳥が鳴いた。
鹿は気を取られて首を上げる。一瞬の隙。今だ。
茂みの中から矢を発射する。矢は喉元に命中し、雄鹿はその場で打ち倒れた。
近寄って見てみると、それは見事な体躯の雄鹿だった。血が流れているので数キロ圏内の肉食の魔物たちがすぐに寄って来るだろう。その前に目当ての香嚢を腹部から切り取っていく。
この香嚢からは、麝香が作れる。
都市にいくつ香水店があるのか知らないが、もしかしたらミカエルのところに届くのかもしれない。
「クロエ。今日この後空いてるか?」
清算を済ませがてら、カウンターのクロエに訊くと、クロエは「そっちから誘うなんて珍しいわね」と微笑んで答えた。
俺の陰茎は復活した…………と信じたい。
それに今日は月曜日で、次の日曜日には間があいている。あの調香師の鼻をごまかすなら月曜以外にない。
そしてクロエの家に行き、手作りのシチューを食べて、タオルをまいて浴室から出たときだ。
クロエが微笑んだまま言った。
「ねえチェスター。聞きたいことがあるんだけど」
俺の気合いは充分だ。
「なに?」
「貴族の社交サロンに通ってたわよね?」
「ああ。最近は行ってねえけど」
「そこでツバメをしてる…………とかそういう噂を聞いたんだけどね。本当?」
その瞬間、体が凍った。
クロエは不自然なほど平静な声で「そう」と述べた。俺は焦った。
「最近は行ってねえから」
「ツバメをしてたのは本当なんだ」
「…………止めたから。もう行く予定もねえから」
「ねえチェスター、気付いてないの? その鎖骨のとこ」
「は?」
見下ろせば、鎖骨まわりの皮膚が虫刺されのように赤くなっている。なんだこれは。
「キスマークじゃないの?」
視界が暗くなった。ミカエルだ。遊び半分で付けたに違いない。
「…………訓練場でこすったんだろ」
汗をかきながら言うと、クロエは悲しさのこもった目を向けてくる。
「なんで嘘つくの?」
修羅場だった。
「社交サロンでつけた訳でもないなら、どこで付けたの?」
俺は口を薄く開いたまま固まっていた。
「私ね、浮気されてても、いつか止めるって思ってたんだよね。でも最近、私のこと全然見てないし。隠し事がどんどん増えてるっていうか」
「…………そんなことは」
「私に反応しなくなったけど、考えてみたら、その前から無理してる感じだったし」
今オメガ性なんだと秘密を告白すれば、この状況をどうにかできるのか。いや無理だ。もっとひどくなる。俺は無理していたのか?
ただ「ごめん」と口にしていた。
クロエとの将来を考えたら、オメガだと隠したまま、付き合いつづけることはできなかった。前々から分かっていた。
「ううん。付き合ったときも私から一方的だったし。迷惑だったでしょ」
迷惑じゃなかった。それまで転々としていた俺がこの都市に居つくくらいには、クロエの存在は大きかった。
「…………悪かった」
俺はまた謝っていた。
クロエは目を伏せる。
「訓練場の仕事は、できたら続けてね。サムさんが、まるでアルファみたいだって褒めてたから」
俺はうなずいた。呆気なかった。
20
あなたにおすすめの小説
ヤンキーΩに愛の巣を用意した結果
SF
BL
アルファの高校生・雪政にはかわいいかわいい幼馴染がいる。オメガにして学校一のヤンキー・春太郎だ。雪政は猛アタックするもそっけなく対応される。
そこで雪政がひらめいたのは
「めちゃくちゃ居心地のいい巣を作れば俺のとこに居てくれるんじゃない?!」
アルファである雪政が巣作りの為に奮闘するが果たして……⁈
ちゃらんぽらん風紀委員長アルファ×パワー系ヤンキーオメガのハッピーなラブコメ!
※猫宮乾様主催 ●●バースアンソロジー寄稿作品です。
番を拒み続けるΩと、執着を隠しきれないαが同じ学園で再会したら逃げ場がなくなった話 ――優等生αの過保護な束縛は恋か支配か
雪兎
BL
第二性が存在する世界。
Ωであることを隠し、平穏な学園生活を送ろうと決めていた転校生・湊。
しかし入学初日、彼の前に現れたのは――
幼い頃に「番になろう」と言ってきた幼馴染のα・蓮だった。
成績優秀、容姿端麗、生徒から絶大な信頼を集める完璧なα。
だが湊だけが知っている。
彼が異常なほど執着深いことを。
「大丈夫、全部管理してあげる」
「君が困らないようにしてるだけだよ」
座席、時間割、交友関係、体調管理。
いつの間にか整えられていく環境。
逃げ場のない距離。
番を拒みたいΩと、手放す気のないα。
これは保護か、それとも束縛か。
閉じた学園の中で、二人の関係は静かに歪み始める――。
幼馴染みのハイスペックαから離れようとしたら、Ωに転化するほどの愛を示されたβの話。
叶崎みお
BL
平凡なβに生まれた千秋には、顔も頭も運動神経もいいハイスペックなαの幼馴染みがいる。
幼馴染みというだけでその隣にいるのがいたたまれなくなり、距離をとろうとするのだが、完璧なαとして周りから期待を集める幼馴染みαは「失敗できないから練習に付き合って」と千秋を頼ってきた。
大事な幼馴染みの願いならと了承すれば、「まずキスの練習がしたい」と言い出して──。
幼馴染みαの執着により、βから転化し後天性Ωになる話です。両片想いのハピエンです。
他サイト様にも投稿しております。
世界一大好きな番との幸せな日常(と思っているのは)
かんだ
BL
現代物、オメガバース。とある理由から専業主夫だったΩだけど、いつまでも番のαに頼り切りはダメだと働くことを決めたが……。
ド腹黒い攻めαと何も知らず幸せな檻の中にいるΩの話。
冤罪で堕とされた最強騎士、狂信的な男たちに包囲される
マンスーン
BL
王国最強の聖騎士団長から一転、冤罪で生存率0%の懲罰部隊へと叩き落とされたレオン。
泥にまみれてもなお気高く、圧倒的な強さを振るう彼に、狂った執着を抱く男たちが集結する。
孕めないオメガでもいいですか?
月夜野レオン
BL
病院で子供を孕めない体といきなり診断された俺は、どうして良いのか判らず大好きな幼馴染の前から消える選択をした。不完全なオメガはお前に相応しくないから……
オメガバース作品です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる