2 / 2
第1話 止まった時間
しおりを挟む
朝の光は、いつもより少し白く見えた。
カーテンの隙間から細い線のように差し込む光が、
テーブルの端を淡く照らしている。
壁の時計は、今日も同じ場所で止まっていた。
二時四十二分。
妻が亡くなった日も、針はこの時刻で止まっていた。
偶然だと思っていた。
だが、電池を替えても、位置を直しても——
翌朝にはかならずここへ戻る。
一樹はその針をしばらく見つめ、それからゆっくりと立ち上がった。
今日は仕事が休みだ。
それなのに、身体はいつもの時間に目を覚ましてしまう。
生活のリズムは変わっても、心だけが立ち止まったままだ。
キッチンでやかんに水を入れ、スイッチを押す。
「カチ」という音が、静かすぎる部屋にやけに大きく響いた。
妻はいつもリビングで小さな音量の音楽を流していた。
中学校で生徒に教えるための曲。
自分で弾くピアノの録音。
ショパンの《別れの曲》の一部を繰り返し流しながら、譜面に書き込みをしていた。
そういう音が、ここから完全に消えて半年が経つ。
音がないというだけで、家はこんなにも違って見えるのか——
一樹は、いまだに驚くことがある。
湯が沸きはじめ、小さく鳴る。
その音に、涙腺の奥がわずかに反応した。
静寂はいつもそこにいて、
まるで “音の死骸” のように部屋の隅に沈んでいる。
コーヒーを淹れ、テーブルに置く。
水色のマグの底には、妻が書いた“Saori”の文字。
欠けた飲み口に親指をすべらせる。
半年経っても、これだけは捨てられない。
コーヒーをひと口飲む。
かつてはこの音に重なるように、
「おはよう」と妻の声が返ってきた。
今は、家電の作動音だけが返ってくる。
「……タバコ、吸うか」
独り言のように呟き、
ベランダの窓を開ける。
冷たい空気が頬に触れ、一瞬だけ目が覚めた。
結婚してからやめたタバコを、
また吸いはじめたのは妻を失った翌日のことだ。
一本取り出し、火をつける。
煙を吐き出すと、白い筋が静かに揺れながら風に消えていく。
手すりに置いた灰皿を見ると、吸殻が二本あった。
どちらも自分の銘柄。
昨夜、灰皿を掃除したような気がする。
……しなかったような気もする。
思い出そうとすると、
手を動かした“感触”だけが抜け落ちている。
最近、何をどうしたのか曖昧なことが増えた。
「……疲れてるんだな」
タバコを押しつけて火を消し、部屋に戻る。
コーヒーは少し冷めていたが、
微かな温度が喉を落ちていく。
少しでも“温度”のあるものに触れていたいと、
ふと思う。
テーブルの上には、昨日開いたままの新聞が置いてある。
指先が勝手にページをめくる。
そのとき、視界にひとつの数字が飛び込んできた。
“42”。
広告欄のキャンペーン番号。
昨日見たものと、まったく同じ。
一樹は、かすかに笑った。
笑ったというよりも、息が漏れただけのような笑い。
「偶然が続くと、偶然じゃなくなるのか……」
新聞を折り畳み、軽く投げるようにしてゴミ箱に入れようとした。
……が、入らなかった。
紙はふわりと宙を舞い、縁に当たり、
柔らかい音を立てて床に落ちた。
しばらく黙って見つめてから、
一樹はしゃがんでそれを拾い上げる。
今度はゆっくりと、
まるで何かを確かめるようにゴミ箱へ入れた。
底に沈む音が、静かに響く。
ただひとつ、
“42”という数字だけが内側に沈殿したまま、
じわりと広がっていくような感覚だけが残った。
それがこの先、
小さな不幸の最初の“音”になることを——
一樹はまだ知らなかった。
カーテンの隙間から細い線のように差し込む光が、
テーブルの端を淡く照らしている。
壁の時計は、今日も同じ場所で止まっていた。
二時四十二分。
妻が亡くなった日も、針はこの時刻で止まっていた。
偶然だと思っていた。
だが、電池を替えても、位置を直しても——
翌朝にはかならずここへ戻る。
一樹はその針をしばらく見つめ、それからゆっくりと立ち上がった。
今日は仕事が休みだ。
それなのに、身体はいつもの時間に目を覚ましてしまう。
生活のリズムは変わっても、心だけが立ち止まったままだ。
キッチンでやかんに水を入れ、スイッチを押す。
「カチ」という音が、静かすぎる部屋にやけに大きく響いた。
妻はいつもリビングで小さな音量の音楽を流していた。
中学校で生徒に教えるための曲。
自分で弾くピアノの録音。
ショパンの《別れの曲》の一部を繰り返し流しながら、譜面に書き込みをしていた。
そういう音が、ここから完全に消えて半年が経つ。
音がないというだけで、家はこんなにも違って見えるのか——
一樹は、いまだに驚くことがある。
湯が沸きはじめ、小さく鳴る。
その音に、涙腺の奥がわずかに反応した。
静寂はいつもそこにいて、
まるで “音の死骸” のように部屋の隅に沈んでいる。
コーヒーを淹れ、テーブルに置く。
水色のマグの底には、妻が書いた“Saori”の文字。
欠けた飲み口に親指をすべらせる。
半年経っても、これだけは捨てられない。
コーヒーをひと口飲む。
かつてはこの音に重なるように、
「おはよう」と妻の声が返ってきた。
今は、家電の作動音だけが返ってくる。
「……タバコ、吸うか」
独り言のように呟き、
ベランダの窓を開ける。
冷たい空気が頬に触れ、一瞬だけ目が覚めた。
結婚してからやめたタバコを、
また吸いはじめたのは妻を失った翌日のことだ。
一本取り出し、火をつける。
煙を吐き出すと、白い筋が静かに揺れながら風に消えていく。
手すりに置いた灰皿を見ると、吸殻が二本あった。
どちらも自分の銘柄。
昨夜、灰皿を掃除したような気がする。
……しなかったような気もする。
思い出そうとすると、
手を動かした“感触”だけが抜け落ちている。
最近、何をどうしたのか曖昧なことが増えた。
「……疲れてるんだな」
タバコを押しつけて火を消し、部屋に戻る。
コーヒーは少し冷めていたが、
微かな温度が喉を落ちていく。
少しでも“温度”のあるものに触れていたいと、
ふと思う。
テーブルの上には、昨日開いたままの新聞が置いてある。
指先が勝手にページをめくる。
そのとき、視界にひとつの数字が飛び込んできた。
“42”。
広告欄のキャンペーン番号。
昨日見たものと、まったく同じ。
一樹は、かすかに笑った。
笑ったというよりも、息が漏れただけのような笑い。
「偶然が続くと、偶然じゃなくなるのか……」
新聞を折り畳み、軽く投げるようにしてゴミ箱に入れようとした。
……が、入らなかった。
紙はふわりと宙を舞い、縁に当たり、
柔らかい音を立てて床に落ちた。
しばらく黙って見つめてから、
一樹はしゃがんでそれを拾い上げる。
今度はゆっくりと、
まるで何かを確かめるようにゴミ箱へ入れた。
底に沈む音が、静かに響く。
ただひとつ、
“42”という数字だけが内側に沈殿したまま、
じわりと広がっていくような感覚だけが残った。
それがこの先、
小さな不幸の最初の“音”になることを——
一樹はまだ知らなかった。
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
意味が分かると怖い話(解説付き)
彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです
読みながら話に潜む違和感を探してみてください
最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください
実話も混ざっております
まばたき怪談
坂本 光陽
ホラー
まばたきをしないうちに読み終えられるかも。そんな短すぎるホラー小説をまとめました。ラスト一行の恐怖。ラスト一行の地獄。ラスト一行で明かされる凄惨な事実。一話140字なので、別名「X(旧ツイッター)・ホラー」。ショートショートよりも短い「まばたき怪談」を公開します。
【⁉】意味がわかると怖い話【解説あり】
絢郷水沙
ホラー
普通に読めばそうでもないけど、よく考えてみたらゾクッとする、そんな怖い話です。基本1ページ完結。
下にスクロールするとヒントと解説があります。何が怖いのか、ぜひ推理しながら読み進めてみてください。
※全話オリジナル作品です。
【1分読書】意味が分かると怖いおとぎばなし
響ぴあの
ホラー
【1分読書】
意味が分かるとこわいおとぎ話。
意外な事実や知らなかった裏話。
浦島太郎は神になった。桃太郎の闇。本当に怖いかちかち山。かぐや姫は宇宙人。白雪姫の王子の誤算。舌切りすずめは三角関係の話。早く人間になりたい人魚姫。本当は怖い眠り姫、シンデレラ、さるかに合戦、はなさかじいさん、犬の呪いなどなど面白い雑学と創作短編をお楽しみください。
どこから読んでも大丈夫です。1話完結ショートショート。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる