Meltnear

黒谷

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3/サカさま

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 それは病のようで、知らぬ間に入り込んでいる羽虫のようで、またそれは気ままで静かな木の葉のようだった。
 ぼくは――ついていくだけで、精一杯。
「――大丈夫か」
「はい」
 それでも時々、リュガはぼくを振り返る。
 心配そうにみつめて、けれどもうすでに無表情なその顔で、ぼくをみつめる。
 だからぼくは頷いて、それでまた、前を向く。
 この繰り返しだ。
 救出場所が一体どこなのか、きいていたって、それがどこを指すのかわからないぼくにとっては、先の見えない道としかいいようがない。
 けれど、リュガの方は違う。
 的確に人気のない通路を選択。
 的確にぼくとリュガが通り抜けられるダクトのような隙間を縫うように通っていく。
 迷路のようだけれど――決して迷わない。
 ぼくがいなかったら、きっと。
 もっとはやいんだろうと、思う。
 でも、これでもぼくは早いほうだ。
 人間の中での、話だけれど。
 例えばぼくが力を自重する前、小学一年生の時に走った女子五十メートル走では、校内記録など裕に抜いてしまって、ついでに日本記録もすらっと抜いた。
 その記録――わずか三秒。
 いち、に、さん。
それだけでぼくの身体は五十メートル進んでいたのである。
 まあ、その後、自重するようになってからは力を抜いていたので記録を塗り替えてしまうこともなかったが――。
 今になって思う。
 塗り替えてしまわなくて、よかった。
 ぼくなんかが塗り替えてしまっていたら――きっと、人類はどうやったって、そこにたどり着けなくなってしまう。
「――と、考えているうちに、アッサリつくもんですねえ」
「……おう」
 まあ人類はたどり着けなくとも、悪魔ならば可能といったところで、結論。
 ぼくとリュガは、一際大きな『蔵』の入り口、つまり土門の前で立ち尽くしていた。
 ひとたび入り、もし誰かに閉められようものならもう二度と出てこられないような、そんな場所である。
 触れると、ひんやり冷たい。
「……準備はいいか、ニア」
「はい」
 リュガがその扉に手をかけて――、力をかける。
 すでに火は回り始めていて、背後を振り返ると、奥の方はオレンジ色に染まっている。
 戸惑っている暇なんか、ありはしないのだ。
 ぎぎ、ぎぎぎ。
 時間をかけて、徐々に扉が開く。
 隙間からみえる蔵の中は、真っ暗だった。
 明りも何もない。
 ぼくはわずかにうろたえる。
 暗闇は嫌いだ。何もない。何も見えない。それは独りと同じで、かつ、自身すらも『ない』のと一緒である。
「いくぞ」
 すでにぼくらが通れるだけのじゅうぶんな隙間が出来たので、リュガはそこを通り抜けた。
 するりと、すべりこむように。
 ひっそりと――暗闇に溶け込んでいく。
 だからぼくも同じくして、するりと隙間から入り込んだ。暗闇を怖がりながら、それに同化する。
 ――しかし困った。
 リュガが見えない。
「……あう、あのー……」
 出来る限り小さな声で、ぼくは呟く。
 どうせ身体能力が高まるのなら、夜目も利く身体であれば一番よかったのにと重いながら、冷たい壁を伝って、とりあえず進んでいく。
「リュ、リュガ……どこですかあ……」
 不安から、場所確認。
 気配というものもイマイチわからないので、こればっかりは仕方がない。
 うん、今度城に帰ったら、誰かに教えて貰うとしよう。
 しかし――おかしい。
 返答が、ない……?
「――やあ、どうも。こんにちはお嬢さん」
「――!」
 敵、と思うよりも早く、ぼくが反応するよりも早く、鋭い痛みが右肩に走った。
「う、がああ」
 とっさに右肩を押さえて、わけもわからず距離を取る。
 暗闇の中、全くわからない。何がどうなっているのかも、ぼくは今、どういった怪我の具合なのかも、相手の姿も、武器すらも。
 だけど声に聞き覚えがある、そうだ、この声は――。
「……東魔神、バティンですね」
「ふふふ、ご名答」
 妙に愛嬌のある声で返答して、バティン(だと思われる)は続ける。
「いやあ、びっくりしました。ええ。びっくりしすぎて驚天動地もいいところですよ。まさか本当に『逃がさない』とは」
「……ぼくは有言実行派なんですよ」
「それは、素晴らしいことですね♪」
 会話をしながら――ぼくは、考える。
 右肩がずきりずきりと痛む。
 生涯で初めて、剣で斬られたのだから当然なのだろうけど――素直に痛い。
 それにしても、一体――リュガは、どこにいるのだろう。声がしないということは先にいってしまっているとか、すでにどこかから脱出してしまっているとか、そういうことなのだろうか。
 それとも――。
 どこかで、出方をうかがって――

「ああ、お連れの方をお探しですか? ご心配には及びませんよ。こちらにいますから」

 瞬間、明りが灯った。
 蔵の中がまばゆい光で満たされる。
 ぼくは必死に目を細めて、光の刺激に耐えながら、前を睨み付けて――気づいた。
「……リュガっ!」
 ぼくの探しているものが、二つ。
 ぼくと対峙する悪魔の背後に、あった。
 倒れたまま動かない、小さなオオカミに寄り添うように――リュガが、同じく、倒れている。
 同じく――動かない。
 心臓が凍り付く。
「呼んでも無駄ですよ。聞こえませんし」
「……!」
 それはどういう意味だと問いたかったけれど、ぼくは口をつぐんだ。
 きくのが―――怖い。
 バティンはそんなぼくを知り尽くしたような、バカにしたような声音で、ふざけた仮面をつけて、笑う。
「しかしですねえ? 帝王家ならこういう『茶番』も理解できるんですけれど――南魔神と悪魔見習い、ということは得意な事例ですよねえ。前代未聞ですよ、まったく」
「……どういう意味ですか」
「遠回しに、お馬鹿さんではないかと申しているんです♪」
 どくん、と、ぼくの心臓が一際大きく脈を打った。
「アナタは知らないかもですけどね?」
 バティンは続ける。
「僕ら、東魔神は『魔神』という位こそ他と変わりませんが――その実、全員がエリートなんですよ。つまり、誰一人として南のお馬鹿さんたちと同じ、という方がいないのです」
「………」
「アナタは僕に対して散々褒め言葉を吐き捨てましたが、それでわかるでしょう? 本当の『悪魔』というのは、こういうものなんですよ」
 どくん。どくん。
 心臓が大きく跳ねる。
 まるで恋をした時のように、跳ね回る。
 そして内部が熱を帯びれば帯びるほど――ぼくだけは、ぼく自身はひんやり冷めていく。
 それは、絶望や――失望に似ている。
 落胆、といった方がいいかもしれない。
 どくん。どくん。どくん。
 血が、血管が、血流が――うずく。
「まあ、アナタにはわからないかもしれないですね。そういった意味でもアナタはまだ人間ですよ。悪魔じゃあない。だから悪いことはいいません、早いところ、お帰りになられた方が――」
「――うふ」
 耐えきれなくなって、ぼくは、笑った。
「うふ、ふふふ、うふうふふふ、うふふふふふふふ」
 壊れたように、笑う。 
 肩を、傷口を押さえていた手を離す。
 手は真っ赤だった。
 ぼくの『うずき』の原因が、べっとりとついている。
「案外、たいしたことないんですね――悪魔って」
 自分でもびっくりするくらい、冷たい声で、ぼくは言う。
 バティンの笑みは、もう、そこにない。
「ぼくの、過大評価だったみたい」
 よくみれば、ぼくの血はぼくの足元で血だまりを作っていて、しかもそれは致死量に値するような量だったのだけれど――今は、そんなことが気にならない。
 そんなことすら、気にならない。
 気になるのは――この、かゆくてもどかしい、『うずき』だけだ。
「うふふ――ほら。ぼくって、神話や聖書なんかはとっても疎い方なんですけど」
 だから、しゃがんで、血に触れる。
 触れた指先から――血はサラサラと砂に変わっていった。続けて床も、無抵抗に変わっていく。
「でも、ぼくにとっては、昔から『ヒーロー』だったんですよ。悪魔って」
 ある程度の範囲を砂にしたところで、ぼくは手を離した。次に、少し進んで、近くにあった箱を砂へと変えていく。
「だって万能なカミサマに――刃向かったんでしょう? それって、とっても勇気のいることじゃないですか」
「………」
 バティンは、そんなぼくを黙って見つめている。
「悪魔は有能であっても万能じゃない――。そんなコたちが結束して一つに向かっていくって――感動的で、刺激的で、ぼくはずいぶん泣いたものです」
「泣いた。それは……どうして?」
 ただ機械的な問答のようにそんなことを、バティンは呟いた。
「彼らを一方的に悪く描き続ける人間たちがいたんです。ぼくの感想をぐっしゃぐしゃにして、握りつぶして、それは『間違っている』だなんて偉そうに――まさしくカミサマみたいに、反対して、批判して、叩き潰す、人間たちが」
 遠き日の感情がわき上がってきて――ぼくの中心はさらにおかしさを躍進させる。
 ぼくは思わず、心臓を押さえた。
 いまにも飛び出ていきそうなほど――躍動している。
 いまにも走り出していきそうなほど――加速している。
「うふふ、ぼくもリュガと同じですよ。つまるところ人間がだいっきらい。一緒にいたくもない、あんな低能」
 つい口調が荒くなる。
 乱暴になる。
 ――だけれど、止められない。
 どくん。どくん。どくん。どくん。
「人間でいることも嫌になるくらい――人間が嫌い。でもあんたらも嫌いです。えらぶってて、カミサマみたい」
「――!」
 バティンの表情が、崩れた。
 愛想笑いから――完璧で完全な無表情。
 みただけでわかる。――怒ってる。
 でもぼくは止まらない。
 止められない。

「だから、素直に言います。死んでください」

 これが、合図だった。
 刹那ぼくは動く。
 武器らしい武器は持っていないので、砂を竜にして再びバティンへ差し向ける。
「――」
 バティンは無言でぼくを見つめて、動かなかった。
 竜が目前に迫って――仕方なくと言ったふうに、いや、ぼくに見せつけるように――竜を、剣の一振りでかき消してみせる。
 うーん、あれを消せるのか。もっと強固に作らなきゃダメなのかも。
「こうして対峙してみると――やっぱり、わかるもんですね。いろいろと」
「……?」
「例えば――アナタが、その皮の中身が――、『人間』じゃないこととか」
 刹那――バティンは、ぼくの目の前にいた。
「っ、う」
 避ける前に、剣が線を引く。
 考える暇もありはしない。
「正真正銘、生まれたての悪魔ということとか」
 再び剣が一線する。
「僕らと君らとの――圧倒的な『固体値』の差とかさ」
 三回目で、ぼくの身体は大きくはじけ飛んだ。
 飛んで――土壁に激突して、めり込んで、わかる。
 ああ、殴られたんだ。
 あの剣の――柄の部分で。
 そしてゆっくりと、落下。
 全身を強打する直前に、床を砂に変えて衝撃を吸収させても――痛い。
 これが――悪魔。
 なんて――有能。
「どうせまだ生きてるんでしょう? 悪魔見習いさん」
 カツカツと、歩く音がする。
 意識はもうろうとして、視界が定まらない。
 頭を打ったようだ。ついでに脇腹と、左脚に激痛。
「人間だったら生きてないんですけどね――うん。これは実に化け物じみてます。怖い怖い」
「う、うが、う」
「あはは、獣みたい」
 がつんと、大きくぼくの頭を蹴り飛ばす。
 一瞬大きく視界がはじけ飛んで――記憶がフラッシュバック。
 目の前のバティンが――お父さんと重なった。
 どくん。――どっくん。
 視界が揺れるほど――大きく、鼓動。
「そもそも僕はね、見習いさん。知り合いの天才科学者に、ここに入った『侵入者』が意識不明の重体になるように、防犯設備をしいてもらったんですよ?」
 はあ、とため息をつく音。
 視界にはもうバティンがいない。
 いるのは――お父さん。
 ぼくを探しに来なかった、お父さん。
「なのにあの紅いコにかかって、君にはきかないなんて。人間でも悪魔でも関係なく効くはずなのに――一体どういうことなんだと思う?」
 そういえばよく、お父さんもぼくに自分の苦労話をしたと記憶している。ぼくのせいで大変だった話を、それはもう毎晩のように。
 だからもう、余計なことをするなと。
 お父さんはそう言いたかったんだろう。
 でもその時のぼくには、そうは聞こえなかった。
 そう聞こえていた方が――まだよかった。
 どっくんどっくんと、鼓動が大きくなって、思わずぼくは吐血をした。
 人生で初めての吐血だ。
 鉄臭くて――血生臭くて――痛くて――きもちいい。
「だから、悪いけれど、不穏分子は排除させてもらう。君みたいな存在にウヨウヨされたら、すっごく困る。魔界に秩序がまたなくなってしまうので――」
「――……あは」
「――ん? 今、笑った?」
 すっかり敬語ではなくなったバティンなんて、ぼくには全く気にならなかった。
 だから、きっと、バティンを笑ったんじゃない。
 ぼくは――ぼくは。
 力ない、ぼくを。
 大嫌いなお父さんを前にしても、何一つできやしない、変わらない非力なぼくを――嗤ったんだ。

「あはは。あはははは。あはははははははははははッ!」

 人生で初めて、大声を出した。
 人前で、こんなに下品に嗤ったのは初めてだった。
 ギロリ。
 目前の人物を、睨む。
 人物は表情を変えない。
 ただ、そうあるようにぼくをみている。

「バッカみたい! バカだ! 大馬鹿だ! お前は悪魔というよりは――ただの臆病者! でもって、甘ちゃんとしか言いようがないほど――甘い!」

 黒く、視界が歪んでいく。
 身体の感覚はない。
 ただ、身体が。
 心が。
 黒く――蝕まれていく。

「お前――?」
 お父さんが首を傾げる。
 いや、こいつはお父さんだったか? お母さんだったか? それとも嫌いな担任の先生――いやいや、あ、わかった。ガキ代将の真木くんだ!

「何でぼくにとどめを刺さない? おしゃべり好き? それともタダのバカ? あはは、うふふ、滑稽で嗤いが止まらない!」

 目前の人物は、すでにカタチがない。
 黒で塗りつぶされてしまって、ぼくにはわからない。
 けれどもう、どうだっていい。
 だってぼくは、こんなに楽しいだよ?
 味わったことがないくらい――ハイな気分。
 あー、やっべ。癖になりそう、とか。
 思っちゃう。

「まあいいや――。うん。いいやいいや」

 そういえばぼくって、こんなに低い声だったっけ?
 真っ黒な羽根とか生えてたかしら。
 いやいやそのまえに、この尻尾って、ないでしょう。
 ていうか、こんなしゃべり方だったっけ。

「どーでもいい。お前のことなんか、どーっでもいいねっ! 正直目が覚めたばかりって感じ!」

 バッと立ち上がって、ついでに飛び上がって、ぼくは空中で仁王立ちした。
 人物を見下ろして、優越感。
 きっと空を飛んでいた鳥も、こんな気分だったのだろう。
「……」
 人物は何も喋らない。
 一体だれと対峙してたのかも、ぼくにはわからない。
 まあどうだっていいんだから、どうだっていいことなんだ。

「でも確か、アンタってこのぼくを殺しに来てたんだよな。うんうん、そこは覚えてるよ」

 周囲を見渡して、室内の備品確認。
 こういうところなんだから――値打ちもんの武器だとか、あったっていいはず。
 と思ったら発見。
 黒に染まった視界の中、妙にシロクロの視界で、ただ一つカラーに見える箱。
「―――ッ、それは!」
 ぼくの身体がそちらへいこうと動いた瞬間に、人物が動く。うん、目障りだ。
 空気を読んで引っ込んでろよ。
「ッ、ぐ!」
 右手をかざして、ぼくはおもむろに彼の腰につけている鞘をみた。
 おや、いいものがある。
もむろに鞘を爆発させると――剣を手放して、人物はぼくを前にして落ちていった。
 いいざまだ。

「ではでは中身をはいけーん」

 どーでもいいやつは放置しておくとして、ぼくは箱を手に取った。蓋を開ける。

「お――……」

 中には、艶やかな漆黒のまま――持ち主を待つ、
 小槌が――入っていた。

「なにこれ。打ち出の小槌、みたいなもん?」

 箱から取り出して、ぼくは小槌を振るう。
 軽いけれど、軽いからこそこれでは武器になりそうもないな。うん。
 綺麗でカッコイイんだけどなあ。
 やっぱりこう、なんていうか。
 武器は武器であって、戦えなければ意味がないし。
 とはいえ、剣はコイツとかぶるしなあ。

「うん? 待てよ?」

 打ち出の小槌なら――もしかして。
 そのへんにあるおっきな、どう考えてもぼくが扱えるようなものではない槍も――軽くなる?

「そうと決まればいくっきゃないな! ぼくったら武器の一つも持っていないんだし!」

 倒れたまま動かない、そんなお馬鹿さんは放っておいて、ぼくは槍のかかっている場所まで移動。
 その中で一際大きい、薙刀を発見した。
 刃の部分だけで一メートルもあるそれは、みるからに重そうだ。
 勝手な想像だけれど、それは、弁慶の薙刀に似ている。
 うんうん。これがいい。これこれ。
 気に入った。

「ねえ、そこの、えーっと、誰だっけ。まあいいや、そこのひと。ぼくこれ気に入ったから貰っていくよ!」

 打ち出の小槌を――振り下ろす。
「ぐ、あ……! 待て、その薙刀は……!」
 なんて呟きが聞こえたけど、気にしない。
 ぼくはこれが、欲しいのだから!

「打ち出の小槌よっ! これをかーるくして、ぼくが扱えるくらいにしちゃってくーださい!」

 ぽんっ。
 胡散臭い音と煙。
 打ち出の小槌とその薙刀から、まばゆい光。
 確信なんて無かったけれど、やっぱりそうだ。
 これは打ち出の小槌だったんだ。
 ぼくったら鋭すぎる直感だっ!

「さてさて、軽くなったかなぁー?」

 光が収まるのを見計らって、薙刀を手に取る。
 うん、軽い。
 びっくりするほど軽い――軽すぎる。
 ひゅんひゅんと大きく薙刀を振り回して、試しに近くにあった箱や瓶、大きな瓶なども全て吹き飛ばす。
 手になじんで、良い感じ。
「ねえ、そこのひと。まだ動けるでしょ? ぼくと少し、遊んでよ」
 自分の声が――もう、自分の声じゃない。
 誰か別のモノのような、そんな感覚に慣れてきた。
 心臓も大きな鼓動に慣れてしまったらしい。
 ぼくの『うずき』も、徐々に薄れてきている。
 でもいいよね。
 過去のぼくなんかは捨て去って、本当に悪魔になるんだからもういい。
 ぼくは――ぼくは、新しいぼくにでもなろう。
「……なるほど」
 ふと、背後から声がした。
 ぼくに聞き覚えのある声ではない。
 ――となると、新たな敵か。
「どちら様?」
 くるりと振り向いて、相手を視認する。
 モノクロの視界の中――それは。
 鮮やかな金髪を悠然となびかせてたたずんでいた。
 悪魔だ。
 紅い瞳は、興味なさそうにぼくを見つめている。
「バティンをそんなふうにしてしまうとは――確かに私の見解も間違っていたと見える」
「バティン? ……ああ、そこのひと? そんな名前だったっけ。ふうん」
 ぼくはちらりと、動かない黒い塊に目を向ける。
 ぼくの視界の中では、彼はすでに塗りつぶされていて誰だか特定ができないのだ。
 しかしいわれてみると――驚いたことに。
 徐々に黒が薄らいで、色が戻ってきた。
 銀髪に、蒼っぽい貴族服が真っ赤に染まった、悪魔。
 手には白銀の剣。
「さすがはアルバート家の秘蔵っ子。いや――鬼子といった方が正しいか」
「……?」
 アルバート……って、な、に?
 一瞬、鼓動が止まった。
 これは――動揺?
 このぼくが――この状態で、動揺?
「おや。そんな風体をしているから、当然記憶も事実も取り戻しているのかと思ったが」
「……ど、どういうことですかっ!」
 思わず、口調が元に戻った。
 動揺のせいだろう、内部の熱が急激に冷めて――外側が、熱くなっていく。
 さきほどまで湯水のように溢れていた力が、ぱあんと散ったように。
 急に無防備になったようで――思わず攻撃的になってしまう。
「どういうことも何も――きいていないのならばそれでいい。私が変に干渉すると、よくないだろう。実験結果に影響されるかもしれない」
「じ、実験結果」
「何故、そこの小娘に貴様の『始末』を頼んだかわかるか? バティンは勘違いをしていたようだが、当然のこと、魔界の秩序などとは関係ない」
「………」
「実験だよ、実験」
 悪魔は、まるで王者のように悠々と構えていた。
 薙刀を握ったままのぼくなど、たいしたことではないのだと、そういうように。
 ぼく程度では――傷一つもつけられないと。
 そういうように。
「私は貴様が『人間』と『悪魔』、どちらに近いのか知りたかっただけだ。フランケンは違ったようだがな」
 しかし、と悪魔は続ける。
「それにしては、ずいぶんと手痛い代償だ。まさかハインリッヒの暴れ鬼と、南のチンピラどもを引き連れてお礼参りにくるとは。城の炎はじきに消えるとはいえ――、この代償は重いぞ、小娘」
「――!」
 悪魔は、腰にさした剣を引き抜く。
 黄金に彩られた剣は――刃こぼれ一つ無い、美しい剣だった。
「悪いがその羽根と尻尾を残したまま――ここから出すことはできん。切り落とさせて貰う」
 言葉と同時に――ぼくの目の前ではなく、ぼくの背後に悪魔が移動する。
「――っ!」
 ゆっくりと、まるでぼくが逃げられないと決めつけるように――剣を振りかぶる。
 ぼくの――羽根をめがけて。
「ヤだッ!」
「!」
 再び内側へ無理矢理熱をともして、ぼくは高速移動。
 思い切り薙刀を振るう。
「くらえ!」
 ぎいんと音が響いて、衝撃を腕が伝う。
 薙刀と剣がぶつかって――ぼくは弾き飛ばされた。
 けれど今回は壁にぶつからずに、壁を蹴って衝撃を殺し、空中で一時停止。
 もう片方の手に持っていた打ち出の小槌を腰に引っかけて、悪魔へ視線を戻す。
「――その薙刀は、岩融だな? 武蔵坊弁慶が使っていたものであり、現在は私のものだが――何故、貴様程度が扱える?」
「そもそも――、あんた、一体誰ですか」
 悪魔の質問には答えずに、ぼくは逆質問。
 思えばぼくはこいつのことを知らない。
 だけれどこいつは、ぼくのことをぼくよりも知りすぎている――なんて、不公平だ。
「――私か? 私はこの城の主――東魔王、サタンだ」
「――!」
 全身に衝撃が走る。
 メルに言われた言葉を、不意に思い出す。
 全身が冷えていく。
 中身も外も――全て。
 ただ違和感の残る肩、脇腹、左脚。
 血は出ていないのに、ずきずきと痛い。
 ついでに背中、おしりが――
 ――どうしてだか、異常に――痛い。
「さあ、私は答えたぞ。貴様も私の質問に答えろ。ニア=アルバートよ」
「……ぼくはただ、この蔵にあったコレを借りただけですよ。それと打ち出の小槌っていうんですか? コレも」
 すっかり心臓も本来の鼓動に戻って、ぼくは床へ降りた。
 空中で停止していることすら――今のぼくには苦痛だ。どうしようもなく痛い。
 ぼくは眉間にしわを寄せて、この痛みに耐える。
「ふむ、中々に知恵も備わっているようだ」
 しかし悪魔はそんなぼくの様子も、バティンも、そういえばずっと動かないリュガもオオカミの子供も――まるで気にかけない。
 ただ、ぼくの持つ薙刀を見つめる。
「私はあの兵器のように、とてつもない馬鹿力が備わっているのかと思ってしまったが――そんなことはないようだな。そこそこに、普通だ」
「……」
「まあ完全に覚醒している、というわけでもないようだし、可能性は否定できぬが」
 近寄ってくる悪魔。
 じりじりと退くぼく。
 心が叫ぶ。
 殺せ、と。
 逃げろ、と。
「……リュガは、大丈夫なんですか」
 ぽつり。
 距離を取りながらぼくは呟く。
「無論、問題など無い」
 悪魔はちらりとリュガへ視線をやった。
「アレにどうかすると、私が殺されてしまうからな。眠って貰っているだけだ。もちろんあのオオカミもな」
「……そう、ですか」
 とん。
 土壁にぼくの背中が当たる。
 激痛。
 とっさに悟る。
 もう、動けそうにない。
 仮にもう一度、ぼくの内部が燃え上がれば――この目前に迫る悪魔を撃退できるのかもしれないけれど。
 こいつが――余計なことを。
 ぼくの、ぼくの家族に関わりそうなことをいうから。
 動揺して――変われなかった。変わりきれなかったんじゃあ、ないか!
「もう逃げ場もないだろう。さあ、背中を向け。痛みも感じさせないほど――一瞬で切り落としてやる」
「い、いやですよ! だって、だって!」
 せっかく、メルと同じに――なれたのに。
 薙刀を構える。
「どうしてぼくの翼を、ぼくの尻尾を切り落とすんです! アナタはドSでも、ぼくはドMなんかじゃないんですよ! それに――こんな、こんなことに意味なんてないじゃあないですかっ!」
 ほとんど涙目だ。
 どうしたって、敵いそうにないとわかっているからなのか、涙が溢れ出てくる。
 ただ、切実に。
 ――メル、助けにきて。と――思う。
「魔界での、けじめだ」
 悪魔はぼくを、恐ろしいほど凍てついた、紅い瞳で見る。
 リュガの瞳なんてものじゃない。
 一体何を考えているかわからない――冷たい瞳だ。
 いつかどこかでみた気がする。
 そう、それはいつかのお父さんで。
 それはいつかのお母さんで。
 それはいつかの担任の先生で。
 それはいつかの、クラスメイトで。
「お前がそうして暴走して、私の住まいを壊したけじめだ。言っておくがお前たちの主人も、けじめを払ったぞ。いや、まあまたそうしてもいいのだが――そうなると、お前たちの主人は両目を失うことになってしまうかな?」
「――ッ!」
 突然、もう一度。
 一際大きく――心臓が躍動した。
「――今、なんていったんですか」
 内側が燃え上がる。
 外側が――もう一度、冷えていく。
 助けて? ……ばかげてる。
 ぼくは、メルを――助ける側だろう!
 奮い立たせて――冷えていく外側すら、燃やす。

「ぼくらのお頭さんの――片目を奪ったのは――お前だとでも、いいたいんですかッ!」

 叫びと同時に、周囲が一斉に爆発した。
 血流がうずく。痛いほど、うずく。
 肩、脇腹、左脚。
 バティンに斬られた傷がうずいて――再び血を流す。
 再びチカラが集約されて、再び動揺が薄らいでいく。
 ああ、そんなことどうでもよかったんだ――といわんばかりに。
「……ほう」
 悪魔はしかし無傷だった。
 爆風で視界が揺れる。
 もう何が何だかわからない。何がどうなっているのかわからない。
 感情が上下しすぎて――怒っているのか、泣いているのか呆れているのか――嗤っているのか、わからない。
 ただ、わかるのは。
 この悪魔が――嫌いだということだ。
「けじめっていうんなら、あんたもとるべきですよ! ぼくとリュガに――とんでもないことをしでかして、こんなことにしたんですからね!」
 薙刀を振るう。
 振り回して――悪魔を退かせる。
 熱い。熱い。――熱い!
「!」
 気がつけば、外側も内側も――いや、ぼく自身が燃えていた。
 薙刀にも火が灯る。
 ――だけれど、焼けただれはしない。
 ただ――熱い。
 熱すぎて――意識が定まる。
 視界が安定する。
 さっきみたいにモノクロではない。
 鼓動が安定し始める。
 思考は狂っていかない。おかしくもならない。そりゃそうだ。もうぼく自身、全てが――おかしいのだから!
「さあ、最後の勝負を始めましょう! これでぼくが負けたなら、ぼくは潔く羽根を切り落としてご覧にいれます。だけれどぼくがアナタに勝ったなら――洗いざらい、話をしてもらいますよ!」
「――いいだろう」
 殺気と殺気が、渦巻いて。
 そうして『竜』が現れる。
 ぼくが知らなかった物語の裏側と――。
 結末などを吹き飛ばして。
 王道など、跡形もなく。
 真剣勝負なども、そこにはなく。
 ただそうであったように、ぼくらを。
 その場にいたぼくらを――襲った。
 ただ一つの――女の子とオオカミを除いて。


■□■□


 凄まじい爆音が響く中、渋々揺動部隊に入っている俺はシェリルの後を走っていた。
 もうそこは地獄だ。
 シェリルとギルドが暴れている時点ですでに勘弁して欲しいのだけれど――まあ、俺たちにとっては好ましい。一応弊害もないし、障害にもならないし。
 しかし――だけれども。
 おかしいのは――。
「いやあ、やっぱりつらいもんですねえ」
 この、さっきから逃げ回る魔神、ゾルター。
 こいつだ。
「おいおいおい、逃げ回るんじゃねえよ!」
 シェリルがしびれをきらし、イライラを募らせながら、思い切り壁を殴る。
 壁が崩れる。うん、絶対説教だわ。
「嫌ですねィ、逃げなきゃ殺されるじゃないですかィ」
「殺さねえよぉ、ちょっと戦うだけじゃあねえか★」
 と、ここで破壊神ギルドが真横から蹴り。
 ゾルターはすんでのところで避ける。
 その他魔神は見る影もなく――俺が一番恐怖していた怪力女神と、その執事だっていない。
 ていうか、ゾルターとつるんでいるはずのフランケンが、どこにもいない。
 予想していたとはいえ――バティンも。
 バティンも――いない。
 ということは……おそらく。
 あいつはニアの方に、いっているということだ。
 不意に、あのニアではない『ニア』がフラッシュバック。
 アレは――怖かった。
 正直な話、怖かった。
「おいメル、お前この状況どう思う?」
 いつの間にか隣にいたローズが、そんなことを呟いた。
「――おかしいな」
 だから、俺は正直に返答する。
 城内でここまで騒いだら、あの魔王が出てこないなんてことがあるわけない。
 とすれば、そう。
 あいつは最初からニアが目的で――こんな揺動もお見通しということで、ニアの方へ、いっている。ということになる。
「さっきから、ニアとリュガがいるはずの方向で――あからさまにど派手な音が響いてるよな」
「………」
「まさかとは思うんだけどよ。戦ってる、ってことは、ないよなまさか」
 ローズの顔色は青ざめていた。
 いくら、いくら怖いモノ知らずのニアとはいえ――、俺たちのかしらと、ここの魔王はベツモノだ。
 魔王であるように生まれてきて、当然のように魔王である振る舞いをする――魔王だ。
 リュガは勝てないだろうし――とすればニアだって、何かの間違いがあろうとも、奇跡が起ころうとも――勝てるわけがない。
 バティンと魔王を相手に、大立ち回りできるような少女にはどうしても、思えない。
 つい一週間前までは、確かに人間だったのだから。
「シェリルとギルド放っておいて――、俺たちは様子でも見に行くか?」
 ローズの問いかけ。
 確かに、こちらは二人だけで充分そうだし――。
 けれど、それでは。
 シェリルが言った『信頼』が――わからなくなる。
 とはいえ、こうなることまでは計算できていないのも事実だし、様子を見に行った方がいいのか。
 手遅れになる前に――。
「おい、メル」
 決断を迫るローズの声。
 数秒迷ってから――俺は。
「――ちッ、ああもう面倒だ! いいぜ、フランケンの考えてることなんざ読めきれるわけねえや。のってやんぜ」
「あ?」
「様子みにいくぞ、ローズ」
「あ、おい!」
 怪訝な顔をしているローズにそう告げて、俺は逆方向へ走り出す。
 最短距離は――多分。
「もう説教されるのは確定なんだから、壁の二つや三つぶち壊しちまうか!」
「! 開き直りっつーやつ? ま、いいか!」
 俺の合図に、ローズは壁へ手をかざす。
「発動――『分解』!」
 まばゆい光が溢れ出て、いつものように壁はあっさりと崩れていく。
 こいつの能力『分解』は、まあ、みてのとおりモノを分子や原子単位にまで分解できちまうから、こういう時には凄まじく便利だ。
 でもって、その分解したものは兄であるロゼが『修復』できるという――まあバランスのとれた兄弟なのである。
「……ローズ、お前さ」
「あ?」
 走りながら、俺は唐突に切り出した。
 すでに肺が痛い。キセルで煙草吸うの控えようかな、そろそろ。
「ニアが誰かと似てるなって思ったこと、ないか」
 それは心の中でぐるぐると渦巻く、違和感だった。
 いつまで経っても消えない違和感だ。
 最近はみることが無くなったけれど、ずっと昔、それこそ南魔界に配属される前は――よくみていた、と思う。
「――帝王家の誰かに似てる、とかか?」
 怪訝な顔で返答するということは、おそらくそう思ったことがないのだろう。
 どうやらあの、バティンと対峙した時のような笑みを浮かべたことはローズの前でもないようだ。
「いいや、まあ、こういう無鉄砲なところは似てるんだけど、そうじゃな――ん? 無鉄砲……」
 自分でいって、引っかかりを覚える。
 相当な引っかかりだ。もやが薄れていく気はするのに、完全には晴れてくれない。
「まあでも――人間じゃあないと思うぜ」
「!」
 悩む俺の前を走りながら、ローズはそう断言した。
 ハッキリと、言い切るように。
 迷いも疑いも、断ち切るように。
「人間として暮らして、育てられたからそう思っているだけで――完全に中身は俺たちと同じだ。そうでなけりゃ、能力を二つも所持してるなんてことありえねえよ」
「……一応超能力者ってこともあるじゃあねえか」
「それはまた別の『気まぐれ』によっておきた事故だろ。でもアイツは事故でそうなったんじゃない」
 またしても――ローズは断言した。
「あからさまに人為的だ。どう考えたって、そうだ。じゃなきゃまるで記憶喪失みたいにあんなぽけーっとしてるかよ、普通」
 兵器じゃあるまいし。ローズは続ける。
 俺は、ただきく。
 きいて――思考する。
「あんまり思い出したくない話だけどよ――、親父のところから出てくる前に、屋敷でフランケンと、もう一人、科学者みてーなやつが話してたところを、盗み聞きしたことがあるんだ」
「……」
 フランケンと――科学者。
 ローズの実家――オスカー家の屋敷にて。
「親父もいたっけな。うん。でもって、議題は『中が悪魔で外が人間ならどうなるか』とか、そんなんだった」
 中は悪魔。
 外が人間。
 まるで――ニアのことだ。
 もしそれが――ニアのことだったとしたら。
 ニアがそうなら、つじつまは合う。
 異常な身体能力も、その容姿も、俺たちへの無意識的な執着も、そして人間なら持つことの到底ないであろう――能力。
 俺たちと同じであるなら、つじつまは合う。
「その直後だ。ハウルの家が一家皆殺しにあった」
「――!」
 ふと、つながった。
 バラバラになっていたピースがつながる。
 そうだ。そう、俺が探していた鍵は。
 『ハウル』。
 帝王城にて孤軍奮闘をしていた時代からずっと悪友、いや、ライバル、いや仲の悪い腐れ縁なのか――よくわからない、そんな存在の――北魔界の、魔神。
 クソ真面目なくせに、変態の中に混ぜられて、北魔王であるアルマロスとかいう『キング・オブ・変態』にこき使われても文句一つ言わない――真面目なバカ。
 荒んでる俺がバカに思えるくらい――真面目でひたむきで真っ直ぐだから、本当にイライラする。
「――って、そんなことはどうでもいいか」
「あ? お前、俺の話きいてたか?」
 ローズの声は聞き流すとして。
 俺はシニカルに笑う。
 なんだ、そういうことか。
 ニアとハウル。
 そういえばニアと出会ってから一度も顔を合わせていない。そのことを考慮してもおそらく俺の推測が合ってるだろう。
 結局、誰が悪いといえば。
 魔界に蔓延る諸悪の根源ともいえる――胸くそ悪い連中に起源していくらしい。
「ローズ、わかったぜ。全部、つながった」
「はあ?」
「真っ直ぐでひたむきで無鉄砲でバカで真面目。笑った顔も、そっくりだった」
「いやいや、俺には意味わかんない」
 怪訝な顔をするローズ。
 そんなヤツを追い越して、俺は速度を上げる。
 肺が痛い? そんなもんは今、どうだっていい。
 推測が正しければ――おそらく。
 ニアは、俺たちよりも遙かに潜在能力の高い――『兵器』だ。
「早くしねーと、大変なことになりそうだぞ」
「だから、何で!」
「――全部『瞬間計算』してみたらよ、ニアの暴走の意味も、あの力の意味も――全部わかった」
 すぐに俺の横に並んで、ローズは俺を横目で見る。
「なにが」
「ニアが俺たちと同じだったとしたら――あげく理解せずに無意識的に能力を行使しているとすれば――まだ『全開』にして使ったことがない。つまるところ、簡単に暴発する」
「……なっ……!」
「それとニアには多分、『タブー』がある。自分でも気がつかないほど細かい『タブー』がな。それに触れられた時だけ、あいつは理性もぶっ飛ぶくらいに能力を全開にするんだよ」
「タブー、ね」
 思い当たる節があるのか、ローズは苦笑いだ。
 まあ俺にもいくつかある。
 最初に出会った時こそ『普通』に見えたのに――いや、違うか。
 最初から同じに見えていたんだから、出会った時こそ『異常』だったんだ。
 リュガの時が多分、ニアが初めて能力を『全開』にした時だったんだろうと俺は推測する。
 まるでどこぞの脇役ばりの解説を発揮しつつ――走る。
「サタンのやろうなら、ニアの『タブー』に触れるなって言う方がきっと――難しい」
 そういっている間に、俺たちは蔵の前についた。
 東麻城の城主が集めた、いわゆる宝庫。
 様々ないわくつきの品があると有名な場所だ。
 噂では、血に飢えた魔剣や、妖刀も保管してあるとか。
 扉は開ける必要がなかった。
 すでに、開いている。
「………ニアッ!」
 だから、思い切り蔵の中に踏み込んで――絶句する。
 そこに広がっていたのは、ただの。
「……地獄……」
 ローズがぽつりと呟く。
 まさしくその通りだ。
 真っ赤に燃えさかるその部屋の中心に、ニアがリュガを抱きかかえるようにして、オオカミの子供も同じようにして、立っていた。
 呆然としている。
 心神喪失といった様子だ。
 いや、それよりも――。
 背中には、真っ黒な、小さな翼。
 おしりからは垂れていたであろうしっぽは無残にも途中でちぎれて、出血している。
 ――痛々しい。
 その少し先に――サタンが、この城の城主が、壁にめり込むようにして埋まっていた。
 その足元には、同じくして床にバティンが埋まっている。
「――……」
 ニアは、そんなサタンを見つめている。
 虚ろな瞳だ。
「……あは」
 笑っている。
 全身血まみれで、血を流しているのに、身体を斬られているのに、笑っている。
 ニアとリュガを見比べると、ニアの方が凄まじくボロボロだった。リュガは戦闘に参加していないように――綺麗だ。
 どういうことか――わからない。
「あはは、はは。あれ。どうしたんですか、悪魔さん」
 ニアは俺たちには気づいていないようだ。
 呆然と、ただ物語を一人で続けるように――呟いている。
「これじゃぼくの勝ちみたいじゃないですか――。一体全体どうなってんのかサッパリですけど」
 否、ニアは笑ってはいなかった。
 それどころか――泣いていた。
「ねえ。起きてくださいよッ! ぼくはどうしたらいいんですか! せっかく、せっかくどうにかできると思ったのに! どうしようもない自分を、どうにかできると思ったのに! アナタが――アナタがぼくの知らないぼくを、教えてくれると思ったのに!」
 持っていた大きな薙刀を、ニアは投げ捨てる。
 からんからんと音が鳴る。
 あんな大きな薙刀、一体どうやって持っていたというのだろう。
「死ぬほど憎いのに――ちゃんと憎めない! ぼくはアナタを殺すことが出来ない! どうして!」
 俺は、言葉をなくしていた。
 動揺していたのではない。
 あまりの似通っている様に――驚いていたのだ。
 いつかみた、泣き顔と。
 そういえばここ七日間ほど、会っていないとか、どうしてるんだろうとか、そんなガラでもないことが頭を過ぎってしまうほど――似ていた。
「あああ、お頭さんの、片目の敵で! リュガにつらい思いをさせた張本人なのに! バティンもそう! ひどいやつらなのに! どうして! どうして!」
 それは、あまりに悲痛な叫びだった。
 ローズが片腕をぎゅっと押さえる。
 痛みが――こちらにも伝わってくるようだ。
「こんなの――まるで、人間……!」
 ついに、ニアが崩れ落ちた。
 泣き喚きながら――崩れ落ちた。
 自分で作った自分の血の血だまりに、汚れることも気にせずぺたりと座り込む。
 もうみていられなくて――俺は。
「こんなの――まるで……」
 その先を言わせる前に、走って、抱きしめた。
 すっかり冷めた身体を。
 体液の多くを失った、身体を。
 弱々しくて儚くて、消えてしまいそうな身体を。
「もういい。何もいうな」
「……! め、る」
 泣きじゃくるニアを、受け止める。
 炎が迫る中、受け止める。
「よく頑張ったな」
 頭を撫でる。
 安心させようと――努力する。
「お前は、よく頑張った。目的は達成だ。帰ろう」
「う、ううう」
 すすり泣いて、ニアは唸った。
「もく、てき」
「そ。お前の目的はオオカミの子供の救出だろ。ほら、こいつは生きてる。リュガも生きてる。お互い眠ってるだけだ。触れてみろよ、あったかいから」
 羽根がしゅん、と小さくなって――消えた。
 血まみれだった尻尾も、消える。
 ニアは細い指で、震える指で、おそるおそるといったふうにリュガとオオカミの子供に触れた。
 びくりと震えて――止まる。
「メル! メルは――メルは、大丈夫ですか! 怪我、怪我とか!」
 突然我に返ったかのように、ニアは俺の両腕を掴んだ。
 まだ涙を流すその瞳で、俺の目を見つめる。
「み、みたとおりだ。どこにも怪我なんてしてねーよ」
 あまりに真っ直ぐなその視線に、思わず挙動不審になりながら俺は返答した。
「よかった――メル」
 心底安心したかのように――ニアは、笑う。
 笑って、俺を抱きしめる。
 それに俺は安心した。
 いつもの――ニアだ。
 どうやら暴走は、すでに収まった後らしい。
「――おういメル。そうしてラブコメ中に悪いんだけどよ」
 唐突に、ローズの声が俺の邪魔をした。
 くそ、今いいところだぞ。
「この蔵、もうもたないんじゃね?」
「………」
「………」
 俺、沈黙。
 ニアを見つめる。
 気まずそうに、ニアは俺とローズから視線を外して、本当に申し訳なさそうに――自首をした。
「ごめんなさい。ニアがいろんなところ、砂にしたり、爆発させちゃいました」
 沈黙の時間が流れる。
 俺の頭が自動的に計算を始める。
 燃えさかる炎。砂にかえられた様々な箇所。爆発による損傷。ついでにサタンのめり込みの衝撃。バティンの衝撃。
 ――うん、やっぱりそうだ。
「ローズ、今からダッシュで逃げるぞ。この蔵、あと一分ともたない」
「あー、やっぱり?」
 爽やかに「はっはっは」なんて笑いあって、そこにニアが参加して、二十秒経過。
 沈黙で十秒。
 計、三十秒。
「とっとと退避しろぉぉぉぉおッ!」
 俺の叫びと共に、ローズはリュガとオオカミの子供を抱えて走り出す。
 幸いにも城に隣接している蔵なので、城自体が崩れることはないだろうが――蔵の全焼、全壊は免れないだろう。
「あ、ちょっと、待ってくださいメル!」
「はあ!?」
 もうすでに数十秒といったところで、ニアが声を荒げた。
 視線の先には薙刀と二人の悪魔。
「この二人ッ、二人も、助けなきゃ!」
「いやいやいや! いいだろ放っておけよ! 多分だけどこれくらいで死なないだろ!」
「ダメです! 万が一死なれたら――目覚めが悪いじゃないですか!」
 このやりとりだけで十五秒経過。
 ニアの手が、薙刀を掴む。
「――ふん!」
「おおおおっ!?」
 と、思ったら俺はニアによって思い切り投げ飛ばされた。
 というか、ニアの持つ薙刀によって。
「メル!」
 幸い蔵から先に出たローズが受け止めてくれたので、壁への衝突は免れる。が、一瞬天国が見えた。
「に、ににに、ニア! お前なんてこと――」
 違う、と咄嗟に気づく。
 ニアは、ニアは!
 手を伸ばすも――ローズが掴んでいる。
 踏み出せない。
 残り五秒。
 ニアは、ニコリと笑った。
「    」
 聞こえない。
 聞こえない――聞こえない!
 ニアの呟きは、落ちてきた瓦礫にかき消され。
 俺の視界から――ニアが、消えた。
「ニアぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ! 死ぬなぁぁぁぁあぁッ!」
 俺の叫ぶ声は、お前に――届いただろうか。
 俺の、最初で最後の――切実な願いを聞き入れてくれる神様なんて――いないことは知っているから、だから。
聞かなくていい。聞き入れなくていいから――。
『奇跡』だけ、訪れてくれ。



■□■□


――そうして、奇跡は訪れた。
 俺の目前。
 完全に崩れ去った蔵の跡。
 瓦礫の山が、跳ね上がる。
 しかし跳ね上がった瓦礫は俺たちに届かない。
 瞬間にして粉へと、煌びやかな粉塵へと姿を変えてしまった。
「――ふう」
 そこにいたのは、ニアではなかった。
 金髪の悪魔でも、貴族みたいな悪魔でもなかった。
 ただ、銀髪をなびかせる――奇跡。
「あはは、こんばんは、メルくん。ローズくん」
 三人まとめて抱えて、土埃一つ付けずに爽やかな笑顔で、それは俺たちをみる。
 どこにいっていたのか、真っ黒なコートにベスト、白いワイシャツと、あまりみない格好の――『帝王』。
 俺たちも、そこの金髪の悪魔も――全部をひっくるめて、この魔界を統治している、魔界の『王』。
 ルールなんて破りまくりで、でも決して約束は破らない、家族思いで妻バカ、お人好しで人間くさくて親バカな――歩く『奇跡』。
 こんな状況だからか、輝いてみえる。
「ちょっとばかし『じゃじゃ馬』な娘が、遠路はるばる地獄から一時帰宅しているときいて、飛んで帰ってきたのだけれど――」
 ぽりぽりと、空いている方の手で、頬をかいて、それは困ったように笑った。
「これは一体、どういう状況なんだい?」
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