黒鉛で手を染める

鳴角グア

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4_海

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父から貰った原稿用紙は、どんどん私の字で埋まっていった。神社へ出掛けてから数週間、削がれるやる気と戦いながら物語を描いた。主人公の千夏は、私が見たあの風景の中で夏の一日を過ごした。今はその後、白い彼女が病院にいる。彼女は知らぬ間に体調が悪化し突然倒れ、奇病の存在が白日の下に晒された。白い髪も肌も、貧弱な体も、彼女の体質ではない。『白雪永眠症』という文字をやっと原稿用紙に書けた。病状により、彼女の余命は約半年。
やっとこの物語の核を示せる事に、私は喜んだ。所詮現実ではない少女の具合の悪化に、嬉々としていた。
問題はここからなのだ。七歳の私が描いた物語は、ここで止まっていたのだ。ここからは十九歳の自分が作っていかなくてはならない。結末の知れた物語の終盤への道を、一人で。
つい最近まで猛暑日が続いていたが、チラチラと涼しい風が吹いてくる時間も増えた。居間のテーブルの原稿用紙から目を離し、窓から見える空をふと眺めた。外は真っ青な天井が広がっているが、夏らしさは薄れたかもしれない。今年くらい、海にでも行ってみれば良かったと、少しだけ思う。幼少期に足の甲をクラゲに刺されて以来、海にはあまり行っていない。いや、小学六年生でやったボランティアのゴミ拾い以来だろうか。とにかく今では海とは距離を置いていた。
今からでも行けばいいじゃないかと衝動的に思い立つ。神社へ出掛けた日と似たような衝動。『海で夕焼けを見てきます。ちょっと遅くなります。』と書置きを残し、荷物を持って家を出た。時刻は午後4時17分。距離を考えれば余裕を持って海に向かえる。
暫く乗っていなかった自転車を引っ張り出すが、それほど汚れてはいなかった。父が手入れしてくれていたのだろう。進学して以来本当に久し振りに乗るが、意外と運転出来るものだ。
風の音を両耳に受けながら自転車を漕ぐ。平行な道がほとんどだが、たまに上り坂があると息を切らしてしまう。ここ最近あまり運動をしていなかったツケが回ってきたように感じる。秋も近いと言えど残暑の中、途中で発見した自動販売機の麦茶に助けられた。二年前こんな場所に自動販売機はあっただろうか。
木々に囲まれた広い道路を通り、その中に松の木が段々多くなってくる。海はもう近い。
海から少し離れた場所に飲食店がある。浜辺の花火大会がある日には、祖父母とここで夕飯を食べる事も多かった。その店の駐輪場に自転車を停め、そこからは暫く歩く。松に囲まれた砂だらけの道を下ると、潮風が香ってきた。道が開け、足場が砂しかなくなったところで、サンダルを脱いだ。素足を砂の上で前に進め続けると、冷たい塩水が甲が浸かりきってしまう高さまでを飲み込み、すぐに吐き出して引いていった。
海だ。着いた頃には夕日が周囲を真っ赤に照らしていた。浜辺は多少のゴミや漂流物が見え、私の目では綺麗とは言い切れない。それでも夕日は美しいと思えた。光が辺り一面に広がり、青かった海もたちまちその色に染め上げてしまう。海だけじゃない。空も砂も、私も。
この夕焼けを逆光に微笑みかける彼女は、きっと一層美しくて切ない。想像が一瞬で浮かんで、私は慌ててすぐにペンとメモ帳を取り出し書き込んだ。浮かんだ思いが逃げないように。
だが、書いたその文を前に、少し考え、それに線を引いた。このアイディアは使わない。私は、少なくとも千夏は、病人に自転車や自動車で行くような距離を無理に遠出させるような人物ではない。千夏はここへ一人で来て、私と同じように海を見てものを思う。それでいい。きっと父親からカメラでも借りて、普段撮らない写真なんかに海や夕焼けを収めて、次彼女に会う時にそれを見せようなどと考える。
私は夕日に視線を移し、数秒眺めた。それが終わると、手に持っていた物をポケットに乱雑に突っ込み、後ろを向いて走り出した。いつまでも浸っている訳にはいかない。行きで寄り道した事もあり、こんな時間なのだ。真っ直ぐ帰らなければ流石に夕飯に遅れてしまう。駐輪場で携帯を見ると、『遅くなりすぎないでね。』と母から連絡が入っていた。『うん』とだけ返事をすると、自転車に鍵を差し込み、それを精一杯漕ぎ出した。帰りは下り坂が多い分、行きより走行が楽だった。周囲が次第に暗くなっていき、気付けば日は沈んでいた。涼しいが、風も手伝って少々寒く感じる。自転車のライトで前を照らす。消えかけの歩道線がわかりにくく時々現れる。所々新しく出来た線は、不自然なくらいにくっきりと見えた。門限を言い渡されてはいないが、一人暮らしをする前は夕飯時に間に合うまでには家に帰っていた。遅く帰って怒られるのが怖いと思っていたから。今は薄らと暗いだけで、真っ暗ではない。まだ少し余裕を持って帰宅できるだろう。
田んぼから鳴く虫の声を聞き流しながら、帰路を急いだ。
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