診察室の午後<菜の花の丘編>その1

スピカナ

文字の大きさ
224 / 363
第12章 夏デビューへ

222話 弱音

しおりを挟む
 帰宅すると、莉子も桃香も食事を済ませたそうだ。

「夏は?」

「知らない。ずっと春ちゃんの寝室で練習でもしてるんじゃないの?」

「桃香はおにいの顔を見た?」

「見ないよ。怖い顔してるもん」

なんだかうつむいてちょっと寂し気な表情をしていた。
いつもならベタベタに甘やかしてくれるもんね。

「ふっ、そうなんだ。桃香、おいで」

呼んで抱きしめた。小さな手で俺の首に手を回してくる。かわいい。

「あのね、おにいはやらないといけないことがいっぱいあるんだよ。だから不安で怖い顔になっちゃうんだ。でも桃香のことは大好きだからね。分かってやってね。今度顔を見たら、手を繋いであげてみて」

「うんっ」と頷いて、分かったようだった。

可愛くてしばらくそのまま抱きしめて髪を撫でる

「今日は塾で何を習ったの?」
「えっとね、算数と国語。算数は難しかった」

「ふ~ん、算数はどんなところをやってるの?」
「方程式が分かんないよ」

「う~ん、そうか。小学校の算数では方程式は出ないからね。桃香はゆっくりやっていけばいいよ。分からないところは、分かるまで教えてもらえばいいんだからね」

「うん、わかった」

髪を撫でてやり、またぎゅっと抱きしめた。
子供の柔らかい匂いがした。

莉子がテーブルに肘をついて、やさしい眼差しで俺たちを見ていた。

「ご飯にしようかな……でも、夏は食べてないんだよね?」
「うん、多分ね」
「じゃあ、呼んでくるよ」

寝室に入ると、夏は眠っていた。どうしようか。

眠っている夏の髪を撫でて、頬にキスをした。

すると夏が両手を俺の背中に回した。……なんだ、起きてるのか?

「夏、どうした? 疲れたのか? ご飯を食べようよ」

「俺、もう自分がダメだってわかった‥‥‥」

「ふっ、もうか?」

うん、と頷いた。

「そうか。じゃあ、やめようか?」

夏が一瞬固まった。

「だって、それはダメでしょう?」

「ダメなもんか。まだ何にも始まってもいないよ。今から辞めれば間に合うよ」

……夏が唇を噛んで目尻に涙が滲んできた。

「向こうはプロだから、できる範囲を知ってるんだよ。だから、できないことは最初から要求しないと思うよ」

「‥‥‥そうなのかなあ?......」

「そうさ。やるだけやって、採用されなくてもいいじゃない。少なくとも、これだけ練習すればカラオケで歌えるようになってるよ。儲けもんだろう?」

ふふふと頬が緩んできた。

「なってるかな?」

「うん、なるなる。俺の夏は優秀だからな。それに、俺しか知らないことがある」

「えっ? なに?」

「ベッドでの夏の声。きれいだよ。内緒にしようと思ってたけど、女の子のような細い高い声が出る。俺の好きな夏の声だよ。魅力的だ」

夏がふふふと笑って、俺に抱きついてきた。

「だって、それはお兄さんしか知らないじゃん」

「うん、そうだよ。だから内緒にしておきたかったんだよ」

夏が顔をあげて、俺を見つめた。

「なんか俺、またやる気が出たみたい」

「あははは、単純な奴だな。じゃあ、ご飯を食べないと声が出ないよ。下に行こう」

「納得、分かった。行くよ」

急に元気が出たみたい。

「今夜ベッドで歌ってみる?」

「もう~そんなこと言われると、俺できなくなるかも__どうしよう?」

頬が緩んで照れまくっているのに、やや上目づかいの視線で俺を見つめた。

「そんな心配は要らないよ」

どうせ夏はベッドに入れば目をつぶってるんだし、
自分の声に気が付いていないんだから……まったく、悔しい。

なんで他人に聞かせなくてはいけないんだ?
全然納得できないのは__多分俺だけだな......。

深いため息をつきつつ、
ベッドから起きて夏の手を引いて起こした。

ドアを開けようとする夏の手を引っ張り、抱きしめて深い口づけを重ねた。
何回も何回も角度を変えて、夏の舌を絡め合って吸って噛んだ。

「…ん、う......あ…ッ、ふ......」

こんなかわいい声を誰に聞かせるんだ?

ふう__「ダメだよ、だって行くんでしょう?」
夏が熱い息を吐いて少し震える。

しょうがない。頭が爆発しそうだけど、きりがない。
我慢するしかないのか......。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

『続・聖パラダイス病院』

菊池昭仁
現代文学
『聖パラダイス病院』の続編です。こんな病院なら入院生活も悪くはありません。

大丈夫のその先は…

水姫
恋愛
実来はシングルマザーの母が再婚すると聞いた。母が嬉しそうにしているのを見るとこれまで苦労かけた分幸せになって欲しいと思う。 新しくできた父はよりにもよって医者だった。新しくできた兄たちも同様で…。 バレないように、バレないように。 「大丈夫だよ」 すいません。ゆっくりお待ち下さい。m(_ _)m

月弥総合病院

御月様(旧名 僕君☽☽‪︎)
キャラ文芸
月弥総合病院。極度の病院嫌いや完治が難しい疾患、診察、検査などの医療行為を拒否したり中々治療が進められない子を治療していく。 また、ここは凄腕の医師達が集まる病院。特にその中の計5人が圧倒的に遥か上回る実力を持ち、「白鳥」と呼ばれている。 (小児科のストーリー)医療に全然詳しく無いのでそれっぽく書いてます...!!

女性が少ない世界でVTuberやります!

dekoma26+ブル
恋愛
ある日朝起きてキッチンに行くとそこには知らない男性たちが! …え、お父さん⁉ なぜか突然女性の少ない世界に来てしまった少女がVTuberをしたり、学校に通ったりするお話。 ※初日一気に4話投稿してから恋愛大賞エントリーしたため文字数5万これから(´;ω;`)みんなも参加するときは注意してね! ※忘れてなければ毎週火曜・金曜日の夜に投稿予定。作者ブル

恋が温まるまで

yuzu
恋愛
 失恋を引きずる32歳OLの美亜。 営業課のイケメン田上の別れ話をうっかり立ち聞きしてしまう。 自分とは人種が違うからと、避けようとする美亜に田上は好意を寄せて……。

俺様上司に今宵も激しく求められる。

美凪ましろ
恋愛
 鉄面皮。無表情。一ミリも笑わない男。  蒔田一臣、あたしのひとつうえの上司。  ことあるごとに厳しくあたしを指導する、目の上のたんこぶみたいな男――だったはずが。 「おまえの顔、えっろい」  神様仏様どうしてあたしはこの男に今宵も激しく愛しこまれているのでしょう。  ――2000年代初頭、IT系企業で懸命に働く新卒女子×厳しめの俺様男子との恋物語。

俺に抱かれる覚悟をしろ〜俺様御曹司の溺愛

ラヴ KAZU
恋愛
みゆは付き合う度に騙されて男性不信になり もう絶対に男性の言葉は信じないと決心した。 そんなある日会社の休憩室で一人の男性と出会う これが桂木廉也との出会いである。 廉也はみゆに信じられない程の愛情を注ぐ。 みゆは一瞬にして廉也と恋に落ちたが同じ過ちを犯してはいけないと廉也と距離を取ろうとする。 以前愛した御曹司龍司との別れ、それは会社役員に結婚を反対された為だった。 二人の恋の行方は……

溺愛ダーリンと逆シークレットベビー

吉野葉月
恋愛
同棲している婚約者のモラハラに悩む優月は、ある日、通院している病院で大学時代の同級生の頼久と再会する。 立派な社会人となっていた彼に見惚れる優月だったが、彼は一児の父になっていた。しかも優月との子どもを一人で育てるシングルファザー。 優月はモラハラから抜け出すことができるのか、そして子どもっていったいどういうことなのか!?

処理中です...