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ツムギはパーカーの裾を摘まみ、首を少し傾げる。無邪気な仕草なのに、その一つ一つが私の心を締め付ける。彼女は待っていた。私が何か言うのを、信じてる。まるで、私の中にまだ何か光るものがあると、最初から知っているかのように。
「そんなの……ないよ」
呟いた瞬間、喉が熱くなった。美咲の笑顔が、教室のざわめきが、和人の気さくさな声が頭の中でぐるぐる回る。いつもみたいに逃げようとした自分が、たまらなく嫌いだった。家に帰って、暗い部屋に沈めば、この気持ちもあの夏の傷も埋められる。でも、頭の片隅で、高校の教室がちらつく。知らない顔、知らない笑い声。また一人で隅にいる自分。あの灰色の時間を、もう繰り返したくない――そう思った瞬間、胸の奥で何かが砕けた。
大きく息を吸う。桜の甘い香りが、肺の奥まで染みて、ざわついた心をそっと撫でる。美咲の目が一瞬遠のき、目の前のツムギの笑顔がその影を薄めた。私は震える手でカバンを開け、小さなスケッチブックを取り出した。
「ちょっと……待ってて」
声が掠れる。ツムギが「?」と小さく首を傾げた、ページをめくる手が震える。そこには、卒業式の後に描いた海の絵があった。鉛筆だけで描いた、色のない海。水平線は少し歪み、雲はぼんやり浮かんでいる。なんてことない落書き。でも、この絵にはあの日の私がいた。勉強机の前で、窓の外を見ながら感じた名前のない気持ち。退屈と、寂しさと、美咲に置き去りにしたあの夏と、でもどこかで信じていた何か――それが、線の一本一本に滲んでいる。
この絵を見せるなんて、怖くて考えたこともなかった。下手だって笑われるかもしれない。美咲が私を見なくなったみたいに、誰かに「つまらない」って思われるかもしれない。でも、ツムギのまっすぐな瞳を見たら、なぜかその恐怖が薄れた。彼女なら、私を置き去りにしない。そんな気がした。
「これ……ダメかな?」
スケッチブックを差し出す。手が震えて、紙が小さく揺れる。心臓が喉まで上がってきて、息が詰まりそう。まるで、美咲に話しかけたあの日の私が、もう一度試されているみたいだった。ツムギは目を丸くして絵を覗き込み、ぱっと顔を上げた。
「わぁ……海! すっごくきれいです!」
彼女の声は、桜の花びらが風に舞うように軽やかで、でも私の心に深く刺さった。きれい? そんなはずない。この絵は、私の傷の欠片なのに。美咲には何の価値もなかった私の欠片なのに。なのに、ツムギの笑顔はあまりに純粋で、まるで私の心の奥まで見透かしているみたいだった。
「海、好きなんですよ。今日みたいな、青い海」
ツムギが絵をそっとなぞる。彼女の細い指が紙の上で止まった瞬間、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。この絵は、私そのものだ。言えない気持ち、誰にも見せられなかった傷、美咲に届かなかった私の声。でも、どこかで消したくなかった光。ツムギがそれに触れたみたいで、涙がこぼれそうになる。
「ツムギ、これ……あげる。私の、気持ち」
声が震えて、途切れる。恥ずかしくて、目を合わせられない。顔が熱くて、耳まで赤くなってるのが分かる。美咲に見せられなかった自分を、初めて誰かに差し出した気がした。ツムギは両手でスケッチブックを受け取り、まるで壊れ物を抱くように胸にぎゅっと押し当てた。
「ありがとう、成美さん……」
その言葉が、胸の奥に温かい波を広げた。美咲の冷たい目が、ほんの一瞬、溶けた気がした。涙が溢れそうで、慌てて空を見上げる。桜の花びらがひらひらと舞い落ち、青い海と混ざり合う。こんな気持ち、知らなかった。誰かに自分を少しだけ渡して、こんな風に心が震えるなんて。私のちっぽけな絵が、誰かの宝物になるなんて。
「ねえ、お姉ちゃん。名前、ちゃんと教えてください」
ツムギの声に、はっとする。さっき言ったのに、って笑いそうになるけど、彼女の真剣な目を見たら、なぜかもう一度言いたくなった。
「白瀬成美。成美でいいよ」
「成美さん! いい名前ですね! じゃあ、私、ツムギ。カンザキツムギ、今日で五歳!」
またその話、と小さく笑う。でも、ツムギのキラキラした瞳は、まるで私の心の影を照らしてくれるみたいで、胸が温かくなる。美咲の笑顔はもう遠く、ツムギの声がその隙間を埋めてくれる。彼女の「五歳」は、冗談かもしれないし、本当かもしれない。どっちでもいい。彼女がここにいる。それだけで、私の心は少しだけ軽くなった。
「ツムギ、誕生日おめでとう」
自然に出た言葉。ツムギは「えへへ、ありがと!」と頭をぺこっと下げる。その仕草があまりに愛おしくて、美咲に閉ざされた私の心が、ほろほろと溶けていくのを感じた。
桜のトンネルの下、潮風が頬を撫でる中、私たちは少しだけ話をした。ツムギは海の話が大好きで、波の音や貝殻の形を、目を輝かせて教えてくれる。私はその声を聞きながら、初めて「人と話すのって、怖くない」って思えた。美咲は私の声を聞いてくれなかった。でも、ツムギは聞いてくれる。桜の香りが、ツムギの笑顔が、私の心のひび割れた隙間をそっと埋めてくれる。
「ねえ、成美お姉さん。またここに来る?」
ツムギの声に、胸が小さく跳ねる。家から遠いし、わざわざ来るのは面倒だ。でも、今日感じたこの気持ち――美咲の影が少し薄れたこの瞬間――を、もう一度確かめたい。
「うん……また来るよ」
そう答えると、ツムギは満面の笑みで「やった! じゃあ、また会おうね!」と手を振った。
ツムギは軽い足取りで桜の木々の奥へ消えていった。白い髪が花びらと踊るように揺れるのを見ながら、胸の奥に名前のない感情が広がった。あの子は誰だったんだろう。ほんとに五歳? それとも、私の心が作り出した幻? でも、どっちでもいい。彼女がここにいて、私に笑いかけてくれた。それだけで、美咲の冷たい目が、ほんの少しだけ遠くなった。
自転車にまたがり、ペダルを漕ぐ。桜の花びらが髪に絡まり、海の風が頬を撫でる。来たときの重い心は、どこかへ溶けていた。涙が一滴、頬を滑り落ちたけど、なぜか笑顔だった。美咲に見せられなかった笑顔を、今日、初めて誰かに見せられた気がした。
家に着くと、夕焼けが空を赤く染めていた。部屋に戻り、スケッチブックが一枚減ったカバンを置く。少しだけ寂しい。でも、その代わりに、胸の奥に小さな種が芽吹いた気がした。
「高校……怖いけど、ちょっとだけ……」
窓の外を見ると、遠くの空はまだ夕焼けだった。
「そんなの……ないよ」
呟いた瞬間、喉が熱くなった。美咲の笑顔が、教室のざわめきが、和人の気さくさな声が頭の中でぐるぐる回る。いつもみたいに逃げようとした自分が、たまらなく嫌いだった。家に帰って、暗い部屋に沈めば、この気持ちもあの夏の傷も埋められる。でも、頭の片隅で、高校の教室がちらつく。知らない顔、知らない笑い声。また一人で隅にいる自分。あの灰色の時間を、もう繰り返したくない――そう思った瞬間、胸の奥で何かが砕けた。
大きく息を吸う。桜の甘い香りが、肺の奥まで染みて、ざわついた心をそっと撫でる。美咲の目が一瞬遠のき、目の前のツムギの笑顔がその影を薄めた。私は震える手でカバンを開け、小さなスケッチブックを取り出した。
「ちょっと……待ってて」
声が掠れる。ツムギが「?」と小さく首を傾げた、ページをめくる手が震える。そこには、卒業式の後に描いた海の絵があった。鉛筆だけで描いた、色のない海。水平線は少し歪み、雲はぼんやり浮かんでいる。なんてことない落書き。でも、この絵にはあの日の私がいた。勉強机の前で、窓の外を見ながら感じた名前のない気持ち。退屈と、寂しさと、美咲に置き去りにしたあの夏と、でもどこかで信じていた何か――それが、線の一本一本に滲んでいる。
この絵を見せるなんて、怖くて考えたこともなかった。下手だって笑われるかもしれない。美咲が私を見なくなったみたいに、誰かに「つまらない」って思われるかもしれない。でも、ツムギのまっすぐな瞳を見たら、なぜかその恐怖が薄れた。彼女なら、私を置き去りにしない。そんな気がした。
「これ……ダメかな?」
スケッチブックを差し出す。手が震えて、紙が小さく揺れる。心臓が喉まで上がってきて、息が詰まりそう。まるで、美咲に話しかけたあの日の私が、もう一度試されているみたいだった。ツムギは目を丸くして絵を覗き込み、ぱっと顔を上げた。
「わぁ……海! すっごくきれいです!」
彼女の声は、桜の花びらが風に舞うように軽やかで、でも私の心に深く刺さった。きれい? そんなはずない。この絵は、私の傷の欠片なのに。美咲には何の価値もなかった私の欠片なのに。なのに、ツムギの笑顔はあまりに純粋で、まるで私の心の奥まで見透かしているみたいだった。
「海、好きなんですよ。今日みたいな、青い海」
ツムギが絵をそっとなぞる。彼女の細い指が紙の上で止まった瞬間、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。この絵は、私そのものだ。言えない気持ち、誰にも見せられなかった傷、美咲に届かなかった私の声。でも、どこかで消したくなかった光。ツムギがそれに触れたみたいで、涙がこぼれそうになる。
「ツムギ、これ……あげる。私の、気持ち」
声が震えて、途切れる。恥ずかしくて、目を合わせられない。顔が熱くて、耳まで赤くなってるのが分かる。美咲に見せられなかった自分を、初めて誰かに差し出した気がした。ツムギは両手でスケッチブックを受け取り、まるで壊れ物を抱くように胸にぎゅっと押し当てた。
「ありがとう、成美さん……」
その言葉が、胸の奥に温かい波を広げた。美咲の冷たい目が、ほんの一瞬、溶けた気がした。涙が溢れそうで、慌てて空を見上げる。桜の花びらがひらひらと舞い落ち、青い海と混ざり合う。こんな気持ち、知らなかった。誰かに自分を少しだけ渡して、こんな風に心が震えるなんて。私のちっぽけな絵が、誰かの宝物になるなんて。
「ねえ、お姉ちゃん。名前、ちゃんと教えてください」
ツムギの声に、はっとする。さっき言ったのに、って笑いそうになるけど、彼女の真剣な目を見たら、なぜかもう一度言いたくなった。
「白瀬成美。成美でいいよ」
「成美さん! いい名前ですね! じゃあ、私、ツムギ。カンザキツムギ、今日で五歳!」
またその話、と小さく笑う。でも、ツムギのキラキラした瞳は、まるで私の心の影を照らしてくれるみたいで、胸が温かくなる。美咲の笑顔はもう遠く、ツムギの声がその隙間を埋めてくれる。彼女の「五歳」は、冗談かもしれないし、本当かもしれない。どっちでもいい。彼女がここにいる。それだけで、私の心は少しだけ軽くなった。
「ツムギ、誕生日おめでとう」
自然に出た言葉。ツムギは「えへへ、ありがと!」と頭をぺこっと下げる。その仕草があまりに愛おしくて、美咲に閉ざされた私の心が、ほろほろと溶けていくのを感じた。
桜のトンネルの下、潮風が頬を撫でる中、私たちは少しだけ話をした。ツムギは海の話が大好きで、波の音や貝殻の形を、目を輝かせて教えてくれる。私はその声を聞きながら、初めて「人と話すのって、怖くない」って思えた。美咲は私の声を聞いてくれなかった。でも、ツムギは聞いてくれる。桜の香りが、ツムギの笑顔が、私の心のひび割れた隙間をそっと埋めてくれる。
「ねえ、成美お姉さん。またここに来る?」
ツムギの声に、胸が小さく跳ねる。家から遠いし、わざわざ来るのは面倒だ。でも、今日感じたこの気持ち――美咲の影が少し薄れたこの瞬間――を、もう一度確かめたい。
「うん……また来るよ」
そう答えると、ツムギは満面の笑みで「やった! じゃあ、また会おうね!」と手を振った。
ツムギは軽い足取りで桜の木々の奥へ消えていった。白い髪が花びらと踊るように揺れるのを見ながら、胸の奥に名前のない感情が広がった。あの子は誰だったんだろう。ほんとに五歳? それとも、私の心が作り出した幻? でも、どっちでもいい。彼女がここにいて、私に笑いかけてくれた。それだけで、美咲の冷たい目が、ほんの少しだけ遠くなった。
自転車にまたがり、ペダルを漕ぐ。桜の花びらが髪に絡まり、海の風が頬を撫でる。来たときの重い心は、どこかへ溶けていた。涙が一滴、頬を滑り落ちたけど、なぜか笑顔だった。美咲に見せられなかった笑顔を、今日、初めて誰かに見せられた気がした。
家に着くと、夕焼けが空を赤く染めていた。部屋に戻り、スケッチブックが一枚減ったカバンを置く。少しだけ寂しい。でも、その代わりに、胸の奥に小さな種が芽吹いた気がした。
「高校……怖いけど、ちょっとだけ……」
窓の外を見ると、遠くの空はまだ夕焼けだった。
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