「水の行方」~ 花言葉の裏側で(水シリーズ②)

小原ききょう(TOブックス大賞受賞)

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走者

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「村上くん、頑張るのよ!」
 入場口を出る前、香山さんが僕の背を押した。
「私、応援してるよ」小川さんが小さな声でそう言ってくれた。
 ドーン、ドーンと太鼓の音が運動場に響き渡った。
 一組の観客席から「陽ちゃーんっ」と叔母さんの声が聞こえた。
 声が大きくて恥ずかしい。恥ずかしくて叔母さんの方を見れない。
 二組の走者に藤田さんの息子がいた。強心臓の持ち主だ。走るのも速いのかな?
 僕は全力を出すだけだ。練習は十分にした。
 予選と違うところは観客が多いことと、母や叔母さんが見ていることだ。
 叔母さんとは約束がある。でも、約束が達せられたなかった場合はどうしたらいいんだろう。

 スタートラインに立つ。すごく緊張する。予選とは比べものにならない。
 自分のクラスや父兄席からの応援の声が届く。
「位置について、用意、ドン!」
 先生の号令が頭に響き渡った。
 足が地面を離れる。少しずるっと滑った気がした。空気が熱い。
 ダメだ。足が冷たい!足に血が通っていない。
 僕の前を他の走者がどんどん抜けていく。このままではびりっけつだ。
「村上くーん!」もう誰の声なのかもわからない。
 次の瞬間、頭の中が「うわーっ」と言う僕の声だけになった。
 僕は走っている。僕は運動場に弾かれたトラックの上を走り続ける。
 僕の前に藤田さんの息子の背中が見えた。
 はあっ、はあっと僕の荒い息が吐かれる。結果は二位だった。一位は藤田さんの息子だった。
 観客席に戻ると香山さんが駆け寄ってきた。
「残念だったわね、村上くん」
 考えれば一夜漬けのような特訓で一位になんてなれるはずがなかった。
「ごめん。香山さん。今ので僕、リレーの自信、無くなってしもうた」
 謝るしかない。
 香山さん、結構、僕に期待していたみたいだったから、申し訳なくて仕方なかった。
「情けないこと言わないでよ。村上くんは私が選んだのよ。それに長田さんも言っていたわ」
「村上くん、相手が悪かったんよ。一位になったんは私の従兄弟の子やもん」
 小川さんが慰めるように言ってくれる。
「あいつ、そんなに速いんか?」
「速い、速い。いっつも駆けっこ一番やったもん」
 そうか。道理で負けるはずだ。でもそれを聞いて自分自身に言い訳をするのもイヤだった。
「もしかして、クラス対抗のリレーのアンカーもあいつか?」
「たぶん、そうとちゃうかなあ」
 リレーの方もダメかもしれない。昔から速い奴とは基礎も違うような気がする。

「陽ちゃん」
 叔母さんが近くに立っていた。
 ちょっと離れていただけなのに、なんだかすごく懐かしい人に会った気がする。
 ピタッとしたブルーのジーパンを穿いている。いつもワンピース姿くらいしか見たことがないのですごく新鮮に映る。
 叔母さんのスニーカーが砂煙で汚れている。
「陽ちゃんが走るところ、ちゃんと見てたよ」
「叔母さん、ごめん。一位、無理やった」
 僕がそう言うと叔母さんは首を左右に強く振った。
「ねえちゃん、言うとったよ。陽一があんなに走るの速いのを見たんは初めてや、って」
 それはそうなんだけど、僕には叔母さんとの約束があるから。
「でも一位とちゃうかった」
「それに、陽ちゃん、二位くらいにはなったる、って言うてたやん」
 そんなこと言ってたっけ?
「陽ちゃん、まだリレーがあるやん」
「リレーにも、さっき一位やった子がアンカーらしいねん」
「かまへんやないの。よけいにファイトせな」
 全く、叔母さんと話してたら、怖いもん無しのような気がしてくるから不思議だ。
「弱音吐く人は、私の陽ちゃんとちゃうよ」
 私の陽ちゃん、って。僕は一体、叔母さんの何なんや。
「僕、頑張るから、叔母さん、見とって」
 僕がそう張り切って言うと叔母さんはこう言った。
「陽ちゃんこそ、叔母さんを見とって」
 え?
「私、父兄の参加する障害物競走、出ることになってん」
 本当に?
「ねえちゃんが勝手に申し込んでて、しゃあないねん」
 それで叔母さん、ジーパンを穿いていたのか。

 スタートラインについた叔母さんは父兄の中では一段と目立っていた。
 横に並ぶ十人の父兄は父親、お兄さんたちで、女の人は叔母さんだけだった。
 すごく綺麗で、僕は叔母さんが自慢だった。
 僕の心臓が少しドキドキしていた。
 前に母が叔母さんは走るのが速いって言っていたのを思い出して、少し気持ちが昂ぶっている。
 見たい。叔母さんが走るのを。全力で走っているところを。
 スタートの合図がして、叔母さんは走り出した。
「すごいやないか。村上のねえちゃん、速いで」
 修二、だからお姉ちゃんやないって。
「それにやっぱり大人の女性やなあ。おっぱいがある」
 修二、おまえは見るな!僕は修二の頭を下に押さえ込んだ。
 叔母さんの黒髪が秋の青空に浮かんだ。
 髪の黒い色が青一色の中に吸い込まれるように見えた。
 黒髪が地面にふわりと沈んだと思ったら障害物の一つ、地面に敷かれた網の中を叔母さんは潜りだしていた。
 網に絡まってなかなか抜け出せないでいる父親たちがいる中、叔母さんは一度も網に引っかかることなく抜けていく。
 次はハードルだ。
「お姉ちゃん!頑張れっ」いつのまにか僕は大きな声を出していた。
 僕の応援する人は僕の大好きな人だ。
 叔母さんの体がハードルの前で浮かんだ。スッと地面に着地して二本目のハードルに向かう。
「優美子っ!頑張ってえっ」母も父兄席からしっかり応援している。
「悠子!村上くんのお姉さん、トップやわ」
 近くの香山さんが大きな声で言う。
「うん、仁美ちゃん、村上くんのお姉さん、すごく格好いい」
 小川さんが叔母さんの方を憧れるような目で見ている。
 クラスメイトの中では叔母さんはもう僕のお姉ちゃんということで定着してしまっているようだ。もう間違いを訂正するのもおかしいような気がする。

 二本目のハードルを飛び越え着地する際、少しよろけたようだったが、すぐに態勢を立て直して三本目のハードルに向かい飛び越えた。
 カーブを曲がって直線に入るとそのまま一気にゴールだ。
 叔母さんの呼吸とスニーカーの地面を蹴る音が間近に聞こえる気がした。
 叔母さんに追いつく人は誰もいない。
 向かってくる風に髪をなびかせながら、風の中を突き進んでいく。
 ゴールはもうすぐだけれど、このままずっと叔母さんに走っていて欲しいとさえ思った。
 それくらい叔母さんは誰よりも速く、その走る姿は綺麗だった。
 叔母さんはとても走ることが楽しそうに見える。僕もあんな風に走っていたら藤田さんの息子に勝てたのかもしれない。
 一位の表彰台に上がった叔母さんはとても照れ臭そうにしている。
 僕も少し恥ずかしい、けれど、みんなに自慢したくなる、そんな叔母さんの姿だ。



 父兄たちの障害物競走が始まった。
 その中にずば抜けて速い女の人がいた。
 一番若く綺麗な人だからすごく目立っている。
「智子、私、あの女の人、知ってるよ」
「加奈ちゃん、あの人が村上くんのお姉さん」
「うん、私も会った。叔母さんって言ってたよ」
「お姉ちゃんだよ」智子はそう言って笑った。
「智子はきっと大丈夫だって、あの人が言ってた」
「うん。加奈ちゃん、私は大丈夫だよ」
 智子はこれくらいないという微笑みを私に見せた。
 智子に何かあったのだろうか?
 なぜか智子は以前にもましてとても明るくなった感じがした。
 この明るささえあれば大丈夫な気がした。私は青空を見上げながらそう感じていた。

 五年生の騎馬戦が始まった。
 智子は「加奈ちゃん、行ってくるよ」と言って入場口に向かった。
 智子は担ぐ方だ。
 一斉に大きな声を張り上げて敵のチームに向かっていく姿は迫力があった。
 私も出て智子と一緒に戦いたかった。智子もきっとそう思っているだろう。
 智子のチームはあっけなく帽子を取られてしまった。
 残念がる智子の姿が痛々しく映る。
 騎馬の数が少なくなってくると私はある騎馬に目が止まった。
 それは一組の長田さんの騎馬だった。
 長田さんは騎手だ。金色の髪なので異様に目立つ。
 人を寄せつけない雰囲気を持っている。
 いや、寄せつけないではなく、寄りつかないのではないだろうか?
 誰も長田さんには寄りつかない。
 三組や二組の騎馬も長田さんの騎馬には向かっていかない。
 二組の騎手には川田さんがいるけれど、当然のように長田さんの騎馬をやり過ごして他の騎手の帽子を取ろうと向かっていっている。
 騎手の長田さんを担いでいる女の子もあまり動こうとしていない。
 長田さんの存在は運動場の中で宙に浮いている。
 最後には四組の騎手が後ろから長田さんの帽子を取って騎馬戦は終了した。
 四組の騎手が入場口に戻ると一組の女子が四組の騎手を怒鳴っているのを見た。
 長田さんの帽子を取ったことに腹を立てているのだ。
 それは長田さんと同じ髪型の女の子たちだった。
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