黒鉛で手を染める

鳴角グア

文字の大きさ
上 下
3 / 12

2_名前

しおりを挟む
翌朝、私は再び不出来な小説を見ていた。昨夜は考え事をしてなかなか眠れなかったが、その中にポツンと浮かんだものがあった。また物語が作りたい。どうせなら、部屋で見つけたものを今の自分が。その想いを膨らませているうちに、いつの間にか眠れてしまっていた。
平日の日中は大体、私以外の家族は仕事に出かけている。暫く家で休む時間が必要な私は、わかってはいたが暇だった。その時間を埋めるものを考えた時、真っ先に思い付いたのがこれだった。
引き伸ばされた描写、想像でしかない病状、今なら少しはマシに書ける気がした。それなら、書いてみようか。今なら書く気はある。無くなってもまた気が起きるだろうと思う程には、時間があるのだ。とりあえず続かなくても暇潰しの一つとしては数えられる。
室内の心当たりのある場所を探すと、少ないがまだ白紙の原稿用紙が出てきた。書ける。少なくとも、今やる気のある内は。
ペンを握って原稿用紙に体を向けて正座をする。そこで気付いた。一体何から書いたらいいのだろうか。
特段私は文字書きの習い事があったわけでもなく、小説が好きというわけでもなかった。ただ自分の中にあるものを形にするのが楽しい、下手の横好きだ。それもあって、本当に何から書けばいいのかさっぱりわからない。
しかしそもそもこの小説は気紛れで書こうと思い至っただけで、書き始めに真面目に悩むほどしっかりしたものを作るのも堅苦しい。
いや、だが、でも…矛盾した考えがぐるぐる頭を巡ったままやる気が減っていく。また悪い癖だ。
その時、自分の持っているメモ帳の存在を思い出した。一旦要点を書こう。ファイルの中の分厚い原稿用紙からその都度描写を抜き取り、話の始めから今の自分の言葉で書けばいいのだ。それが思い付いたら簡単だった。
物語の舞台、主人公の過ごす田舎町のモデルは、当時私の過ごしたこの地元の風景。主人公は、自分自身と重ねて作った女の子だった。自分ならこうしたい。こう思う。それが表しやすかったからだろう。当時の自分の分身がいるようだった。なんとなく比べて成長した今の自分が哀れになってしまう。だが、今の自分とかけ離れてしまった元気のある少女もまた、物語のリアリティとして作りやすかったのかもしれない。ペンが思いの外進むのだ。
父方の祖母の家に父親と帰省し、三人で一緒に暮らすためにやって来た主人公。緑の多い、少し歩けば林があるような土地。そこに目立った一本の下で、近所に住む色白な少女と出会う。彼女は愛らしく、優しい。純心をそのまま人にしたような人物だ。現実離れした容姿や性格は、自分に無いものを持った何かと出会いたいという心の現れだったのだろうか。物語の中の世界でも一際浮いている彼女を、私は綺麗に綺麗に描きたかった。
『あなたの名前は?』
小学二年生の私の小説。彼女が問いかける描写で、私の手が止まった。名付け親の父には申し訳ないが、私は自分の名前をそこまで好きだと思ったことは無い。嫌いだと思ったことも無いが、可愛らしい響きが自分には似合わないように感じた。それもあってか昔付けた主人公の名前は、自分の名前とかけ離れた中性的なものだった。今書き直すのなら、思い切って新しいものにしてみよう。
「名前…。」
改めて主人公に名前を付けるまでに、そう時間はかからなかった。
『…千夏。』
まだメモの中の主人公はそう答えた。私の名前を少し弄って、季節を一つずらした。白い雪の降る季節のような、綺麗な彼女とは真逆の、正直な私が書きたかったから。もしかしたら、こういう些細なところから、少しでも自分を好きになれるかもしれない。自身に否定的になってしまった自分から、物語の主人公のような当時の自分を取り戻せるかもしれない。そんなささやかな期待を、千夏と名付けた少女に込めていた。
千夏は白い彼女にとって初めての友達だ。千夏も心身共に真っ白で綺麗な彼女に心惹かれるだろう。だがその浮世離れした端麗な容姿に、私は意味を持たせたくなった。大まかな流れを変えなければ、彼女は治療法の無い病気で死んでしまうのだ。ならば今の医療で治せる可能性のある実在の重病よりも、架空の病気を用意してしまえばいい。
冬の景色のように白い髪と肌の彼女は、眠るように亡くなってしまう。なんだか白雪姫のように思えた。これをそのまま症状にするのなら、名前は『白雪永眠症』だろうか。メルヘンチックで小っ恥ずかしい発想な上に都合のいいような症状だが、架空なのだから多少妙な綺麗さがあってもいいだろう。誰に読ませる訳でもないのだ。
久し振りの創作は、想定していたものより遥かに楽しい。参考にする過去の創作があるからだろうか。アイディアが溢れ出てくるからだろうか。ペンを動かす手が止まらなかった。
内容上まだ病の名前が出ないまま、少女達が出会った日に二人で夕焼けを一緒に眺めた頃、私の家の窓からもオレンジ色が差し込んでいた。数枚あった白紙の原稿用紙は丁度もう無い。
そろそろ母が帰る頃だろうか。「原稿用紙が欲しい」と言ってみてもいいだろうか。
しおりを挟む

処理中です...