鬼の社のあくまさん

黒谷

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第二話「鬼の社のあくまさん」

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 小学校の卒業式、私の家はごうごうと燃え盛った。
 赤い炎に包まれた我が家を、私は呆然と見つめていた。
 両親はその炎に包まれて死んだ。
 まだ幼かった私をみてくれる親戚なんていなくて、私は両親の親友だという神川という男に預けられた。
 中学校は彼の都合で転校になって、二つ隣の町に私は引っ越した。
 この鬼川原町とは、それきり疎遠になった。
 手紙を書くこともなかったし、手紙が届くこともなかった。
 神川さんはここに来ようとしたがらなかったし、私をここに近づけようともしなかった。
 もしかしたら、気を遣っていたのかもしれないが。
「あれから、元気だったか?」
 伊野くんは、そんなふうに私に笑顔を振りまいた。
 私たちは二人でファストフード店に入っていた。
 本当は、それどころではなかった。
 けれど、そうだ、伊野くんなら、何か知っているかもしれないのだ。
「……うん。元気だったよ。伊野くんは?」
「俺らはいつでも元気だよ。この前卒業式終わって、みんな春休み入ってるんだ」
「そっか……」
 彼は知っているのだろうか。千鶴子が……あんなふうになったこと。
 そして……ここらで流行っているらしい、『こっくりさん』のこと。
「……あのね、伊野くん。私、千鶴子に会ったの」
「!」
「昨日の夜、駅のホームで、千鶴子が立ってて、線路に向かって倒れたから、私が抱きとめて、助けた」
 伊野くんは目にわかるように顔色を変えた。
 何か口にしようとして、言葉にならないように見えた。
「でも千鶴子は目を覚まさない。……何か、何か知らない?」
「俺は何も知らない」
 そういうと、伊野くんはガタッと席を立った。
「待って、私は、ただ……」
「何も知らない。何も知らないんだ。何も」
「伊野く……、……!」
 手を握って引きとめようとして、私は気付いてしまった。
 彼の首、そのあたりに、何か、黒いもやがまきついている。
「詮索するな。何もきくな。……黒田は、関係ないんだから!」
「伊野くん!」
 そんなふうに叫んで、彼はそのまま店から飛び出していってしまった。
 私は途方にくれた。
 すとん、と席にもう一度腰をおろした。
 遅れて、店員がスマイルと共に私たちが頼んだ二人分のセット商品を運んできた。
 私は、もう一度途方にくれた。
 金は先払いだからいいにしろ、……これ、ハンバーガー二つとポテト二つ、ついでにコーラも二つ。
 つまりは二人分食べろっていうのか。私に。



 ファストフード店を出た私は、とりあえず家に向かって歩いていた。
 正直家には帰りたくなかった。
 できるならば、そうだ、少なくとも神川さんの家に帰りたかった。
 彼なら私が泣きつけば、引越しから転校の手続きから、面倒そうに終えてくれるのだろう。
 素っ気無いし愛想もないが、基本的に私を甘やかす傾向にある。
 だから離れたということもあるのだが……。
(どうしよう……) 
 タイムリミットは今日の午後十時。
 私の寿命はお揚げで延ばしてくれるとかなんとかって冗談を口にしていたが、まず嘘だろう。
 千鶴子を殺したら、次は私だ。目が笑っていなかった。あの女性。
(あのアルバムでバツをつけられたのは私を含めると六名。つまり私以外の五名がこっくりさんを行った、と仮定すると……つじつまはあう)
 これから学校に向かったところで、いるような当てもない。
 とはいえ、それぞれの家をちゃんと知っているほど仲良しでもない。
 当時の担任教師を訪ねても、おそらくは欲しい情報なんて握っていないだろう。
「……! そうだ、こっくりさんについてまず調べればいいのか!」
 思わず誰もいない道路の真ん中で声が出た。
 慌てて口をつぐんだが、とりあえずは誰もきいていないようだ。
 私は駆け足で自宅へと戻った。
 おそるおそる鍵を開けて、ドアを開ける。
 当然のことながら、荒らされたままの室内が私を出迎えた。
「こっくりさん、こっくりさん……」
 インターネットというものは便利である。
 こうしてワードをいれれば、なんでも大体は調べられるものだ。
 じ、とスマホの小さな画面とにらめっこすること数時間、とりあえずはこっくりさんが何か、ということは理解できた。
 ……しかし。しかしである。
 呼び出したこっくりさんの機嫌を損ねた場合の対処法とか、失敗した際の対処法なんていうものは、やはりというべきか、記載がない。
 そういうことに詳しい専門家なら個別にしっているのかもしれないが、少なくともインターネットの海面には漂っていないようだ。
「どうしたもんかな……」
 不意に、私の指が、画面のどこかをタッチしたのだろう。
 画面がとんで、急に、都市伝説の画面へと姿を変えた。
「……何これ。鬼川原町の、都市伝説……?」
 現在地情報を汲んだのか、表示されたのはこの近辺にまつわる噂のようだった。
 画面には、『鬼の社のあくまさん』とタイトル表記がされている。
「……?」
 事のあらましは、こうだ。
 あやかし横丁と名づけられた商店街のわき道。
 赤い鳥居が掛かったそのわき道を進んで、一本中の通りへ。
 裏路地のようなそこを進むと、両端を怪しげな露天で挟まれた商店街の裏側へ出るのだという。
 そんな裏側の突き当たり。
 高いビルの隙間から、わずかに陽の光が差し込む場所に、ソレはあるらしい。
 木々に囲まれた森のようなソレのすぐ側には小さめの噴水があって、奏でる音は小川のせせらぎを連想させた。
 古民家カフェのようなどこか古めかしい木造の外観は、大きな木々に隠されていた。
 木漏れ日の隙間から朱色の三角屋根が見えなければ、建物があるとは気づかないだろう。
 壁にも、屋根にも、看板にも、ツタやコケなんかがこびりついている。
 まるで自然に飲み込まれたみたいなそこに──『ソレ』は在る。
 通称、『鬼の社(おにのやしろ)』。
 そこには『あくまさん』なる鬼が住んでいて、彼に気に入られれば願いを叶えて貰えるが、気に入られなければ食べられてしまうのだという。
「願いを叶えてくれる、あくまさん……」
 私の脳裏によぎったのは、あの、こっくりさんらしき女性に絡まれた路地だ。
 あの時、確かに鳥居の奥に路地が見えた。
 女性がいなくなった後、見えなくなったが、もしかしたらあれのことなのかもしれない。
「あの商店街、あやかし横丁、だったかなあ」
 ハッとあたりを見渡すと、周囲はもうだいぶ暗くなっていた。
 路地を思い浮かべると、少し背筋が冷えた。
 また『こっくりさん』に鉢合うかもしれないし、怖い思いをするかもしれない。
「…………」
 スマホをポケットに放り込んで、私はカバンを手に取った。
 もう一度だけ、いってみよう。そう思った。
 確かにまた怖い思いをするのも、痛い思いをするのもいやなのだが──それ以上に。
 三年ぶりに会う友人と、言葉も交わせずに別れるのは嫌だ、と思った。
 私は家を飛び出して、駆けるように商店街に向かった。
 ──時刻は午後九時を回ろうとしていた。
 どうやら私は、数時間の間、必死になってスマホを見つめていたらしい。
 時間の経過にまるで気付かなかった。
 もう、本当に時間がない。
 商店街はもうあちこちがシャッターを下ろしてしまっていて、人もまばらになっている。
 歩いているのは、通勤帰りのサラリーマンといったところだろう。
(ええと、たしか、このへん……)
 本当にかすかに残るお揚げの香りを頼りに、私はあの鳥居を探した。
「!」
 あった。
 確かに、鳥居があった。
 けれど変わらない。ビルの壁が、その先に行くのを阻んでいる。
 やはり、都市伝説は、あくまでも都市伝説なのだろうか……。
「裏通りにいくのかい?」
「ひゃあ!」
 不意に背後から声をかけられて、私は心臓が止まる思いをした。
 あやうく口から飛び出るところだ。
「え、あ、あなた、誰です?」
「誰だっていいさ。たまたま通りかかった、じじいなだけで」
 背後に立っていたのは初老の男だった。
 今時珍しい、着流しを身にまとっている。
 頭には黒いハットを被っていて、それがひどくハイカラに見えた。
 ……よもやこっくりさん、ではないだろうな。そんなふうに警戒してしまう。
「ははあ。お嬢さん、あの女狐の知り合いかい」
「女狐って……こっくりさんのことですか?」
「いかにも」
 初老の男は、にこにこと頷いた。
 不思議と、嘘は言っていないように思えた。
「それよりも、この時間、向こう側は大賑わい。あんまりお勧めしないよ。……ああ、でも、お嬢さん……」
 初老の男は値踏みでもするかのように私を上から下まで見渡した。
 そうして、なるほど、と一言頷くと、にっこり笑ってこう言った。
「おいで。ひとつ、このじじが手を貸してやろう」
 彼はそういうと、鳥居の下に立って招きした。
「!」
 私は二度見した。
 あったはずの、ビルがない。
 確かに今、鳥居はくぐれそうにもなかったのに、今度はきちんと道が見える。
 私は。
 ゆっくり深呼吸して、男が手招きする方へ、一歩、踏み出した。
 とたんに、景色がぐにゃりと一瞬ゆがんで、すぐに元通りになった。
 私は思わず振り返った。
 さっきまでの雑踏が入り口の鳥居越しに、ひどく遠く、かすんで見えた。
「ここは現とこちらの境界線、あの鳥居を抜ければ『こちら』側だ」
 男は道の先にある、鳥居をそっと指さした。
 この道は、両端に鳥居があるようだ。
 前をみても、後ろを見ても、鳥居がある。
「さ、あの鳥居をくぐって、鬼の社にお行きなさい」
「わっ!」
 ぽん、と背を押されて、私の体は鳥居から裏路地のような中の通りに出た。
 怪しげな露天が両端にずらりと並んでいる。
 慌てて振り返ると、鳥居越しに、男がニコニコしてこちらに手を振っていた。
 私は、インターネットで見かけた都市伝説を思い出していた。
 確か、こう書かれていたはずだ。
 ──ここ鬼川原町で、まことしやかに囁かれる噂がある。
 あやかし横丁と名づけられた商店街のわき道。
 赤い鳥居が掛かったそのわき道を進んで、一本中の通りへ。
 裏路地のようなそこを進むと、両端を怪しげな露天で挟まれた商店街の裏側へ出るのだという。
 そんな裏側の突き当たり。
 高いビルの隙間から、わずかに陽の光が差し込む場所に、ソレはあるらしい。
 木々に囲まれた森のようなソレのすぐ側には小さめの噴水があって、奏でる音は小川のせせらぎを連想させた。
 古民家カフェのようなどこか古めかしい木造の外観は、大きな木々に隠されていた。
 木漏れ日の隙間から朱色の三角屋根が見えなければ、建物があるとは気づかないだろう。
 壁にも、屋根にも、看板にも、ツタやコケなんかがこびりついている。
 まるで自然に飲み込まれたみたいなそこに──『ソレ』は在る。
 通称、『鬼の社(おにのやしろ)』。
 そこには『あくまさん』なる鬼が住んでいて、彼に気に入られれば願いを叶えて貰えるが、気に入られなければ食べられてしまうのだという。
「……本当に、在った」
 ソレを見上げて、私は呆然と呟いた。
 時刻は午後九時四十五分。
 タイムリミットが、迫って来ていた。
「……ここが、『鬼の社(おにのやしろ)』……」
 大きな深呼吸をして、それを見上げた。
 森の隙間から、古民家が見える。
 高いビルの隙間から差し込んだ光が、まるで柱のように緑に突き刺さっていた。
 スマホを握る手が震えていた。
 噂の全てが本当ならば、もし、もしも気に入られなければ──食べられてしまうのだ。
 恐る恐る、私は建物に近づいた。
 看板には、確かに『鬼の社』とある。
 鬼なんて名乗っているのに、『あくまさん』とは、何かハイカラな感じがした。
 そのあたりは、そうだ、あの初老の男によく似ている。
「…………」
 ごくり。喉を鳴らして、ドアに手をかける。
 ──からんからん。
 意を決してドアを引くと、まるでお店のように、呼び鈴が鳴った。
 光が差し込んで、薄暗い屋内を照らす。
「──おや」
 そこに立っていたのは、黒い羽織を羽織った女性だった。
「いらっしゃい、迷えるお嬢さん」
「! お、おんなの、ひと……?」
「いかにも。……ああいや、『今は』といったほうがいいかな。別に私に性別なんて、さしたる問題ではないからね」
 彼女はそんなふうに笑って、こちらに手招きした。
「おいで。私を訪ねてきたんだ、よほど困っているんだろう?」
 そう顔に書いてあるとも、と彼女は言った。
「……失礼します」
 そう呟いて、私は中に足を踏み入れた。
 普通の玄関だ。少し段差があって、その先はフローリングになっている。
 靴を脱いで、フローリングに足を滑らせる。
 すたすたと歩いていく彼女を追いかけて奥に進むと、応接間らしき部屋に出た。
 ソファが二組向かい合うように置かれていて、真ん中には大きなテーブルが置かれている。
 そのすぐ後ろには執務机のようなものが置かれていて、部屋の両側は大きな本棚で埋め尽くされていた。
 彼女は、ソファに座って待っていた。
「さて、お嬢さん。君の話を聞かせてくれるかい?」
 どうぞ、座って。
 そう促されて、私はおずおずとソファに座った。
 対面すると、彼女の異様さが見て取れた。
 年齢も、性別も、定かではないように見えた。
 艶やかな黒髪が、どれほど長くてはらはらと揺れていても、確かにどちらとも断言ができない。
「……私の友人が、大変なことに、なっているようで」
「君の友人?」
「はい」
 私は事細かに、昨日のこと、それから、今朝のこと。
 この町、鬼川原町に来てからのことを話した。
 彼女は、じ、と私を見つめながらその話を聞いていた。
 そうして、聞き終わると、ただ、ぽつりと呟いた。
「自業自得の案件だな」
 顔からは、興味が失せたようにうかがえた。
 私は慌てて身を乗り出した。
 気に入られなければ、食われる。
 その一文を思い出したからでもあるし、彼女に見捨てられれば、私にはもう後がない。
 何しろ時間がないのだ。
「ま、待ってください、確かにそうかもしれないけど、でも……!」
「はは。まだ何も決めていないよ」
 何しろ、と彼女は続けた。
「決めるのは私ではない。……お嬢さんだからね」
「私……?」
 彼女は立ち上がると、執務机の引き出しを開けて、一冊、分厚い本を取り出した。
 真っ赤な表紙には何も書かれていない。
「君に非があるとすれば、『巻き込まれた』ことだ。それ以外には何もない。そうして、困ったことに彼女にも非はない。定められたルールに従って、定められた遊びを行い、定められた狩りをしているだけ」
「…………」
「地獄の裁判にかけたら、そうだね、間違いなく君の友人たちは魂をとられる。情状酌量の余地はあまりにない。好奇心猫を殺すと、よく言うだろう?……そこで、だ」
 にっこりと、彼女は微笑んで、私に一枚、羊皮紙を提示した。
 契約書、と題されたそれには、長々と文章がつづられていて、下の方に二か所、署名捺印する欄がある。
「君はすべてを捨ててでも、かつてのクラスメイトを救う勇気はあるかい?」
「!」
 一瞬、私は怯んだ。
 すべてを捨てて、とは、どういう意味かわからなかった。
「君だけというなら、私も尽力しよう。君には情状酌量の余地が少しはある。けれどクラスメイトたちにはあまりに無いので、私にはどうすることもできない。となると、君が自分で何とかするしかない」
「……私が、自分で……」
「もちろん手段は私がお膳立てをしようとも。ここはそういう場所だからね。君の願いに応じた『もの』をご用意しよう」
 かた、と彼女はペンを机に置いた。
 私が手を取りやすいように向きを変えて、す、とこちらに押し出した。
「鬼の社、とはいわゆる悪魔紹介派遣事務所のことでね。私は本来、ここを訪れた者に、持ち合わせた願いに応じた的確な悪魔を紹介し、双方の契約を結ぶことを仕事としている。ひとまず悪魔との契約について説明しようか」
「は、はい」
 言いながら、思わず私はスマホを取り出して時間を確認した。
 彼女と話してから、結構時間が経っている気がしたのだ。
「ああ、安心なさい。この建物内の時間は狂わせてある。約束の時間には間に合わせよう」
「あ、ありがとうございます……」
「それでは説明に入るよ」
 まず一つ。
 そう言って、彼女は指で、契約書の一行目を示した。
「契約に際して、破棄するまでは君は男女の交わりを持つことは許されない」
「男女の、交わり?」
「色恋沙汰の一切と思っておけばいいさ」
 次に、と今度は二行目を示す。
「特定の神への信仰心を持つことは許されない」
「えっと、それはどういう……」
「教会には入れないってことさ。ミサに参加するとか、懺悔室にこもるとか。バイブルを読むとか、そういう関係だよ」
「?」
「まあ、キミにはそういった信仰がないようだから、関係はないだろう」
 三行目に、指が移る。
「契約者は死後、魂の管理権を悪魔に譲渡することを認める」
「……それは、もしかして」
「そうさ。死後裁判は開かれない。君は問答無用で地獄行きってことさ!」
 さわやかな笑顔で、彼女はそう告げた。
 これは、少し胸に響いた。
 死後の世界があるとか、ないとか、そういうことはとくに関心がなかったが、明確に断言されると、少し揺らぐものがある。
「最後に、ここが重要だ。……契約者は契約の破棄ができないが、悪魔は契約者と契約の破棄が可能である」
「……つまり、私は自分で契約を切ることができない、ってことですね?」
「その通り。一度これに署名すれば、彼らが望まない限り二度と縁は切れない。彼らは君の魂が目的だからね、契約を切ることはほぼないだろう」
 足を踏み入れたら最後。
 この後、私はこの世界を知る前には戻れないということだ。
 どんなに嫌になっても、ここから逃げることはできないということだろう。
 死んでもなお、地獄におちることを約束しているのだから、絶対的な自殺によるこの世からの逃亡でも逃げ切れないのだ。
「ま、つまりは君の、世間一般に言われる『人間としての幸福』は失われるということかな。それでもいいというなら、私の哀れみ割引をつけて、対価は最小限、キミの魂だけで契約を施行しよう」
 どうする? と、彼女はつぶやいた。
 私の手は震えていた。
 私だけが助かる道は、彼女が提示してくれている。
 ──そうだ。あの夜みたいに、私だけが助かったっていいのだ。
 両親が、家が、燃えて、なくなったみたいに。
 あの時、父も母も、家の中にいた。
 そう知っていた。
 私だけが、炎が出たことに気が付いて、あの日も、私だけは助かる位置に偶然いて、両親は逃げろといったから、私は言われた通りに逃げた。
 炎が熱くて、怖かったのだ。
 葬式の際に、初めて神川と出会って、親戚一同の心ない言葉をきいて、思った。
 私が、逃げたから。
 私が一人で、私の為だけに逃げたから。
 こんなに、苦しい思いを──するのだと。
(……千鶴子)
 一生をかけるべき友達なのか?
 一生をかけるべきクラスメイトなのか?
 どこかから声がする。
 引っ越しした後も、一度も手紙なんて、遊びになんて、来なかった連中だぞ、と誰かが言う。
 ──ああ、けれど。
 そうだ。そうだった。
 今更迷うくらいなら、──あの日。
 そもそも、自分も死ぬかもしれないのに、線路へ飛び出したりなんてしないのだ。
「……ほう」
 私は、震える手でペンをとった。
 そうして、しっかりと、羊皮紙に自分の名前を書き記した。
「君の覚悟は受け取った。それでは、君に悪魔を紹介しよう」
 彼女は、そういうと本を手に取った。
 赤い本をぱらぱらと開いて、とあるページでぴたりと止めた。
 不意に、空気が冷たくなるのを感じていた。
 どこからともなく、異臭──そうだ、硫黄に似たにおいが漂ってくる。
「姿勢を楽に。ゆっくりと目を閉じて、ただ、そうだな、瞼の裏に願いを思い浮かべておきなさい」
「は、はい!」
 ぎゅっと目を閉じて、瞼の裏に千鶴子を思い浮かべる。
 私の願い。願いは、願いは──。
 ──願いは?
「……だから、姿勢を楽にだってば」
 ぽんと肩を叩かれると、不思議と全身から力が抜けた。
 あれ、今の、誰だっけ。
 彼女は、あくまさんは確かに向かい側のソファに腰かけていたはずだ。
 では、今のは?
(ああ、だめだ。余計なことは、考えちゃダメなんだ)
 思考から感情をそぎ落とす。何、いつかの夜にやったことだ。
 それは例えば、そう、両親の葬儀の夜とか、そんな日に苦しさのあまりやったこと。
 何も考えなくていい。何も、思わなくていい。
「           」
 本当に小さく、何かをささやくような声がした。
 あくまさんの声だろうか。
 何かを、誰かに話しかけているような声だ。
 耳を傾けると、ようやくのこと、少しだけ聞き取れた。
「汝、我が求めに応じて姿を見せよ」
「ここに我が名をもって、汝の姿と力をこの地に繋ぎ留める」
「この地の神は承諾した。──鬼の社が責を持つ!」
 ほどなくして、硫黄の匂いが強くなった。
 どこか遠くで、炎の音がした。
 いや、それどころか、ぴしゃあああん、とホラー映画のように、窓の向こう側で雷が落ちる音がした。
 思わず身をすくめた私に、ようやくのこと、彼女から声がかかった。
「どうぞ、目を開けて」
「……、……!」
 ぼんやりとした視界の中に、何かが立っている。
 私の目の前に、そうだ、あくまさんの横に、男が──スーツを着た、豹頭の男が、立っている……!
(硫黄の匂いがする……)
 どうやら彼から、この異臭は漂っているらしい。
 彼はじ、と赤い目で私をにらみつけた。
「……貴様が俺との契約を望むものか?」
 鋭い目つきだった。
 気を抜いたら殺されてしまいそうだと思った。
「はい」
 震えを必死に押さえつけて、私はゆっくりと頷いた。
「まだ小娘ではないか……。おい、貴様の呼び出しだから応じたのだぞ」
 彼は不満そうに、あくまさんをにらみつけた。
 あくまさんは、おどけるように笑うと、まあまあ、と彼をたしなめた。
「人は見た目にはよらないでしょう。きっと貴方は、この子を気に入ると思いますよ」
「…………………」
 再び、じ、と視線がこちらに向けられた。
 私は、できうる限り毅然としようと、背筋をぴんと伸ばした。
 誰でもいい。誰でもいいから、助けてもらわないと、千鶴子を救えない。
「それに、貴方が気に入らないと思うのでしたら、契約をいつでも破棄できるでしょう?」
「…………、……それもまあ、その通りだ」
 やや間をあけて、彼はペンを手に取った。
 すらすらと契約書にサインをして、彼女に手渡した。
「調停者よ。持っていくがいい」
「はい。確かに」
 彼女は恭しく礼をすると、立ち上がって契約書を宙に放った。
 宙に浮いた契約書は、ぱっと三つに分かれて、どういう理屈なのか、同じ紙が三枚に増えた。
 一枚は私の手元に。
 一枚は豹頭の男に。
 一枚は、彼女に。
 コピーするよりも鮮明で、まるで本紙がただ三枚に分裂したように見える。
「それでは、ここに鬼の社の名の元、契約を施行します。両者、名を名乗ってください」
 二人の視線が、私に注がれて、思わず私は立ち上がった。
 まるで授業中、教師にあてられたように、背筋を伸ばして直立して、言葉が口から飛び出ていった。
「く、黒田結子と申します! よろしくお願いします!」
 続けて、豹頭の男が腕組をしたまま、口を開いた。
「ソロモン七十二柱が一柱、序列五十七番。──オセという。汝、我が力を見事使いこなしてみせよ」
 彼はとくに立ち上がることはなかった。
 最後に、あくまさんが、締めの言葉を口にした。
「それでは──今ここに、契約を締結する!」
 一瞬、何か、光が室内を覆った。
 あまりの眩しさに視界が奪われて、しかしほどなくして、光は部屋から消えていった。
 何が起きたのかわからなかった私は、呆然としていた。
 ただ違うのは、向かい合って座っていたはずの、豹男、オセ、といっただろうか。
 オセが、私の隣に座っていることか。
「ふむ。まあ、そこそこ素質はあるのか。微弱だが、魂の質は悪くない」
「……?」
 小首をかしげると、オセは立ち上がった。
「何を呆けている。……貴様、やることがあったのではないか?」
「あ!」
 私は慌ててスマホを見た。
 時計は、午後九時五十分のまま止まっている。
「どれ、最初の命令をきいてやろう。お前の願いを申してみるがいい」
 オセは、私の手をつかむと、手の甲に軽くキスをした。
 するとなんということだろう。
 手の甲に──何か、魔法陣的なものが浮かんでいる……。
「それは契約の証だよ。力あるものにしか見えないものだから、安心するといい」
 あくまさんはそういって、執務机の方に歩いて行った。
 まるでもう自分の役割は終わったと、そういうふうに示すようだった。
 私は、手の甲を見つめた。
 痛くはない。
 違和感があるわけでもない。
 冷たくもないし、熱くもない。
 ただ、そこに自然に浮かび上がっているだけだ。
「どうした。命令せんのか?」
「命令、といわれても……どうしていいか……」
「ただ願いを口にすればいい。お前はどうしたいと思って、ここにきたのだ?」
 そう問いかけられて、私は、言われた通りに答えを口にした。
「……千鶴子を助けたい」
「ほう?」
「こっくりさんから、千鶴子を助けたい。死なせたくない。もう誰も、目の前で死んでほしくない!」
 私の言葉をきいて、オセは無表情な顔に、ようやくのことニタリと笑みを浮かべた。
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