黒鉛で手を染める

鳴角グア

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1_七歳

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私は先週、死ぬことに失敗した。
専門学校に通うために、一人暮らしを始めた二年目の夏。人生に詰まる感覚が積もり、ついに自殺を図った。
しかし、日々散々嫌気が刺していた爪の甘さが祟った…もしくは救ったのかもしれない。そもそも不健康でもない人間が風邪薬二瓶を一気に摂取しただけで死ねる訳が無いのだ。
ろくに調べもしなかった、衝動的な服薬自殺の未遂は、間違いなく計画性の無さから起こった事だった。
失敗した代わりに酷い吐き気に襲われ、何度も吐いた。トイレで吐いて横になり、気絶するように眠り、吐き気で目が覚めトイレへ…これを何時間も繰り返した。体に力が入らず、立ち上がる度に視界も足取りも歪んでいた。胃が空になっても吐き気は続いた。今までに経験したこともない気持ち悪さが体から離れず、そうしている内に頭痛もしてきた。
そうして段々と胃酸を便器に流すようになり、空が薄ら明るくなった頃、遂に家族に助けを呼んでしまった。
両親が来る頃には、幾分か不調は減っていた。連れられた内科病院での診断結果は異常なし。ただ、水分は沢山補給するようにとのことだった。
父と母はただ私に困っていた。そんなふうに見えた。
その後祖父母からの勧めで、一度地元のメンタルクリニックへ診察を受けに行った。
そこでだった。自分自身への違和感の正体がわかってしまったのは。
元々約束や期限を守るのは苦手だった。やらなければならないなことは億劫になり、遠退けているのがバレると怒られた。迷惑をかけている自覚があるはずなのに、改善出来る自信は無かった。自信が無いからとその努力すらも遠退け続け、段々と自分が嫌いになり、不快に思うこと全部を自分のせいにした。これら全ての原因が、私が生きづらかったものの正体が、わかってしまったのだ。
私が私を嫌っていた何もかもが、症状だった。
それがつい三日前の出来事。医師の勧めから学校に許可を得て、これから半年ほどの休学期間を過ごす。体験したことの無い、長い長い休暇だった。
「千春。お腹空いてない?」
運転席から私を呼ぶ声が聞こえた。アパートの一室からまとめた簡単な荷物を抱え、呼ばれた私は母の車の助手席で揺られている。私は休学中を地元で過ごす事になっている。
「…空いた。」
小さい声を少し張って返事をする。これでも大分生気を取り戻した方だ。
「うん、ちゃんとお腹が空くのはいいことだよ。」
母は嬉しそうにそう言った。
「そろそろ着くからね。」
その言葉にすっかり暗くなった外を見ると、少し様子が変わった懐かしい景色があった。
新しくなった店。モグラの巣穴のように瓦屋根が落ち抜けたどこかの蔵。それらを目で追っているうちに、どんどん目的地に近づいていくのを感じた。
田舎の田んぼに囲まれた中にある民家。私は二年前までそこで暮らしていた。
「ただいま。」
網戸のカラカラと開く音を聞きながら玄関に入ると、祖父母の出迎えがあった。
「まず飯だ。飯。」
訛った気遣いで食え食えと通された台所のテーブルにあったのは、ラップのかかった二人分の冷やし中華。母と私以外はもう夕飯を済ませたらしい。祖父母は風呂にも入り終わっていた。二人は母と私を出迎えた後、満足そうに寝室に行ってしまった。
母は自室に荷物を置いてから、手を洗ってラップを外し、夕飯を食べ始めた。私もそれに続いてラップを外し箸を握る。食欲はあった。
「美味い?」
父が台所に入って来たかと思えば、隣に座ってそう聞いた。私は返事の代わりに頷いた。
久しぶりに食べた冷やし中華は、思い出にあった味と変わらず美味しかった。自分で用意した少し前の修羅場の後には、食べたものの美味しさなんて感じなかったのに。
父はそんな私の様子をただ見ていた。その眼差しは、普段より熱くは感じなかった。
学校や課題について何も聞かない家族。それ以外はいつも通りだった。それしか違いは無いが、私にとっては新鮮だった。
完食後時計を見ると、八時を過ぎていた。父から今日は早く休むように言われ、すぐに脱衣所に向かわされた。
黙々と一人で浴室に入る。いつも、浴室を出るまでずっと考え事をしてしまう。シャワーを浴びながら考えに耽った。これからどうするのか。どうすれば『正しさ』に少しでも近付けるのか。当たり前にそこにある『正しさ』を持った大人になれないのなら、いつまで幼稚さを捨てられない『悪』でいていいのか。そんな風に、いつの間にか煩わしいことまで考えてしまっていた。
されど夏日の蒸した夜、浴室から出て髪を乾かす頃には、暑いとしか考えられなかった。
歯も磨いてもう寝ようかという頃、廊下の向こうにある階段が目に止まった。二階にある部屋が気になりだす。二年前まで私が使っていた部屋。常より散らかり気味だったのを出て行く直前に急いで片付けただけにしてしまったので、もうどこに何があるかをぼんやりとしか覚えていない。
トントンと階段を登り、襖の戸を開けた。机の上に小物や本が積み上がっている。多少の整理はされているように見えるが、さほど当時と変わっていなかった。
懐かしくなった私は、ノートやアルバムを開いては元に戻すを繰り返した。悪癖だがどうしても整理をする気になれない状態での振り返りだった。途中、押し入れからファイルの一部がはみ出しているのが見えた。気になって、そのファイルを引っ張り出し、開いてみた。その中身は、何十枚もの原稿用紙。読んでみると、それは私が小学校二年生の夏にひたすら書いていた小説だった。
国語の授業で物語を作ったのがきっかけで、楽しくなって書き始めたものだ。線が細く髪も肌も白い不思議な女の子が、重病で亡くなってしまうまでを友達目線で描いた内容だ。我ながら小学生でなかなかに重い話を書いてしまったと思う。なんとなくテレビから流し見した感動話を雑に繋ぎ合わせた字数稼ぎ。無知な空想で出来た架空の闘病生活。ただ作りたいという一心でそれらが綴られた子供染みた文章から、当時の自分が浮かび上がってくる。
こんなにも長々と書いているのに、この物語は終わっていない。途中で書かなくなったまま止まっていた。小説の中の少女の命は、残り約半年から動かなくなってしまったのだ。
「千春ー寝る時間になるよー。」
一階から母が呼ぶ声がした。一人暮らしをしてから私の生活は乱れに乱れてしまったので、両親の寝室で時間を合わせて寝ることになっていた。小学校低学年の時までは、同じように並んで寝ていた思い出がある。
私はファイルを元に戻さず机の上に置き、母と父のいる寝室へと向かった。
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