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1章 運命の出会い

5、侍と勇

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靄がかかったような感覚が消えていき、うっすらと意識が戻ってきた。

ゆっくりと目を開けると、ちょんまげ頭のおじいさんの上半身が宙に浮かんでいた。その容姿は時代劇で見たことがある。そう、侍だ。
侍は顔の下半分が髭に覆われて、肌や服の色は、透けているかのように透明だった。

ぼくは、目の前の侍の存在が信じられなかった。
鈍い痛みが残る全身に鞭を打って、這うようにその場から逃げだした。しかし進んでも進んでも、ぼくの目の前には侍の姿が浮かんでいる。

「こっちに来ないでくれ!」ぼくはそう言って、手を払った。
しかし、その手はすうっと、侍の体を貫通した。

このとき、ぼくは悟った。
透明な色、貫通する体、この侍は幽霊かもしれない、と。

幽霊だとわかると、さらに恐怖が増してくる。さきほどの男よりも、目の前の幽霊侍のほうが恐ろしい存在なのではないか。

驚くことに、その幽霊侍はぼくに話しかけてきたのだ。

「儂は魂だけの存在じゃから触れることはできんぞ。
それと、お主は儂から逃げられんよ。憑依しておるからな」

ぼくはゆっくりと聞き返した。
「ひょうい?」

「そう。`憑依`じゃ。魂だけの存在の儂は、お主の体を借りておるということじゃな」

「…いつまでぼくに憑依するつもりなの?」

ぼくは事態が飲み込めていなかったが、侍は温かみのある声をかけてくる。
「まあ当分の間、じゃな。

生じている事態は理解できんじゃろうが、今後、ゆっくりと説明をするから今はとりあえず儂を信じて落ち着いてくれんか?
儂はお主に危害を加えるつもりはないし、さっきお主を襲った奴を倒したのも儂じゃ」

「奴ってあの男のこと?」

「そうじゃよ。一突き呉れてやったら、逃げていったよ。
まあ、正確に言えば、儂がお主の体を借りて戦っただけなのじゃがの」

「ということは、あ、あなたが男を倒してくれたんだね、助かったよ…ありがとう」

「そうなんじゃ!まあ、とにかく安心せえ。儂はお主の味方じゃ。あの札を剥がしてくれたお主は、儂にとっては恩人でもあるしのう」

安心せえという侍の言葉と、穏やかなその声は、ぼくを少し安心させた。

少しずつ恐怖が和らいでくると、目の前の侍に興味が湧いてくる。
「あの、あなたの名前はなんと言うの?」

「儂の名は…いや、今は一条兼定様の家来とだけ伝えておこう。兼定様は亡くなっておるが…」

「一条兼定?誰それ?」
ぼくはそう言って、ポケットの中に入っていたスマートフォンを手に取った。

「なんだそれは?」侍は訝しがる。

「これは、スマホだよ」
 
「スマホ?」
 
「なんでもわかる機械だよ。母さんが、連絡用に買ってくれたんだ」

ぼくは一条兼定を検索した。
戦国時代から安土桃山時代にかけての戦国大名で、土佐一条氏の事実上の最後の当主。
長宗我部氏によって領土を侵食され、また筆頭家老の土居宗珊を殺害したために信望を失い、隠居を強制された。

検索結果をみると、決して優秀な人物だったとは記されていない。

「侍さん、言いづらいんだけど、兼定さんの評価、低すぎるよ」

「まあ、そうじゃろうな。兼定様の政治手腕はお世辞にも良いとは言えなかった。しかし、あれは仕方がなかったのだ。長宗我部の...
よそう。これ以上、お主に話しても仕方があるまい」

「そっか…」

ぼくはそれ以上、侍に質問をしなかった。いずれ、侍の方から話してくれそうな気がしたからだ。
侍は今後もぼくに憑依すると言っていた。信じられないけれど、この現実を受け止めなくてはならない。幸い、話してみると悪い人ではなさそうだ。

少し緊張感が解けると、ぼくはもう一度、宙に浮かぶ侍の顔をまじまじと見つめた。
ちょんまげ頭に似合う髭も、鋭い目つきも、よく見ると、それほど怖くない。

「へへ…」

ぼくは、なぜか笑ってしまった。先ほどまであんなに怖かった幽霊の侍という存在を、いつのまにか受け入れることができていたのだ。

すると侍は、柔和な表情で語りかけてきた。

「お主、笑えるじゃないか?」

「え?」

「お主はさっきから、ずっと険しい表情をしておったからな」

「けど笑ったのは久しぶりかもしれない。ぼくの人生は、人から評価されることが少ないし、楽しいことも少なかったから…」

「何も寂しいことを言っておるのじゃ?まだお主は若い。とにかく笑えばいいのじゃ。どんな時でも笑っておればよい。」

「でもぼくは、感情の起伏が少なくて、からっぽだし。弱弱しくて情けないし…みんなからバカにされるし…」

「周囲からの言葉を気にせずともよい!お主は、自分の信じる道を貫けばいいのじゃ。そんなお主を評価してくれる人はきっとおるのじゃから」

「ほんとかなあ?」

「ほんとじゃよ。自分を信じて、支えるべき人を見つけるのじゃ。たとえ、裏切られても、な」

そう告げたときの侍さんの顔は、少し憂いを帯びていた。
その意味は、わからなかったが、侍さんは何か重いものを抱えているように思えた。
重いものを抱えていないと、何百年も経ってからこの世に現れたりしないだろう。

そのとき、ぼくは侍さんに心を開いていた。
「ねえ。あなたのことを、侍さんって、呼んでもいい?」と尋ねた。

「ああ、別に良いぞ。」

「ありがとう。よろしくね。侍さん」

そうして、ぼくと侍さんの奇妙な日々が始まった。

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