黒鉛で手を染める

鳴角グア

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3_神社

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実家に帰って三日目の昼間。父が仕事終わりに原稿用紙を買ってきてくれると言って、今日も私一人になった。
自分で買うつもりだったが、まず一週間は家で休めと念押しされた。暫く居させてもらっている身として申し訳ないが、無理矢理断るのも失礼に感じて、甘えることにした。
しかし父が原稿用紙を持って帰るまで暇になってしまう。先日からの母の勧めで、何も考えない時間を過ごしてみようと試みた。だが割と日頃から頭の中がごちゃごちゃな私には難しかった。そればかりか、つい十分前にその過ごし方にも飽きてしまった。昼食ももう食べ終わり、この調子だと、午後はいよいよ退屈になるだろう。
…今日は昨日とは逆に、外で考え事をしてみようか。近所を歩く程度なら、多分まだ休む内に入るだろう。何かアイディアも浮かぶ気がしてきた。私はメモ帳とペンと財布をポケットに突っ込んで、玄関の戸を開けた。
眩しい日差し。家の中で聞くよりも大きくなった蝉の声。不思議と煩わしくはなかった。この光景も、音も、何もかも、私の描く夏の中に閉じ込めてしまおう。そう思った。
近所の川や田んぼ道をひとしきり見て回った。数年振りだが変わるものは何も無かった。いや、冷静な目で見れたなら何かあったかもしれない。ジワジワと日に当てられ、懐かしい光景は曖昧にしか浮かばなかった。唯一変わったとわかるものは、川に映る自分だけだった。変わらない内面の幼さを恥じるようになってしまった自分。もしももっと『正しい』人間だったなら…考える程、肌が日に晒される時間が増えるだけだった。『もしも』なんて今目の前には現れてくれない。
気落ちするようなおかしな事を考えてしまうのも気温のせいだろう。川から離れた私の目は、ふと山の方へと向いた。そういえば少し山道を登った先に、人気の無い神社があった。あの場所は今どうなっているだろう。気になってしまった私の足は、その神社のある方角へと歩き出していた。
実家にある自転車に乗って出掛けなくて良かったと、心の底から思った。相変わらず攻撃的な暑さだが、緩やかなこの上り坂が続く道で立ち漕ぎなんかしたくない。それに神社へ続く長い長い石階段はどの道歩きだ。気が向いたのもあるが、来る途中に自販機があるのがわからなかったら、炎天下の中こんなに歩かなかっただろう。熱中症や脱水症は怖い。手持ちの中に増えたスポーツドリンクに救われながら、ついに鳥居の下、石段の前まで辿り着いた。
そこからは半ば山中の木陰の下にある石段を登ったり降ったり、先程までの坂道より辛くは無かった。やはり夏の厄介な所は日差しだ。家を出てすぐは煩わしくも思っていなかったが、段々とその熱が体を蝕んでいく。
そもそも夏はそんなに好きじゃなかった。蒸し暑い、人が多ければ息苦しい、ただ過ごしているだけでも疲れてしまう時期だから。だがそんな鬱陶しいような季節でも、空は澄んでいる。ふと上を向いて木々の隙間から見えた色がそう思わせる。
やっと石段を上り切ると、ボロボロの本殿が待ち構えていた。最後に見た時はこんなだっただろうか。敷地内の西側から見える景色は、広い田んぼと、その中にポツポツとある建物。記憶にあるその景色はとても綺麗だったが、今は背の高くなった雑草に邪魔され当時より狭くなっていた。きっともうあまり手入れはされていない。
本殿の階段に腰掛け、メモ帳とペンをポケットから取り出した。木々の影で出来た涼しさで囲まれた中、物語の参考になりそうなものを書き残そうとペンを走らせた。嫌になる程浴びる日差し、まだ青々としている田んぼの稲、川に映った自分の姿、坂道でひたすら流す汗、それを補うスポーツドリンク、澄んだ空、背の伸びた雑草、朽ちかけた神社…。
全部書こう。全部。きっと主人公、千夏は私と同じように、夏空を時々見上げながら、白い彼女とこの場所へ来るはずだ。少々薄暗い中で光が差し込む石段の上も、白い彼女の立つ背景にはきっと似合う。頭に浮かぶ、私しか知らない彼女の笑顔も、その肌も、眼差しも、林の暗がりの中では浮いてこそいるが、綺麗に映えるはずだ。体力の無さそうな彼女のことだから、二人でゆっくり歩くのだろうか。
メモ帳から目線を離すと、西日の色が少しだけ辺りに混じっていた。急いで家に帰らないと、すぐに暗くなってしまう。私は急いで石段を元来た方へ戻った。足元が少々崩れているため、下るのも一苦労だ。飛んで走って鳥居を潜り、そこで少し足を止めて、肩で息をした。なんとなく、後ろが気になった。悪寒がしたとか、何かいる気がするとか、そういうのでは無かった。ただ後ろが気になった。
振り返ると、当然だが、行きの時よりも暗い石段の道が見えた。その光景に私は鳥肌が立った。
暗がりの入り口に立つ白い彼女を、想像してしまったから。
鳥居を隔ててこちらを見つめる彼女を、景色の中に見出してしまった。まるで私と彼女を、千夏と彼女を、線引きしているように。
それは想像と現実の比喩とも、生と死の比喩とも、とにかく互いが混じり合えない境界線がそこにあった。
ただ頭の中の彼女は、目の前の景色に溶け込んだ彼女は、いつもと同じように綺麗に微笑んでいる。
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